銃声の余韻が残っているような錯覚を受けて、アルフォドは思わず身震いした。 壁に穿たれた穴が、発砲は幻では無かった事を教えてくれる。 そんな矢先、声を上げてブリジットは笑い出した。「あはははは、何だ。ブリジット。やれば出来るじゃない」 不自然に逸らされた己の手首を見据えながら彼女は笑う。相変わらず凄惨な笑みを貼り付けたまま。 彼女は銃を床に落とすと、イスに腰掛けたままのアルフォドに圧し掛かった。そして左目だけでアルフォドの双眸を覗き込む。「私の中のブリジットがこんなに怒ってる。良かったね、アルフォド。あなたあの子にこんなにも愛されてる。本気であなたを殺そうと想ったけど、ブリジットに阻止されちゃった」 どういう意味だ、と搾り出すアルフォドにブリジットは答える。「とぼけないでよ。あなた気がついているんでしょう? 私の中には二人の意識がある。ブリジットとしてのあの子と私としてのヒルダ。残念ね、あの子はもうこっちには出てこれないわ」 二人分の重みに耐えかねてイスが軋む。ブリジット、否、ヒルダがアルフォドのネクタイを締め上げ、さらに続けた。「もうね、あなたが大切にしていたブリジットは私の中に閉じ込められたの。時折干渉は出来るみたいだけど、大筋では死んだも同然ね」「……何故、そんなことを」 決してブリジットに向けられることの無かった殺意の篭った視線がヒルダを射抜く。ヒルダは愉快そうに唇を吊り上げると、赤い舌でアルフォドの頬を舐めた。「ユーリを壊されたから、かな。思いのほかこの子の意思が強くて出てこれなかったけど、エルザが死んでその枷も外れたわ。後は適当に意識をすり減らしてやれば私は出てこれた」 体中を襲う怖気に耐えながら、アルフォドはヒルダを見上げた。 彼女は歓喜と憎悪を湛えた瞳でこちらを見下ろしていた。 そして恋人に囁くよう、そっと告げる。「これから、私の復讐が始まるの」 ヒルダの手がアルフォドに伸びる。 白魚のような指が彼の首に絡みついた。イスが崩れ、二人は床に転がる。 朦朧とする意識の中でアルフォドは己の死を覚悟した。 義体の腕力で首を絞められれば窒息どころか骨まで折られかねない。 またそれ以上に、アルフォドは無理な抵抗をしてブリジットを傷つけることに耐えられなかった。 ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返しながら、幼子のように泣きじゃくりながらこちらに手を伸ばすブリジットを押しのけることが出来なかった。 アルフォドは想う。 今までカタチこそは違うものの、ブリジットはこうして助けを求め続けていた。あらゆる痛みに呻きながら、あらゆる悲しみに押しつぶされながら、哀れな義体の少女はずっと救いを求めていた。 それなのに、自分は何も出来なかった。いや、何もしなかった。 自分は担当官であると言う線引きに甘んじながら、彼女のことを何も考えてやれなかった。 少女に必要だったのは、大きな銃でも多量の薬でもなく、小さな幸せと誰かの愛情だったのだ。 泣き喚き続けるブリジットが手を離した。 アルフォドに覆いかぶさって胸の中で叫びを上げる。己の行為を後悔しながら、世界を恨みながら、アルフォドを憎みながら。 静かに壊れていく彼女に差し伸べる手は無い。 アルフォドは部屋のドアをリコが突き破ってくるその瞬間まで、ブリジットが一思いに殺してくれる瞬間を待ち続けていた。 彼の意識はそこで一度途切れる。 次に目覚めたときは、もうブリジットの泣き顔を見なくて済むよう願って。 フラテッロ 兄妹または家族。 リコに押さえつけられたブリジットはさしたる抵抗も見せず、床に転がった。 リコの後から入ってきたペトラがそっと動かなくなったブリジットの頭を抱く。こちらの呼びかけにも答えなくなったブリジットはそのまま拘束具で縛り上げられ、意識を失っていたアルフォドは直ぐに担架に乗せられた。「義体の暴走とは笑えませんね」 アレッサンドロはペトラに拘束されたブリジットの輸送を命じる。ペトラは彼女をそっと抱き上げると、指定された病室へ向かっていった。「完全に押さえつけたとしていた前の人格が今の人格と反発した結果だ。これで彼女の末路は決まったな」 倒されたイスを元に戻し、ジャンはアルフォドの机に向き直る。そして写真立てを手に取ると、こう告げた。「奴と彼女が眠っている間に全ての事は終わる。それが一番だ」 写真立てには病室で撮られたと思われる写真が収められていた。 そこではアルフォドに抱き上げられた、ブリジットが笑っている。 ドイツ人の母とイタリア人の父との間に生まれた俺は、いつも父親の背中を見て育っていた。 ローマで軍警察の仕事をしていた父は俺の憧れの人で、また目標の人でもあった。 仕事一筋の頑固な父親だったが、俺は彼が大好きだった。 そんな父も俺が14の時に死んだ。 左翼政党の幹部の警護をしていた父は右翼の爆弾テロに巻き込まれて粉微塵になった。 その後、右翼政党が政権を握ると、幹部と懇意にしていた父は一気に槍玉に上げられ、国から勲章を貰うどころか、トカゲの尻尾切りのように功績全てを抹消されてしまった。 母は泣き、謂れの無い誹謗中傷に疲れきってしまって、学校に通っていた俺を残し、妹と共に祖国のドイツに帰ってしまった。 だがこれは俺にとっても好都合なことで、父と同じように軍警察を目指すには丁度良い機会だった。 四の五言わずに入隊した後はそれこそ馬車馬のように働いた。 地獄のような訓練に耐え、上官からの嫌がらせにも耐え切った俺はローマ直属の部隊に配属されることとなった。 そこでジャンと、そしてユーリと出会うことになる。 これが一つ目の人生の転換期だった。 担当官を襲撃するという、前代未聞の不祥事を引き起こしたブリジットの処分は二つに絞られた。 それは担当官が意識不明の間に物理的処分、つまり殺害することと 精神的処分、ブリジットの意識体を完全に殺し彼女をリセットすることだった。 数時間にも及ぶ討論の末、下された結論は後者であったことをここに書き記す。 そして処分可決から二時間という高速で、廃人状態と化したブリジットは手術室に運び込まれた。 成功して制御できればもうけもの、失敗しても物理的処分と同じ結果になることから、比較的スムースに手術は行なわれた。 アルフォドはその間、意識を取り戻すことは無かった。 二つ目の転換期は公社に勤めて直ぐ、ブリジットと出会ったことだ。 軍警察を辞めた理由はさて置き、彼は一度死に掛けた少女を無理矢理生き永らえさせ、暗殺の道具に使うという行為自体には賛成でも反対でもなかった。もし第二の人生に喜びを感じるのであれば、義体化という処置は彼女たちの救いになるからだ。 そしてブリジットに対しても、出来れば幸せな人生を生きて欲しいとずっと願い続けていた。 14の時に父親を失い、後は只管に軍への入隊しか考えていなかったアルフォドは、14で死んで殺人の道具にされるブリジットの気持ちが最初はわからなかった。 今となっては結局最後までわからず仕舞いだったのだが、それ以上に戸惑いを強く感じていた。 無邪気に菓子を食べ、偏食家で、少し我侭ぽかったブリジット。 無慈悲にテロリストを殺し、狙撃の名手で、復讐に暴走してしまったブリジット。 二つのブリジットの、どちらが本物の彼女なのか、アルフォドにはとても理解出来るものではなかったのだ。 心の奥底で彼女の二面性に恐怖していたことはもう隠すまい。 でもそれ以上に、彼女を担当官という枠を超えて愛していたことだけは彼女に伝えたかった。 担当官という線引きに甘んじ、彼女を傷つけ続けた彼だが、ブリジットのことは誰よりも愛していた。 それは保護者愛であり、家族愛であり、そして恋人に対する愛でもあった。 ブリジットが恋人に対する愛を受け入れてくれたのかはもう知る由もない。 けれど。 もしその想いを素直に一度でも彼女に伝えていたら、物語の結末は変わったのだろうか。 復讐に身を削ることなく。 ヒルダに呑まれることなく最後を生き続けるブリジット。 アルフォドが望んだのは本の小さな幸せだった。 彼が与えたかったのも又、本のささやかな幸せだった。 出来ればフラテッロではなく、一人一人の個人として。 ただ一組の男と女として、過ごしてく未来を生きていきたかった。 アルフォドは目覚める。 この先にあるのはどうしようもなく暗い現実で、恐らく救いは無いのだろう。 それでも、彼はただ一言、「好きだ」と伝えてやりたかった。 君を見捨てないものがここにいる。世界中の誰もが君を敵視しても、いつだって味方でいる人間がここにいる。君になら殺されてもいいと思った馬鹿な男がここにいる。 有りっ丈を叫んで、有りっ丈の力で抱きしめてやりたかった。 目を覚ましたアルフォドの病室に訪問者が現れた。 まだ医者から安静を命じられている彼は首の動きだけで訪問者を迎える。 訪問者は少女で、潰れていた筈の右目が蘇生され、黒色とは少し違った色の瞳がそこにあった。 少女は行儀よくアルフォドのベッドの傍に置かれた丸イスに腰掛けると、年相応の笑みを浮かべた。「おはよう御座います。アルフォド様。具合は如何ですか?」 アルフォドは一つ、失ったものの余りの大きさに言葉を失った。 少女に手を伸ばしても少女は不思議そうに首を傾げるだけで、その手を取ろうとはしない。 まるで人形のように。 作られた、予定された動作しか繰り替えさないブリジットには、 到底、アルフォドの言葉は届かなかった。 こうしてブリジットという名の少女は余りにも早すぎる死を迎えていたのだった。 アルフォドの嗚咽が病室に漏れる。 彼はブリジットに縋り付くと、まるで許しを請うかのように彼女の名前を呼び続けていた。一応ここまで投稿します。前二つのあとがきはこの投稿が終わり次第消去します。これで一応、キリの良いところなのかな。小分けにした連続投稿すいませんでした。後一つ、エピローグみたいなものを投稿したらしばらくお休みです。これからも宜しくお願いします。