実際のところ、四ヶ月という月日は人を変えるのに十分すぎる時間だと俺は思っている。それは俺自身が一番感じていることでもあるし、目の前で格闘訓練を続けるトリエラも同じことを体感しているだろう。 GISとの合同訓練も終了し、来るべき日に向けて俺とトリエラは二人で自主練習をこなす。 弁図上はあのいけ好かない人形野郎を打倒する事だ。 けれども俺は自身が持つ反射速度の限界とピノッキオとの決定的力量差を痛感しながら、心の何処かでこの戦いに疑問を持ち始めていることに気が付いた。 もしピノッキオが原作どおりの人物であるなら、俺は何も考えずにトリエラの無事を祈ってサポートすることだろう。 だが現実では奴は俺と同じ異邦人で原作と同じとは到底言えない。まあ本人はどうしてだかわからないが原作再現を至上とする人物なので、トリエラが必要以上にダメージを受け殺されることはないだろう。 一度はピノッキオの気が変わって、原作に反旗を翻す可能性も考えるには考えたのだが、俺がメッシーナ海峡で見たあの目がその説を否定した。 あれは俺とは全く違う生き物で、俺の持ちうる考えなど何一つ当てはまらない。 故に不気味でまた脅威でもあった。 それに万が一の可能性も考慮して、出来るだけトリエラに負担が行かないプランも考えるには考えている。 ただしこれをトリエラに話すと当たり前のように猛反対され、挙句の果てにはアルフォドに告げ口するとまで言われた。 俺としてもそれはとても不味いので、ならこうしようと提案を出した。 一本勝負で組み手をしよう。私が勝ったらトリエラは私の提案を聞き入れて。 勝機に自身があるからこその提案だ。 そもそもトリエラに勝てないようでは、俺のプランは根本的に瓦解してしまうのだが。 IL TEATRINO 俺は人間、人形にはなりたくない ブリジットを尋ねてエルザは彼女の部屋に向かった。 最近、訓練やら何やらで甘えられなかったというのもあるし、何より彼女が何かを一人で背負っているように見えてエルザは心配でならなかったのだ。 部屋ではクラエスがキャンパスに絵を描きながらベッドに蹲るトリエラの愚痴を聞いていた。内容はよく聞き取れなかったが、時折出てくるブリジットという人名から自分が探している人がまた何かをしでかしたのだと、エルザは思わず溜息をついた。「あら、ブリジットならここにはいないわよ。今日はまだ帰ってきていないわ」 こちらに気が付いたクラエスがそんなことを言った。なら何処にいるのかと問うて見れば、クラエスはこんなことを言った。「さあね。そこでめそめそと泣いているお姫様なら知ってるかもしれないけど――言いたくないのね?」 ベッドから顔を上げずにトリエラは頭を振った。こんな子供っぽい仕草をするトリエラはとても珍しく、もしかしたらブリジットと喧嘩をしてしまったのかもしれない。 それはそれで如何なる同情にも勝る同情が湧いてきたので、エルザはトリエラを慰めてやりたかったが、如何せん彼女には方法が思いつかなかった。「いいのよエルザ。トリエラは私にまかせて。あなたはまだ帰ってこない王子様を探して。あの子気まぐれだから今日はもう帰ってこないかもしれない」 わかった、と了承の意を伝えてエルザはブリジット達の部屋を後にした。 エルザは何となくだけど、ブリジットがいるところが分かったような気がした。 最近、これで良かったのだろうかと思うときがある。 それはエルザを生かしてしまったあの日から、心の何処かで感じていても敢えて無視し続けた考えだった。 ピノッキオは原作を至上とし、シナリオへの介入を良しとしなかった。実のところ、当の俺はその思想に反論する術を持っていない。 それは何故か。 結局のところ、俺が目指した少しでも優しい結末というのは自己満足の究極系であって、原作の登場人物が願っている幸せとは限らないからだ。 出来れば俺の行ってきたことは俺自身が肯定してやりたい。 だが俺はそんな甘ったれた考えを抱き続ける神経の図太さは持ち合わせていなかった。 そもそも、どうして俺はこの世界で義体として生きているのだろうか。 俺が宿ったこの体の持ち主はどうしてしまったのだろうか。 もし俺が宿らなければ、アルフォドとブリジットという名の少女はどのような関係を築いていたのか。 IFの考えが俺の頭を過ぎり続け、ますますピノッキオのスタンスが本当は正しいのではないのだろうかという思考に陥っていく。 このスパイラルは今後の決戦においても非常に危険なものだと理解しているのに、どうしても止めることは出来ない。 いっそのこと、全てを投げ出して何処かへ逃げてしまいたい。 もっと欲を掻くなら、ピノッキオと出会ったときにそれぞれ打ち解けて、二人で力を合わせて逃げれば良かったのかもしれない。 そんなことはありえないのだろうけど。 でもこんな滑稽なことを考える程、今の俺は参っていた。 昼間の、恨むような視線を投げかけてくるトリエラの顔が忘れられない。「……やっぱりここにいたんだ」 夏になって夜風も熱を帯びていたころ。寮の屋上では一人の義体がその長い黒髪を揺らしながら黄昏ていた。プラチナブロンドの髪を三つ編みにしたエルザはブリジットにそっと歩み寄った。「それ、トリエラにやられたの?」 ブリジットの頬には大きな湿布が貼り付けられていた。良く見ればまだ晴れ上がっていて、相当な力で殴られたに違いない。 ブリジットは頬の傷を隠すように手を当てると、しんしんと輝く月を見上げた。「ぐーでやられた。あんなに怒ったトリエラは初めて見たよ。まあ私が勝ったんだけど」 ブリジットの声にいつもの明るさはない。ただ淡々と自身が犯した過ちを告白しているように見えた。「どうして喧嘩したの?」 エルザの問いにブリジットは遠い目をした。そして観念したようにこう告げた。「私が無茶なことをトリエラに頼んだからだよ。トリエラは悪くないよ。あの子は私のことを心配してあそこまで怒ってくれたから」「……どうせ、ピノッキオを一人で倒すとか言ったのでしょう」「うわ。良くわかったね。エルザって本当はエスパー?」「馬鹿な事言わないで。あなたが考えそうなことは直ぐに分かるわ」 ……だって私もそうやって助けてくれたから。 エルザの呟きははっきりとブリジットの耳に届いた。 ブリジットはそっと微笑むとエルザをいつかの時のように抱きしめた。エルザはブリジットの背中をぽんぽんと叩いて、無理しないでと言った。「ねえ、エルザ。私、トリエラには謝らない」「ええ」「けれど必ず帰ってくる。そしたらトリエラも安心してくれると思う」「ええ」「はは、自分勝手だね」「何を今更」 ブリジットはエルザから身を離した。そして彼女の手を引くと屋上から寮に戻ろうとした。「ねえエルザ。今日は泊めてくれない? 部屋に帰り辛くってさ」「別にいいけど、その代わり一緒に寝て頂戴」 善処します、とブリジットが笑った。その表情は何処か吹っ切れたような顔をしていて、黄昏で見せた憂いの色はない。 エルザはそれが酷く嬉しくて、握った手の平に力を込めた。 砂地に転がされたトリエラは信じられないと言った表情をしていた。 俺は彼女の胸元を押さえつけ、切れた口元から血を落としながら声を絞り出した。「御免、私の、勝ち、」 息も絶え絶えに勝利を宣言する。トリエラが身を捩り俺から逃れようとするが、俺はその首根っこを押さえつけて彼女を拘束した。いくら訓練といえども、ここまで乱暴に扱ったのは初めてだった。「約束、覚えているよね」 トリエラがいやいやと首を振る。でも俺はその意思を拒絶し、駄目だと告げた。「私がピノッキオを殺す。トリエラは手を出さないで」 トリエラが何かを叫ぶが俺は何も返さない。彼女の怒りは理解できる。本の少し前までは二人で頑張ろうと励ましあっていたのに、ここに来て俺が手の平を返したからだ。 けれど、俺も譲るわけにはいかなかった。 最近考え始めた幾多の疑問が俺を後押しする。俺はもう一度、あの男に会って話をしたかった。それはこの四ヶ月でどうしようも無いほど膨れ上がった願い。「本当に御免なさい」 直後、トリエラに殴り飛ばされて俺は宙に飛んだ。 トリエラは目に涙を浮かべて、こちらを睨んでいた。 俺が何も言えないまま、彼女は走り去って行った。