夢の中で、私は地面に倒れ込んでいた。もう、立ち上がることが出来ないと思っていた。 大丈夫、それはきっと少し躓いただけだから。きっと直ぐに歩き始めるよ。それが私の知っているトリエラだから。 ここまで歩いてきたのだから、もう休んで良いと思った。 けど、地に手をつく私に誰かが手を差し伸べる。ヒルシャーでもクラエスでもない影。彼女は柔和な笑みと声で私の手を優しく取る。 さあ、立ち上がってトリエラ。 誰かに立たされた先、視界がクリアになる。私の目の前に現れた影の正体はいつもいつも夢の中で追い続けるブリジットその人だった。 猫のような気まぐれな表情も、夜のように澄んだ黒髪も、そして私を引きつけて止まない不思議な声も、もう何ヶ月絶縁状態が続いていても詳細に思い出すことが出来る。 彼女はにこにこと私に笑いかけていた。けれどその瞳は何処か物悲しげだ。「さあ、トリエラ。立ち上がったのなら、もう私の手を離さないで。そのまま捕まえていて」 ブリジットの白い手をしっかりと握り締める。私は莫迦なことを言うな、と笑い飛ばした。だってそうだ。私がブリジットの手を離すなんてこと、あるわけないのだから。 だけど、ブリジットは瞳を細めた。まるで涙か何かを堪えるように。「離さないで、って言ったのに……」 嘘だ、と私は言う。それでもブリジットは笑ってくれない。私に笑いかけてくれない。 そして私は気づいた。「捕まえていて欲しかったのに……」 するりと擦り抜けてしまったブリジットの手をもう一度掴むことは出来ない。彼女はまるで霞のように、幻の様に私の前から離れていく。 手を離した覚えなんてないのに。いつまでもその手を握り締めていたかったのに。「じゃあね、トリエラ」 ブリジットはもう二度と振り返ってくれない。私から離れたまま、彼女の手を握ることも許されない。 いつもここで夢が覚める。 つらく悲しい現実の日々が直ぐに始まる。 トリエラは消えていくブリジットに掛ける台詞が今日も見つからないまま、寝汗たっぷりの起床を迎えた。 レッジョ・エミリア新空港がジャコモ一派によって占拠されたと聞かされたのは、私が目覚めて五分もしないうちだった。『屋上に待機しているSAMの所為でヘリでの侵入は困難です。現在空港に配備されているGISが応戦している模様。増援を要請しています』「第七搬入口はどうした?」『リモート制御の地雷だらけでまともに踏み込めません。作戦課は下水を通し、少数精鋭を送り込む方法を推奨しています』 くそ、とGIS隊員の一人が悪態をつく。彼らは今、空港の西館からジャコモ一派に占拠された東館へ乗り込む渡り廊下の入り口で息を潜めていた。死角から鏡を使い、渡り廊下の様子を注意深く観察する。他の搬入口から突入しようとした仲間達が地雷で挽肉に変えられてしまった惨状を鑑みれば、当然の行動と言える。「……こちらも正直増援が欲しいですね。敵がどれ位いるのかさっぱり分からない」「UAV(無人攻撃機)の到着まで十五分足らずだ。それならば屋上のSAM野郎を蹴散らしてくれる。ブラックホークも乗り込めて一石二鳥だ」「それまで我々が生きていれば、の話ですが」 手を使ったジェスチャーを使い、突入のカウントダウンをとる。待機している隊員の数は七名。戦力としてはとても心許ないが、迷っている暇はない。「生存者を見つけ次第確保。テロリストの糞共は腸をぶちまけてやれ。……GO! GO! GO!」 一人が物陰から飛び出し、渡り廊下を突破していく。即席で作られたバリゲートを飛び越え、物陰から物陰へ移っていくのだ。 だがその時、視界の端でマズルフラッシュが瞬いた。そして、遅れた銃声。「くそ! 待ち伏せだ!」 脳天を撃ち抜かれ、物言わぬ骸と化した隊員を押しのけ、複数のGIS隊員がアサルトライフルを発砲して応戦する。どこから狙撃されたのかは不明だが、これでも牽制にはなる。「こちら西館渡り廊下! 待ち伏せ攻撃を受けている! 前進不可!」『重火器で武装した増援が向かっています。残り二分』「いいからもっと早く!」 再び、一人の隊員が足を押さえて倒れ込んだ。太ももを撃ち抜かれた彼は痛みと出血の恐怖で叫び声を上げる。どうやらスナイパーはこちらを即死させるのではなく、一人、また一人と負傷させ徐々に戦力を削いでいく腹づもりらしい。 テロリストらしからぬ戦略眼に、GIS隊員の一人は舌を巻いていた。「ああ、もう誰が味方で誰がテロリストなのか分からない世界なんだな」 昨日まで味方として戦っていた軍人や警察の人間が徐々に五共和国派へ鞍替えしていく現象はここ最近顕著だ。当初は素人集団と鷹を括っていた政府も、軍属だった人間が活動家達に加わる度、重い腰を上げざるをえなくなっていた。 今まさに、イタリアの分裂がすぐそこまでやってきている。「全隊員に通達。一度撤退だ。繰り返す、一度撤退だ」 スナイパーに釘付けにされて数十秒。余りにも早い撤退命令が隊員達に通達される。このまま力押しを続ければ、いずれスナイパーの方が根負けするだろう場面。だが誰も異論を挟むことはせず、大人しく全員が少しずつ後退を始めた。もしかしたらもう、彼らには戦いの中に身を投じる気力が最初からなくなってしまっていたのかもしれない。 イタリア中に伝染病のように広まる人々の悪意が戦いのプロフェッショナルを疲弊させているのだ。 そして、とても不幸なことに、彼らが渡り廊下から西館の方へ徹底するには乗り越えなければならない一つの壁が存在していた。「っ! 何者かがこちらに接近!」 誰かが悲鳴のような声をあげる。そして本物の悲鳴が上がる。血飛沫が噴水の様に沸き上がり、小さな人影が渡り廊下へ踏み込んできていた。 肩口よりやや下まで伸ばされた髪、両手にはナイフとアサルトライフルを持ち、返り血に身を汚した悪魔。 それは彼らがサンマルコ広場で見た公社の義体によく似ていた。「不味い!」 仲間が一人ずつ血祭りに上げられていく中、最後に残された隊員がハンドガンを抜き放つ。この近距離でアサルトライフルは最早無意味だ。公社の義体もどきである少女はアサルトライフルを牽制に使いつつ、手にしたナイフでボディーアーマーの隙間からのど元を狙っていた。 今まさに、少女の眉間にハンドガンの射線が重なる。しかしそれは余りにも遅すぎた。「くおっ!」 人間では到底考えられないバネの力で急接近した少女は、まず隊員の腕を脇に挟み込んだ。そしてひねりを加えて叩き折る。止めと言わんばかりに胸元へ跳び蹴りをかました後、俗に言うマウントポジションのような体勢になった。「……はは、俺の負けだ」 圧倒的すぎる戦力差に乾いた笑いしか出てこない。辛い訓練を乗り越え、エリートとして君臨していたGISがこうも簡単に殺されてしまうと、世も末だな、と笑うしかなかった。「……ごめんなさいとは言わないわ」 こちらから奪い取ったのだろう、GIS支給のハンドガンが眉間に突きつけられる。 彼が最後に見上げたのは、地獄の堕女神のように返り血と汗に塗れた黒髪の少女の姿だった。 胸元にしまっていた情報端末が着信を告げる。相手は何処かでこちらを見張っているアシクだった。「何?」「検事は既に偽造救急車に乗り込ませて出発した。あとは一部の活動家達とお前だけだ。残り十五分で出発する」「了解、今から向かう」 端末を切り、ブリジットは棄てたアサルトライフルを持ち直す。懸念だった渡り廊下へ導入されていた部隊が全滅したことによって、少しは時間稼ぎになっただろう。 彼女は右頬に付いた返り血を乱暴に拭い去ると、撤退場所に向かうべく渡り廊下から搭乗ロビーの方へ歩き出した。その途中、五共和国派の人間達によって作り上げられた民間人の死体が目に付く。白昼堂々空港でこのような乱痴気騒ぎを起こしたのは、もしかしたら活動家達の怒りの捌け口となったからかもしれない。 それくらい、今のイタリアでは憎悪と復讐が渦巻いている。「…………」 一人一人、倒れ伏す死体の顔を目に焼き付けながら、ブリジットはゆっくりとした足取りで前へ進む。彼女が歩いた白いタイル床には赤い足跡が残されていた。 沢山の人々の血に塗れた呪いの足跡だ。「っ!」 その時だった。視界の片隅で身動きをする人影を捉えた。すぐさまアサルトライフルを構え、その人影に近づいていく。 生き残りか撃ち漏らしか、どちらにしろ見過ごすわけにはいかない。例えそれが無力な民間人であっても、彼女は今更偽善者ぶって見過ごそうと思わなかった。 そして言葉を失う。 果たしてそれは、震えながら声を押し殺している二人の幼い姉妹。「ひっ」 ブリジットに見つかったことに気がついたのだろう。妹の方が思わず声を挙げてしまい姉が慌てて口元を押さえ込んでいた。「……」 無言のまま、銃口を下げ、ブリジットは姉妹に近づいていく。最早二人とも涙を堪えることが出来ていない。ブリジットはそこで、ふと自分がもともと何処の世界に住んでいたのか思い出してしまった。 ブリジットとして生きる前の、ただの日本人として生きていた懐かしい時のことを。 忘れたと、忘れたと思っていたのに、血の海で蹲る怯えた姉妹を見つけてしまったその時から、彼女の中で何かが崩れる。 今更やってきた嘔吐感が彼女を襲い、床に吐瀉物をぶちまけた。「あっ、うわっ、」 突然蹲り、嘔吐しだしたブリジットを見て二人の姉妹は呆気にとられた表情を見せる。今まで死の象徴でしかなかったブリジットが、今まさに弱みを見せているのだから当然だった。 ブリジットは慌てて口元を拭い、脂汗を浮かした真っ白な顔で姉妹を見据えた。 まだ基礎課程学校に通っているであろう、幼い姉妹。 おそらくこんな地獄のような世界とは無縁の場所を生きてきた、前の自分と同じ姉妹。「今すぐここから東館へ向かう渡り廊下に行きなさい。もう怖い人たちはいないから。絶対に立ち止まらないで」 自分が積み上げてきた死体の道へ姉妹を逃がそうとする、そんなどうしようもない状況に文字通り吐き気がするがもうなりふり構うことは出来ない。 ブリジットはよろよろと立ち上がりながら、姉妹達に道を示した。そこは自らが歩いてきたと一目でわかる、血の足跡が続いていた。「もう、こちらに来ては駄目。あなたたちはここにいるべきではないわ」 二度と戻ることは出来ない道を示して、ブリジットは姉妹に告げる。普通の少女として生きることを願わなかったわけではない。普通の人間として生きる道を夢想しなかったわけがない。けれど約束した。一番愛している人に。一番守りたい人に。「さよなら、あはは。なんだか最近お別ればかり告げてる気がするな」 ブリジットの笑いに怖じ気づきながらも、姉妹は教えられた道へ歩みを進めようとする。それを見てブリジットはほんの一瞬だけ、完全に張り詰めていた戦闘勘を鈍らせてしまった。 そのミスは取り返しの付かない事態を生じさせる。「?」 視界の中央で銀色の光が反射する。それがスナイパーライフルのスコープの反射光と気がつくのに一秒もない。搭乗ゲートの向こう側から向けられた銃口はブリジットに照準を合わせていた。 ブリジットは咄嗟にその身を翻し、射線から逃れようとする。 しかし、刹那の瞬間、ブリジットの動作を押しとどめるものがあった。 それは、今まさに生への道を行こうとしている姉妹の姿だった。丁度射線とブリジットの延長線上に立つ彼女らは、ブリジットを盾にしているような状態だったのだ。 スナイパーライフルから弾丸が放たれる。ブリジットはその時になってようやっと身を返した。「くそっ!」 頭部を砕かんとした弾丸は当初の狙いをはずれ、ブリジットの右肩を食い破っていった。激痛と衝撃にブリジットの体が吹き飛ばされ宙に舞う。ブリジットの肉体を貫通した弾丸は姉妹の間をすり抜けて、空港の強化硝子を突き破っていった。 血のラインを宙へ描きながら、ブリジットは床に倒れ伏す。「ひっ!」 突然の銃撃に足を止めた姉妹へブリジットは叫んだ。「走りなさい!」 同時、獲物を仕留め損なったスナイパーが二発目を発した。血に伏していたブリジットは左腕の力だけで飛び上がり弾丸をかわす。そしてストラップで右腕に繋がれていたアサルトライフル、MASADAを左手に持ち替えて、水平撃ちの体勢で引き金を振り絞った。彼女が放った弾丸はスナイパーが潜んでいたゲート周辺のオブジェを砕き、破砕音を辺りに響かせる。しかしながら命中弾は確認できない。 ブリジットは素早くその場から駆け出すと、搭乗ゲートとから見て西、東館とは真逆の方向へ駆けだした。 スナイパーの狙撃が合図だったのか、潜んでいたGIS隊員が背後からアサルトライフルのバーストを放ってくる。 それらを死角から死角へ飛ぶことでかわしながら、まともな遮蔽物……上階へ向かうエスカレーターの影にブリジットは飛びこんだ。 だがそんな彼女をあざ笑うかのように、目の前に筒状の投擲物が転がってくる。「スモークグレネード!」 手榴弾とは比べものにならない小さな爆発音と共に、白色の煙が周囲へ充満していく。それらを吸わないようブリジットは左手で口元を押さえて溜まらずエスカレーターの影から飛び出した。すると煙の向こうからやけに正確な銃撃が叩き込まれる。直撃こそはなかったものの、いくつか掠めていった弾丸はブリジットをさらに傷つけた。「あいつら……赤外線装備まで……。ああ、もう! 一番厄介なのが残ってた!」 涙と煙で朦朧とする視界を頼りに、ブリジットは煙が渦巻く範囲外へ逃げ出そうとする。取りあえず下の階へ、と下階へ続くエスカレーターに足を踏み出した。「つっ!」 そして不幸なことに、GISが放った弾丸の一つがブリジットの足を掠める。傷自体は大したことないものの、大きく体勢を崩したブリジットはそのままエスカレータを転げ落ちるように下っていった。 彼女はたどり着いた踊り場で血反吐を吐きながら絞り出すように呟く。「……こんなところでっ!」 静かすぎると思った。 空港の中では惨劇が続いているとヒルシャーから聞かされていたのに、やけに静かだ。 先ほどまで絶え間なく続いていた銃声も鳴り止み、外からの喧噪しか聞こえない。 東館から西館へ続く渡り廊下では数人のGIS隊員が殉職していた。もしかしたらサンマルコ広場で共に戦った人間がいるかもしれないと思い、そっと目を伏せる。こんなことに意味はないかもしれないけれど、それでも私の中にある人間性が見過ごさせてはくれなかった。 そして渡り廊下を渡りきったとき、搭乗ゲートへと続く赤い足跡を見つけた。大人のものではない、だからといってまるっきり子供の物でも無い少しだけ小さな足跡。 何処か嫌な予感がするけれども、私は歩みを止めない。 足跡を辿っていくと、床に広がる血だまりを見つけた。血だまりはそこから動いたかのように、赤い足跡と一緒に西の方へ続いている。途中、いくつもの民間人の亡骸と、殉職したGIS隊員を見つけた。 スモークグレネードでも使われたのだろうか。煙ったい匂いが鼻につくようになってきて、エスカレーターの踊り場までそれが続いていた。 そこから先の光景に私は思わず息を呑む。 手にしたウィンチェスターが震え、それが恐怖から来る物だと気がつくのに然程時間は掛からなかった。 目にしたのは無残なGIS隊員の亡骸達だった。皆、頭を撃ち抜かれていたりのど元を切り裂かれたりと、ただのテロリスト相手にやられたとは到底考えられない死に方をしていた。 今まで死体なんて腐るほど目にしてきたけれど、ここまで凄惨なものは一度しか見たことがない。 それは、私が大好きだった女の子が作り出してしまった――――、 たくさんのむくろのなか、誰かが跪いている。 真っ赤に染まった顔を苦痛に滲ませている。 私は一歩、また一歩と彼女に近づく。彼女が顔を上げた。そして驚いていた。 互いの声が交差する。「トリ、エラ?」「ブリ、ジット……」 誰もいない戦場の片隅で、私たちは再会した。