人も元を辿れば生き物であるから、同種殺しである殺人に対しては強い抵抗感を持つ。 義体化された少女たちは条件付けという一種の洗脳を施されて、殺人に対するストレス、抵抗感、倫理の壁を取り払われている。 中身が一般人の意識体だったブリジットも同様の効果が得られていた。彼女自身、他の義体よりかは抵抗感を持っていたものの、やはり一般人に対して比較にならないほど低い。 公社の医療班が異常に気が付いたのはカウンセリングの場であった。 エルザの死を忘れさせるか、そのままにするかで一悶着あったのだが、上の判断はそのカウンセリングの結果によって下された。 それは義体が本来持ち得ないはずの、テロリストに対する強い憎悪。 担当官や後者の命令で敵性体を殺すことはあっても、自身が生み出した殺意を持って任務に挑む義体はこれまでに無かった。 ブリジットは自ら復讐心という感情を内包し、テロリストを殺害していたのである。 これに気が付いた医療班と上層部は一つの決定を下した。 その決定とは、ブリジットの抱く負の感情を敢えて消去したりせず、それどころか増長させることによって義体が何処まで戦闘力を発揮するか、さらにどの様な影響を肉体及び精神に与えるか観察を続けることだった。 ブリジットは自分がそう利用されていることに気が付いたとき、怒りを感じるよりも好都合だと笑って見せた。 彼女からすれば無差別に殺戮が許される環境は、今最も望んでいるものだったのだ。 己の運命を呪い、そして世界を殺さんとするブリジットはもう止まらない。 ブリジットは眼帯で覆われた右目の下に憎しみも怒りも全て滾らせて敵を殺す。 彼女がこの世界に来て初めて犯した殺人の感触など、とうの昔に忘れていた。 黒のアルファロメオの助手席でブリジットは人を待っている。 ブリジットは外から見えないよう、自分の膝元に隠された拳銃を左目だけで見つめていた。ピノッキオに切られた髪は少しだけ伸びて肩口より下になっている。ただ潰れた右目を隠す医療用眼帯はまだ外れていなかった。 ぽつぽつと雨が降り始める。 彼女は湿気で古傷が痛むのを感じながら、膝を抱えて丸まるようにシートへ転がった。視線の先にはアルフォドが吸ったタバコの柄が詰まった車内灰皿が見える。 こつん、と運転席側から足音が聞こえた。 ブリジットは手の中の拳銃を握り締め、身体を強張らせる。 そして、不躾にもノックもなしに運転席へ乗り込んできた輩に銃を突きつけた。「わわっ! 私だってばブリジット!」 運転席に乗り込んできた赤毛の女は額に突きつけられた銃に怯えながら手を振った。ブリジットは舌打ちを一つすると、銃を下げて再びシートに丸まった。「ねえ、いきなり酷いよ」「煩い。ノックもしないあなたが悪い」 取り付く島もなしにブリジットが返す。赤毛の女――ペトリューシュカは溜息を一つ吐くと、外で買ってきたホットコーヒーのカップをブリジットに突き出した。「はい、エンジンも掛かっていない車の中では寒いだろうって、アルフォドさんから」 白い湯気を立てる紙カップをブリジットが受け取る。彼女はブラックのままそれに口をつけた。「……不味い」「アルフォドさんから貰ったものなのに?」「誰から貰ったって一緒でしょ」 そう言ってカップを車内にあったカップホルダーに差し込む。ペトラも一緒に買ってきたチーズサンドを咥えてその様子を見ていた。 ブリジットの携帯電話が着信を受けたのはそれから五分ほど後のことだった。「ブリジットです」 キッカリ3コールで応答した様子から、何かしらルールでも決めているのかもしれないとペトラは思った。ブリジットは何やら感心しているペトラを鬱陶しく思いながら、電話の向こうに耳を傾ける。「ターゲットがもう直ぐそっちの通りに行く。車止めを使って止めなさい。後部座席にショットガンがあるからそれを使っても構わない」 電話の音声を拾ったのか、ペトラが身を乗り出して後部座席から何かを引っ張り出した。布に包まれているが恐らくアルフォドの言うとおりショットガンなのだろう。「了解しました。中の人間は?」 息を呑んだのは電話口のアルフォドもペトラも同じだった。 何処か嗜虐的に聞こえるブリジットの口調が思わず寒気を催す。「運転席のターゲットは殺すな。尋問も駄目だ。他は――止めはしないよ」 わかりました、とブリジットが電話を切る。ペトラは一度外に出てトランクに収められた車止めを準備しに行った。それはある意味で逃げの一手だ。 ブリジットはホルスターに拳銃を収めて、布に包まれたショットガンを持った。くるくると踊るような手つきで布を解き、つや消しブラックの銃身を露にさせる。 そしてポンプアクションの作動部を握り、ガシャ、と装填をした。 薄く吊り上った唇が酷く蟲惑的で、薄く見える歯が凶器のように光った。 黒の瞳は殺意の色で濡れていた。 ブリジット達が待機する通りから少し離れたところで、担当官二人組みはフィアットを使って目的の車を尾行していた。「……それにしてもお前の勘は良く当たるんだな。ブリジット達のいる場所へきちんと向かっている。前は何処にいたんだ?」「内閣の情報部に少し。詰まらない仕事でしたよ」 運転手はアレッサンドロ、助手席にはアルフォドが腰掛けていた。元々軍警察で対人戦の心得があるアルフォドが膝の上で拳銃のスライドを引く。「アルフォドさんは軍警察だと聞いていますが、どうしてここに?」「んー、まあ色々あった。市民に銃を向けたり、同僚が死んだり、母親の体調が崩れたりとか……溜り溜まったモノが一気に暴発したわけだ。くだらない理由だよ」 尾行していた車が交差点を曲がる。アルフォドは車種をブリジットに伝えると交差点の手前で停止するようアレッサンドロに指示した。「ここからは歩きだ。向こうに着いた頃には全てが終わっている」「……信頼しているんですね。自分の義体を」 アレッサンドロの台詞にアルフォドは少しだけ眉を歪めた。別に皮肉を言われているわけではないが、それでも最近のブリジットのことを考えると斜に構えずにはいられない。「冗談、彼女は今一番危ない義体だ。ちょっとした事で暴走しかねない」 自嘲気味に笑うアルフォドにアレッサンドロは何も返せなかった。男二人は傘も差さずに道を歩く。何処からか男の叫び声と銃声が聞こえた。 襲撃者は黒髪の少女だった。 突然進行方向に投げ込まれた何かを踏んだかと思うと、車の速度が目に見えて落ちた。そして飛び出してきた襲撃者が後輪に向かって散弾をばら撒いたとき、車体は完全に停車した。 中に乗り合わせていた三人は運転手を残して、拳銃を手にして車外に飛び出そうとする。 だがそれをあざ笑うかのように、襲撃者はフロントガラス越しに発砲した。「うおっ!」 運転手が咄嗟に伏せたのと同時、断続的に拳銃弾がフロントガラスを突き破ってきた。一発、二発では飽き足らず、それこそマガジン全てを撃ちつくす勢いで弾が放たれる。防弾でも何もなかったフロントガラスが粉々に砕け散り、滝のように運転手に降り注いだ。 カラン、と空薬莢が雨で濡れたボンネットを転がっていく。運転手は地獄の終わりを願って、そっと顔を上げた。 目に入ったのは原型を留めないほど鉛弾を叩き込まれた仲間の死体だった。「ひいっ!」 砕け散った頭部の所為でシートは真っ赤に染まり、こちら側に血の川が出来ていた。運転手は特に意識もしないまま内腿を己の体液で塗らした。 そんな彼を、襲撃者は無言のまま窓枠だけになってしまったフロントガラスから引き摺り出した。「たっ、助けてくれ!」 右目を医療用眼帯で覆った少女の手を振り払い、血で濡れた路面を這いずるように逃げようとする。だがそれを襲撃者が見逃すはずもなく――、むしろ痛めつける口実が出来たといわんばかりに、ホルスターから抜かれた二丁目の小口径の拳銃で運転手の足を撃った。「あがっ!」 雨に解けて男の足から血が広がっていく。 少女は運転手の髪を掴み上げ、大人しくしろと告げた。「ブリジット、殺しちゃ駄目!」 運転手を救ったのは皮肉なことに少女の仲間の女だった。ベレッタと車止めを抱えた女はブリジットから男を引っ手繰ると、用意していた手錠で男の手首を押さえた。「殺してないよ。ただ聞き訳が悪いから大人しくして貰っただけ」「だから必要以上に痛めつけたら意味ない!」 少女は一応赤毛の女の言うことを聞いたのか、これ以上運転手に関わってくることはなかった。ただ彼女が道路に投げ捨てた拳銃――スライドが開き、十五発の弾丸が全て撃ちつくされていた――を見て、気を失いそうになった。「前もそれで一人殺しちゃったし……いい加減こんなことは止めようよ。別に殺せとは命令されていないんでしょ」 赤毛の女が車の惨状を見て苦言を呈した。微妙に開いたドアの隙間から絶え間なく血液が滴り落ちている。「ペトラには関係ない。つべこべ言わないで」 黒髪の少女はフロントガラスの無い車のボンネットの上で膝を抱えていた。いつの間に取ってきたのか、彼女たちの車に乗せてあったホットコーヒーのカップを持っている。返り血を少しだけ浴びた頬を白い弱弱しい湯気が洗っている。「関係あるよ。私たちは立派な仕事仲間なんだから。パートナー同士手を取り合って仲良くしないと」「私はペトラなんか知らない」 そう言って醒めかけのコーヒーを啜る少女に女が何か叫ぼうとして、しかしそれは向こうからやって来た二人の男の声で中断された。「ブリジット、ペトラ、首尾はどうだ!」 走ってくる細身で無精ひげの男に、少女は自らが腰掛ける車を指差すことで応えた。後から来る赤毛の男は車の中を覗き込んで目を逸らした。「男は拘束しました。こちらに損害はありません」 無言でボンネットの上にいる少女に変わって、女が状況を報告した。 その奇妙なやり取りに、地へ転がされた男は笑うしかなかった。 ブリジットはここのところ、いつものように悪夢に苛まれる。 それはヒルダの甘美な誘惑に身を預けてしまったその日からか。 まどろみに誘われる暗闇で、ヒルダがブリジットの身体を押さえつけてくる。 俺は体中を嘗め回してくるヒルダの舌から指一本逃げ出すことが出来なかった。 嫌な汗が全身から噴出し、ぴちゃぴちゃとした水音がさらに響き渡る。「ねえ、ブリジット。今日で十二人目よ。でもまだ足りないわ」 ヒルダの舌が俺の唇を這っていく。俺はその感触に身悶えしながら彼女を睨み付けた。するとヒルダは何を思ったのか赤い血のような舌を俺の口内に差し込んだ。「んっ」 上あごの裏を撫でられ、声が漏れた。それでも身体が動くことは無い。もしこの身体が自由に動くのなら今すぐにでもヒルダを突き飛ばし距離を置くだろう。「あなたは世界を壊しなさい。あなたの世界を。あなたが憎むこの虚構を」 ヒルダと俺の唇の間に卑猥な銀の糸が引く。裸の胸元に落ちたそれが体内から出た液体とは思えないほど冷たくで、俺は身体を震わす。「さあブリジット、私にその身体を返すまで、精一杯殺すの。あなたが殺し続ける限り、私はあなたを殺さないわ」 再びヒルダの唇が俺を蹂躙する。 快楽とはまた違った一種の興奮に脳が焼き切られそうになり、俺は声にならない声を上げた。 目覚めたのは相変わらずアルフォドの部屋。 ソファーに横たえたその体は何時の間にか毛布が掛けられ、寝巻は汗で濡れていた。部屋の主は例の如く帰って来ていない。 俺は痛む右目を押さえると、もう眠ってしまうことがないよう己の身体を抱いてソファーに座り込んだ。 床のほうからこちらを見上げた黒猫のヒルダがにゃあ、と鳴いた。 こいつは何も悪くないのに、俺は黒猫を脚で追い払っていた。