二人の視線が交差する。ブリジットは何処かぼやける眼を擦りながら来訪者を見上げた。 懐かしいその輪郭と匂い。そして声。「トリエラ?」「うん」 初めてかわした言葉はとても月並みな物だった。けれどもトリエラの中では、いろいろと不思議な物がこみ上げてきて、恐怖で震えていたウィンチェスターの銃口が制止した。 気がつけば、ぽろぽろと涙が零れていて自然とトリエラの足はブリジットに向かった。「……こんなところにいたんだ」 ブリジットの前に膝をつき、その顔を覗き込む。腰まで伸びていた髪は肩口で切られてしまっているけれど、義眼になっていた右目はいつの間にかもとにもどっているけれど、もう敵と敵同士になってしまっているけれど、紛れもなくそこにいたのは数ヶ月前まで大切に思い続けていた友人だった。 二人は約数センチ程の距離を残して見つめ合う。言葉は中々出てこない。「ごめん、トリエラ。今あんまりよく見えないんだ」「うん。大丈夫さ。私はここにいるよ」 ブリジットの頭を抱き寄せて、トリエラは彼女の髪を撫でる。ブリジットの目には光がない。一人でこれだけのGIS隊員と暴れたのが不味かったのか、スモークグレネードの煙が駄目だったのか、それとも負傷の所為か、とにかく視力を欠いているようだった。 トリエラはブリジットの肩口から向こう側の光景を見つめる。幾つもの骸は怨嗟の声を挙げて倒れていた。けれども今はこの腕の中にある温もりの方がもっともっと大切だった。「私ね、頑張ったんだ。一人で何度も何度も立ち向かおうとした。けれどもいつも負けてばかりで、挫けてばかりで、傷つけてばかりだった」 ブリジットが言葉を零す。それはコップから流れ出す水のように。今までトリエラの目の前で注がれ続けていた水は、いつも表面張力によって危うい均衡を保っていた。今それが決壊していた。水はトリエラのほうに向かって終わりなく流れ続けてくる。「もう駄目だと思ったよ。何度決意をしても、覚悟を決めても死ぬのが怖かったし、愛されないのが怖かった。殺すのも怖かったし、壊すのも怖かった」 水は冷たい。乾いてもいない、泣き続けて湿ってしまったトリエラの瞳で受け止めるには余りにも冷たい水。 だがトリエラは逃げない。ブリジットというコップが、少女が砕けてしまわないようにそっと抱きしめる。「でもね、私少しだけ気がついたことがあるの。それも今。私が愛して、愛されたいのはアルフォドさん一人だけだけど、それでも一緒に行きたいと願ってた人がいた」 トリエラはブリジットの首に首輪を見つけた。血のにおいに混じって漂う火薬の匂いが、ブリジットが今どのような境遇に置かれているのか如実に語っている。 彼女は静かにブリジットの言葉を待った。 そしてその言葉を聞いた瞬間、零れていた涙が押さえられなくなり、声を挙げて泣いた。「それはね、トリエラ、あなたなの。……あなたは私の大切な友達だから」 どうしてこんなことになったのだろう。ブリジットがSIGをトリエラの腹部に突き立てる。だが発砲がコンマ数秒遅い。素早く身を翻したトリエラのハイキックがブリジットの側頭部に向かう。 ブリジットは自ら飛ぶことで衝撃を殺し、トリエラに再度SIGを向けた。しかしそれもこちらに向けられていたウィンチェスターの銃口の所為で断念することになる。 打ち出された散弾はブリジットの髪を幾つかさらい、その場に黒色の粉雪を降らせた。「トリエラ!」 ブリジットが向けられている殺気は本物だ。彼女の言葉は嘘ではなかった。確かな真実だった。 だがその真実に気がつくのに時間を掛けすぎてしまった。ピノッキオ戦で決別したときから、二人はこうなることを定められていた。「私は君を止める!」 接近戦に持ち込んできたブリジットの拳を、ウィンチェスターの銃身で受ける。何かが砕ける嫌な音がブリジットの拳から、何かが軋む耳障りな音がウィンチェスターから聞こえた。咄嗟にウィンチェスターを手放したトリエラは短剣に持ち替えて体勢を崩したブリジットの背中に突き立てる。 ブリジットはそれを無理矢理身をよじることでかわし、カウンターと言わんばかりにSIGの銃口をトリエラの顎に突きつけた。 銃声は一つ。 待ったのは脳漿ではなくトリエラの金色の前髪。「甘い!」 視界不良からかブリジットの狙いが若干ずれていた。地力で決して叶わない相手でも、今ならほぼ互角以上に戦えている。 トリエラはブリジットの脇腹を蹴飛ばし、自らはその場から離れるようにステップを取ることで距離を稼いだ。そしてサイドアームの拳銃を取り出してブリジットの四肢を狙い撃つ。 だがブリジットの反応速度はトリエラの遙か上をいっていた。 彼女はまたもや無事な左腕だけで体勢を立て直すと、そのまま怪物染みたバネの力でトリエラが向けた射線から飛び出していった。さらに落ちていたGIS隊員のアサルトライフルを拾い上げると、狙いもそこそこに引き金を振り絞る。断続的なマズルフラッシュと銃声の中、トリエラの左肩に一つだけ銃創が産まれた。 トリエラはたまらずといった風に、柱の陰に飛び込んでいく。「私は決めたんだ! もうブリジットの手を離さないって! だから君も私の手を離さないで!」「何を今更! もうこの手をあなたに取って貰う資格なんかない! 早く私を見捨ててよ!」 アサルトライフルのマガジンを交換し、断続的に射撃を繰り返す。スナイパースタイルを貫くブリジットらしからぬ射撃。だがそれが、それこそがブリジットの心境をトリエラに教えてくれていた。 だからトリエラは諦めない。トリエラはすうっ、と息を吸い込むと大声で叫び込んだ。「五月蠅い! この泣き虫黒猫め! 友達の手を掴むのに資格も糞もあるか!」 刹那、銃撃が止む。柱の陰から飛び出したトリエラはブリジットの胸元を引っ掴んで、そのまま押し倒した。 そして張り手を一つ、彼女の頬に叩き込む。「人がどれだけ心配したと思ってるんだこの分からずや!」 ブリジットが息を呑んだ。荒い息を飲み込みこちらを見上げている。いつの間にか手からSIGは離れ、行き場を失った手のひらはトリエラの腕を掴んでいた。 トリエラはもう一度、反対の頬へ平手を打つ。「急にいなくなったかと思ったらテロリストになって、挙げ句の果てにはこんなに怪我して! 死んだらどうするんだ!」 再びトリエラが手を振り上げる。ブリジットは反射的にそれを掴んで引き留めた。そして下から見上げたままこう告げた。 それは今まで口にしたくても出来なかった魔法の言葉だ。「ごめんなさい」 トリエラの動きが止まる。流れていた涙さえ止み、二人の間には永遠ともとれる沈黙が流れた。どちらも目を合わせたまま身動き一つしない。ただトリエラの左肩とブリジットの右肩から流れ出た血が混じり合って、床に赤い赤いアートを描いていた。 ぴちゃり、とブリジットの頬に血の雫が落ちる。「ゴメン」 ブリジットがさらに口を開いた。さらに、こう続けた。「もういかなきゃ」 静かに、そっとブリジットはトリエラのマウントポジションをとき、床に這い出る。近くに落ちていたアサルトライフルを杖代わりにして立ち上がると、ブリジットはトリエラを見下ろした。 トリエラは何も言わない。「ありがとう。トリエラ。少しだけ、もう少しだけ頑張れそうだよ、私」 一歩、トリエラからブリジットは離れた。先ほどまでこちらに向けていた殺意は何処に消えたのか、非常に柔和な笑みをこちらに向けてくる。「お陰で目が覚めた。あなた、いや、君が友達でいてくれるから私は頑張れる」 トリエラが何とか立ち上がる。そして向こうへ、向こうへ離れていくブリジットを後ろから抱きしめた。ブリジットは振り返らない。「何度逃げても、必ず私が捕まえてみせる」 ぐしっ、と血に塗れた鼻水をトリエラが啜った。ブリジットは「あはは」と笑うと、トリエラのホールドをゆっくりと解いていく。「なら、いつまでも待ってるよ、トリエラ。……またね」 完全にホールドが解かれたとき、トリエラの手が届かないところへブリジットは離れていった。けれど、夢に見たような絶望はない。ただ少し、ただ少しだけ出かけるような、そんな仕草でブリジットは消えていく。多分きっと、そのうち会えるとお互い信じて。 もう道を共にすることは出来ないけれど、時にはそのきいろ道を交差させることは出来るのだから。 だって、二人は友達。 こうやって、救急車に乗るのは二回目だったりする。一回目はリコにお腹を撃たれたとき。今は空港から脱出するための偽造用救急車だ。幸い、検問では体中を傷だらけにした私を見せつけることで(もちろん武装は全て放棄してある)くぐり抜けた。 撃たれた右肩には手荒く包帯が巻かれ、強心剤が点滴を通じて体に注ぎ込まれている。もしかしたら寿命自体がそろそろ危ないのかもしれない。「トリエラに会ったのか?」 私の額にアルフォドが手を置いていた。彼の体温を感じて気がついたことだが、少しだけ熱っぽい気がする。 これも義体の終焉の前触れなのだろうか。「……こちらの手に負えないくらい元気でした」 途中からは殺すつもりで戦った。いくらこちらが負傷した手のポンコツ義体だとはいえ、彼女は充分強かった。そして、憎らしいくらいに眩しかった。 まさかあそこまで格好いい少女になっているとは思いもしなかった。「そうか。……それはそうと右肩ばかり負傷するな。大丈夫か?」 ペトラに撃たれた右肩。そしてGISに撃たれた右肩。一応左利きだから融通は利くものの、銃器を扱う人間として致命傷になりかねない怪我だ。おそらく、あと一、二度が戦闘に耐えうる限界だろう。クリスティアーノの元では薬物投与による肉体の安定は図れても、公社にいたときのようにパーツの交換を行うことは出来ない。 まあ、もうパーツ交換に耐えることが出来るほどの寿命は存在していないのだが。「次は恐らくトリノ原発だ。そこが公社との最終決戦になるだろう。なあ、ブリジット。もう一度だけ聞く。君は戦えるのか」 アルフォドの質問に返す言葉が見つからない。昨日までなら即答出来ていた筈なのに、あの、トリエラの泣き顔を見てから何かがおかしくなっている。 彼の為に地獄に落ちると覚悟を決めた。けれど、トリエラのために、大切な友人のために決める覚悟が見つからない。「……もう、戦わなくていいんだぞ。ブリジット。今日だって、あいつらのためによく戦った」 何処からボタンを掛け間違えたのか、今となっては心当たりが多すぎてわからない。 だから掛け違えたボタンを全て無視して生きようと思った。なのに今更、掛け違えたボタンが弾けてしまった。もう、元には二度と戻すことが出来ない。 どうして、どうして、世界はこう――――、「おい、ブリジット?」 息が出来ない。心臓が強く跳ね上がった。何かが食道を駆け上がり、ただでさえぼやけていた視界がブラックアウトする。 そして、口からあり得ない量の血液が噴き出した。 そうだ。どうして、世界はこうも、思い通りには行かないのだろう。 Next episode 「ブリジットという名の少女」