使者
ここは許都、曹操の本拠地である。
袁紹軍が兌州から去って、はや数ヶ月。
食料は着実にゼロに向かって減少中。
数ヶ月考えても、やはり妙案はない曹操陣営である。
他の国の軍、特に袁紹軍が攻めてこないのが、せめてもの幸いである。
今日も軍議が執り行われている。
軍議は陰鬱な雰囲気に包まれている。
「袁紹軍、なんで攻め込んでこないのかしら?
蝗害も一段落したでしょうに」
誰に聞くともなく、独り言のような質問のような声を発する曹操である。
これからどうすべきか、なんていう話題をすると、より落ち込んでしまいそうになってしまうので、せめて比較的明るい話題から軍議を始めようとする曹操だ。
こういうときは、(その後のことを考えなければ)却って戦争でもしたほうが気が紛れたかもしれないが、残念ながら袁紹軍は静観を決め込んでいるし、さすがに曹操軍が攻め込むのは無謀で戦争はなく、自分達の状況を鑑みる時間がいくらでもある。
そして、全員目の前に迫ってくる問題に目を向けなくてはならない時期が来ていることを知っている。
だから、曹操の言葉には誰も答えず、沈黙だけが場を支配している。
曹操も、仕方なく、本題を話し始めることとする。
「食料は……麗羽のところから買うしかないのでしょうね。
何か意見のあるものは?」
「仕方ないと思います」
荀彧が、それは苦しそうに答える。
「ただ、袁紹が素直に売ってくれるかどうか……」
程昱も、苦渋の様子で答える。
「打診してみるしかないでしょう。
いいわ、麗羽に親書を認(したた)めるわ。
桂花、風、領内から非常徴収をかけたら、どのくらいのお金が集められるか調べておいて頂戴」
「「御意」」
そして、数日後、陰鬱な軍議に兵が入ってくる。
「漢からの使者がいらっしゃいました。
どういたしましょうか?」
「漢?麗羽のところの誰かね。
いいわ、ここに通して」
「御意」
程なく、兵に連れられて漢からの使者がやってくる。
「柳花……」
小声でつぶやいたのは荀彧。
そう、使者としてやってきたのは荀諶。
荀彧の妹である。
久しぶりの対面だ。
荀彧は荀諶の姿かたちを見て、ちょっと驚いている。
荀諶も荀彧の姿かたちを見て、ちょっと驚いているようでもある。
「わざわざ、許までご足労戴き、痛み入るわ。
来ていただいたという事は、端から交渉決裂というわけではないようね?」
少し安心した様子の曹操である。
「はい。
心優しい陛下は、此度の蝗害で兌州や豫州に多大な被害が出たことを聞き及び、大層心を痛めていらっしゃいます。
それで、どうにかここ兌州や豫州の民を救うことができないかと考えていらっしゃいました。
袁紹軍が攻撃を中断したままにしているのも、陛下の意向です。
幸いにも、冀州には潤沢に食料の備蓄がありますから、曹操様から食料支援の要請を受け、陛下は曹操様に無償で必要なだけ食料を送ると仰ってくださいました」
「うそ……」
あまりの好条件をにわかには信じられない曹操である。
だが、うまい話がそうそう転がっているわけでもない。
曹操は、その話の真意を確かめる。
「それで、その話の代わりに、私にはどのようなことが要求されるのかしら?」
「いえ、特に変わった仕事はありません。
ただ、曹操様は漢の揚州牧なのですから、早々に自分の治める土地に戻り、速やかに平定してもらいたいとの事です。
今、揚州では」「そんなこと認められるわけがないでしょ!
華琳様が袁紹様や陛下の下僕となり、そのうえ孫策を倒してこいというのでしょ!」
荀諶の言葉を遮って反論したのは、荀彧だった。
「下僕だなんて、桂花らしくない。
昔も今も、曹操様は漢の臣下ではないですか」
荀諶はにこりと笑う。
「なんですって!!」
「控えなさい、桂花!」
「ですが!」
「今は控えなさい!」
「……はい」
不満たらたらの荀彧であるが、曹操の命令は絶対だ。
「話は分かったわ。
内容は桂花の言ったとおりね?」
「そういう見方をする人がいるかもしれないとは思います」
「少し考えさせて頂戴」
「民のことを大切に思う曹操様が、堅実な選択をしてくださることを切に希望します」
荀諶は、そう言って退室していった。
「あんな勝手な要求を飲む必要はありません!
苦しい時こそ踏ん張らなくてはなりません。
踏ん張って、絶対に退いてはならないのです」
荀諶が見えなくなるや否や、すぐに荀彧が曹操に食って掛かる。
「その通りです。
華琳様は大陸の覇者となるべきお方、目の前の問題に目を奪われて、大望を捨ててはなりません」
程昱も荀彧に賛同する。
「そう、それでは二人は食料はどうすべきと思うの?」
「それは……袁紹側の守りを強化して、呉に攻め込むのが適当かと」
「それも受け入れられないのでしたら、草や木の皮を食べてでも、今年を乗り切るべきです」
「二人の意見はわかったわ。
ちょっと考えさせてちょうだい」
程昱が最後に曹操に懇願する。
「あの覇気に満ち溢れた華琳様はどうしてしまわれたのですか?
お願いです、昔の覇気に溢れた華琳様に戻ってください」
曹操は、それには答えず、踵を返しただけであった。
荀諶には明日回答する旨、連絡した。
暇を持て余した荀諶は、ぷらぷらと許都の観光をしているようだった。