それはクリスマスの前日の話。 任務から帰ってきたトリエラは機嫌が少しだけ良くなっていた。序に生理も終わったらしい。 俺は彼女が淹れてくれたミルクティーを傾けながら他愛もない雑談に興じる。「で、マリオはクリスマスのプレゼントを届けに行ったの?」「うん、まあこっちは散々な目にあったけどね」「それはお疲れさま」 俺はトリエラから聞いたマリオ護送の任務の顛末を聞いて、この世界がそれ程原作とズレていない事を確認した。 今回の任務に関しても、原作との相違点はトリエラが負傷しなかっただけだ。 久しぶりに耳にした吉報のお陰で、心なしか生理痛もマシになってくる。 気のせいかもしれないが、ミルクティーの甘味も鈍っている様子がなかった。「ねえブリジット」 二人して、甘ったるい沈黙を続けていたらトリエラが突然口を開いた。彼女は視線を天井に向けると、何か考えるような口調でこう言う。「マリオを見てて思ったんだけどさ、世間の父親ってあんな感じなのかな」 トリエラの台詞に俺はカップを置いた。 彼女の蒼い瞳が今度は俺に向けられる。「どういうこと?」 俺の問いに、トリエラは「何といえば良いのかなー」と首を傾げる。 彼女にしては珍しく、何処か曖昧な態度だ。「例えば私達の父親代わりってヒルシャーさんやアルフォドさんでしょ? でもそれって世間一般の父親と何処か違うよね」 何がどう違うのかトリエラは言わなかった。でも俺は何となく彼女の言いたいことが理解できる。「私もブリジットも家族のことなんか覚えていないからよくわからないけれど、多分良いものじゃないのかな。父親っていうのは」 手の中にあるカップの温もりを感じながら、俺たちはしばらく理想の家族について話した。 妹がいたら、姉がいたら。 優しい母がいたら。 そして大好きな父親がいれば。 きっと俺たち義体に必要なのは、銃でもなく発作を抑える薬でもなく家族や誰かの愛情だ。 トリエラがとても楽しそうに話しているのを見て、俺はそう思った。 ロレンツォはもともと政治活動には何の興味も無かった。彼にとって大切だったのはカモッラとしての誇りと二人の家族――妻と娘だけだった。 それがいつの間にか、左翼思想に染まったボスの使い走りとしての運び屋が始まり、 いつの間にか公安にまでマークされるような身分になっていて、 いつの間にか、大切にしていた家族のもとに帰れなくなっていた。「ロレンツォ、これが今回のブツだ」 そう言って手渡されるのは二枚の記憶媒体。「気をつけろよ。最近は捕り物が急に増えているからな。ジョルジョの奴もみんな殺された」 二人の男はカンピドリオ広場の噴水に腰掛けている。往来を見渡せばクリスマスの為かいつもより人気が多い。「ブツは二日後の正午までにクリスティアーノに届けてくれ。それまでは何をしていても構わん」 そこまで言われて、ロレンツォは初めて口を開く。「はは、それは助かったよ。今日は折角ローマに帰ってきたからな。娘にドイツからのプレゼントを持ってきたんだ」 ロレンツォは足元にある紙袋を指差した。中には包装紙で包まれているのか何か黒い、手の平大の小箱が入っていた。「はん、子煩悩な奴だ。俺はとっくの昔に女房にも娘にも逃げられたよ」「俺も似たようなものさ。このプレゼントもまだ有効かどうか」 ロレンツォは痩せて窪んだ頬を掻きながら苦笑する。「そうだ、ロレンツォ。娘で思い出したんだがお前はこんな噂を知っているか」 媒体を紙袋の中に仕舞ったロレンツォに男がこう切り出した。「何でも政府の秘密機関に女の子を使って暗殺を行っているところがあるらしい」「それはハニートラップか?」「そんな生易しいものじゃねえよ。この前の捕り物でも出張ってきたって話だ。まあ噂は噂だから本当かどうかは知らんがな」 話すだけ話して男は懐から煙草を取り出した。ロレンツォにも勧めるが、それは断られる。「目印は異常に白い手だ。シミ一つない赤ん坊のような手をしているんだとよ」「白い手、ね」 ロレンツォの呟きは白い息となって霧散していく。空を見上げれば日は傾きかけていて、雲が多い。「今日は雪かもしれんな」 男の一言にロレンツォは「同意だ」と答えていた。 いつだったか、アルフォドがクリスマスプレゼントの要望を聞いてきた。俺はもちろんケーキと答えていたのだが、あの時の彼の落ち込み具合を考えればきっと服や縫いぐるみと言って欲しかったのだろう。 最近アルフォドのことをよく考えている。 これが単に脳みそが暇しているからか、それとも条件付けと副作用が進行して依存度が高くなっている為なのかはわからない。 でもこうして抱きつくことによって温かみを感じるのは本当のことだった。。「ブリジット」 アルフォドの声が上から聞こえる。「今日はすまなかったな」「? 何がですか?」「君はトリエラとクリスマスを過ごすべきだった」 アルフォドが瞳を伏せるのを見て、俺はどう答えたら良いのかわからなくなる。「君は少し休むべきなんだ」 アルフォドが足を止めた。彼の双眸が俺を射抜く。「でも私は義体です。テロリストを殺す事が私たちの役目です」 視線に気圧されて、自然と早口になる。彼の腕に絡みつく自分の腕に力を込める。 俺はまるで叱られた子供が言い訳するように続けた。「確かに不覚を取って負傷はしました。けどあれからもう7人も殺しています。ヘンリエッタよりもトリエラよりも多いです」 そうだ。復帰してからというもの、俺は常に前線で戦い続けた。公社から受けた疑問を、自らのわだかまりを、何より目の前にいるアルフォドに認めてもらうために。「今回も必ず成功させます。必ず殺して見せます」 自信はある。たった一人の運び屋を殺すのに、ものの数秒も掛らない身体を俺は持っている。強化された人工筋肉にナイフを通さない炭素フレームの骨、ありとあらゆる身体の全てが殺人の為に作られて――、「……もう止めなさい」 アルフォドが俺を抱きしめた。 必死に自らの有用性を唱えるブリジットを見て、俺は条件付けの罪を知った。 彼女は変わってしまった。 今ではもうただの人形と変わらない。俺の言う事ばかり気にかけ、人を殺すことで自身の存在を証明しようとする。 俺はそれが堪らなく悲しくなって彼女を抱きしめた。 彼女に強く握られたせいか左手に力が入らない。もしかしたらヒビが入ったかもしれない。「ブリジット、落ち着くんだ。俺達はフラテッロだ」 幼子に言い聞かせるように俺は言った。「フラテッロは絆だ。俺は君を見捨てたりしない」 俺の台詞に彼女が身を強張らせる。俺は彼女を右手だけで抱いた。「君は俺を信じろ」 ブリジットがこちらを見上げる。彼女の黒い瞳は俺に怯えていた。 俺は条件付けの罪を知る。 彼女の捲られたページはもう戻らない。 そして彼女に残されたページももう多いとは言えない。「これが終わったらクリスマスのプレゼントを買いに行こう。ここはローマだ。きっと君が気に入るものが見つかるさ」 だからせめて、彼女の残されたページは幸せなことで埋めてやりたい。 彼女が毎日を素晴らしく生きていけるよう、楽しいことで埋めてやりたい。 俺は数日前に交わしたビアンキとの会話を思い出す。「後一年だ。それでも負傷を挟めば縮まるだろうし、脳に負荷が掛けられなければ少しは伸びる」「もしかしたら今年のクリスマスが最後のクリスマスになるかもしれない。彼女には何でも良い。優しくしてやれ」 後一年、もうページは残されていない。 もう余計な条件付けで彼女を殺したくない。 ブリジットの長い黒髪が風に揺れる。 腕の中で震えている彼女が愛おしい。 腕時計が七時五分前を指している。 少しだけ、あと少しだけ、 俺はそのまま彼女を抱きしめていたかった。 ロレンツォは酒場で酒を浴びることも、賭博仲間とゲームをしようともしなかった。 彼はただ、一ヶ月もの国外潜伏で迷惑を掛けた妻と子にクリスマスプレゼントを届けたい一心で歩いている。 思えば幼いころに死んだカモッラの父はクリスマスのときだけは家に帰っていた。彼はきっと母と自分のことを愛していたのだろう。 彼は軍警察に殺される直前のクリスマスにもサッカーボールを携えて、俺の元に帰って来てくれた。 ロレンツォは政治活動に興味が無い。彼に必要なのはカモッラとしての誇りと家族だけ。 ブリジットがそっと歩き出した。彼女の向かった先を見れば、ロレンツォが紙袋を片手に持ちこちらに歩いてきている。俺は彼女の直ぐ後ろにつくと、コートの下に隠したナイフを確認する。 幸い辺りに人影はまばらだ。皆市場の方に集まっていて、裏通りには目もくれない。 ロレンツォがこちらを見た。 いや、正確にはブリジットを見ているのだろう。彼の視線は自らに向かってくる一人の少女に固定されている。 こちらに歩いてくる少女の手が、異常に白いことに気がついたとき、ロレンツォは不思議と恐怖が湧いて来なかった。 もちろん腕に自身がある訳でもないし、護身用に持っている拳銃を抜く暇があるわけでもない。 ただ襲われるという実感がまったく湧いてこないのだ。長年の運び屋としての勘が早く逃げろと警鐘を鳴らしているにも関わらず、その少女から目線をはずすことが出来ない。「何だ。娘と変わらないじゃないか」 彼の呟きは最後まではっきりと声に出せなかった。いつの間にか喉元に突き立っていたナイフがそれを邪魔するのだ。 すれ違いざまに紙袋を奪われる。 ロレンツォはさしたる抵抗も出来ず、石畳に倒れこんだ。止め処なくあふれる血が辺りを汚す。 あっけない。 少女に血まみれの手を伸ばし、ロレンツォはそんなことを考えていた。 ブリジットとアルフォドが帰りの車で戦利品を確認したとき、彼らが見つけたのは二枚の記憶媒体とプレゼント用に包装された手の平大の小箱だった。 爆弾かと思い、ブリジットが匂いを嗅いだが、火薬の匂いがしないので二人はそれを空けてみることにした。「オルゴール、だな」 車内に奏でられるメロディを聞いてアルフォドが口を開く。「曲名は何ですか」 アルフォドはオルゴールを胸元に抱えるブリジットを見て答えた。「有名なクリスマスソングだよ」 ブリジットは何も言わず、同封されていた手紙を広げた。そこには走り書きでこう書かれている。 良い父親じゃないけど、私は君を愛している。 フロレンスへ。 仕事から帰って来たブリジットは私と違って、仕事前よりも体調も機嫌も悪そうだった。シャワーを浴びた彼女は、ご飯もクリスマスケーキも食べずにテーブルの上に置かれたオルゴールを聴いている。「それアルフォドさんからのプレゼント?」 私の問いにブリジットは答えなかった。ただその様子からオルゴールはアルフォドさんからのプレゼントではないらしい。 彼女の後ろに立ち、ブラシで髪をすいてやる。彼女はオルゴールを見つめたまま動かない。私はそのオルゴールを何処で手に入れたかと聞く勇気が無かった。「明後日さ、クラエスが帰ってくるよ」 私はブリジットの夜空のような髪に指を通す。「また三人で暮らせるね」 ブリジットが静かに頷いた。オルゴールの演奏が終わり、部屋の中を沈黙が支配する。私は机の上のオルゴールを巻きなおすと、再び彼女の髪をすき始めた。 次の日俺とトリエラの部屋にいくつかクリスマスプレゼントが贈られてきた。 ビアンキや公社の職員からは食べられないだけのケーキを。ヘンリエッタやリコからは小さな縫いぐるみを。 トリエラにはヒルシャーとマリオからそれぞれ熊の縫いぐるみが届いている。彼女は7人の小人が8人になってしまったと嘆いていたが、どこか嬉しそうで安心した。 そしてアルフォドからのプレゼントは一冊の日記帳が届いた。「一体彼は私に何を覚えて何を忘れてもらいたいのかしら」 俺は日記帳に今日の日付だけを書き込んでベッドの脇に仕舞いこむ。 8体目の縫いぐるみに何と命名しようかと悩んでいるトリエラを尻目に俺はもう一度毛布を被りなおした。 今日は何故だか一日こうしていたかった。