ヒヤリ、と冷たい感触が額にして目が覚めた。
「うう………」
ゆっくりと目を開く。
目を開けると目の前に琥珀さんがいた。
さっきの冷たい感触は濡らしたタオルのようだ。
「志貴さん、お目覚めになったんですか」
「どうして琥珀さんが……?」
「朝、翡翠ちゃんが志貴さんを起こしにいったら、ひどく苦しそうにしてたので、私を呼んだんです。今は少し下がりましたけど朝は酷い熱でしたよ。昨日は随分雨にうたれたみたいですし風邪をひいたんでしょう。」
そう言われてみると、頭がぼうっとして体がだるい。
「起きたんだしたら、お薬を飲んで欲しいのですが、飲めますか?」
「ああ、大丈夫」
「私が飲ませてあげましょうか?」
「え……いや、いいよ」
「そうですか、それは残念です」
クスクス笑いながら琥珀さんは薬を渡してくれた。
「それでは志貴さん、学校には欠席の連絡をしておきましたから、ゆっくりと休んでください」
そういって琥珀さんは部屋から出て行った。
琥珀さんの薬が効いたのか夜になる頃には調子は大分良くなっていた。
「兄さん、もう大丈夫なのですか?」
「ああ、もう大分良くなった」
「そうですか、ですが兄さんは人より体が弱いのですから無理しないで下さい、今日は早い目に休んでくださいね」
「わかったよ、心配してくれてありがとう」
「別に……兄妹なんですから心配するのは当たり前です」
そういって秋葉は顔を背けてしまった。
「………眠れない」
散々昼間に寝ていたせいでなかなか寝付けなかった。
こうして何もしていないと昨日の事が鮮明に思い出されてしまう。
俺が殺した人はまだ発見されていないんだろうか?
弓塚はいったいどうしてしまったのだろう?
眠れずに時間だけが過ぎ、時刻はもうじき十二時になろうとしていた。
「志貴様、起きていらっしゃいますか……?」
……翡翠の声だ。
どうしたんだろう、こんな夜更けに。
「起きてるけど、どうしたの翡翠?」
「――――はい、なにぶんこのような時間なので迷ったのですが、志貴様が起きていらっしゃるようでしたらお伝えしようと思いまして」
「伝えるって、何を?」
「先ほど、志貴様にお電話がありました。公園で待っている、と」
「こんな時間に電話?」
「はい。お名前も言われずにお切りになりましたので志貴様にお伝えするのはどうかと迷ったのですが……」
「いや……それは」
その電話は、弓塚からのものだろう。
「……ありがとう。でも、今夜は遅いからまた明日にする。その子、学校のクラスメイトだから明日になれば会えるんだ」
「嘘です。そんな辛そうな顔をしているのに、笑われては、困ります」
「ばか、嘘なんてついていないよ。大丈夫、こんな時間に外出なんてしない。秋葉をまた怒らせるだけだし、翡翠にも迷惑をかけるじゃないか。だから、そんな事はしないって」
「……………」
翡翠は無言で俺を見つめる
しばらく、俺たちの間には言葉が無かった。
「……志貴様。どうか、ご無理はなさらないでください」
「やだな、別に無理なんかしてないって。これから寝るんだから、翡翠も部屋に戻っていいよ――――それじゃあ、おやすみ」
俺は耐え切れなくなって、強引にドアを閉めた。
「まいったな……翡翠に隠し事はできないか」
一応用心の為ナイフを持って行こう。
「公園か…どうしてこんな時間に」
吸血鬼は夜じゃないと活動できないという寓話があった気がする。
もしかして弓塚はこんな時間じゃないと呼び出せなかったんじゃないか?
「考えても始まらない、とにかく公園に行こう」
連日の殺人事件で公園付近には人影が無い。
翡翠が受け取った電話が弓塚からのものなら…彼女はこの奥で俺を待っているはずだ。
公園の中もやはり人気はない、物音一つしない。
わけもなく、全身が悪寒に襲われた。
喉だけが熱くカラカラに渇き、いつのまにかポケットの中のナイフを握り締めていた。
不安を振り払い、俺は奥へと進んだ。
誰かが蹲っていた。
呼吸は荒く、顔色は真っ青で、苦しそうに喉をかきむしっている。
「弓…塚?」
その姿があまりにも苦しげだったから、昨日の事なんて考えもせず、弓塚へ駈け寄ろうとした。
「待って!!」
その俺の行動を弓塚が叫んで止めた。
「来てくれたのは嬉しいけれど、今は近くに来られると困っちゃうんだ。お願いだから、それ以上は近寄らないで」
「ばか、そんな顔色をしているのに放っておけるわけがないだろ!!」
「ううん、私は大丈夫、志貴くんが来てくれたから、もう元気になっちゃった」
無理やり体を起こして、弓塚は笑顔を浮かべた。
「……いったいどうしたんだよ弓塚。どうして家に帰ってないんだ。昨日言った事は本当……なのか?」
「ん?昨日言った通りだよ、私はたくさんの人を殺してる、あの血の跡はその時についたものだよ」
否定して欲しいと思っている俺を嘲笑うかのように弓塚はあっさりと返答する。
「街で起きている殺人事件は、弓塚の仕業…なのか!?」
「あんまり言いたくないけど。そうなるんだろうね」
「どうしてだよ、何で弓塚が!!」
「どんなに否定しても事実は事実だよ。私はたくさんの人を殺しているし、きっとこれからも同じ事をしていかなきゃいけないんだよ。なら認めるしかないでしょ?」
「弓…塚、おまえ……」
「その呼び方、やめてくれないかな。私だって志貴くんって呼んでるんだから、志貴くんも名前で呼んでくれないと不公平だよ」
「なっ!!」
「よく考えると、私ってばかみたいだよね。こんな風に志貴くんって呼ぶこともできないで、何年間も貴方の事を遠くから見てるだけだった」
「弓……塚?」
「ずっと志貴くんの事を見てた。あの倉庫で助けられる前から、ずっと志貴くんの事を見てた。私、本当は臆病なんだ。だから周りの人たちに合わせて、無理して笑ったり話を合わせたりしてたらね、いつのまにかアイドルみたいに扱われちゃった」
懐かしそうに弓塚は語る。
「だから、学校はあまり楽しくなかったんだ。でも中学二年生になったばかりの時にね、志貴くんに話しかけられてから変わったんだ」
「え――――?」
「ううん、志貴くんは覚えてなんかないよ。何て言うのかな、貴方はいつも自然で、飾らない人だから。たぶんあの時の言葉も、志貴くんにとってなんでもない一言だったんだろうなあ」
「――――――――」
なんて言えばいいんだろう。
弓塚と何を話したのか、いや、弓塚と話した事があるなんていう事さえ覚えていない。
「いいよ、そんな顔しなくても。志貴くんはあの頃から乾くんに付きっ切りだったから、他のクラスメイトには興味がなさそうだったし、けど、それでも良かったんだ。志貴くんと同じ教室にいるんだって思うだけで、すごく嬉しかった。いつか貴方にちゃんと話しかけて、弓塚さんって呼ばれる事を目標にしてたなんて、今思うとすっごく損してたなって思うけど」
とても昔、もう二度とやってこない日々を思い出すように彼女は言った。
「私、ずっと貴方の事を見てた。気付いてくれないって解ってたけど、ずっと見てたんだよ」
「……………………」
それは……正直嬉しいけど。
「ね。志貴くんは私の事、好き?」
今の彼女に、俺は何て答えてあげればいいんだろう?
「弓塚……………俺は」
俺は……答えられない。
自分でもひどい奴だって思うけど、それが本当の気持ちなんだ。
弓塚さつきっていうクラスメイトの事を、今まで意識した事は無い。
「そうだよね。志貴くん、私の事なんて見てなかったもの。私の事を好きになってくれるはずないわ」
「あ……………」
びくり、と弓塚の体が震えた。
弓塚はハァハァと苦しげに息を吐いて、そのまま――――地面に膝をついてしまった。
「――――弓塚!?」
今度こそ弓塚に駆け寄った。
「弓塚、大丈夫か、弓塚……!」
ぜいぜいと上下する肩に手をやる。
「ばかっ、こんなに体が冷え切ってるじゃないか!何でこんなんで夜出歩いてるんだよ、お前は!」
「――――志貴、くん」
虚ろな声で俺の名前を呼んで。
そのまま、弓塚は倒れるように俺にしなだれかかってきた。
「弓……塚?」
「志貴くんが私の事を好きじゃなくてもいいよ。私だって、今までずっと志貴くんの事がわからなかったから」
「いいから、もう喋るな……!すぐに病院に連れて行ってやるから……!」
「でも、今なら解るよ。志貴くんの事も、志貴くんがやりたい事も、本当によくわかるんだ。だって――――」
「え――――?」
「だって私も、志貴くんと同じになれたんだから――――!」
言って、弓塚は俺の首にその歯を突きたてた。
「あ――――」
意識。意識が、遠のく。
首筋には弓塚の牙がえぐりこんできている。
「――――――――」
吸われていく。
何か、体中の全ての物が、液体に変えられて、吸い上げられていくよう。
「――――あ」
何も考えつかない。
このままだと死んでしまうって解っているのに、何も――――
だっていうのに。
「弓塚――――!」
両腕はただ反射的に、弓塚の体を突き放した。
どすん、と地面に尻餅をつく弓塚。
「何、を――――」
立ち上がろうとする。
けど、それはできなかった。
体中が疲れきっていて、自分の腕一本さえも満足に動かせない。
弓塚はまるでアルコールを飲んだ後みたいに、ぼう、と座り込んでいる。
「あ――――」
首筋に穿たれた、弓塚の歯形。
深く食い込まれた二つの穴から、何か、黒いモノが体の中に注ぎ込まれているよう――――
「あ――――ぐ、ううううう!」
背骨、背骨を抜き取られるような痛み。
「は――――あ、ぐうう……!」
弓塚は恍惚とした瞳のまま、俺を、見つめて、いる。
「弓…塚…、お前、何を………!」
「大丈夫、痛いのは最初だけだから我慢して。初めは苦しいけど、血が混ざってくればすぐに落ち着くよ。
安心して、志貴くんを殺すようなことはしないわ。ちゃんと私の血を流し込んでおいたから、昨日の出来損ないみたいに崩れることもないし、私の事だけを見てくれるようになるよ」
弓塚は嬉しそうに囁いてくる。
「何――――言ってる、んだ、弓塚……」
「何って、志貴くんも私と同じになるっていう事だよ。普通の食べ物の代わりに人間の血を吸って、太陽の下は歩けないから夜で歩くしかなくなる、違った生き物になるの」
……何だ、それ。
馬鹿げてる、それじゃあまるで――――
「うん、吸血鬼みたいだよね。私もどうして自分がこんなになっちゃったか解らなかった。二日前の夜、志貴くんが夜の繁華街で歩いているって言う噂を確かめにいって、気が付いたら路地裏で倒れてて。そのときはただ、暗くて、寒くて、体中が痛いって思うだけだった。
けど不思議なことにね、時間がたつと、色々な事がわかるようになってた。私の体が痛いのはすごい勢いで崩れていっているからで、太陽の光を浴びるとそれが早まっちゃうとか、体の崩壊を止めるには同じ生き物の遺伝情報っていうのが必要なんだとか」
「うん、理屈はよくわからなかったけど、とにかく何をしなくちゃいけないかは簡単だったんだよ。私は寒かったし、一人で寂しかった。あのまま消えちゃうなんて嫌だったから、とりあえず適当な人の血を吸ったんだ。そうしたらね、それがすごく美味しいの!体の痛みも薄れて、もう何だって出来る気がしたんだから」
「けど、あんまりにも美味しかったから、気がついたらその人の血を残らず吸っちゃってた。その人ね、干からびたミイラみたいになっちゃって、すごく後悔したわ。私、体だけじゃなくて、心まで怪物みたいになっちゃったのかなって。――――でも、生きていく為にはそうしないといけなかった。私は憎くて人を殺して人を殺しているんじゃないわ。私が人から血を吸うのは志貴くんたちが他の動物を食べてるのと同じ理由よ。だから、人を殺すっていう事をあんまり深く考えないようにしたんだ」
「ば――――」
何だ、それは。
生きる為に必要だから人間を殺してもいいって言うのか。
そんな事、俺は――――
その時、弓塚は少しだけ悲しそうな顔をした。
「そう、ほんとにそのつもりだったんだよ…志貴くんが昨日余計な事を言わなかったらそのまま気にせずにいられたのに……うん、志貴くんの事は大好きだけどその事だけはちょっと恨んだな。余計な事を考えちゃったから少し辛かったもの」
俺は何も言えない。
「でもね、結局耐えられるものじゃないんだよ、あれは、しかもね、だんだん楽しくなってきたんだ。志貴くんならわかるでしょう?貴方は私なんかより、もっと上質な人殺しなんだもん」
「な――――」
何、を。
何を言っているんだ、弓塚、は。
「私はずっと貴方を見てきた。だから貴方の優しいところも、恐いところもちゃんと解ってた。私が貴方に話しかけられなかったのはね、志貴くんの恐いところが何なのか解らなかったからなんだ」
「でも今なら解る。貴方は私と同じだもん。憎いとか好きだとかいう感情とは関係なく、誰かを殺したいって思うんでしょう?」
「ちが……う」
「違わないよ。私、志貴くんが持ってる脆い空気が何なのか解らなかった。けど、こんな体になって理解できたんだよ。志貴くんはね、ただそこにいるだけで死を連想させる。世の中には稀に生まれついての殺人鬼がいるけど、その中でも貴方は生粋の殺人鬼だわ」
弓塚はうっとりとした表情をする。
「私ね、昨日は嬉しかった。こんな体になって、初めて良かったなって思えた。だって今まで解らなかった志貴くんをようやく理解できたんだもの。ね、志貴くんだって同じでしょう?誰かを見ただけで理由もなく心臓がドクンドクンって高鳴って、喉がカラカラに渇いて…殺しちゃったんでしょう?」
「う…あ……」
否定できない。彼女の言った事は、まさに事実だったから。
「志貴くん、理由もなく人を殺してしまったって言ってたよね、それが感情に左右されない、純粋な殺人衝動だよ。私が理解したくてずっと理解できなかった志貴くんの脆いところ」
そん…な……
「それともう一つ言い忘れてた。吸血鬼はね、血を吸った人間を吸血鬼にするっていうでしょ?あれはね、ほんとの事なんだよ。正確に言うとね、血を吸っただけじゃその人間は死んじゃうだけなんだ。吸血鬼は血を吸うときにね、自分の血を相手の体に流し込むことで吸血鬼の分身にしてしまうの。さっきまで志貴くんの体の中にあったのはね、私の血液」
立ち上がって、満足そうに、弓塚は言った。
「……そう。コレ、弓塚さんの、血、なん、だ」
……未だ体の中で毒を放ち続ける、黒いモノ。
こんな一口分にも満たない量で、狂いそうな寸前まで苦しいなんて信じられない。
「さあ、もういいころだよね。立って、志貴くん」
……弓塚の命令が聞こえる。
痛みが薄れる。
手足の自由が戻って、俺はようやく立ち上がれた。
「――――よかった。これでずっと一緒だね、志貴くん」
「………………」
「さあ、こっちに来て。私の傍に来て、私の手を握って、私を安心させて」
手を差し伸べてくる。
足が勝手に動き出す。
ただし、前ではなく後ろに動いた。
「志貴……くん?」
――――どくん。
心臓が高鳴る。
喉がはあはあと渇いていく。
神経という神経が、目の前のモノを敵として認識していってしまう。
「はあ……はあ……はあ」
体の中で未だ融けずに残っている弓塚の血の毒と、体中から沸きあがってくる衝動を、必死に堪えた。
「どうしたの……?ねえ、どうして私の言う事を聞いてくれないの……?」
どくん、と心臓が脈打つ。
その鼓動は、ころせ、ころせ、と自分自身に命令するように、繰り返されている。
「志貴くん、貴方――――」
「正気に戻るんだ、弓塚」
はあはあと苦しい呼吸のまま、弓塚を見据える。
「どうして――――!?どうして私の血が効かないの……!?」
「……さあ。わからないけど、ほんの少しだけ、体の中に、泥が入っているような気がする」
それが弓塚の、吸血鬼の血。
こんな―――たった一口分ぐらいの水だけの量で、これだけ吐き気がするというのなら。全身がこんな血になってしまった弓塚は、どれほど苦しいのか想像もつかない。
……痛い、と。
弓塚が何度も繰り返して言っている言葉の意味が、ようやく理解できた。
「……やめよう、弓塚さん。こんな事しても何もならない。弓塚さんは、病気なんだ。だから早く病院にいって、元の体に戻らないと」
「――――私の血は確かに志貴くんの血に混ざってる。それなら、貴方はもう私の体の一部のはずなのに……!」
「……だから、俺にはてんでわからないんだ、弓塚。俺にわかるのは、ただ――――暗くて寒くて独りきりだって、辛そうに言った君の姿だけだ。二日前の帰り道、笑顔でピンチの時は助けて欲しいって言ってた笑顔が、思い出されるだけなんだ」
「……弓塚。君は、苦しいって言ってた」
「そうだよ。私、こうしている時も苦しいんだ。まだ血管が人間の時のままだから、血が流れるだけで苦しいの。細くて弱くて、すぐに破裂しちゃう。でもね、もっと多くの血を吸っていけば、すぐに血管も丈夫になるから平気だよ」
「……痛いって、言ってた」
「ええ、ココロが痛いわ。生きる為とはいえ、みんなの血を奪わなくちゃいけないんだもん、そしてね、それに何にも感じなくなってきている自分が自分じゃないようで恐い。けど、それも独りじゃなくなれば恐くなくなる」
「……寒いって、言ってた」
「うん。寒くて寒くて、指先が壊死してしまいそう。けど、それは別につらくはないよ。ただ暖かいって感じなくなっただけだから」
「必死に――――助けてって、言ってた」
「助けては欲しいけど、もうダメだよ。私は元のさつきには戻れっこないんだから」
弓塚はあの時とまったく同じ笑顔で告げる。
「どうして――――どうして、こんな、事に」
「どうしてこんな事になったかなんてそんなの私の方こそ聞きたいよ、気が付いたらこんな体になっていて、人の血を飲まないと生きていけなくなっていたんだよ、目が覚めたら死んでいた方がずっとずっと楽だったのに…………でも、こうなったからには仕方がないよね。みんなが当然のように他の動物を食べるように私もみんなを食べるしかないんだもん」
「なっ――――何だよそれ………!そんなのはどうかしてる……!そんなの―――どうして、弓塚がそんな事に――――」
弓塚は無言で、ふるふると首を振る。
「どうして……!昔みたいに、普通に笑って、普通に歩いて、普通に話したりする事が、もうできないっていうのか。たった――――たった二日前の話なのに……!」
「……そうだよね。たった二日前まで、私も志貴くん側の生き物だったなんて、夢みたい。失ってみて初めてわかった。――――うん、ほんとに夢みたいな時間だったなあ。もし戻れるのなら、私はどんな代償を払っても戻りたい」
「なら――――」
「でも無理だよ。私は元に戻れない。ずっと、この寒くて痛くて、独りっきりのままで生きていくしかない」
弓塚はうつむく。
がくがくと震えていく、冷たい体。
「――――助けて、志貴くん」
喉から搾り出すような、小さな声。
「恐いの。すごく寒くて、どこにいっても私は独りきりで、すごく不安なの。お願いだから、私を助けて」
……わかってる。
二日前の帰り道にした、なんでもない約束を、覚えている。
「――――ああ。俺に出来る事なら、何でもするよ」
……本当に。
それで、君が元の弓塚さつきに戻れるっていうのなら、俺は何だってしてみせる。
「……あは。志貴くんったら、この後におよんでまだ私を元に戻したいって思っているんだ。……ほんと、うっとりするほど優しいんだね。人殺しが大好きなくせに、それ以外ではすごく優しいなんて、すごい矛盾」
クス、と楽しそうに笑う弓塚。
「無理だって言ってるのに。志貴くんのやり方じゃ、私を助けるなんて事はできないよ」
「なっ――――じゃあ、じゃあどうすればいいんだ……!俺は何も出来ない。弓塚を助けてやれなくて、どうしていいか解らない―――!」
「そんな事ないよ。志貴くんなら私を助けてくれるもん」
いって、弓塚は歩いてくる。
背筋が、危機感で凍った気がした。
「――――俺が弓塚を助けられるって、どうやって」
「簡単だよ。志貴くんが、私の仲間になってくれればいいんだから……!!」
「っ――――!」
紅い眼光に見据えられて、息が出来なくなった。
――――まずい。
はっきりとそう分かるのに、両足は全く動いてくれない。
「そうすれば私は独りじゃなくなって、寒い思いも恐い思いもしなくなるわ。ううん、志貴くんさえ私のモノになってくれれば、人間だった時より私はずっとずっと幸せになれるんだから――――!」
弓塚は真っ直ぐに、迷いなく俺の首を掴まえようと腕を伸ばしてくる。
その速度は、それこそ弾丸のようだ。
「――――ぐっ………!」
必死に首をひねって地面にしゃがみこむ。
風切り音をともなって、弓塚の腕が頭の上を通り過ぎていく。
「は――――あ」
「――――嘘」
襲ったモノと、かわした者。
俺たちはお互いを驚愕の瞳で見ている。
「弓塚、お前――――」
「志貴――――くん?」
呆然と弓塚が俺を見下ろしてくる。
俺は――――逃げなくっちゃって分かっているのに、全身が固まったままだった。
片手は麻痺している俺の理性とは関係なく、ポケットの中のモノを掴んでいく。
弓塚は動かない。
ただその目だけが、驚きから喜びへと変化していく。
「……そうなんだ。志貴くんを手に入れるのは簡単に済むと思ってたけど、これなら――――」
どくん。
「今夜は、わりと楽しめそうだよね、志貴くん?」
容赦なく伸びてくる、獣のような腕。
全身の毛が逆立つ。
俺の手は独りでにポケットのナイフを取り出していた。
どくん。
「――――え?」
自分の声より、自分の腕の動きのほうが早い。
ナイフはざくりと音を立てて、弓塚のむき出しの太ももを縦に削り取った。
「きゃあああああああああ!」
――――呆然と自分の腕を見る。
そこには、たった今彼女の片足を裂いた、血に染まったナイフがある。
――――気がつけば。
俺は震えながら、弓塚から逃げ出していた。
「はあ、はあ、はあ、はあ――――!」
ただ走った。
「なん、で――――なんで、俺は――――」
どうして弓塚を刺してしまったのか、自分の事だっていうのにまったく理解できない。
気がつけば、ナイフで弓塚の足を裂いていた。
「なんで――――」
本当に、何でこんな事になったんだろう。
俺はただ――――弓塚さつきを、助けようと思っただけなのに。
なのに、弓塚の顔を思い出すと心臓がどくん、とはねあがる。
弓塚は俺を殺そうとしている。
俺では、遠野志貴では、あの生き物には太刀打ちできない。
捕まってしまえば、後は当然のように殺されるだけ。
だから逃げている。
ただ、夜を走る。
とにかく今は走っている。
――――――――何の為に?
そんなのは決まっている。
そうしなければ捕まってしまう。
弓塚さつきが、自分を追いかけて来ている気配を感じている。
さっきまでは針の先ほどの気配が、あっというまに背中全部をのっぺりと覆うほどに大きくなってきている。
「はあ、はあ、はあ、はあ――――!」
逃げる為に走ってる。
けど、誰から逃げようっていうんだろう。
……あれは、きれいな笑顔だった。
中学時代の思い出話を語った弓塚さつきの笑顔は、本当に、優しかった。
「く……そ………」
こんな事って、こんな事ってあるか……!
弓塚は人を殺して、人の血を吸う化け物になってしまった――――
「――――!?」
突然、暗くなった気がした、同時に全身にすさまじい悪寒がした。
俺は反射的に、前に飛んだ。
ダンッ!!
その直後大きな音がした。
「ちょっと力加減を間違えちゃったな…ほんとはもう少し手前に着地するつもりだったんだけど」
恐怖とともに俺は振り向いた。
俺がさっきまでいたところに弓塚が立っている。
着地の衝撃でコンクリートの地面が砕けている、にも関わらず、弓塚は何ともなっていない。
「あ…………」
寒気がした。
さっき切り裂いたはずの弓塚の足の傷が無かった。
残っているのは血の跡だけ。
「弓塚……お前は本当に……化け物になってしまったのか?」
俺のその問いにほんの一瞬だけ弓塚が悲しそうな目をした気がした。
「今更何を言ってるの、そうだよ、そして志貴くんも、すぐにそうなるんだよ」
ああ、ほんと今更だと自分でも思う、けどどうしても認めたくなかったんだ。
ナイフを握り締めたまま、立ち上がった。
どのみち彼女は俺の血を吸うつもりだ。そうすればこの命はなくなってしまうだろうし、俺は吸血鬼の仲間入りをするつもりはない。
なら。
初めから、やるべき事は決まっていた。
「――――弓塚。俺は、お前を助けられない」
「そんな事ないよ。志貴くんが大人しくしてくれれば、それで私も志貴くんも幸せになれるんだって」
違う。その幸せは歪んでいるんだ、弓塚。
「けどな、それでも約束したから。――――俺は別の方法で、お前を助けてやらなくちゃ」
言って、メガネを外した。
ずきん、と頭痛が走る。
俺は、本当にはじめて。
人を殺す為に、この視界を受け入れた。
「――――そう。やる気なんだ、志貴くんってば。でもだめだよ。おいかけっこはもうおしまい」
「がっ――――!?」
――――なに、なにが、起きたんだろ、う。
一瞬だけ弓塚の姿が消えて、気がついたら真横に弓塚の顔が見えて――――そのまま、横腹を殴られた、のか。
「はっ――――あ、ぐ………………!」
……背中が痛い。
あの、なんでもない一撃で建物の壁まで吹き飛ばされた、のか。
「く――――――――!」
強くナイフを握って何とか立ち上げる。
「あれ、まだ動けるんだ。志貴くんってわりと頑丈なんだね。いつも貧血を起こしているから、病弱なのかなって思ってた」
「はあ――――はあ、はあ」
呼吸――――呼吸が、荒い。
俺は、とんでもない勘違いをしていた。
「だめだよ、そんなナイフなんかに頼っちゃ。志貴くんの動きなんて止まって見えるんだから、てっぽうを持ってても私には敵わないのにね」
クスクスと、愉しげに笑う声。
「――――はあ――――あ」
それが、勘違いだ。
俺はモノの壊れやすい線が見えるけど、ただそれだけの人間なんだ。
今の弓塚みたいに、俺の何倍も速く動く動物が相手なら、その線に触れる事さえままならない。
ようするに。
彼女の前じゃ、こんな線が見えたとしても意味なんかないんだ。
「――――もう。仕方ないな、少し荒っぽくするからね。大丈夫、頭と心臓だけ生きていれば、あとは何とかできるから……!」
ドン、という衝撃がして、目の前が真っ暗になった。
弓塚の手が、俺の腕を握って。
そのまま、引きずるように放り投げたらしい。
それこそサッカーボールみたいに放り投げられて、背中から地面に落下した。
「あ――――ぐ――――!」
――――見えない。
全身が痛すぎて、何も、見えない。
「ほら、そんな所で寝てるとタイヘンだよ、志貴くん……!」
「――――!」
咄嗟に横に転がる。
さっきまで自分がいたらしい地面を、弓塚の腕が叩いたのか。
ぴきっ、なんてシャレにならない亀裂音まで聞こえてくる。
「はっ――――く…………!」
痺れている体を無理やりに動かす。
視界はまだ真っ暗のまま。
感じられるのは弓塚の気配だけ。
「……こ………の」
立ち上がって、弓塚の気配がするほうに、ナイフを構える。
「もう、無駄だって言ってるのに、どうして大人しくしてくれないかな、志貴くんは!」
弓塚の気配が迫る。
どくん、という自分の心音。
なまじ目が見えないおかげなのか、今度は弓塚の腕をすり抜けられた。
「――――嘘」
呆然とした、弓塚の声。
きっと、弓塚は今背中を見せている。
けど目が見えない俺にはどうする事もできない。
「このぉ――――大人しくしてって言ってるのに!」
弓塚の声。迫ってくる死。
それに合わせて、闇雲にナイフをふるった。
「きゃあ――――!」
びしゃり、という音。
今、確かに弓塚の腕を切った。
「しまっ――――弓塚、大丈夫か……!?」
思わず口にして、自分の甘さにほとほと愛想がつきた。
何だって俺は、自分を殺そうとしている相手にそんな心配をして――――
「――――あ」
正面から何かに殴りつけられて、弾き飛ばされる。
「あ――――」
視界が、戻った。
今の一撃があんまりにも強力だったおかげだろうか。
どうも、さっきの一撃で路地裏の壁まで弾き飛ばされたみたいだ。
背中には硬い壁の感触がある。
「――――あ」
意識が遠のく。
なのに、弓塚は容赦なくやってくる。
「うそつき――――!」
恨みのこもった声をあげて、俺めがけて手を振り上げる。
動けない。
動けないから、もう、殺されるしかなかった。
どんっ!!
「………………え?」
壁がゆれる。
弓塚の腕は、俺のすぐ横の壁を、ただ乱暴に叩いただけだった。
「うそつき――――!助けてくれるって、私がピンチの時は助けてくれるって言ったのに!」
また、見当違いの所を彼女は壊している。
「どうして?私がこんなになっちゃったからダメなの?けど、そんなのしょうがないよ……!私だって、好きでこんな体になったんじゃないんだから……!」
どん、どん。
駄々をこねる子供みたいに、ただ、彼女は叫んでいる。
「………こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに、どうして志貴くんは私を助けてくれないの!?助けてくれるって約束したのに、どうして――――」
どん、どん。
出口のない苦悶の声。
いつ自分の体を串刺しにされてもおかしくないこの状況で。
どうしてだろう、これから殺されるという恐怖は薄れていた。
「志貴くん――――志貴くんが私の傍にいてくれるなら、この痛みにだって耐えていけるのに。どうして、どうして貴方まで私の事を受け入れてくれないの……!」
……なんて、愚かさ。
繰り返される言葉は、俺に対する恨み言なんかじゃない。
弓塚さつきは、ずっと、どうしようもなくて泣いているだけだったって、いうのに――――
――――弓塚の声が聞こえなくなった。
弓塚は、ピクリとも動かなくなった俺を見て、呆然と立ち尽くしている。
……まるで。
悪い夢から覚めて、自分のした事を、後悔する、ように。
「――――志貴くん、私……こんな、つもり、じゃ――――」
「……いい………んだ]
――――そんなに、自分を責める必要なんて、ない。
たとえ、身も心も吸血鬼なんていうモノになってしまったとしても。
彼女はやっぱり、どうしようもないぐらい、可哀相な被害者なんだ。
どのみち、もう俺の体は動かない。
弓塚、君がそんなに一人で、痛くて、寒いっていうんなら。
俺に出来る事は、もう一つしか残っていない。
「……いいよ弓塚」
「志貴……くん?」
「俺の血でよければ吸っていいよ。約束だもんな・・・キミと一緒に、いってやる」
「――――ほんとに、いいの?」
「・・・なんだよ。今までそうしたくて散々追い回したんだろ。なんでここで遠慮するかな、弓塚は」
「だって――――私、本当にそうしたいけど、でも――――それをしたら本当にだめになってしまいそうで――――」
「――――痛いんだろ。なら、いいよ。俺はキミを助けられない。だから、弓塚の言う方法で助けるしかないじゃないか」
「・・・・・志貴くん・・・・・」
コクン、とうなづいて。
彼女は、俺の首筋に唇をあてた。
・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、いくらたっても首筋に牙がたてられる事はなかった。
「弓塚・・・・?」
俺は弓塚に目をやった。
弓塚は・・・泣いていた。
「志貴くんはずるい、いっそのこと最後まで抵抗してくれたら私は血を吸えたのに、どうして、どうして最後にそんなに優しいの?できない、そんな風にされたら私には吸うことなんてできないよ・・・」
「・・・・・・」
なんて皮肉だろう、彼女の残った人間の部分が彼女を苦しめているなんて……
「弓塚・・・」
「本当はわかってた…私が望んでいる事は間違っているって、でも、でも………それでも、望まずにはいられなかった!!」
まるで子供のように泣きじゃくる弓塚に俺は何も声をかけられなかった。
しばらくして弓塚は涙を拭うと立ち上がった。
「ありがとう、志貴くん、私は最後の一線を越えずにすんだ。決めたよ、私、もう血は吸わない。死ぬのが怖くないなんて言えないけど、心だけでも最期まで人間でありたい」
そう言ってはっきりと弓塚は俺を見た。
その瞳を見て俺は驚いた。
「弓塚・・・・・・」
「気にしないで、これは私が決めた事なんだから」
「違う、そうじゃない、弓塚、瞳が・・・」
弓塚の瞳が黒に戻っていた。
もしかして弓塚の体は・・・
「どうして?私は吸血鬼になってしまったはずなのに・・・」
「まだ・・・吸血鬼になりきっていないんじゃないか?だったら・・・戻れるかもしれない」
それは小さな、とても小さな希望。
だが、弓塚が吸血鬼の部分を抑えた・・・
俺はそう信じてみたい。
「・・・あはっ、格好悪いね、ものすごい一大決心だったんだよ、さっきの、でも、それを聞いたらね、信じてみたく、なっちゃった」
「ああ、俺も信じたい、弓塚を助けたいんだ・・・」