初めて彼女に出会った時のことを思い出す。 自身が抱えていた矛盾に、嫌気が差していた俺を救ってくれた彼女のことを。 ヒルダ。 彼女の存在は理不尽にこの世界から消されてしまった。 俺は誓う。 もう直ぐ君の仇をとると。 一マイル向こうの少女 俺とブリジットはカウンタースナイプの下見のため、目標が狙われるとされている劇場の近くの企業ビルに来ていた。「こちらヒルシャー、警戒圏内にそれらしき人影なし。どうぞ」 周辺警戒をしていたトリエラ、ヒルシャー組が企業ビルの屋上から確認できる。「了解、こちらアルフォド。我々はこの後企業ビル内に待機。決行時間まで待つ」 ビルの上から下のヒルシャーに手を振ると、俺は隣のブリジットに向き直った。「調子はどうだ?」 手早く赤外線暗視装置を取り付け、マガジンさえ差し込めば狙撃が可能になるライフルを構えてブリジットが答える。「風は無し。天気は快晴。これが夜まで持てば必ず成功させます」 力強く言い放つブリジットを見て俺は一種の安心感を得るのと同時、本来なら彼女の仇である父親を守らなければならないという矛盾に気が滅入りそうだった。 だが勿論ブリジットはそんなことを一切知らない。一応護衛する政治家の名前は伏せてあるものの、彼女が名前を聞いたところで父親のことを思い出すことはありえないのだ。 そう、生前の全ての記憶を封印された彼女が覚えている筈がない。「アルフォドさん」 何時の間にか深く考え込んでいたらしい。ブリジットの声で現実に引き戻された俺は彼女に間抜けな面を晒すことになった。「公社の人はここから半径800メートル以内を警戒すればいいと言いました。ですが本当にそれでいいんでしょうか?」 ブリジットの疑問に俺は今回の作戦内容を思い出す。 まず半径800メートル以内に公社の義体を複数配置、公社が予測した狙撃ポイントを徹底的に監視する。もし警戒の網に引っかからなくても、ここにいるブリジットがカウンタースナイプで妨害するという作戦だ。 概要としては穴だらけの作戦だが、GISも用意できず時間も圧倒的に足りなかったにしては大分マシだろう。 何たって義体の性能は折り紙つきだから。「アルフォドさん、でも警戒圏内の800メートルを越えて……たとえば一マイル向こうから狙撃してくる場合は防げるんでしょうか」「そうだな、それぐらい向こうからだと公社だけの監視は不可能になる。政府も今回の暗殺計画は全然信じていないから実働部隊も俺たちだけだ。だけどここには君が居る。君なら一マイル向こうへカウンターできる」 俺が褒めてやるとブリジットは嬉しそうに笑った。 その勢いで頭を撫でてやると香水なのか甘い香りがする。 それはまるで一輪の花のようだった。「ユーリ、除隊してから初めて会うな。今は何をしているんだ?」 旧友と出会ったのは偶々だった。ヒルダから頼まれた買い物を済ませた俺はあのカフェエリアの近くで奴に呼び止められた。「何だ、アルか。お前こそ元気そうだな。俺は女とよろしくやってるよ」「本当か!? 糞! お前だけには負けたくなかった!」 奴は軍警察時代の同僚であり同期だ。訓練の辛酸も実務の厳しさも分かち合った仲だからこそ、俺は奴を親友だと認識していた。「で、どんな女なんだ?」 他の野郎が言えば下衆にしか聞こえない台詞も、この整った顔立ちで言えば中々様になっている。何よりそこに不快感を生み出さないのはコイツの長所みたいなものだった。 だから俺は昔のように笑いながら彼女のことを教えられる。「赤毛のいい女さ。賢くて活発で飯が旨い」 あれから奴とは二回ほど再会した。一回目の再開で俺はあのカフェテリアを教え、二回目の再開で奴はヒルダに花を贈るべきだとアドバイスしてきた。 今ではもう大分昔に感じられる、彼女が生きていたときのこと。 作戦時間まで残り二十分程。俺とブリジットは屋上の給水塔の影で即席の食事を取っていた。「観測手の件だが本当に必要ないのか?」 ブリジットはあろうことか、狙撃に大概は必要である弾着確認の観測手はいらないと言ってきた。それだけ彼女は自信があるのかそれとも俺の身を案じているのか……、「両方ですよ。もしアルフォドさんが狙われても私は守れませんし、何より私は義体です。スナイピングには自信があります」 俺は彼女が言うことに何も反論できなかった。確かに俺が狙われると彼女は集中してカウンターが出来なくなるし、彼女が失敗するとは俺も思えなかった。「大丈夫です。必ず成功させますから」 クッキーを頬張っている姿は年相応の少女なのに、その瞳に宿る殺意だけははっきりと異彩を放っている。 劇場に動きがあった。 双眼鏡越しにそちらの方向を確認すると、党重役との会談を終えたゲーテンバルト議員がSPに囲まれてホールから出てくるところだった。 俺はライフルをそちらに向かって構え、暗視装置の電源を入れる。「ヒルダ、もう直ぐ終わるぞ」 俺はスコープを覗き込み、十字をSPの影に隠れるゲーテンバルトに合わせた。 昔彼女は言った。父は決して褒められた人ではない。 それでも愛していると。 父を何とか理解して、父のやったことを正当化してやりたいと。 その為に俺みたいな屑を捕まえて世界を学ぼうとした。 俺はヒルダの父親が許せない。 あれ程愛されていたのに、その娘を下らない政治利用した挙句死なせた奴が許せない。 この二年間復讐のためだけに生きてきた。奴を殺すためだけに生きてきた。 引き金に指が掛かる。 憎しみが俺に引き金を引けと言っている。 ヒルダが、ヒルデガルトが俺に奴を殺せと言っている。 その時、辺りに鳴り響いた銃声はSPの鍛えられた身体を動かした。 ゲーテンバルトを地面に押し付けると自身も拳銃を抜き、周辺を警戒する。 その様子を近くで見ていたヘンリエッタは今の銃声が狙撃犯のものではないと気が付いている。 彼女は見た。 劇場の背後に建つ企業ビルの屋上にいるブリジットを。「アルフォドさん! 一マイル向こうのビルです! ブロックはD-33! 暗視装置の電源LEDが見えました!」 屋上のフェンスの影から彼女は虚空に向かってライフルを構えている。だが恐らくその銃口は狙撃犯を捕らえているのだろう。「やったか!?」「いえ、風が吹いて右へ逸れました」 ボルトを引き、ブリジットが次弾を装てんする。俺はポケットから無線を取り出すと、警戒を続けているヒルシャーに連絡を取った。「ヒルシャー、こちらアルフォドだ。狙撃犯がいた。D-33.北東のビルの屋上だ。至急現場に向かってくれ」 そう言った直後だった。目の前のフェンスが弾け飛び、火花を散らしたのは。 狙撃手に待ち伏せを食らったことで、俺は咄嗟によく狙いもつけず発砲していた。残念ながら命中弾はない。ボルトを引くと薬莢が地面に落ち乾いた金属音を立てる。 俺は俺の復讐を、ヒルダの願いを邪魔した輩を始末するべく、一マイル向こうの敵にライフルを向けた。「……っ! 何だあれは!」 スコープ越しに見つけた邪魔者に俺は動揺を隠せない。一マイル向こうにいたのは厳ついゴリラでもなく、スターリングラードの英雄でもなかった。 そう、一マイル向こうにいたのは、 俺と同じようにこちらを狙っている少女だった。 俺の中で混乱が渦巻いている。あんな少女が狙撃手な訳がないという常識と、あれは確固たる狙撃マシーンだという兵士の勘が。 だが俺の葛藤なんかあっという間に吹き飛ばされる。少女の構えるライフルが瞬いたかと思うと、直ぐ右端の金網に穴が開いた。 俺はここからあの少女までの風の動きを読む。彼女は凄腕の狙撃手だ。こんな複雑な風の動きをしているというのに、たった二発でここまでの弾着修正をしてきた。 その神業ぶりが逆に俺を冷静にさせた。 そうだ、あれはいたいけな少女ではない。あれは俺と同類だ。 幸いに今の一撃を外してくれたのは助かった。彼女の弾着を見て、照準の調整が出来るからだ。俺は引き金に指を掛け、少女に十字を合わせる。風の動きは変わっていない。後は昔から繰り返してきたことを思い出すだけだ。 ヒルダが忘れさせてくれた狙撃の仕方を。 思い出すのは彼女の微笑み。 思い出すのは彼女の赤毛。 思い出すのは彼女の愛情。 そして思い出すのは俺を虜にしてしまった彼女の瞳。 狙撃犯と眼が合う。酷く悲しみを湛えたその瞳は何だか懐かしい。 私はこの眼を何処かで見たことがある。 でも、思いだせない。 背後のアルフォドが何かを叫ぶ。私の双眸が曇って狙撃犯を覆い隠す。 風が止み、辺りの喧騒が聞こえなくなる。「ユーリ?」 焦りを浮かべつつも、果敢にこちらを狙っている少女の瞳がスコープ越しによく見える。「はは、何だこれ」 思わず笑みが零れたのは仕方のないことだと思う。 だってそれは、あれ程までに恋い焦がれたもので、 俺の世界に光を与え、俺がこの世で最も愛した瞳がそこにあったから――。 「ここにいたのか。ヒルダ」 一マイル向こうにいる少女から俺は照準を外した。彼女の瞳に会えたことがとても嬉しくて俺は泣いた。 右胸を何かが貫いても俺の喜びは変わらない。 俺は彼女に出会えた。 またあの瞳に出会えた。 ブリジットが倒れ込んだ時、彼女が撃たれたものだと酷く焦った。だが駆け寄って彼女を抱きかかえ、そして泣いているのを見て、俺は怪我の確認をするのも忘れた。「殺し、ました」 嗚咽交じりに彼女が言う。「敵を、殺しました」 報告を受けて私は件のビルの屋上に向かった。 ウィンチェスターで扉をぶち破り、夜風が厳しい屋上に躍り出る。ヒルシャーさんもSIGを構えて後ろから付いてくる。「ヒルシャーさん、あれ」 私が指を差した先、一人の男が胸を撃たれて倒れていた。「警察の者だ。救急車は呼んだ。頑張れ」 狙撃犯は生きていた。ただそれは今生きているという意味でこの出血では恐らく助からない。 男は震える唇で何かを紡ぐ。私は男の近くへ駆け寄ると彼の呟きに耳を傾けた。「教えてくれ……、あの、あの一マイル向こうにいた少女はヒルダか?」 私は彼が言っている事の意味がわからなかった。でもヒルシャーさんの顔色が失せているのを見て、彼の言ったことは何かしら意味のあることなのだと私は理解した。 ヒルシャーさんは男の手を握ると絞り出すように答える。「違う。彼女の名前は教えられないがヒルダではないよ」 それを聞いて安心したのか、男が薄く笑った。「そうか……。良かった。彼女を守るために、彼女を喜ばすために生きてきたのに……。彼女に銃を向けていては本末転倒だ」 ごふっ、と男が血を吐く。その量が余りにも多くて彼の命が風前の灯であることが伺えた。「ごめんよ、ヒルダ。仇は取れなかった。でも、今そこに行く」 男が瞳を閉じる。そして眠るように息を引き取った。 ヒルシャーさんが何処かに連絡した。恐らくアルフォドさんだろう。 私は男をそのままにしておくのが忍びなくて、彼の手を取り胸元で組ませる。そんな時、私はそれを見つけた。「カーネーション?」 男の胸ポケットにささっていた赤い花。私はそれの意味がてんでわからなかったが、男にその花を抱かせてやった。 昔、俺の一マイル先に女の子がいた。ただ、一マイルというのは物理的な距離ではなくて、それぐらい遠い存在ということだ。 でも俺は今、やっと彼女の近くで永遠に生きていけるような気がした。