そっと壁に手を当てる。
手が冷たい感触をわずかに感じ取る。
あの日、ここに居た時は寒くて死んでしまいそうだった。
けど今はそんな事は無い。
あの時と季節が違うから?
違う、それだけじゃない。
わかっている、私が寒さを感じなくなってきているんだ。
笑いがこみ上げてくる。
そもそも私はどうしてこんな所に来たんだろう?
ここにいればあの時のように助けてくれるとでも思っているのか。
「馬鹿みたい、まだ思い出にすがっているなんて。
私にはもうそんな資格ありはしないのに」
そう、私に助けは来ない。来てはいけない。
差し伸べられた救いの手を私は自ら払ってしまったのだから。
「……っ!!」
気が付けば泣いていた。
唇をかみ締める。
本当は泣き叫んで助けを求めたい。
だけど、それは駄目だ。
そうしたら本当に助けに来てしまう気がするから。
絶対に、呼べない。
でも――――
「寂しいよぉ……」
泣き言ぐらいは言ってもいいだろう。
私はもう、独りなのだから
ゆっくりと目を開けた。
「……ふざけてる」
何よりも先にそう思った。
どうしてそんな風にしか考えられないのか。
辛かったら誰かを頼ればいい。
それは決して悪い事なんかじゃない。
なのに弓塚は自分だけで全てを抱え込んで、その所為で独りの時にしか泣けなかった。
独りで苦しんで、独りで泣いて、そして独りで消えようとしている。
「そんなの……ただのやせ我慢じゃないか」
ぎり、と音がするぐらい歯をかみ締める。
認めない。
例えそれで他の全てが丸く治まったとしても、
――――弓塚が笑顔になれない終わり方なんて絶対に認めない。
辺りを見回す。
どうやら俺の部屋みたいだ。
ずっと看病してくれていたのだろうか、秋葉がベッドにもたれかかって寝ていた。
その手は寝てるにも関わらず俺の手を固く握っている。
「ごめんな、心配ばかりかけさせて」
そっと秋葉の髪を撫でる。
全く本当に俺は駄目な兄貴だ。
「悪いけど、あと少しだけわがままをさせてくれ」
ゆっくりと秋葉の手を開こうとすると、
「ん…………」
少し身じろぎをして秋葉が頭を上げた。
一瞬、ぼんやりと俺を見つめて、
「兄さん!!」
見る見るうちに泣き顔になる。
「落ち着け秋葉。俺は大丈夫だから」
「大丈夫なわけ……ないじゃないですか……
兄さんは丸一日ずっと……目を覚まさなかったんですよ。
下手をすれば……死んでいても……おかしくはなかったんです」
「…………」
自覚はあったけど俺の身体は大分参っているみたいだ。
「ごめ……んなさい……私の所為でこん……な事に」
泣きながら秋葉はそう繰り返す。
「違うって、お前が悪いわけじゃない」
「そう……じゃないんです兄さん……
初めから……全部私が原因だったんです」
「え?」
嗚咽をもらしながら搾り出すように秋葉が声を発する。
「弓塚さんが吸血鬼になったのは……私の所為なんです」
しばらくして秋葉が事情を少しずつ話し出した。
「兄さんが倒れた後、アルクェイドと名乗る方が来て、
ここまで兄さんを運んでもらったんです。
その方から大体の事情を話していただきました」
「アルクェイドが……」
「兄さんはこの街にいる吸血鬼を探していたんですね。
吸血鬼にされてしまった弓塚さんを助ける為に」
俺の視線を避けるように秋葉は目を伏せる。
「みんな、私の所為なんです。
私が早くシキを殺していれば……
こんな事にならずに済んだんです」
それはどういう意味なのか。
ふと包帯の男の言葉を思い出す。
あの男は俺の名と、さらに八年前の事まで知っていた。
つまり――――
「そうか……あいつはシキだったのか」
「え……?」
俺の呟きに秋葉が息を呑む。
「兄さん、記憶が戻っているんですか!?」
「ああ、もっとも思い出したのはついさっきだけど」
きっと、八年前に近い状況を体験した所為だろう。
そこまで考えて気付く。
「秋葉、お前は八年前の事も、シキの事も、全部知っていたのか?」
「……はい。シキの事は、兄さんには思い出して欲しくなかった。
出来ることなら、ずっと忘れたままでいて欲しかった。
けど、それもおしまいですね。
初めから―――隠し通すことなんて無理な話だったんです。
いつかはこうなる事が解っていたのに……」
秋葉はぎゅっと胸の前で手を握り締める。
「……兄さん、信じられないでしょうけど、
遠野の血は人間以外の血が混ざっているんです。
少なくとも、私は子供の頃から父にそう教えられて育ってきました。
もちろん、それを本気で信じてきたわけではありません。
けど、信じざるをえない出来事が起きてしまった。
それが八年前の、兄さんがシキに殺された事故なんです」
ズキリ、と胸の傷が痛んだ。
「遠野の人間は個人差はあれど、
歳をとるごとに自分の中の"異なる血"が増えていきます。
この血は、あまりいいものではないんです。
遠野の血筋に混ざっている異種は、
ただのケモノなのかもしれないと思うほど自己の本能を肥大化させ、
やがて人格の"反転"を引き起こします。
人間らしい部分を理性とするのなら、
ケモノじみた部分である本能が理性を駆逐してしまうんです。
……反転しかけた私が弓塚さんを何の躊躇いも無く殺そうとしたように」
「秋葉、それは……」
「いいんです、兄さん。
あれは紛れも無く私の罪ですから」
唇を噛んで、秋葉は自分の傷を抉るかのように言葉を出す。
「八年前、あの時兄さんは反転したシキに胸を貫かれてもう瀕死の状態でした。
そこに父が駆けつけて、シキを止めたんです。
理性を失っていたシキを止めるには、息の根を止めるしかない。
遠野家の当主には反転してしまった一族の者を処理する義務があるんです。
……結局、殺す事は出来ませんでしたが」
その事はかすかに、覚えている。
「その後、兄さんは奇跡的に一命を取り留めました。
後は兄さんも知っている通り、
遠野志貴は事故に巻き込まれたという偽証をして病院に運ばれたんです」
「――――」
「私が当主として育てられたのもそれが原因でした。
一度でも"反転"した者を当主として迎えるわけにはいきませんから、
シキは後継ぎではなくなって、唯一血を継いでいる私が後継ぎになったんです」
唯一血を継いでいる?
「ちょっと待ってくれ秋葉、それはおかしい。
その言い方だとまるで――――」
――――俺が遠野の人間ではないみたいじゃないか。
秋葉は何も言わない。
ただ、何かに耐えるように俯いている。
それが答えだった。
「そういう……事なのか」
「……はい、兄さんは養子として取られた子供だったんです。
社会的地位の高い遠野家の長男を亡くなったとする事は出来なかった。
お父様は養子であった兄さんとシキの名前が一緒だった事を利用し、
二人の存在を入れ替えて養子の方が死んだ事にした。
殺された側が生き残って、殺した側が死んでしまった。
それが兄さんとシキの関係なんです」
「そんな、じゃあ俺は……」
一体どこの誰だって言うのか。
頭が真っ白になる。
今まで信じていた「自分」という存在。
それがガラガラと崩れる音が聞こえた気がした。
「……ごめんなさい」
ぽつりと呟かれた声で我に帰る。
「私、兄さんに迷惑かけてばかりですね。
こんな事なら、兄さんを呼び戻さない方が良かったのかもしれません」
そう言った秋葉はいつもと違いとても弱々しく見えた。
それで、秋葉がどれだけ俺に罪の意識を持っているかがわかった。
「秋葉……どうして俺をこの屋敷に呼んだんだ?
俺が本当の兄貴じゃないってわかっていたのに」
「そんな事は関係ありません。
私にとって今も昔も貴方が兄なんです」
秋葉は迷い無く言い切る。
それが今の俺にとって救いだった。
「秋葉、俺はお前に屋敷に呼んでもらって感謝している。
それにさ、他の事だってお前を恨んでなんかいない」
「兄さん……でも私は――――」
「あ、けど弓塚を傷つけた事だけは俺には許せない」
「……はい、それはわかっています」
「うん、だから弓塚に謝って許してもらって」
「は?」
俺の言葉に秋葉は呆けたような声を出す。
「だから『俺が』勝手にお前を許す事は出来ないから、
弓塚に謝って許してもらえって言ったんだ」
「でも、弓塚さんは……」
「大丈夫。弓塚はきっと俺が助ける」
きっぱりと言うと、体を起こす。
「……!! 兄さん、やめてください!!」
無理してる事なんてわかってる。だけど――――
「ごめん秋葉、後一回わがままを聞いてくれ。
今、行かなかったら絶対に後悔する」
秋葉を押し退けて立ち上がる。
そして一歩踏み出そうとして、強烈な眩暈でその場に倒れこんだ。
足元が小船の上に乗っているようにぐらぐらする。
「ほら、今の兄さんはとても無理なんて利く身体じゃないんです!!
兄さんはそんなぼろぼろになるまで頑張ったじゃないですか!?
もう十分じゃありませんか!? 後は私が何とかしますから……
お願いですから……もうやめてください」
「駄目だ、これは俺がしなくてはならないん……だ」
俺は床に手をつき、体を起こそうとする。
だが手に力が入らなくて上手くいかない。
「わかりません、兄さんがそこまでしなきゃいけない理由っていったいなんですか……?」
涙声になりながら秋葉が尋ねてくる。
そういえば、何でなんだろう?
自分でも正直疑問に思った。
秋葉の言う通り今の俺はぼろぼろだ。
こんな俺が動くより、いっそ秋葉に任せた方が楽だし、有効だ。
秋葉には頼れないにしても、アルクェイドがいる。
あいつならきっと独りでも何とかするだろう。
ぼろぼろの俺がわざわざ動く意味なんて無い。
なのに、俺は立とうとしている。
俺の中の何かが立てと繰り返し叫んでいる。
頭に浮かぶのは彼女の事。
他愛の無い約束に彼女は本当に嬉しそうだった。
何にも出来ない俺を信じて頼ってくれた。
自分が一番辛いくせに俺達の心配ばかりして、本当は泣きたいだろうにそれでも彼女は笑ってくれた。
励まさなければいけないはずが、いつしか逆にその笑顔に励まされていた。
「ああ、そうか……」
約束したから、彼女を助けたいんじゃない。
それでここまで出来るほど俺は聖人じゃない。
「俺は弓塚の事が好きなんだ」
義理とか正義感だとかそんなカッコイイものとは違う。
彼女が好きだから俺の手で救ってあげたい。
ただ、それだけの話。
「だから、弓塚を助ける役は譲れない」
心は決まった。
渾身の力を込めて立ち上がる。
「助けなければいけない、じゃなかった。
秋葉、俺は自分で弓塚を助けたいんだ」
秋葉の目を真っ直ぐ見て決意を告げる。
「兄さん……」
静かに呟いて秋葉は黙り込む。
その顔がとても悲しげで胸が痛んだ。
「――――わかりました」
そう言うと秋葉は俺の額にそっと指を当てる。
すると、あれほど酷かった眩暈が治まっていった。
立っているので精一杯だったはずの身体に力が湧いてくる。
「くっ!!」
俺から指を離すと秋葉は苦悶の表情を浮かべた。
顔色が悪くなり、何かに耐えるように胸を押さえる。
「秋葉、お前いったい何をしたんだ?」
「そんなに大した事はしていません。
兄さんが動けるように少し力を分けただけです」
「力を分けただけって――――お前顔が真っ青じゃないか!?」
「このくらい……大丈夫です。
そんな事より兄さん、身体が動かせるのなら早く行ってください」
「何言ってるんだ、どうみても大丈夫じゃ『兄さん!!』」
俺の言葉を秋葉が無理やり遮る。
「兄さんには弓塚さんを助けたいのではないんですか!?
さっきまでの言葉はみんな嘘だったんですか!?
違うのでしょう!? だったら早く行ってください!!
兄さんに私の事を心配している暇なんかないはずです!!」
秋葉の言葉が俺に突き刺さる。
そうだ、何の為に秋葉がここまでしていると思ってる。
今、俺がやらなければならない事なんて解りきっている。
「さっさと行ってください。
私が弓塚さんに謝れなくなるじゃないですか」
「――――わかった、行ってくる」
秋葉に背を向けて歩き出す。
ドアを開けて出た時に秋葉の呻き声がわずかに聞こえた。
それでも俺は振り返らなかった。
「話は終わった?」
廊下に出るとアルクェイドが俺を待っていた。
「ああ……
ごめんアルクェイド。
俺をここまで運んでもらって」
「別にいいわよ、大した事じゃないし」
そう言うアルクェイドの言葉にはどこか翳が感じられた。
しばらくお互い沈黙が続く。
「アルクェイド、訊きたい事がある」
意を決して俺は口を開いた。
「秋葉が聞いた話からすると、
弓塚を吸血鬼にしたのはシキ……
説明は省くけど俺の知り合いなんだ。
でもお前は死徒を追ってきたと言った。
これはいったいどういう事なんだ?」
「……多分、どちらも間違ってないわ」
「え?」
アルクェイドは俺に背を向ける。
「そういう奴なのよ、あいつは」
アルクェイドの表情は見えない。
それでも背筋が凍りつく程の憎悪を感じた。
「そうね、もういい加減話すべきなのかもしれない」
感情を押し殺したような声でアルクェイドが言う。
「あいつの名はミハイル・ロア・バルダムヨォン。
教会の連中には『蛇』と呼ばれているわ」
淡々と、アルクェイドは語る。
そうしなければ話せないという風に。
「ロアは強さだけで言えばネロよりも弱い。
だけどロアはどんな奴よりも厄介な存在だった。
あいつはね、『転生』するのよ」
「転生って――――死んだ後生まれ変わるっていう……?」
「そう、ロアは自分が生きている間に次の自分の肉体をあらかじめ決めておいて、
その人間が誕生した時点で『自分』の全情報を移植する。
『自分』を引き継ぐに相応しい知性をもった時、その人間はロアという吸血鬼になる」
「じゃあ、シキは……」
「ロアが選んだ転生先の肉体よ。
シキという人間がどんな奴だったかは知らないけど、
ロアが現れた時点でもう別の存在になっているわ」
「…………」
無意識の内に拳を握り締めていた。
それは、つまり人の人生を奪っているという事。
「私が話せる事はそれだけ」
そう言うと、アルクェイドは廊下の窓を開けて外に出ようとする。
「――――って、おい、ちょっと待てよ!!」
独りで飛び出して行こうとするアルクェイドを慌てて止める。
「……志貴」
その声は今までと違って悲しみを含んだものだった。
「ロアは私が絶対に、刺し違えてでも殺してみせる。
だから……志貴はさつきを助けてあげて」
「アルクェイド……?」
こちらに背を向けていてアルクェイドの表情は見えない。
「私ね、さつきに嫌われちゃった」
ぽつり、とアルクェイドが呟く。
「昨日、あのビルから飛び出してきたさつきにあったの。
何とか引き止めようとしたんだけど……
物凄い剣幕で怒鳴られて私は何も出来なかった。
私は……さつきの事何もわかってやれなかった」
「それは違う、弓塚はお前の事を嫌ってなんかいない。
ただちょっとその時は混乱していただけだ」
それは間違いなく言える。
「……私にはよくわからない、でもその時に思った。
きっと、さつきを助けられるのは志貴だけだって」
「…………」
「お願い志貴、さつきを助けて」
その願いは純粋だった。
だから余計に自分自身を考えない事に腹が立つ。
「ああ、わかったよ。
元々そのつもりだ、弓塚は必ず俺が助ける。
けどな、お前約束を忘れてないか?」
「約束?」
「三人でまた遊びに行こうって約束しただろ。
お前がいなくなったら守れないじゃないか。
弓塚が楽しみにしているのにどうするんだよ?」
「それは――――」
口ごもるアルクェイドに俺は強い口調で言う。
「弓塚は俺が助ける。
その間、シキはお前に任せる。
だけど刺し違えるなんて馬鹿な事言うな。
後で必ず俺も行くから」
「……うん、わかった。
頼りにしてるから」
音も無く、窓からアルクェイドが出て行く。
その窓を閉めて、ふと空を見上げた。
空には雲ひとつ無く。
ただ満月だけが佇み、光を降り注いでいた。
「行こう」
決意と共に俺は歩き出した。
街中探し回っている余裕はない。
弓塚はどこに行ったのか。
考えろ。
おそらく俺の夢の光景は実際に弓塚が体験したものだ。
あの場所は何処だった?
暗くて周りがよく見えなかった。
わかったのは目の前に壁があった事ぐらい。
ただ……弓塚にとって何か大切な場所みたいだった。
「……駄目だ、わからない」
考えてみれば俺は弓塚の事を全然知らない。
最近まで俺は弓塚を意識した事なんて無かった。
俺にとって弓塚を初めて意識したのはあの夕焼けの……
「……え?」
そういえばあの時、弓塚は楽しそうに俺の事を話していたっけ。
「あ……」
ある。たった一つだけ。
俺が知っている、弓塚が大切に思っている場所。
いる可能性はとても高いとは言えない。
だけどそれでも……俺はそこに賭けてみたいと思った。
気がつけば、その場所に向かって走り出していた。
その場所は昔と変わっていなかった。
かつて、女生徒達が閉じ込められてこっそり俺が開けた場所。
弓塚は懐かしそうにその時の事を俺に話してくれた。
俺は弓塚の事なんか全く覚えていなかったのにそれでも弓塚は楽しそうだった。
――――俺の通った中学校の旧体育倉庫。
その扉を、俺は震える手で開く。
月の光が開かれていく扉の隙間から入り込む。
闇が光に照らされて消えていく。
そして、闇に覆われていた少女を光は照らし出した。
「志貴……くん」
呆然とした表情で弓塚は俺を見つめている。
「弓塚……」
ここにいてくれた事を嬉しく思いながら一歩踏み出す。
「っ!! 来ないで!!」
弓塚は怯えたように叫ぶと俺に背を向けて部屋の暗がりに逃げ込む。
「どうして、どうしてここに来たの!?」
「そんなの決まってる」
また一歩、踏み出す。
「弓塚を助けに来たんだ」
俺の言葉にびくり、と弓塚が震える。
震えを止めようとしたのか弓塚は左手で右肩を指が食い込むぐらい握り締める。
「……いらない」
かすかに呟かれたその言葉は、なのに鋭く俺の胸に突き刺さる。
「もう、いいよ」
小さく、だがはっきりとした、拒絶。
「もう、助けなくていいよ」
「何を……言ってるんだ」
知らず、声が震える。
弓塚は大きく深呼吸をして言った。
「ねぇ、遠野くん」
こんな状況にも関わらず、その声は酷く穏やかに聞こえた。
「私ね、遠野くんの他の人と違う危うい所に惹かれてた。
私も同じようになりたかった」
懐かしい、遠い思い出を語るように弓塚は言葉を紡ぐ。
「でもこうなってしまってやっとわかったんだ。
こんなの欲しがるものじゃない。
あの当たり前の日常がどんなに素晴らしいものだったか。
遠野くんはきっとそれがわかっていたんだよね」
弓塚の顔は見えない、でもきっと弓塚は……
「遠野くんは……約束を十分守ってくれたよ。
遠野くんは日常が似合ってるし、いるべきだと思う。
だから……もう……」
弓塚は天を仰ぐように顔を上げて、
「もう、私に構わないで」
きっぱりと、自分の意思を告げた。
「そう……か」
俺はゆっくりと目を瞑る。
弓塚がどんな想いで今の言葉を発したのか。
それは俺の想像を絶するものだろう。
俺は……しっかりとその想いを受け止めなければならない。
そして――――
「いい加減にしろよ弓塚」
絶対に認めてなんかやらない。
想いに衝き動かされ、弓塚に駆け寄る。
弓塚の肩を掴み無理矢理こちらに振り向かせる。
「あっ……」
やっぱり。
弓塚はもうこれ以上無いほどに泣いていた。
涙が次から次へと溢れ出し、頬を濡らしている。
それでも必死で平静を装って、弓塚は自分の決意を告げたのだ。
その決意は、その覚悟は確かにすごいだろう。
だけど、どうしようもなく馬鹿だ。
「そうやって……また一人で耐えて、一人で苦しんで、
そして一人で泣くのかよ!?
いつまでそうしてばかりいるつもりなんだ!?」
そんな決意を受け取って喜べる奴なんていやしない。
その当たり前の事に弓塚は気付かない。
「答えろ弓塚!!
誰にも迷惑をかけたくないから助けを拒んで……
それでお前はどうなるんだ!?
それでお前は幸せになれるのか!?」
「……だって」
弓塚が表情が険しくなる。
「だって、しょうがないじゃない!!」
瞬間、視界が九十度回転する。
気がつけば、俺は床に叩きつけられていた。
弓塚が俺の身体の上に馬乗りになる。
そのまま弓塚の腕が振るわれる。
骨に響くような鈍い音がして、
頭のすぐ横の床が砕かれた。
息が触れ合うくらい近くに弓塚の顔がある。
その眼は、紅く染まっていた。
ドクン、と心臓が高鳴る。
コロセ
頭の中で何かが叫ぶ。
「馬鹿!!」
弓塚が怒りとも悲しみとも取れる声を上げる。
「何でわかってくれないの!?
私は……もう化け物なんだよ。
私、志貴くんだけは傷つけたくなかった。
でも私はそれすらも守れなかった。
志貴くんを傷つけた時、私は壊れたの」
弓塚の手が俺の首を掴む。
俺を見つめる眼が変わる。
涙が止まり、人を見る眼から獲物を狩る眼に。
「本当の事言うとね、今も志貴くんの血を吸いたくて仕方が無いの。
志貴くんの首を千切れる程咬んで血を一滴残らず飲み干したい。
そういう事を考えるだけでたまらなく興奮してくる」
心臓が早鐘のごとく鳴っている。
弓塚は本気だ。
頭の中の叫び声が強くなる。
コロセ
「志貴くん、これが本当に最後のチャンスだよ。
今、私の前からいなくなるなら見逃してあげられるかもしれない。
もっとも、はっきりとは言い切れないけどね」
そう言って弓塚は俺の首筋を撫でる。
いつでも殺せると誇示するように。
コロセ
コロセ
コロセコロセコロセ
――――うるさい、少し静かにしてろ。
頭の中の叫びを黙らせる。
「好きにすればいい」
「……え?」
思わぬ言葉だったのか弓塚が動きが止まる。
「俺だけ助かる、なんて半端な選択肢はいらない。
二人とも助かるか、どうしても駄目なら二人とも堕ちるか。
選択肢なんてその二つだけで十分だ」
「ふざけないで!!」
激昂した弓塚が俺の首を締め上げる。
気道が圧迫され、呼吸が止まる。
首の骨が折れる寸前、弓塚の手の力が緩んだ。
「かはっ……」
塞がっていた気道が拡がり、激しく咳き込む。
弓塚は仇でも見るように俺を睨みつける。
「これでもまだそんな事が言える?」
「何度でも……言う、弓塚の好きに……すればいい。
少なくても俺は……絶対に逃げたりはしない」
絶対に譲らない意思を込めて俺は弓塚を見返す。
そんな俺を見てますます弓塚は怒りを顕にする。
「いい加減にしてよ。
せっかく私が選択肢を作ったのに……
どうしてそんなにあっさり捨てられるのよ!?」
「それは……」
そういえばまだ一番肝心な事を伝えてなかった。
「弓塚の事が好きだから」
俺の言葉を聞いて弓塚が固まる。
「だから、弓塚を見捨てて俺だけ助かるなんて耐えられない。
それぐらいならいっそ弓塚に殺されたほうがよっぽどマシだ」
「嘘……嘘だよ。
だって前聞いた時は答えてくれなかった」
首を振って弓塚は俺の言った事を否定しようとする。
「確かにあの時は答えられなかった。
けど、今ならはっきりと言える。
俺は……弓塚の事が好きだ」
真っ直ぐ弓塚の眼を見て想いを告げる。
「信じられない……」
弓塚が呟く。
「自分を殺そうとしている相手に告白する人がどこにいるの?」
弓塚の紅い瞳から大粒の涙が溢れ出す。
俺は微笑んで返答する。
「だったら、人を殺す時に涙を流す化け物っていると思う?」
「あ……」
涙の水面の下で揺れていた紅い瞳が元の色に戻っていく。
「本当に……志貴くんはずるいんだから」
力が抜けて、倒れてきた弓塚を俺はそっと受け止めた。
「ねぇ、志貴くん。じゃあ一つだけお願いしてもいいかなぁ」
「もちろん。一つと言わずいくつでも」
「一つでいいよ」
弓塚は苦笑して言った。
「私の事、名前で呼んで欲しい」
「それだけ?」
「私にとっては大事な事だよ」
弓塚が少し膨れる。
その仕草がとても可愛くて笑みがこぼれる。
「わかった、じゃあ……」
弓塚を見つめる。
「さつき」
「うん」
眼を閉じて嬉しそうに反芻する弓塚……さつき。
そして、同じようにさつきが返す。
「志貴くん」
俺たちはしばらく見つめ合って、
どちらからとなく唇を合わせた。
「何だか夢みたい、志貴くんとこんな風になれるなんて」
俺の胸の上に頭を乗せてさつきが言う。
「おかしいよね、私はずっとこうなりたかったのに。
心のどこかでその願いはきっと叶わないって思ってた」
さつきは俺の服をぎゅっと掴む。
そうしなければ俺が消えてしまうとでも言うように。
その手は酷く震えていた。
「夢じゃない」
さつきの髪を優しく撫でる。
今はただ、さつきが愛しい。
「俺はここにいるから」
「うん……」
目を閉じたさつきの頬に一筋の涙が伝う。
「志貴くん、私こんな身体になっちゃったけど」
さつきが掴んでいた手を放して俺を見つめる。
「今は幸せだよ」
「さつき……」
さつきの瞳に曇りは無かった。
「だから、私行くね」
「え?」
その意味を理解する前にさつきの瞳が紅くなる。
「ぐ――――」
それを見た途端、視界が揺れた。
急速に意識が薄れていく。
「わがままだけど、決着は私が着けたいの」
暗くなっていく視界。
さつきの声だけが俺の耳に届く。
もう、さつきの顔が見えない。
それでも俺は叫ばずにはいられなかった。
「やめろ、さつき――――!!」
さつき一人で戦いに行くなんて無謀でしかない。
さつきはきっとそれがわかってて言っている。
「ありがとう――――」
さつきの声が遠く聞こえる。
「それと、ごめんね」
俺の意識はそこで途切れた。