いつまでもアレッサンドロの宿直室に寝泊りするわけには行かないと、寮に部屋を確保したのは昨日のことだった。 もともと一期生の物置部屋として使われていたそこは、クラエスとか言う義体の女の子と一緒に片付ける手筈になっている。 私は運動用のTシャツと軍手に着替えて、本部から北に位置する義体たちの寮に向かった。 人影もまばらな――別に入居者が少ないわけではないのだが――寮の外観は浮世染みた異国の城のようだった。 【失くすもの、忘れるもの、奪われるもの。】 息巻いて指定された部屋に向かったペトラだったが、共に作業する予定の少女はまだ姿を現していなかった。 部屋の鍵は開いたままで、若干埃っぽい室内ではカーテンの隙間から差し込んだ日光が見えた。「んー、部屋はここであってるし何か急用でも出来たのかな」 アレッサンドロから聞かされていたクラエスという少女は随分真面目な人のようで、訳もなく遅刻をするとは思わなかった。 ペトラは伸びを一つして部屋に踏み込むと、先に一人で片づけを始めることにした。 燃えるような赤毛にバンダナを巻き、白魚のような細い指に手袋を嵌める。彼女は取り合えず、部屋の隅に積まれていたダンボールを二三箱抱えて運び出した。 それらはかなりの量で、他にも壁に立てかけられたキャンパスやキャリーバックの類も見つかった。 ようやく約束していた協力者が現れたのは、運び出したダンボールが二桁に届くか届くまいかの頃だ。「ごめんなさい、水を汲んでいたら遅れたわ」 ちゃぷん、と部屋に響く水音が一つ。 バケツ一杯の水と何枚かの雑巾を携えて、長いストレートの黒髪、度の入っていない眼鏡をした少女が入ってきた。 恐らく、この少女がクラエスなのだろう。「いやいや、こちらこそワザワザ手伝って貰って……。全然気にしてないよ」「そう言ってくれると嬉しいわ。でもまあ、この部屋にあるのは私とあの子達のだから、私が片付けるのは当然のことね」 ――あの子達?―― ふとペトラが疑問を口にしようとする。だがその一言はクラエスが雑巾を絞って作業を始めた所為で、ぐっと喉の奥に飲み込むこととなった。 彼女の疑問が解決するのはそれからさらに小一時間が経った後。一つのダンボールと無造作に置かれたキャンパスが彼女たちの目の前に姿を現した時だった。「ねえクラエス、このダンボール中身は何?」 声を上げたのは部屋の片隅でダンボールを整理していたペトラだった。彼女が掲げたそれを見て、窓枠を水吹きしていたクラエスが一瞬だけ目を見開く。 そして、何かを諦めたかのように息を吐くと「まだ残っていたんだ……」とこぼした。「それはね、もう四ヶ月、正確には三ヶ月と少し前に死んだエルザって子の遺品よ」 クラエスの台詞を聞いて、無造作に掲げていた箱をペトラは慌てて床に置いた。確かに側面にはELZAとマジックでサインが刻まれている。「死んだって何で? 寿命?」 クラエスは首を横に振った。彼女は俯いたままペトラとは反対側の方へ歩き、いくつか重ねられていたキャンパスを手に取る。殆どは水辺の絵が描かれたものだったが、その中で一枚だけ木炭によるデッサンだけで終わっている絵があった。クラエスはそれだけを持ってペトラの元へ戻ってきた。「……あなたはブリジットって知ってる?」 キャンパスを手にしたままクラエスが問う。ペトラは質問の意味がよくわからなかったが、今の自分のパートナーだと返して見せた。 クラエスがペトラにキャンパスを差し出す。 木炭で描かれたそれは明らかに描きかけで、ペトラの目には時間が止まってしまった世界のように映った。「これって、ブリジットと……」「髪を二つに分けているのがトリエラ。ブリジットの膝の上で笑っているのがエルザよ」 布地の上でベッドに腰掛けた三人の少女が思い思いに談笑していた。今とは違ってかなり長いブリジットの髪を梳いているトリエラと、髪を梳かれている彼女を見上げるエルザ。 たとえそれがただの絵だったとしても、皆が幸せな一時を送っている時間に思えた。「エルザはね、ブリジットを助けようとして死んでしまった。その日からブリジットはおかしくなった」 ――おかしくなった。 クラエスが言う「おかしい」とはあの異常までに滲み出ているブリジットの殺意のことを指すのか。 ペトラはクラエスの肩を掴むと、もっと教えてくれと告げた。それは常々感じていたブリジットに対する違和感が爆発したようなものだった。 クラエスは少し躊躇うように目線を逸らしたが、床に安置されたままの段ボール箱を見て、観念したかのように口を開き始めた。「今、あなたはブリジットを見てどう感じる? まさか普通の義体とは思っていないでしょう」「まだ他の子を沢山見たわけじゃないけど……何だろう、どこか薄ら寒い感じかな」 ペトラが使うベッドだけを部屋に持ち込んで、二人はそこに腰掛けていた。髪を覆っていたバンダナは外され、放たれたカーテンからは午後の日差しが差し込んでいる。「最初ここに来たときのあの子は周りに対して酷く怯えていたわ。まあそれもトリエラと何かあってから大分マシになった」 クラエスは病院着ひとつで生活を続けていたブリジットを思い出す。あの頃の彼女はシャワーを浴びては恐慌状態になったり、まだ定着していなかった皮膚を掻き毟っては血塗れになっていた。 今となってはその記憶も遠すぎるものだ。「あなたは信じないでしょうけど、その後の彼女はとても明るくて、時折こちらがどきっとするぐらい大人で、何よりも人間だった」 クラエスの一言一言がペトラにとって重く圧し掛かる。 それは過去のブリジットを知ることで、今のブリジットに刻み付けられた傷跡が際立つからだ。「全然義体らしくなかったわ。まるで別の世界から来たみたいに私たちと違っていたの。口では上手く言い表すことが出来ないけど、間違いなく彼女は人間らしく生きていたし、周りにもその生き方を教えてくれた」 まさにそのブリジットこそキャンパスに描かれようとしていたものなのだろう。だが絵が完成せずに今も放置されているということは、つまり――、「でもね、皆が寄って集ってあの子から全てを奪っていったの。あんまりにも酷いことを皆したものだから、ブリジットは人間をやめて亡霊でも何でもないただの人形になった」 からん、とクラエスの手からキャンパスが零れる。「私も、エルザもトリエラも、そして大人たちも皆大なり小なり傷をつけていった。やがて積もり積もったそれは化膿し、疼くようになり、取り返しの付かないところまで来てしまったの」 傷を付けた――、それは随分と癒えた彼女の体の傷のことではない。ブリジットという存在そのものに刻み付けられていった傷のことなのだ。「もうね、誰もあの子に触れることは出来ないの。唯一触れられていたエルザは死んでしまった。それもブリジットを庇って死ぬって言う最悪の傷を刻み込んで。この傷がブリジットから消えることはありえない」 部屋が静寂に包まれる。クラエスは押し黙ったまま動かない。ペトラも同じだ。床に転がる書きかけのキャンパスを見つめて何も言えなくなった。 キャンパスで止まってしまった時間を動かせる人間はこの世にはいない。 恐らく、ブリジットもそうだ。 一度復讐に身を焦がした以上、彼女が戻ってくることは限りなくゼロに近い。 口を開いたのは沈黙に耐えかねたペトラだった。自分が不気味だと、人形だと思っていた義体の少女が、人間だった頃の面影を感じた彼女は搾り出すように話す。「あっ、諦めるのは早いと思う! だって昔は皆通じ合えていたんでしょう? だったらきっとやり直せるハズ!」「詰まらない慰めはやめて。幾ら私たちが望んでも無駄なのよ」 冷たいクラエスの口調にペトラは一瞬怯む。だが彼女は続けた。「でもブリジットはあなた達ともう一度分かりあいたいと思ってる!」 叫び声の後ペトラの頬に衝撃が走った。気がつけば床に倒れ伏していて、クラエスに平手を受けたと理解するまでに多少の時間が掛かった。 自分を見下ろすクラエスは赤い目でペトラを睨んでいた。「何も知らないくせに勝手なことを言わないで! 誰もあの子のことなんてわかろうとしなかった! 理解なんてしなかった! 全部押し付けてのうのうとしていたのよ! あなたはその過程を見ていないからそんな悠長なことが言える! 私たちがブリジットに歩み寄るのは彼女の苦痛でしかないの! 彼女はそんな関係望んでいない! あの子はね、エルザが死んだ瞬間から一人ぼっちなの! それなのに今更希望を与えないで! どうせ私たちは最後にブリジットから全部奪っていくしかないの! 友人も愛する人も愛した物も! あなただってきっとそうするわ!」 眼鏡の奥から涙を零しクラエスは言い切った。肩で息をしてベッドに倒れこむ。ペトラはただ呆然とその様子を見つめるしかなかった。「……ごめんなさい。冷静さを欠いたわ。しばらく一人にして。片付けは私がするから」 最早ペトラに逆らう術はない。彼女は部屋に残された幾つかのダンボールと――床に転がる書きかけのキャンパスを拾い上げて部屋を後にした。 残されたクラエスは頬を伝う涙をそのままに、部屋に残されたエルザの遺品を抱きしめた。 先日の騒動をこれっぽっちも知らないブリジットは淡々とペトラの隣で襲撃の準備をしていた。 彼女の復讐の象徴でもある医療用眼帯が、黒曜のような前髪の隙間からちらついている。 分解された状態で収められたMP5を慣れた手つきで組み上げていくブリジットは何も言わない。皮肉なことにこの作業に没頭している間の彼女が、一番人間らしいとペトラは思った。 俺の中に巣食うヒルダが殺せと囁く。 彼女の悪夢は日に日に身体を侵食していった。俺が誰かを殺すたびに彼女が脳裏に浮かんでは消える。逃げ道がない迷宮のような復讐劇に俺の全てが悲鳴を上げる。 組み上げたMP5を担ぎ上げ、俺は指定された倉庫に踏み込んでいった。 そして悪夢を払拭するように引き金を引く。目も覚めるようなマズルフラッシュと銃声に暗闇が照らされた。 きっと倉庫の壁に写された俺の影は、血に濡れて見るも耐えない醜いものだろう。 でも今はそれで良い。 エルザの為に屍の山を築くことこそ他ならぬ己の存在証明なのだから。 所詮は物語の、不確かな歪な世界。 誰を何人殺そうと同じことなのだ。 自然と唇が釣りあがる。今は亡き右目も健在ならとても嗜虐的な笑みを構成していただろう。 俺はペトラに取り押さえられるまで、物言わぬ死体に銃弾を叩き込んでいた。 腕の中でブリジットが息を吐く。無理矢理手サブマシンガンを取り上げ、ブリジットを床に押さえつけた。 彼女はさしたる抵抗を見せず、荒い息のまま埃っぽいコンクリートの床に接触している。どうしてブリジットを止めたのかは自分でも解らない。ただこの前のクラエスの姿が思い起こされたのは事実だ。「もう……もう敵は死んでるよ」 ブリジットは返事をしない。私はブリジットを床に寝かせたまま電話を取って外で待っている担当官二人に連絡を取った。これで何とか事を終えることが出来る。 彼女はすっかり生気を失くした目で物言わぬ死体を見た。 その瞳は僅かばかり揺れている。でもそれが殺人に対する後悔ではないことなど当の昔に知っていた。初めてペアを組んだときからこの瞳は見ている。「どうしてこんなに悲しいんだろう」 ブリジットの頭を抱きかかえ、静かに二人が来るのを待つ。 あんなにもクラエスを心配させているのに、この少女は決してこちらを見ない。暗い瞳で見るのは己が築いた屍だけ。ペトラは腕の中のブリジットを見やりながらこう呟いた。「私……一期生が大嫌い」 まるでこの世界の憎しみを、理不尽を一身に受けて生きている一期生たちは義体として生まれたときから苦手だった。アルフォドの言う人間観察の対象にしても何も見えない真っ白な先輩たち。「ブリジット、君は重すぎるよ」 その真っ白な先輩たちに対して黒すぎて何も見えてこないのがブリジットだった。だがクラエスの慟哭を聞いた瞬間からブリジットのキャンパスに描かれた絵の具が剥がれ落ちた。それは何も写さない黒ではなく、鈍く光る様々な色だった。キャンパスに乱暴に描かれすぎた所為で、黒としか認識できないほど歪んでしまっている。 ペトラはクラエスに啖呵を切ったときとは打って変わって、ブリジットが元には戻れないことを感じ取った。 けれどそれを認めることだけは到底出来ずにいた。 ねえ、友達って何なんだろうね? 気がつけば今となってはもう殆ど覚えていない、生前の自分の部屋にいた。 目の前に詰まれた「GUNSKINGER GIRL」の原作はあれから巻数が増えて第七巻に突入している。ペトラが様々な事件を通じて徐々に成長していくお話の巻だ。 その本のページを捲るのは俺ではない。本を手に取りページを捲ったのは他ならぬ赤毛の少女、俺を誘惑し復讐を囁くヒルダだった。「ねえ、友達って何なんだろうね。どうしてあなたと分かり合えた人は皆死んじゃうんだろうね」 いつもの妖艶な雰囲気は何処へやら、さも楽しそうなヒルダに俺は何も答えることが出来ない。いや、答えようにも声を発すること事態が出来なかった。「皆死んじゃって最後はあなたも死ぬんだよ、ブリジット。だってほら、もうあなたの存在はそんなに希薄だもの」 俺はふと姿鏡を見る。こちらを胡乱気に見つめる黒髪の少女は己が誰であったかもう殆ど覚えていない。「あなたを撃った義体の子の名前は覚えてる?」 俺は答えることが出来ない。「あなたが心に傷を負うことになった、娘思いの父親を殺したことは?」 俺は何も言えない。「トリエラがピノッキオに負けて焦ったことは? 橋の上から突き落されたことは? あなたとピノッキオの勝敗は? 何故あなたはトリエラが許せないと感じたの? じゃあ、あなたが慕ったピノッキオの本当の名前は?」 何も言い返すことも、何も行動を示すことも出来なかった。「ほら、もう友達の名前も忘れてる。ならあなたが一番大切にしていた女の子の名前は?」 最後に見たのは彼女の微笑だった。 炎を血にまみれた世界で、俺に命を託した女の子。 そうだ――彼女の名前は――、「――本当に、なんて愚かなこと。全部忘れて復讐の動機も無くしかけている。あなたは何処まで私の願いどおりに動いてくれるの?」 ヒルダの舌が俺の頬を舐めた。 そのまま身動きが取れないよう、押し倒された俺は天を仰ぐ。 多分、これがきっと夢の終わり。 動悸が治まらない。吐しゃ物で床を汚し、ゼイゼイと喘ぐ。 ペトラに押さえつけられた四肢が暴れ、全てを跳ね除けようとした。「ブリジット!?」 驚いたペトラは思わず飛びのきそうになるが、何とかそのままブリジットを押さえ込む。異変を察知したのか倉庫に入ってきた二人の担当官は慌ててブリジットに近寄った。「不味い、発作だ」 喉を掻き毟ろうとするブリジットの腕を革の拘束具で縛り上げ、舌を噛み千切らないよう猿轡を噛ませる。アルフォドは懐から注射器の入ったケースを取り出すと、薬剤の入った注射器を縛り上げた静脈に差し込んだ。「ビアンキから近いうちに起こると聞いていたがこれ程までに酷いとは……」 努めて冷静に、されど脂汗と青ざめた顔を隠さないアルフォドはペトラを押しのけ、暴れるブリジットを強く抱き押さえる。もう何も見えていないのか、いよいよ光を失ったブリジットの瞳には涙が浮かび、しきりに何かを訴えていた。 薬剤が効き、ブリジットが沈黙するまでアルフォドは懸命にブリジットを抑えた。 ブリジットの終焉が迫っている。 ただその様子を見つめていたペトラは背中に薄ら寒いものを感じずにはいられなかった。 最初の一歩は忘却から始まった。 ブリジットの中で、ヒルダが微笑んでいることに誰も気がつかない。 今まさに、ヒルダの復讐が始まったのだ。