懐かしい夢を見ていた。 叔父さんに仕事を干されてはや一週間、一丁前に農作業が板に付いてきた僕は大きな木下で睡眠と覚醒を繰り返していた。 夢の内容は僕がピノッキオとして生きる少し前の出来事で、まだ全うに世界を生きていた頃の話だ。 けれども僕にとってその夢は夢でしかなく、今生きている二度目の人生でもその時期はまるで他人事のようにしか感じられなかった。 僕はピノッキオでアルフレッドではないのだ。 IL TEATRINO 僕は人形、人間にはなれない 転換期が訪れたのは僕が10になるかならないかの時期だった。 僕も当たり前のようにスクールへ通い始め、屋敷で迷って泣き出すことも泣くなった。 上の姉は結婚し、家から出て行った。今は海外に住んでいて時たま国際便で向こうの景色が送られてくる。 下の姉、イザベラは上の姉のエンリカと同じ大学に通い始め、多忙でありながらも充実した日々を過ごしていた。 変化が明白になったのはその年の夏だった。 屋敷に知らない大人が増え始め、父の顔を見る時間も随分と減った。馴染みだった使用人も次々と暇を受け取り、屋敷から去っていった。 理由は今でも推測でしかないし、当時の僕ではてんで予測することも出来なかった。それよりもやっと手に入れた幸せを享受するのに精一杯で、回りのことなんか殆ど見えていなかった。 だからこそ、神様は罰を下したんだと思う。「仕事を干されたのか」 見上げればフランコが立っていた。無精髭を生やした長身の男は僕の隣に腰掛けると手にしていた新聞を開く。「ここはいい所だ。ローマからそう離れてはいないが、南部という土地柄のお陰で潜伏していられる」「当局は北部にしか関心は無いから」 僕はタバコを取り出し、火を点けずに咥えた。一度咥えてから出ないと、片手しか使えない今では吸うことも出来ない。「……その腕はどれくらいで治る?」「早くて四ヶ月、と言った所らしい。完全に使いこなすにはさらに一ヶ月かな」 フランカが連れてきた医者の見立てではそうなっている。トリエラの馬鹿力のお陰で綺麗に折れたのが逆に良かった。中途半端に粉砕されてしまうとそれこそ手術ものだ。「クリスティアーノは何と言っていた?」 フランコが問うているのは先日掛かってきた叔父さんの電話だろう。結果的にメッシーナ海峡の破壊工作を失敗した僕らは叔父さんの叱責を受けることとなってしまった。 特にモンタルティーノでトリエラを殺しそこなった僕は役立たずとまで言われてしまった。 ただ、ここまでの展開は大体原作通りなのでそこまで心配はしていない。「殺せない殺し屋は要らないんだって」「厳しいな。それでもお前はクリスティアーノの言う事を聞くのか?」 フランコの疑問に僕は笑った。 別に彼の質問が骨董無形だったからではない。あまりにも当然のことを聞かれて思わず噴出してしまっただけだ。「まあね。それがピノッキオだから」 僕の答えにフランカがよくわからないといった表情を向ける。僕はそれがますます面白くて「ははは」と声に出して笑った。 春の温かい風が、ブドウ畑を揺らしている。 神に復讐しようと思った。 どうしてなんて聞かないで欲しい。 そうでもしないと、僕は自分のことが分からなくなる。 ● マフィアのつまらない抗争だった。 自分の組織が人身売買に手を染めていると知った父が、警察に該当者を突き出そうとしたのが問題だった。 逆恨みした彼らは、武装させた組員を屋敷に雪崩れ込ませ父を殺そうとした。 それはマフィア同士の抗争を装って人身売買の事実を隠そうとしたのかもしれない。 でも僕にとってはそんなことどうでもよくって、家族を殺されたという事実だけが襲いかかってきた。 僕はどうすることも出来なかった。 イザベラに押し込められたクローゼットで、どれくらいの時間膝を抱えていただろうか。 初めて感じた死の恐怖と絶望感に塗りつぶされた僕は、泣くこともできず、ただぼうっと暗い密室に閉じこもっていた。 外から聞こえていた叫び声も銃声ももう聞こえない。 けれど頭の中では最期に聞こえたイザベラの叫び声が焼きついていて、どれだけ振り払おうと消えてくれることは無かった。 僕は目の前に佇むクローゼットの扉を開けることが出来なかった。 これは箱の中の猫に似ている。 この扉を開けてしまうと、僕を待っているのは絶望か希望だ。 もしかしたら抗争の最中に警察が来て皆無事かもしれない。イザベラの悲鳴も気のせいかもしれない。 それとも皆殺されてしまっていて、下手人も逃げおおせた後かもしれない。 そのかもしれないを確かめることが僕にはとても怖くて出来なかった。 この扉さえ開けなければ、夢は夢のままでいられる。僕がやっと手に入れた家族もそのままで、明日からは皆との楽しい暮らしが待っているのだ。 今思えば、僕はそのときからおかしくなってしまっていた。 きっとあの暗闇で絶望と戦っていたときから、アルフレッドという人物は死んでしまったのだと思う。 クローゼットの扉が外から開けられる。 僕は饐えた血のにおいを鼻に感じながら、徐に外を見上げた。 そこに皆を殺した犯人がいるのなら、いっそのこと殺してくれと思って。 けれども、いつまで経っても僕は殺されない。 その代わり、アルコールの匂いと男の気の抜けた声が聞こえた。「……お前はこの家の生き残りか?」 ● 「……それでお前はクリスティアーノに拾われたのか?」「ああ。生き残っていたのは僕だけだった。上の姉さんは嫁いでいたから助かったけど、他は皆殺された。叔父さんと先生はうちの屋敷の襲撃を察知して様子を見に来たんだ」 ここまで饒舌になったのは僕と同類の義体と出会って以来だった。済し崩し的に昔話をし始めたら口が止まらなくなったのだ。 あの日、先生――ジョンドゥと呼ばれる人に見つかった僕はそのまま叔父さんの屋敷に連れて行かれた。 そしてあの屋敷で起こった虐殺の真意を公安に知られるのは不味いとして、そのまま叔父さんの下で暮らすことになった。「上の姉は生きているんだろう? 会いたいとは思わないのか?」「いや、姉さんも僕が叔父さんの下に行って直ぐに自殺したよ。どうやら自分だけが生き残ったのが耐えられなかったらしい。家庭もあったのに多分そうとう参っていたみたいだ」「ならどうしてお前はクリスティアーノに忠誠を誓う? その話なら恨みこそすれ忠誠を誓うとは思えない」 フランコの疑問は最もだと思う。僕も他人の視線から見たらそう感じるだろうし、実際似たような感情は抱いたこともある。 でもそれを説明するには叔父さんから名前を貰ったあの日のことを思い出さなければならない。 クリスティアーノから名前を聞かれた。 僕は答えなかった。 アルフレッドはもう死んでしまったから、名乗る名前なんて無かった。 だから彼から名前を貰った。 ピノッキオ。 人間だけど人形な可愛そうな名前だ。 でも僕はその名前がいたく気に入った。 クリスティアーノの姿を見てから、そして共にいたジョン・ドゥという男から僕はこの世界が前世の記憶の中にある世界であることを知った。 その事実を知ってから、僕は家族を殺した犯人を憎まなくなった。 それどころか、あれ程愛していた家族の実感が湧かなくなった。 当たり前だ。 もしここが本当にGUNSLINGER GIRLの世界なら、僕が愛していたあの人たちは物語の中の偽者で、僕自身も実体を持たないただのアクターだから。 神が僕に下した罰は創造を絶する地獄だった。 死して尚、僕は僕の決めた人生を生きることが出来ない。 生まれ変わった世界が物語の世界など、空虚で悲しく、そして切ないだけだ。 僕が得たピノッキオの名から、あの悲しい暗殺者の役割は僕が背負うことになったのだろう。 その証拠にクリスティアーノはもう少年を拾ってこなかったし、僕自身もクリスティアーノの手駒として生きることとなった。 一時は原作と違った人生を生きようとも考えた。けれども自分の存在が架空のものだと思えば思うほど、そういった気勢は削がれる一方だった。 そして初めてこの手を血に染め、自分より年下の女の子を殺したとき、僕はもう逃げられないことを悟った。 僕の神への復讐はピノッキオとして生き、そして死ぬことだ。 何を思ってこの世界に前世の記憶を持ったまま転生させたかわからないが、この世界の知識を使って自由気ままに生きるなんて、僕には耐えられない。 ならせめて反抗の意味も込めて、原作通りに振舞って見せる。 そうすれば、この空虚な感覚にちっぽけな意味を持たせられると信じて。 決戦は近い。 僕はその日まで人形として生き続けてみせる。