十五日の午後六時。 あれからもう丸一日が経過したというのに、僕はまともに動くことが出来なかった。タイムリミットが刻々と近づいてきているのに、僕の頭の中は今日の決戦とは別のことが渦巻いていた。 夕日が沈み始め、僕のいる廊下が再び寒さの中に埋もれていく。 IL TEATRINO 【ピノッキオとしての生き方】 僕は作りものの世界で生きていくことに耐えられなくて、ピノッキオとして今日ここで死ぬことを選んだ。 それは僕にとって何にも代えがたい絶対的に正しいことで、他の出来事なんか眼中に無かった。 けれど、 こんなにも世界を嫌っていたのに、 こんなにも人から距離を置いていたのに、 叔父さんは僕を息子だと言い、死なせるのも憚られるから帰れと告げた。 僕はこれから自分が行おうとしている行為が本当に正しいのか分からなくなっていた。 そもそもピノッキオとして生きるということはどういうことだったのだろう。 ピノッキオの技を身に付け、人を殺し、そして死ぬこと。 アルフレッドが死に、ピノッキオが誕生したその日から僕はそう考えて生きてきた。 でも、僕が無視してしまった前提条件の違い――僕の立場が叔父さんから見て地下室で拾った少年ではなく、一家惨殺事件の生き残りを保護した――は思わぬ形で僕を追い詰めてくる。 あれ程木彫りの操り人形を演じたつもりだったけど、僕は意図せぬままに人間の少年に戻っていた。いやそもそも僕は木彫りの人形になんて最初からなっていなかった。 この世界に生を受け、一度でも家族を愛してしまったから。 そこが僕の居場所であると知ってしまったから。 そしてその居場所が失われても、僕がそこにいた事実は揺るぎようがないから。 あの場所からやって来た僕に、所詮ピノッキオの役割を演じるのは不可能だったのだ。 今、僕は僕自身のことが手に取るようにわかった。 この世界が偽者だから。 前の世界で見た作られた世界だから。 僕が人として生きることを止めてしまったのは世界に嫌悪していていたのでも何でもなくって、僕から最愛の居場所を取り上げた世界が信じられないだけだった。 だからこそ。 叔父さんの言葉で僕の居場所がまだ存在していたことに気が付いた時、僕を縛り付けていたピノッキオの鎖が音を立てて崩れ去った。 世界はまだ僕を見放してなどいなかった。 世界はまだ僕にチャンスを与えてくれている。 僕はまだ、人として戦える。 昨日まで虚構と見下していた世界と、素直に仲直りするにはまだまだ時間が掛かるだろう。 だったらどうすればいいのか必死に考えた。 必死に考え、そして頭を使った先、僕はとりあえずと決意を固めた。 先ずは叔父さんを公社から逃がそう。 その為に出来る限りこの屋敷で暴れてやろう。 もしそれでも僕が生きていたのなら、叔父さんと、この世界に残っている様々な人々と、やり直して見せようと思う。 心配することは無い。僕が培ってきた技術は原作に引けを取らないし、経験もある。 何より、鎖から解き放たれたこの体は自分でもびっくりする位軽くて、どんな義体でも蹴散らしてみせる自信がある。 出来れば彼女――ブリジットとは出会いたくないけど、 僕は誰が来ようと、負けるつもりは無かった。 ● 屋敷はやけに静かで、先行するブリジットの足音だけが邸内に響いていた。 つい先ほどから小高い山の上にある屋敷に通じる道は全て閉鎖された。邸宅の周りも武装した公社職員と義体が警戒していて、鼠一匹逃げ出す隙間は無い。 先行するブリジットに命じられているのはクリスティアーノの確保ではなくピノッキオの暗殺だ。彼女は白いフロックコートを羽織り、手にはSIGを、腰には大型のアーミーナイフを装備していた。「アルフォドさん、ここからは私一人で行きます」 振り返ったブリジットがそう告げる。しかしトリエラと仲違いでもしたのか、昨日今日と精彩を欠いている彼女を一人にするのは忍びなく、俺は待てと返した。「ですが突入時間は過ぎています」 ブリジットの言うとおり、予定されていた作戦時間から二分ほど遅れている。俺が屋敷に突入させるかさせまいか判断しかねていると、ジャンが無線で突入を示唆してきた。「トリエラの向かった北館にはクリスティアーノも暗殺者の姿もまだ確認できていない。ブリジットも南館から早く突入するんだ」 無線を切り終わるよりも先にブリジットが屋敷に向かおうとした。俺はそんな彼女の首根っこを抑え、こちらに振り向かせる。「何ですか」 ここまで不機嫌さを隠さない彼女はとても珍しい。俺はそんな彼女の態度に一抹の不安を覚えながらも、こう伝えるしかやってやれる事は無かった。「ブリジット、絶対に無理をするな。俺から君への命令は一つだけだ。必ず――必ず無事に帰って来い」 結局は気休めにしかならない文句の所為か、ブリジットは何一つ表情を変えずに俺の前から去っていった。 彼女の白い装束を月明かりが照らしている。 ● 気配が近づき、白い影が視界の端に躍る。 僕は影の手元と思われる部分にナイフを投げつけ、手にしていた拳銃を叩き落した。 しかし叩き落された当の本人はさしたる動揺も見せず、落ち着いた様子でナイフを抜いた。「よっ。また会ったな」 以前は闇に融けるよう黒の服装をしていた彼女は、今日は間逆の色をしている。 その様子が余りにも綺麗だったので、僕は少しだけ見惚れてしまった。「俺も……会いたかったよ。ピノッキオ」 イレギュラーな義体。ブリジットはこうして僕の前に再び現れた。 こうして見ると、彼女は亡霊そのもので僕の推測が間違っていなかったことを証明してくれる。 僕もナイフを抜き、様子を伺う。 第一ラウンドの火蓋はブリジットが無線を握りつぶしたその瞬間から切って落とされた。 ピノッキオが原作でも脅威とされているのはその速度である。 移動速度は勿論、反射速度、不利な体制からの早期復帰という意味合いでも彼は公社の義体たちに遅れを取ることは無かった。 むしろ、一般的な義体の方が彼の速度には着いていけないだろう。 なら今この場でピノッキオと相対するブリジットが、彼の動きに対応しているかと言われればまた微妙なところである。 目立った速度の差は無いものの、ナイフを使った戦闘の経験地という面から見れば、ブリジットがピノッキオに適うはずが無いのだ。それでもここまで肉薄し、そしてナイフを打ち合っているのは一重にブリジットという身体が持っていたポテンシャルの高さ故である。 ブリジットが椅子を蹴り上げ、ピノッキオに飛ばした。彼らが切りあっているのは南館の二階にあるやや広めの応接まで、障害物が多い。ブリジットはその障害物――椅子や机を持ち前の脚力で蹴り飛ばし、ピノッキオの動きを阻害している。 また一つ、備え付けられていたソファーが宙を舞った。「くおっ!」 自分の頭上スレスレを跳び越し、壁を粉砕したソファーを見てピノッキオは地の不利を痛感した。先程までは互いに肉薄し、純粋な速度勝負だったのにフィールドをここに移した瞬間からどんどん距離が離されている。 これではじりじりと体力を削られていくだけだ。 だからピノッキオはブリジットが新しい対象物に足を掛けた瞬間、ある行動に出た。「!」 それは背を向けて全力で逃げることである。廊下に飛び出し、飛んできた椅子を間一髪でかわして、そのまま出来る限り走り去る。 反応が遅れたのはブリジットだ。彼女も慌てて廊下に飛び出すが、既にピノッキオの姿はなく、かといって無闇に追っては待ち伏せされる危険性があった。 反応速度で勝っているピノッキオに待ち伏せされると、それだけで致命傷になる。 ブリジットは自身に付いた埃を振り払うと、警戒の網を強めながら一歩ずつピノッキオの向かった先へ歩いていった。 「まだここにいたのか……」 廊下で出くわしたのはブリジットでもなくトリエラでもない叔父さんだった。 叔父さんは一つ息をついた後、僕に何かを投げてよこした。それを受け取ってみると車のキーだった。「アレッシオと話した。私は海外でやり直す。お前も一緒に来い」 叔父さんが僕の手を引こうとする。でも僕は首を振って、叔父さんから距離を置いた。「叔父さん、僕はもう少しだけこの屋敷で戦う。そうしないと叔父さんが逃げるのも難しい。それともう直ぐフランカフランコが迎えに来ると思う。下の間道は多分封鎖されているから出来れば森の中にある廃棄された道を通って。僕は必ず追いつくから」 僕の説得は通じたようで、叔父さんは来た道を再び帰っていく。 僕がその様子を見守っていると、叔父さんは一瞬だけ振り向いてこう言った。「死ぬなよ、ピノッキオ」 ピノッキオとクリスティアーノの別れをブリジットは黙って見つめていた。彼女はクリスティアーノが去った後、そっとピノッキオに話しかける。「……変わったな」「まあね。だからといっちゃなんだけど、見逃してくれたりはしないのか」「俺が見逃してもトリエラが殺しにくる。なら俺が戦闘不能まで追い込んで投降させるしかない」「ふん、やってみろよ」 月明かりが廊下を照らし、二人の影を映した。 彼らの故郷から遠く離れてしまったこの世界で、二人は向かい合う。 ブリジットがナイフを構え、地を蹴った。 ピノッキオが迎え撃つ。 第二ラウンドが、始まる。