とある政治家の暗殺が今回公社に課せられた任務だ。主な戦力はリコ。バックアップにヘンリエッタと俺という構成になった。その辺りはトリエラが俺に変わったことを除いてほぼ原作通りで、作戦遂行地点のホテルの下見に向かったのもリコとジャンだけだった。 ジャンさんに裏口を見て来いと言われた。私は銃の入ったアマーティーの楽器ケースを抱え、裏路地に向かった。 表通りから外れた裏路地にはホテルのゴミ捨て場があった。生ゴミが捨ててあるのか、どこか鼻が付く匂いがする。日も一日中差さないためか表通りより寒く感じられた。 人影は無い。 私はいざという時の脱出経路に使われる裏口の位置を確認すると、出来るだけ早くジャンさんのもとに帰ろうとした。けれど、不運なことにその裏口から出てきたホテルのボーイの男の子に私は見つかってしまった。「あ……」 咄嗟に逃げれば良かったのに、私はそのまま立ち尽くして男の子と向かい合う形になってしまった。「ん? 何か用? ここは従業員用だから来ちゃだめだよ」 男の子はゴミの袋を持っている。きっと捨ててくるように命じられたのだろう。背丈は私と同じくらいで、年ももしかしたら同じかもしれなかった。 男の子が私に一歩近づく。すると彼は楽器ケースに眼をやった。「ひょっとして楽器を弾けるところを探していたの? ならここで弾いて構わないよ。どんな曲か聞かせてよ」 男の子が私の楽器ケースに興味を持っていることに気がついて、私はいよいよなんと言ったらいいのかわからなくなった。この中には銃が入っていて楽器なんか最初から入っていない。弾いてもいいと言われても私にはどうすることも出来ないのだ。だから私はこう誤魔化した。「私、まだ上手く弾けないからこれは駄目なの」 私はおそるおそる男の子の顔を見る。怒らせてしまったのだろうか、それとも失望させたのだろうか、私は男の子の反応が怖くて身を強張らせた。でも、男の子から帰ってきた反応は思っていたものとは違っていた。「そっか、まだ見習いなんだ。僕と同じだ」 男の子がにこにこと笑っている。私はちょっと呆気にとられて、どういった顔をすれば良いのかわからなかった。「僕の名前はエミリオ。君は?」「リコ」 日の当たらない、ホテルの裏口の前で少年と少女が肩を並べて座っている。少年は赤毛でホテルボーイの制服を、少女はプラチナブロンドの髪にベージュのコートを羽織っていた。「変な名前だね」 少年は良く話した。少女にとって同世代の異性と話すのは初めてのことで、どうしても会話は後手に回っていた。でも少女は不思議と嫌にはならず、少年の話す事にきちんと受け答えしていた。「親父が失業して飲んだ暮れだからさ、早く一人前になって働くんだ」 少年が父親のことを話すのを聞いて、リコは自分の両親のことを思い出す。 彼らはいつも動けない自分のことで喧嘩をしており、リコはそれが悲しくて両親ことを余り好きにはなれなかった。「それでさ、リコのお父さんは何をやっているの?」 きっと父は自分が生まれるまでは幸せな日々を送っていたのだろう。母も同じだ。自分が今のように自由に動く手足を持っていなかったからこそ、彼らは自分を手放した。 リコは顔を伏せて、握った楽器ケースを見つめた。「多分……多分市の水道局というところにいる」「多分? リコは家族と一緒に暮らしていないの?」 少年はいぶかしんだ様に問う。「何年も離れて会っていないから」「リコは寂しくないの?」 リコは再び少年を見つめ、その後自身の体を抱いて目を細めた。 彼女は今の公社での生活を思う。 そして少し考えた後、彼女はこう言った。「今が、楽しいから」 それから暫らく二人は取り留めのないことを話した。好きな食べ物のこと、嫌な上司のこと、そして友人のこと。 二人の談笑に終わりを告げたのは少年の方だった。どうやら彼は休憩も兼ねてゴミ捨てに来たようで、余り長い時間ここでサボっていると親方に怒鳴られてしまうらしい。「またここで会おうよ。リコ。僕、待っているからさ」 少年はボーイの帽子を被り直しリコに言った。リコは少年に何かを答えるということはしなかったが、少年の顔を見つめている。 少年はじゃあと裏口から戻ろうとしたが、何かを思い出したようで一瞬足を止めた。そしてリコの方に向き直り、懐から黄色のセロファンで包まれたキャンデーを取り出した。「これはあげるよ。今日はとても楽しかった。次は演奏聞かせてくれよ」 ばいばい、と手を振る少年にリコは同じように手を振り替えした。「じゃあね」 少年が消えていった裏口をリコは黙って見つめる。手の中にあるキャンデーの感触が冬だというのにとても暖かい。そう言えば、前もこうやってお菓子をくれた義体がいたことをリコは思い出していた。 リコは踵を返すと、ジャンが待つ表路地の方へ歩いていく。彼女は、公社で今もケーキを食べているであろう義体に今日のことを話したくて仕方が無かった。 その足取りは心なしか行きよりも軽やかに見える。日が当たらないと思っていた裏路地に日が差した。 それは作戦決行2日前の話。 最近ブリジットと二人で食事するのが増えた。今までヘンリエッタやトリエラとばかり仲良くしていたから、これはいい傾向なのかもしれない。「どうしてブリジットは好き嫌いが多いの?」 相変わらずトレーにシチリア風ピザを積み上げるブリジットを見て、リコは素朴な疑問を口にした。ブリジットは咥えていたピザを一端トレーに置く。「昔はもっと良いもの食べていたからね。イタリア料理はどうも口に合わないの」「昔? それは義体になる前のこと?」「さあね」 口元を拭ってブリジットはコーヒーを啜る。リコはブリジットの真似をして同じようにホットミルクコーヒーを啜った。「ま、公社のご飯は余り美味しくないということ」 昔のリコならどうしてそんなことを言うのかと気を悪くしていただろうが、今のリコはブリジットの言うことにそれ程疑問を感じなかった。「じゃあブリジットは何が好きなの?」 ブリジットはリコに向かってチョコレートを突き出した。剥き身のそれをリコに食べさせてやると彼女は笑う。「甘いものが大好かな。だって何か幸せな感じがしない?」 初めて見たブリジットの自分に向けられた笑顔はどこか母親のようで、それでいて年上の兄弟のようだった。リコはチョコレートを咀嚼しながらブリジットがピザを食べるのを観察し続ける。「こら、リコ。人の食事はあんまり見つめるものじゃないよ」 やっぱりお母さんだ。リコはそう思った。 二人は食堂を出て、それぞれの部屋に向かう渡り廊下を歩いていた。「それで、その男の子とずっと話をしていたの?」「うん。今度楽器を弾いてくれって言われて。直ぐに弾けるようになる?」「たぶん無理じゃないかな。今度ヘンリエッタにでも聞いてごらん」 月明かりが二人を照らす。「私ね、」「うん」「男の子ってよくわからない。でも、あの男の子と話すのはとても楽しかった」 ブリジットはそう、と呟く。リコは続けた。「この前ブリジットが私に言ったよね。私のことを好いてくれる人がいたら楽しいかって」 ブリジットが足を止めた。リコもブリジットの前を数歩歩いて止まる「なら私が誰かを好きになったら、その人は楽しいのかな」 ブリジットにはリコの小さな背中が見えた。「ジャンさんは喜んでくれるのかな」 ブリジットは何も言わない。ただ顔を伏せて、リコから視線を外した。「ブリジットは喜んでくれる?」 ブリジットは動かない。でも顔を伏せたままこう言った。「私は、リコが好いてくれるなら多分嬉しいよ」 その時のリコの笑顔は、顔を伏せたブリジットには見えなかった。 遂に運命の日が来た。 結局のところ俺が考えた作戦は一つ。暗殺を終えたリコと鉢合わせしてしまうボーイの少年を、どうにかしてリコのいるフロアに向かわせないだけだ。 方法はまだ考えていないが、最悪意識を刈り取るか何かで足を止めるしかないと考えている。「緊張しているのか、ブリジット」 アルフォドは不器用な俺の代わりに、メイド服のリボンを結んでくれていた。俺はヘッドドレスを、鏡を見ながら被り、テーブルの上に置かれていたサプレッサー付きのワルサーのスライドを引く。「任務を遂行するにあたって緊張しないことはありません」 俺が言ったのは実のところ本音だ。ただそれは任務が失敗したり、自分が負傷することに対する恐れから来るものではなく、見知った仲間がこの舞台から引きずり降ろされることを恐れて緊張しているのだ。「そうか。どうりで君が強いわけだ」 俺はアルフォドの言っていることの意味がわからなかった。俺はその台詞の真意を訪ねようとしてアルフォドに向き直るが、ジャンの一言でそれを諦めざるをえなくなる。「作戦開始だ」「大勢で目立ちたくない。ヘンリエッタとブリジットは後詰めをしろ」 耳元のイヤホンからジャンの命令が聞こえる。俺は政治家――議員が宿泊している部屋を確認することが出来る廊下の死角に、アルフォドと一緒に隠れていた。ヘンリエッタはジョゼと共に階下で見張りだ。「ターゲットがシャワーを浴びるそうだ。そのタイミングで仕掛けろ」 リコが部屋の前に立つ。おそらくルームサービスを持ってきたと告げて部屋に入るのだろう。 俺は自分の手元を見た。 ワルサ―を握った両手は微かに震えている。 部屋には簡単に入ることが出来た。私はまず、こちらに背を向けて新聞を読んでいる秘書に銃口を向けた。サプレッサー独特の銃声の後、秘書がソファーから崩れ落ち、決して小さくは無い物音が立つ。物音を不審に感じたのか視界の端でシャワールームが開いたかと思うと、ターゲットの議員が出てきた。 議員が声を上げようとする。私はそれを許さない。 引き金は思っていたより軽やかだ。 私は議員が血塗れになって倒れ込むのを見て、任された仕事の成功を確信した。「ジャンさん、終わりました」「直ぐ戻ってこい。処理班を向かわせる」 私は二人の息が無いことを確認すると、開いたままになっている部屋のドアに向かった。「ジョゼさん。階下からこちらに上がってくる従業員はいますか?」「いや、僕とヘンリエッタで階段を見張っているけどそれらしき人影はないよ」 リコが部屋に踏み込んだのと同時、俺は無線を使って少年が下の階からこちらに上がって来ていないか確認を取っていた。幸い誰に聞いても異常はないということなので、この辺りは原作と違ったのだろう。「ブリジット、リコが仕事を終えたそうだ。出てきた彼女を拾って撤収するぞ」 アルフォドの声に俺は全身の力が抜けていくのを感じた。 ワルサーの撃鉄を下し、俺は壁にもたれかかった。微かな振動を背中に感じながら瞳を閉じる。 自分の心配が杞憂に終わったことがここまで嬉しいことはない。 リコは少年を殺さずに済んだ。少年も殺されずに済んだ。 目撃者が出ることは許されないという極限状態はもう終わったのだ。 背中の振動がどんどん大きくなる。 俺はぼうっとした意識の中で振動の意味を考えた。 違和感に気が付くのにそれ程時間はかからない。 全身から血の気が引き、俺は眼を見開く。 振動はますます大きくなる。俺は慌てて壁から身を話し、無線に叫んでいた。「エレベーター!」 リコが出て来る。俺はリコに出てくるなと叫ぶ。 背中から感じる振動、それは壁の向こう側にあるエレベーターが駆動する音だったのだ。 エレベーターの到着を告げるベルが鳴る。食事を乗せたカートを押し、ホテルボーイの少年が廊下に現れる。「あれ、リコ?」 リコと少年の眼があった。 行動は一瞬だった。少年が声をあげた時、俺はアルフォドの制止を振り切って走り出していた。ワルサーの撃鉄を再び上げ、戸惑いの表情を見せる二人の間に飛び込む。「止めろブリジット!」 アルフォドの命令が俺の脳髄を抉ってくる。担当官に逆らっている事実が全身を蝕み続け、脂汗と吐き気が絶え間なく俺を襲う。「止めろ! 止めるんだ!」 アルフォドはきっと俺がしようとしていることに気づいている。でも俺は止めるつもりなんか毛頭ない。俺は自分自身の見通しが不十分で愚かであったことを痛感する。「ブリジット!」 確かに少年の命は助けたかった。原作でリコに鉢合わせしたために殺されてしまった哀れな少年を。 でも、俺はここ数日間、初めて異性とまともに会話したことを喜んでいたリコを知っている。彼女は笑っていた。 いちいち何を話したのか、どんな男の子だったのか、男の子に演奏を聴かせるにはどうすればいいのか、そんなことを俺なんかに聞いてくるリコを知っている。 だから俺は少年より、リコを、少年を殺さなくてはならないリコを救うことにした。「ごめん」 これ程までに拳銃が重いと感じたのは未だかつてない。初めて人を殺したときでさえ、ここまで重くは無かった。 少年は今もなお自分の身に起こっている事を理解していない。 きっと俺が引き金を引けるのは今だけだ。これ以上躊躇えば、俺はもう――「怨むなら、俺を怨め」 少年の、まだ大人になりきっていない細い体が廊下に倒れ伏す。薬莢が床に落ち、甲高い音を立てる。アルフォドの叫びはもう聞こえない。「はは、」 乾いた笑いが、口から洩れた。 男の子と、私の間に飛び込んできたブリジットはとても綺麗だった。 彼女は私に持っていないものを沢山持っている。 長くて黒い髪に、同じ色の宝石のような瞳、そして私が好きになったお母さんみたいな笑顔。 或いは人殺しの技術。 男の子がブリジットに撃たれたのを見て、私は何か大切なものを失くしてしまったような気がした。 私は今自分が抱いている感情がわからない。 私はどうしてブリジットに銃口を向けているのかわからない。 ブリジットは友達。ブリジットは私のお母さん。 私は、私の気持ちがわからない。 それでも、もしこれを言葉にするのならきっと許せないんだと思う。 彼女は男の子を殺してしまった。 笑うことが出来たのは一瞬だ。 俺は自分の下腹部に空いた穴を見て、自分がリコに撃たれたのだと他人事のように認識していた。 膝下から力が抜けて廊下に手をつく。久しぶりに見た自分の血は義体と言えども赤い血で少しだけ安心した。 リコの銃口が俺の額に突き付けられる。 俺はリコの顔を見て、自分の行動に意味があったことを理解した。「何だ、そんな顔が出来るんだ」 そう、彼女が俺に向けていたのは銃口だけではない。 彼女が俺に向けていたのは、見紛うことなき憎悪だったのだ。