爆風に吹き飛ばされ、全身を酷く地面に打ちつけながらも意識を手放さなかったのは行幸だった。 エルザは二、三度咳をしながらよろよろと立ち上がって見せた。 その時になって始めて、自分の胴に食い込んだ鉄の破片を見つけた。「くっ……」 思わず押さえた手の平が赤く染まった。痛みを和らげるため鉄片を引き抜こうとするが、その過程で大きな血管を傷つけると、取り返しの付かないことになってしまうのは明白だった。 だからエルザは痛みをこらえながら鉄片から手を離す。「不味いわね、これは」 定まらぬ視界のため不意に動くことを良しとせず、エルザは痛みの波が引くまでその場に立ち尽くした。自身の体を精査してみると骨折は無し、内臓の損傷も鉄片が突き刺さっている部分だけだ。 彼女が吐いたのは安堵の息だった。 決して楽観視できる傷ではないが、義体の生命力を上手く活かせば死に至るようなものではない。このまま地面に腰掛、安静にしていれば出血もやがて止まるだろう。 エルザはそう結論付け、そっと膝を崩そうとした。「える、ざ……」 その、呟きが聞こえるまでは。 エルザの視界が徐々に回復していく。 そして、見てはならないものを見てしまった。 自分より少し前、 爆心地に近い所にブリジットが転がっている。 エルザがブリジットに手を伸ばした。 小さな手がブリジットの頬に触れる。彼女が得た感触は冷たいでも暖かいでもなく、熱い、だった。 ぬるりと、赤い血が自分とは違うブリジットの血が手の平を犯す。 地獄のような世界で、ブリジットは死に掛けていた。 エルザはブリジットを見下ろし、服を千切って即席の包帯を用意していた。 その包帯を使って特に損傷が酷い右目から胸元にかけて縛り上げていく。その一連の作業の中でも、己を苛む鈍痛を忘れることが出来なかった。 ぽたりと、エルザの額から落ちた血がブリジットの綺麗な頬に落ちた。 エルザはそれを優しく拭ってやると、もう一度最初から状況確認を始めることにした。「私とブリジットはテロリストの自爆に巻き込まれて負傷。私の傷は命に別状は無し。ただしこのまま安静に過ごした場合のみ」 がっ、と血を吐く。「対してブリジットは瀕死。このまま放置すれば間違いなく助からない。応答は無し。意識も無し。脈拍微弱、呼吸も不規則」 汗と血で濡れた髪をかき上げる。燦燦と燃え上がるコンテナの残骸を見上げた。「この爆発に気が付いて応援が来ても、ブリジットは多分駄目。ならこちらから出向いて少しでも距離を詰めるべき。でもどうやって?」 エルザは瞳を閉じた。 痛みに思考を邪魔されながらも、彼女は諦めない。「連れて行くの? ブリジットを担いで皆のところに? そんなことしたら……」 自分で言って、鉄片が生えた胴を見た。心なしか先程より出血量が増えている。 もしそんなことをしたら自分が助かる見込みは限りなくゼロに近づく。ブリジットが助かる確率もゼロから本の少しだけマシになるだけだ。 果たして、そこまでのリスクを犯して行動を取ることが義体として正しいのかエルザには判断が付かなかった。 思えば二人で独断専行や、男のボディーチェックを行わなかったなど、義体としての失態は数えられないくらいある。 だからこそ、エルザに仕掛けられた条件付けがこの場で待機を必要以上に促してくる。 前かここか。 エルザはもう一度ブリジットを見た。僅かに上下する胸が痛々しい。即席で作った包帯も直ぐに血が滲んで真っ赤になっていた。「本当――どうしたらいいの?」 最初は大嫌いで、でも直ぐに大好きになった女の子。 亡霊の意味を、本当の彼女を教えてくれた女の子。 そして、この命を助けてくれた女の子。 エルザはゆっくりと立ち上がった。表情は柔和に笑っている。「迷う必要は、ないか」 回収しておいた降下用ロープをナイフで手ごろな長さに切る。瀕死のブリジットを背負い、腹の鈍痛に顔を歪ませながらもエルザはブリジットを体に結びつけた。「だって、助けてくれたんだから。私の命を救ってくれたから」 じり、と一歩目を踏み出した。 瞬間、更なる痛みで意識が飛びかける。エルザは己の唇を、下を血が滲むほど噛み締めてその場に踏みとどまった。「動け、動くのよエルザ。前に行くしかないの。分かる?」 出血が増えて、腹から血が吹き出した。さっきまで定まっていた視界がぼやけ始める。「あんなに苦しんで。そして今も泣いているブリジットを殺しちゃ駄目」 また一歩、また一歩と歩を進める。 それに比例して、全身から警告を意味する痛みが襲ってきた。 だが今はそれに従う余裕は無い。「私は大丈夫だから。ブリジットをみんなのところへ連れて行くくらい簡単なことだから」 ごふっ、とさっき吐いた血に様々な液体が混じって口から零れた。 縛り付けたブリジットの体からも血が滲み出して、エルザの体を汚していく。「まだ生きてるのよ、ブリジットはまだ生きてるの。あの日、ブリジットに救われた日に本当は死ぬ筈だった私とは違うの」 ぽろぽろと涙が止まらない。 エルザは痛くて痛くて、死ぬのがとても怖くて、もう誰とも会えなくなるのも怖くて、けれどブリジットを失うことが一番怖くて泣き出した。「ブリジット、あなたのことが好きなの。本当に大好きなの。だって、だって――あなたは私に光をくれたじゃない。私に生きる意味を教えてくれたじゃない」 ぼた、ぼた、とエルザが通った後は多量の血痕と、涙が残された。「ブリジットも、もう少しだけ頑張って……」 背中から、応答は無かった。 エルザはその場に膝を付き、地面に屈した。 背後を見ればまだ二十メートルも進んでいない。 でも彼女は決して諦めることなく、這いずるようにして前を目指した。 また、流れ出す血の量が増える。「まだ、まだ進まないと」 懇願にも似た小さな叫びがコンテナの森で木霊する。ずる、ずると血の跡を刻みつけながらエルザは進む。はっはっと不規則な息が漏れ、アスファルトを掴んだ爪が割れた。「ごめんなさい、ラウーロさん。あなたに何も報えなかった……」 いつの間にか痛みは麻痺し、視界はもう殆ど映らない。でもエルザはそのことに気が付かない。「ごめんなさい、トリエラ、クラエス。今までありがとう」 遂に、エルザが止まる。 ブリジットを縛っていたロープを解き、地面にそっと寝かせた。どうしてこんなことをしているのかエルザは分からなかった。 ただ漠然と、終わりが目の前に迫っていることだけは感じていた。「馬鹿だな、私。結局自分を殺して進んだのがこれだけって」 50メートルしか進まなかった事実に笑うしかない。けれどもエルザは後悔していなかった。「私、ブリジットの為にこの命を使えて嬉しかったよ」 エルザは意識のないブリジットを守るように、静かに覆いかぶさった。互いに血塗れの額をすり合わせ、涙をブリジットの目尻に落とす。「結局私は一人じゃ何も出来なかったけど、あなたがいて幸せでした。ラウーロさんやトリエラたちにも感謝してるけど、あなたが一番よ」 力なく、エルザがブリジットの上に倒れこむ。「ごめんなさい、ブリジット。でもあなたはまだまだ生きて。生きて、私にそうしてくれたように、また誰かを助けてあげて」 遠くから、複数の足音と人の声が聞こえた。「さようなら、先にいって待ってるね」 エルザ・デ・シーカはそっと息を引き取る。ブリジットの胸に顔を埋めて、何処か安心したように死んでいた。 動かなくなったエルザの下、ブリジットの心音が一際大きく、跳ねた。 そこは、暗い暗い意識のそこ。 ブリジットは赤毛の少女に抱きすくめられ、胡乱な頭で声を聞いていた。「はじめまして、かな。ブリジットさん。何度か会ってると思うけど、お話しするのはこれが始めてね」 ブリジットは目の前の赤毛の少女――ヒルデガルトの瞳を見る。 それは吸い込まれてしまいそうな奈落が映っていた。「多分ね、この体はもう死んでしまうの。でもエルザって子があなたを助けようと戦っているわ。あなたは生きたい?」 ブリジットはヒルダの瞳に吸い込まれていく。彼女の瞳には魔力が宿っていた。 胡乱な、朦朧とした意識のブリジットを食い殺してしまう妖艶な魔力が。「あなたの生命力はもう死に掛けてるの。でも私の生命力はまだ健在のまま。だから私に従いなさい」 ヒルダがブリジットの手を取る。 ブリジットはピクリとも動けなかった。「さあ、私と生きてみましょうか。ブリジット。まだあなたは死ねないわ」 意識が覚醒する。 ヒルダが消えて、ブリジットだけ取り残される。 彼女は瞳を開けた。「……エルザ?」 ブリジットは自分にのしかかる暖かい少女を見た。 少女は笑っていた。 だが終ぞ彼女がブリジットに笑いかけることは無い。 ブリジットはそれでも、何度もエルザを揺らし続け、再び自分に微笑んでくれるのをずっと待っていた。