・Sceane 22-1・
「あらお兄様、お帰りなさい」
そろそろ聖地学院へ戻る日も迫ったその日の夜、夕食後から詰めっぱなしだった自身の執務室―――形式上だけとは言え王家に属する以上、城に居れば地味な仕事を回されたりもするのだ―――から寝室へと戻ったアマギリを出迎えたのは、何時かの夜のような光景だった。
「また人の寝室に忍び込んだんですか」
アマギリの寝室の中では、マリアが月明かりを肴に優雅にワイングラスを傾けていた。
「あら、何か問題でもありまして?」
「まずはその格好じゃないですか。どっかの露出狂の娘のように見えますが」
以前は内向きの私服姿だった筈なのだが、今回はシルク地の寝巻き姿だった。もう少し室内が明るければ、肌が透けて見えそうな装いである。尤も、着ているのがまだ年端も行かぬ少女であるから、扇情的と言うには程遠かったが。
「……事実、何処かの露出狂の娘である事は否定でき無いのが辛いですわね」
「だったらもう少し節度のある格好をして貰いたいんですがね」
「あら、ひょっとして欲情でもしましたか?」
ため息を吐いて自身の飲むためのコーヒーを用意しながら―――下戸だった―――言うアマギリに、マリアは嫣然とした流し目を送る。
酒のお陰か、薄く紅色に染まった頬と合わさって、妙な色気が存在していたが、構ってみると酷い目に会いそうだったので、アマギリは見なかったことにした。
「そういう誘惑をするには、あと五年は早かったですよ」
「あら、つれない。―――では、五年後にもう一度行うとします」
グラスに残ったワインを一息で飲み干した後で、マリアは鼻を鳴らして言った。アマギリはブラックのコーヒーを片手に彼女の対面に座り、けだるい態度で答えた。
「―――まぁ、五年後に僕がここに居る保証も無いですがね」
その言葉に空気が凍る―――と言うこともなく、マリアは平然とグラスに新たなワインを注ぎ足すだけだったから、いっそ当てが外れたのはアマギリの方だっただろう。
「私的な意見ですが―――」
「……はい」
顔も合わせずに語るマリアに、アマギリが曖昧な顔で頷く。蛇の尾を踏んだ気分だった。
「一度あの母の懐に抱きこまれた以上、逃げ出すのは不可能だと思いますよ」
「……ですよねぇ」
「尤も、逃げたくなる気持ちも解らないでもないですが」
何しろ当人から逃がさないと断言されている訳だと項垂れるアマギリに、マリアは楽しそうに付け足した。
「それにしても、少し我欲が出てきましたわね、お兄様」
「我欲?」
また日常会話では使わない単語が出てきたなと、アマギリは首を傾げる。マリアはええ、と頷いて続ける。
「以前でしたらもう少し唯々諾々と状況にしたがっていたと思うのですが、今は少し、与えられた情況に対して否定をする事を覚えているように感じますよ」
「否定……ねぇ。いや、否定と言うよりは」
別に状況に対して不満がある訳でもないし、しばらくはこの状況に付き合う気でも居る。
だと言うのに、周りから見た時に前より反抗的になったと思えるなら、それはつまり。
「―――立脚点が見つかった?」
「ああ、それですね正に」
マリアが引き継いだ言葉に、アマギリは深く頷いた。
そう。恐らくはあの林間学校での一件以来だろう。
以前より少しは自分と言う人間がどういう人間だったかを理解し始めている事にアマギリは気付いた。
望むもの、望まぬもの、耐えられるもの、そうでないもの。そういったものの区切りが、以前よりはっきりと出来るようになったと思う。元々合った自分の感性、判断基準を取り戻せていると言う事かもしれない。
「一応、前に比べれば何処に立っているのかは解った気はしますね。―――ただまぁ、相変わらず自分がどうしてそこに立っているのかが解らないんですが」
「相変わらず、珍妙な記憶喪失ですね。何だか、意図的に忘れるようにしているみたい」
まさかそんな事もあるまいと言う風にマリアが言うと、アマギリが口元を押さえて嫌な顔をしていた。
「まさか、本当に―――?」
「ハハ、まさか」
笑い飛ばしながらもアマギリには、何故か―――自分でも解らないが―――マリアの言葉を否定しきる事が出来なかった。確かに昔から、何度か考えた事のある話だったのだが、なるほど、森での一件以来の自分を元に考えるに、どうにもその与太話が真実味を持っているように思えて困る。
とくにハヴォニワに戻ってきて、誰かの顔を見ていると、余計にそう思えてならない。
忘れられるなら忘れたい記憶と言うものがある。例えば、忘れる機会があるとしたら、容赦なくそれを忘れようとする事も―――しかし、その忘れたい記憶に付随する形で、忘れたくない記憶が共にあったら。
「まぁ、深く考えるのは止めましょうか」
「その辺りは相変わらず、嫌な事は後回しですのね貴方は……」
首を振って思考を追い払うアマギリを、マリアは半眼でにらみつけた。アマギリは礼儀正しく視線を逸らした。
「……良いですけどね、貴方はそうやって捕まるまで逃げ回っていれば。―――尤も、捕まえに来るのが過去か現実かは知りませんが。私の言っている言葉の意味は理解できていますわよね?」
ようは、誰が過去で現実なのかと言う話なのだろうが、アマギリにとっては耳が痛い話だった。
そして、逃げ出そうにもここが自分の寝室だった。都合のよい逃げ場など無い。
「あまり、理解したくは無いんですがね。―――本日の来訪の理由はその辺ですか?」
結局の所アマギリは何時ものように話を逸らす事にするのだった。マリアも、仕方ないとばかりに応じる。
「ええ。―――そうでもあるし、違うとも言えますが。ある程度立脚点も見えて、この世界の事で貴方を取り巻く事情も―――聖地での行動の結果で見えてきたことでしょう? それを踏まえて、貴方がどう行動をするのか。ぜひお聞かせ願いたいですわね」
「どう行動するか、ですか……」
問われてアマギリは腕を組んで唸った。
「何か、初日に女王陛下にも似たようなことを言われた気がするんですが」
「その続きだと思ってもらって構いませんよ。早い話―――今後の情勢に、貴方がどの立場で関わっていくのか。私たちも立場上知らない訳にもいきませんから」
アマギリの疑問に、マリアは即答した。
私たち、と言うのはハヴォニワの王家としての立場を指しているのだろう。
今後の情勢と言うのは考えるまでも無い。最早引き金に指が掛かった状態であるから、後は少しの力を加えるだけ。一国の勢力図の変化が世界に劇的な変化を加える日が、間近に迫っているのだ。
そこで、アマギリ・ナナダンの存在がある。
現在は当然ハヴォニワの駒―――のように見えて、行動の端から予想外で手に負えない。
普段は、大抵は人に従って見せるくせに、決定的な部分では確実に自分の考えを優先するだろうと、誰かの駒に納まる人間ではない事が、聖地での一件ではっきりした。
ハヴォニワとしてはこれまでは配下の人間として扱うつもりだったが―――精々、非敵対的な独立勢力くらいの扱いにするしか無いのではないかと思い始めている。
つまり、アマギリを動かす場合はハヴォニワだけの利益だけではなく、アマギリ自身にも利があるような形にしなければならなくなる。今更手放す訳にもいかず、しかし些か扱いに困るようになって居る存在。
加えて、アマギリ本人が旗色を全く鮮明と使用としない事が、扱いづらさを倍化させているのだ。
そろそろはっきりしろと言いたくなるのも解ろうというものである。
「つまり、言質が欲しいって事ですか? ハヴォニワに絶対的に服従すると。もう王家の一員としてそれなりに動いてるのに? ―――まぁ、僕としてはここに居る間だけと言う括りでいいなら誓紙を書いてもいいですけど」
アマギリとしてはそんな風に自分を扱われても、精々予想以上に大げさな扱いになったな程度にしか思えない。
正直な所、彼にとってこの世界での覇権争いになど興味は無いし、何時か自分で理解したとおり自分はいずれ帰る人間だという思いもあったから、積極的な行動に出るつもりも無いのだ。
勿論、今更足抜けできるとは思っていなし、降りかかる火の粉を払う事を躊躇うつもりも無い。
だから、火の粉さえ降りかける気が無い相手の言う事だったら、基本的に聞くスタンスである。
死なないのであれば、退屈よりはそれなりの刺激があったほうがいいと、安楽な思考であった。
そんな風に気楽な答えを返すアマギリに、しかしマリアは渋面を崩す事はなかった。
「貴方の普段の言動から言って、たかが誓紙一つで拘束できるとは誰も考えないのです。王家と言う考えられる最大の縛りを与えても、です。特に―――政府関係者にとっては、貴方は最早危険人物扱いなんですよ!」
「―――ああ、なるほど」
政府関係者。そう言われてアマギリは漸く理解した。
「なるほどね、それは失念していました」
深く頷きながら思う。政府関係者。そう、ハヴォニワには民政を司る政府も議会も存在するのだ。アマギリにとってハヴォニワといえばフローラとマリアの事を指すのだが、現実はそうは行かない。国家は彼女ら二人の思惑だけでは動かない。彼女らが危険を踏まえても由と言えてしまう人たちであっても、政府の人間にまでその気概を求めるのは酷と言うものだろう。普通の人はそこまで太い神経を持った人はそういない。
しかしやはり、そういった人間でも―――そういった普通の人間だからこそ、自分の目に付かない場所には置きたくない。何が起こるかわからないから。
では、どうするか―――どうするか。
「……縁談ですか。まぁ、貴族御用達しの方法ですし、ありえない話じゃないですけど―――で、国内の、誰です?」
「―――お気づきに、なりますか。既に王家の一員として最上級の待遇をしているのに、それでも勝手行動をするような人間を、縁談如きで縛れる筈も無いのに」
愚かしい事ですと、マリアはアマギリの問いに頷いた後でワイングラスを傾けた。テーブルに置かれたボトルには既にワインは半分も残っていない。相当飲んでいる。
無理やり酔おうとしているようなその姿に、アマギリには何とはなしに気づく事があった。酔った勢いで、どうにかしてしまいたい気分の時も有るだろう。例えば、言い出しにくい話がある時とか。
「僕と、―――王女殿下の縁談ってトコですね」
無茶な事を提案する人が居たもんだと、アマギリの抱いた感想はそれくらいだった。
それと同時に、人間と言うのは解らない物ほど恐れるものだから、仕方が無いかと言う気分もあった。
どのみち、縁談が成立したとしても王位を継ぐのはマリアだし、アマギリも建前上は王統に乗っている訳だから体外的な問題も少ない。名だけではなく、実を与える事によって扱いづらいが有効な駒を完全に管理下におければ―――そういう考えが出ても、仕方の無い話だと思えた。
「それを発言した瞬間、その閣僚は何故か自主的に職を辞しましたが―――ね」
「何時かの新聞で見ましたよそれ。不正資金の流用疑惑とか書かれてましたが、真実はそんなですか」
完全に据わった目で呟くマリアに、アマギリは冷や汗をかいて頷いた。あの女王陛下の逆鱗に触れるポイントも良く解らないなと、内心考えている。やはりこの王女と付き合うときは慎重な対応をとった方が良い様に思える。
「全く、馬鹿にするのも大概に―――という、はなし、です。情を利で縛ろう、として―――も、そこにホンモノの情が結ばれる―――筈が有りませ、んし。そんなものに、私たちが動かさ、れる訳が無いじゃないですか―――ねぇ?」
「いや、ねぇ? って言われても」
大分酔ってるなぁと、目の前の少女の胡乱な視線を横に逸らして交わしつつも、結局この子は何が言いたいんだとアマギリは頭を抱えたくなっていた。
面倒ごとに巻き込まれたという態度が顔に出てしまったのだろうか、マリアは座った瞳でテーブルの上にワイングラスをたたきつけた。
ガン、ともカンとも音がしなかったあたりに、無駄な育ちのよさを感じるなとアマギリはどうでも良い事を思った。
「つまりです、私は―――」
「……わたくしは?」
ああ、ダメだなこの酔っ払いと言う気分で問い返すアマギリに、マリアはその態度に文句もつけづに言葉を重ねようとして―――。
「おっと」
ゆらりと、椅子から崩れ落ちそうになった細い少女の体を、アマギリはそっと受け止めた。
想像以上に軽い。これで寝息が酒臭くなければ中々気分も出るだろうというものだろうが、そこは残念。
―――残念?
「……子供相手に何を考えているんだ僕は」
「貴方も充分子供でしょうに。女にばかり語らせて、自分の言葉は一つも言わないのですもの」
さて、振り返った扉の先には思ったとおりの人物の姿があり―――アマギリは、少女を抱きかかえたまま大きな溜め息を吐いた。
夜はまだ、長いようだ。
※ 飲酒適用年齢とか細かい事を気にしてはいけない。
異世界人辺りが意味も無くお酒は二十歳になってからとか言ってそうな世界ですが。