この体が義体だったのなら、と不覚にも考えてしまった自分にブリジットは嫌悪感を持った。 時刻は不明、だが目隠しをされてから体内時間は既に10時間を超えている。つまり夜中の八時過ぎに拉致監禁されたということは今現在、翌日の早朝らしいことはわかっている。 両手は拘束ベルトて拘束され、体は椅子に括り付けられていた。 ご丁寧にガムテープが口元に貼られているため、声を出すことも出来ない。(本当、あっというまだったね、ヒルダ) ヒルダと一つになると誓って、体感時間一ヶ月。 外の現実世界でどれだけの時間が経っているのかは分からないが、まだこうして意識があると言うことは体そのものは無事である。 けれど、この一ヶ月でブリジットという意識はもう義体だった頃の体を思い出せないくらい摩耗していた。 あれほど覚悟を決めたはずなのに拭い去れない恐怖感。 そして、これからの監禁生活で犯されるであろうヒルダの肉体の痛みに耐えきれるかもわからなかった。 すっかり弱くなってしまった自分が情けなくて、ブリジットはそっと涙を流す。 自分は今まで数え切れないくらいの人を殺してきた。 日本という平和な国で平凡に過ごし、漫画やアニメ、ゲームを好んで享受していた自分は最早過去を通り越して前世のものだ。 両手は血に塗れ、体からはいくら洗っても落ちない硝煙の匂いがする。銃で人を殺し、自分を殺し続けていた自分がこうなることはある意味で天罰みたいなものかもしれない。 でも、それでも、早々にドロップアウトした自分とは違って今も戦い続けているであろうトリエラやヘンリエッタたちに天罰は相応しくないと思う。 これはこの世界の顛末をある程度知っている自分が、その世界から眼を逸らし続けたことに対する天罰なのだ。 ピノッキオも、エルザもブリジットに命を託して死んだ。 ブリジットはまだ生きるべきだと言って二人とも死んでいったのだ。 それなのに自分は生きることを諦めてしまった。たった一度の過ちとは言え、復讐に身を焦がし、生きることをおろそかにしていた。 もう、あの二人に顔向けは出来ない。(ごめんね、みんな) ブリジットはそっと意識を落とす。 たぶんきっと、次に目が覚めたら、本当の地獄の始まりだと悟って。 夢を見ていた。 それはブリジットがブリジットになる前の、前世の記憶だった。 まだ男の身体で、殺しや銃とは無縁の時代のこと。 尚且つ、まだ成人も迎えていない高校生の時のことだった。 彼はその日、夏休みも終わりを迎えそうな、うだるような暑さの中、道端の隅で蛆にたかられた猫の死体を見つけていた。 車に轢かれたのだろうか。内蔵がはみ出し、苦悶の表情を浮かべたまま絶命したかわいそうな猫。誰からも見捨てられ、手に触れようともしない。 かくいう彼も、物珍しさで眺めていただけで、小さな同情は描いていてもそれ以上の感情を描くことはなかった。 でも何故だろう。 今こうして、義体になって、あのときよりもっと沢山の命を切り捨ててきた身体になって、猫の死体の光景が鮮烈に浮き上がっている。 もっとグロテスクな、それこそ目を背けたくなるような人の死体を、自分の手で沢山生み出してきた。なのに思い出すのは自分が手を掛けたわけでもない、かわいそうな猫の死体。 ブリジットは思う。 命とは多分自分の中の尺度でははかれない、はかってはいけない、もっと特別な何かなのかもしれないと。 多分、この融合を果たした先、自分は公社の洗脳から解放される。 もしそうなったとき、誰かを殺せない自分は果たして生きていく意味があるのかと。 あの日見た猫に同情を抱いたように、自分が殺してきた人々に同情することは果たして正しいのかどうか。 そもそも、あの日猫に同情したことは正しかったのだろうか。 敢えて目を背けていた蛆の群れこそ、直視すべき命の姿だったのではないか。 ブリジットはこれからの人生の、残り少ない時間の意味を考えた。 おそらく、きっと、残り少ない時間の中で沢山の人を殺すのだろう。血に塗れていた両手はさらに汚れ、自身の細い足首には数え切れないくらいの亡者が張り付いている。 アルフォドの為に殺そうとは思わない。 ただ自分が自分であるために、今まで生きてきたこの肉体の人生を、二年もないけど特別だった人生を意味のあるものにするために沢山殺していこう。 目が覚めれば地獄といった。 でもそれはもしかしたら嘘かもしれない。 地獄なんてこの世界、何処を探しても存在しない。 ただそこにあるのは、自分が生きている世界。 残り少ない時間を生きよう。 数え切れないくらい殺そう。 そして沢山沢山愛し合おう。 欲しい物はもう手に入らない。小さな幸せなんてもう望まない。 手に入れたいのは、自分が自分であるという意味。 まやかしの世界に生きて、初めて、目標が出来た。「よりよい結末……それは私が生きること」 悔いの無いように。 アルフォドはクリスティアーノの隠れ家である地下室で、パイプベッドにくくりつけられているブリジットを見下ろしていた。 彼女は幾つものチューブに身体を繋がれ、静かに寝息を立てている。 彼はそんな世界の中で、数日前、クリスティアーノが説いたブリジットの救済案を思い出していた。 「脳のロックを全て解除するだと?」「ああそうだ。私にお付きの、信頼できる男からの提案だ。このまま殺人人形とでしか生きられない彼女の、唯一の救済だ」 何をバカなことを、とアルフォドが吐き捨てる。医療に関しては一般世界より十年は先んじている公社が匙を投げたブリジットを、一医療機関ですらない、ただのテロリスト集団が治療しようとしているのだ。 これほど滑稽なことが他に存在するのだろうか。「いいか、ブリジットの脳はもう現界だ。いくら肉体をカーボンの骨、人工筋肉、人工臓器に置き換えてもこれだけは換えが効かない。度重なる投薬の結果、脳が壊れている」 アルフォドの説明は正しい。義体化技術によって肉体を人工物に置き換えたブリジットに訪れる死は、脳が負担に耐えきれなくなって機能を停止させてしまう死だ。 使えなくなった身体の部品は換えが効いても、生身のままの脳は換えが効かない。 義体の大きな欠点である脳負担は、未だに公社は解決できていない。 彼のそういった反論にクリスティアーノはこう返した。「だからその前提条件を覆すのだ。脳負担が問題ならば、脳に負担を掛けているロックを解除する。そしてそれで生まれたキャパシティで延命を繰り返す。つまり君たちが手塩に掛けて育てた洗脳を全て無に返す」 クリスティアーノの反論はこうだった。 義体の脳に最も負担を強いているのは、公社に服従を誓わせる洗脳処置であり、それを解除さえしてしまえば随分と脳に掛かる負担を軽減することが出来る。 もちろん、戦闘に関する知識などはそのままにしてだが。 だがそれは……「……そんなことをしたらもう取り返しが付かないところまでブリジットが壊れる可能性がある……」 そう、脳負担を減らすために洗脳を解除した結果、どのような現象が起こるのか。 それはブリジットが今まで消去されてきた、思い出さなくても良い記憶を全て思い出すことになる。 彼女が苦しみ、悲しんだ記憶も、ヒルダとして死んでいった記憶も。 もしもブリジットがそれらの記憶の奔流に耐えられなかったのならば、待ち受けるのは緩やかな死などではなく、彼女が持つ精神の崩壊だ。「だが今のままでは公社の狗としての洗脳が強すぎて戦力としては全く宛にならん。ジャコモも何処までこちらに協力するか分からない以上、不確定要素は出来るだけ排除したい。それに―――。」 一拍おいてクリスティアーノが口を開く。「私はまだお前が公社を裏切ったということを信頼していない。その証拠があの娘だ。あの娘が最早公社の狗ではないと証明できない以上、お前は宙に浮いたままだ」 そんなことは分かっている、とアルフォドは臍をかむ。 クリスティアーノはその様子を一瞥した後、こう続けた。「あと二日だ。二日で答えを出せ。ジョルダーノ。それと忘れるな。復讐に燃えているのは何もお前だけではない。この世界に生きている誰しもがそれらの炎に巻かれる可能性があるんだ」 だから……、「だから彼女の為に苦しむふりはよせ。大人しく認めろ。お前自身が公社に抱く憎しみを」 アルフォドは、何も答えることが出来ない。 アルフォドはベッドの上で眠るブリジットを見下ろす。 クリスティアーノに告げられた自身の復讐の意味。いつのまにかブリジットの為に生きると決めていた彼の静かな誓い。「ブリジット、目が覚めたら私を殺してくれても良い。君をこんな処に連れてきたのは正直失敗だと思っている。でも、」 彼はそっとブリジットの手を取る。ただの殺人人形になってしまった彼女の白い手を。自分の所為で取り返しの付かないところまで血で汚させてしまった小さな手を。「私は君の首輪を外す。もしも全てが終わって、君が生きていてくれたのなら、もうそれは君の自由だ」 短い口づけを青白い額に。「共に堕ちよう。ブリジット。もう戻れないのが私の所為ならば、地獄の炎に巻かれるのは私だ」 だからもう少しだけ生きてくれ。 呟きを、扉の向こう側でクリスティアーノが聞く。 物語の歯車がまた一つ、動き出す。