人生でこれほど寒いと思ったのは初めてだった。 右胸と脇腹から流れ出る血が、生きている証拠である体温を容赦なく奪い取っていく。身動き一つ取ることも憚られ、背中に感じる冬のコンクリートが痛い。「ジャン、」 乾いた唇で声を挙げても応答がない。 何とか首だけを動かし、ジャンが倒れているであろう方向を見れば、血溜まりしか残されていなかった。 どうやら先に気がついて、こちらに止めを刺すことなく消えてしまったらしい。「ついてるの、かな……」 生かしておいてくれたのか、それとも止めを刺すだけの体力がむこうも残されていなかったのか、今となってはわからないことだがそれでも有り難い。 あとはリコと消えたブリジットを迎えに行くだけ。「今行くぞ、ブリジット」 壁に手をついて立ち上がり、ふらふらとした足取りで前に進もうとする。 速度にすれば、老人にも劣るものだったが、それでもアルフォドの瞳は死んでいなかった。「頼む、生きててくれよ……!!」 地獄のような戦場の中、再会のカウントダウンは始まる。 ペトラはトリエラとアンジェリカの救出に向かう途中、ジョゼとヘンリエッタのペアと合流した。 一期生の中でも症状の進行が速いとは言え、まだまだ現役たり得るヘンリエッタがこの戦いに投入されているのは当然のことなのだが、それでもペトラは自分よりも一回り、下手すれば二回りも小さな少女が銃を握っている光景に違和感を感じた。「ペトリューシュカ、アレッサンドロはどうした?」 五体満足のまま、ここまで到達してきたジョゼは一人で原発下層部に向かうペトラを訝しんで問いかけてくる。ペトラは一瞬思巡したのち、こう答えた。「サンドロ様は一人で制御室に向かわれました。私はトリエラとアンジェリカの救出を命じられています」 命じられたというより、こちらが懇願した形だったが、正直に伝えるよりかは少しだけ嘘をついた方がよいとペトラは判断した。数瞬、嫌な汗が体を流れるも、ジョゼはそれ以上追求してくることなく「そうか」と納得した。「なら僕たちも救出に向かおう。ジャコモの行方が気掛かりだが、今焦っても駄目だ」 ジョゼのその台詞にペトラは目を剥いて驚いて見せた。何故なら彼らクローチェ兄弟がジャコモに対して抱く復讐心の深さは散々アレッサンドロから聞かされていたから。 だからここで二人に出会ったときも、ジョゼは単独でジャコモを探しているとペトラは考えていた。 そんなペトラの思考を見抜いたのか、ジョゼは先に進みながら言葉を繋いだ。「僕はジャコモを追うことはもちろんだが、別に探している人もいる」 勘の良いペトラはそれだけでジョゼが誰を探していたのか理解した。 だが敢えて沈黙を保ったままジョゼの後に続く。「課長からアルフォドとブリジットの抹殺も命じられているんだ。公社から逃げ出した彼らが仮に諸外国に亡命してみろ。それこそイタリアの終焉だ。最初は二人のことをジャコモと同じくらい怨んだ。彼らの所為で僕はジャコモを追うことに専念することが出来ない」 逃げ出したブリジットとアルフォドの処断はペトラはおろか、アレッサンドロすら聞かされていないものだった。 もう死んだものとして処理し、秘密裏に暗殺するという噂も流れていた。「けれど僕は少し考えてみた。何故彼らが、あれほど公社のため、イタリアのために働いた彼らが今頃になってジャコモに手を貸すのか。それはとても不可解な問題だったけれど、答えはとても簡単なものだった」 ジョゼが足を止める。ヘンリエッタが首を傾げつつジョゼの顔を覗き込んだ。そのヘンリエッタの頭をジョゼの大きな手が撫でた。「彼らは僕たちみたいに復讐する相手がいないんだ。いや、正確には復讐するべき個人が。それはアルフォドの父を穢した政府だったり、さらにはブリジットを壊した公社だったり。もしも仮にそんな状況下で、アルフォドが担当官という垣根を越えた感情をブリジットに抱いていたら? それはもう、公社にいる理由がなくなる。僕はそう結論づけた」 そして、とヘンリエッタを撫でていた手が彼女の頬に添えられた。「僕はそんなアルフォドの決断を否定することが出来ない。僕がヘンリエッタをブリジットのように壊されたとき、この子を復讐の道具として割り切ることは出来ない」 力強く放たれた言葉に、ペトラは息を呑んだ。そしてこう答える。「……あなたはアルフォドさんとブリジットを殺すつもりですか?」「それはまだわからない。僕はアルフォドの考えを推測ながら理解しているつもりだ。けれど見逃すかどうかは別問題だ。ならばせめて、理解している人間だからこそ全力でことに当たらせて貰う」 ペトラは何も言えない。確かにブリジットたちが公社を裏切ったという事実は決して消すことが出来ない問題だ。 それの所為とは限らないが、空港での大虐殺、検事の拉致のようにイタリアを揺るがす大きな事件も起こっている。 しかし次にジョゼが伝えた言葉はそのようなペトラの懸念を一瞬で吹き飛ばした。「僕個人としては、是非とも二人に生きていて貰いたいのだがな」 ブリジット、ブリジット…… 誰かに体を揺すられた。閉じていた瞳を開けてみれば、こちらを覗き込んでいるリコを見つけた。 荒い息と口の端から流れ出ている血が痛々しい。脇腹に穿たれた風穴も空いたままだ。「終わったね」 うん、と短く答えた。足まで無くしてしまった今、もうこれ以上歩くことは出来ない。リコも体力の限界だったのかブリジットの体に倒れ込んできた。「暖かいね」「うん」「痛い?」「とても」「ありがとう」「どういたしまして」 視線だけを動かしてジャコモを見る。胸に刺さったナイフはさながら墓標のようで、呆気ないものだとブリジットは感じた。 何故彼がそこまで闘争を崇拝していたのかは今となってはわからない。けれど、もし出会う場所、立場、時間が違えば彼とは良き友人になれた気がする。「似てるんだよな、私と」 理屈なんてどうでもいい、信念に生きよう、自分に素直に生きよう、という生き方が。 だからブリジットはジャコモのことを否定しない。いつか戦った悲しい青年と重なるのも無理も無いことかもしれなかった。「ねえ、ブリジット。もう死ぬの?」 ブリジットの胸の上に倒れ込んだままリコは呟く。悪意も何もない、純粋な疑問。 だからブリジットは包み隠さず正直に答えた。「そうだね、変な言い方だけどあと一時間もないと思う」 「そっか、残念だね。もっと遊びたかったよ」 恐らくリコは助かる。ブリジットは彼女の背中をそっと撫でながらそう思った。脇腹を吹き飛ばされた彼女だが出血は思いの外少なく顔色も悪くない。 何より、ジャコモという強迫観念として存在していた壁が無くなったことが良い方向に作用しているらしかった。「ねえ、リコ。私の赤い線が入ったガンポーチから飴玉出してくれない? 多分二つ入ってる」「これ?」 ブリジットが身につけていたボディースーツの腰元からリコは言われた通り飴玉を取り出す。それは公社にいた頃ブリジットがよく舐めていたものだった。 リコはブリジットに言われる前に、二つの包みを開け、それぞれ自分の口とブリジットの口に放り込んだ。「どうしてだろう。懐かしい感じがするよ」「どうしてだろうね」 疑問を浮かべながらもころころと飴を舐め続けるリコを見てブリジットは笑った。そして思い出す。初めて原作に介入したとき、その相手はリコで、今思えば無茶苦茶をしたものだと。 けれどもそれが自身の原風景だと悟ったとき、リコのことがとても愛おしくなった。「ねえ、リコ」「なあに? ブリジット」「ありがとうね」「なにが?」「ううん、何でも」 そう言って、ブリジットは再び目を閉じる。 リコはそのままブリジットの胸に頭を預けた。 そして――――、「あれ?」 音が、心臓の音が何も聞こえなくなって、「死んじゃったの? ブリジット」 呟きは静寂によって塗りつぶされてしまった。 ただ、少し盛り上がっていたブリジットの胸が一番下まで落ちて、何も答えてくれないだけだった。