全身を映す姿見の前。トレードマークのボサボサ頭をオールバックに撫でつけた攸夜が、蒼い無地のネクタイを締めている。慣れた手つき、慣れた手順で危なげない。
ネクタイを締め終え、紺色の背広に袖を通す。その胸ポケットに正方形に四つ折りし、さらに三等分したポケットチーフを頭が覗くように差し込んだ。ネクタイと同じの鮮やかなシアンブルーは攸夜のシンボルカラー。濃紺のビジネススーツと合わせて、バリアジャケットを思わせる衣服が彼の仕事着だった。
フェイトを送り出したあと、攸夜はこの二ヶ月ほどで日課となった家事に取りかった。朝食の後かたづけを皮切りに、各部屋の掃除──特に寝室は念入りに──、衣類の洗濯、ゴミ出しなどなど。テキパキ動作は淀みなく、ハウスメイクを完璧に仕上げる手際はまさに芸術的。メイド魔王に師事していただけのことはある。
家の仕事は二人で分担すると同棲を始めるときに──全て自分がやると主張する攸夜を、フェイトが押し切った形で──取り決めたのだが、本格的に入局し、執務官としての職務が増え始めたフェイトは、毎日帰ってくるだけで精一杯の有様。攸夜の分担が増えることは明々白々、自然の成り行きだった。
そのことについてフェイトは忸怩たるものを抱えていたものの、一方の攸夜は嫌な顔一つせず、むしろ、最愛の恋人の世話が出来ることを至福の喜びに感じていたりするから始末に負えない。
転生を経由した志宝エリスから性質の一部を引き継ぎ、家事全般を苦にしない性格の攸夜にとっては大した労力でもないのだろう。加えて、当初は一人で全てやるつもりだったのだから当然と言えば当然である。
こんな感じで今のところ、二人の間に不和は起きていない様子だ。
そんな攸夜だが、彼は彼で管理局関係者との打ち合わせ、各管理世界政府の要人との密会、犯罪シンジケートの撲滅、発生した“冥魔”の駆逐、勝手気ままな魔王の相手とその他諸々──かなりのハードスケジュールを東奔西走とこなしている。だが、基本的に彼の移動手段は次元すら越える空間転移──普通に徒歩などで移動すると絶望的に迷うため。たまに転移事故を起こしたりもする──であるし、その気になれば現し身の一つや二つ創って替え玉や人手にすることも容易い。だから、フェイトが帰宅する時間に合わせて夕食や風呂を用意しておくことなど造作もなかった。
それに、どこに居ようが関係なく、攸夜にはフェイトの居場所が手に取るようにわかるのだ──比喩ではなく、事実として。
理不尽極まりない異能を私生活にも遺憾なく、さりとて無駄に活用している攸夜だった。
「っと、そろそろ行くか」
どこへ出しても恥ずかしくないビジネスマン然とした装い。ちなみに、冬場はこの上からベージュのトレンチコートを羽織るのが彼のお気に入りだ。おっさん臭いともっばら不評だが。
室内の最終確認を終えた攸夜は、ワックスがけがされてツヤツヤの革靴を履き、ご丁寧にも玄関から外に出る。
「ロック」の一言で戸締まりをして──、空間を歪める。黒い闇に溶け込むように、攸夜の長身は消えていった。
──ミッドチルダ某所。
全容もわからないほどにほの暗い室内、三本のシリンダーが妖しく輝く。
巨大組織、時空管理局をその開設当時から牛耳る“最高評議会”──その隠れ家であり、攸夜の主な仕事場の一つだ。ここで最高評議会と攸夜とで毎日行われる定例会議が始まる。
秘書役のアニー・ハポリューが書類片手に佇んでいた。
「やあやあ、みなさん。今日もお元気そうで何より」
『それは肉体を捨てた我らに対する皮肉か、シャイマール?』
ほとんどタイムラグなしで転移した攸夜は、軽薄な薄笑いを浮かべ、軽薄な物言いを脳髄たちに投げかける。機械によって合成された音声が、器用にも声色に込められた不愉快さまで再現して彼を迎えた。
「とんでもない。俺は評議会のみなさんと仲良くしたいんですよ。一緒に世界をよりよくしようと企むナカマじゃないですか」
『フン、心にも無いことを』
『お前が無断でスカリエッティを捕縛したこと、忘れたとは言わせんぞ。火消しにどれだけの労力を払ったと思っている』
「やだなぁ、あなた方の暗殺を未然に防いで差し上げたというのに。感謝されることはすれ、非難される謂われはありませんよ?」
『感謝しないとは言わん。しかしやりようを考えろ、と我々は言っているのだ。お前の勝手の煽りを受けて、こちらの研究機関は軒並み壊滅したのだぞ?』
「世の中の片隅が綺麗になっていいことじゃないですか。中将閣下も検挙率が一気に上がって喜んでいるでしょう」
『そのレジアスだが、今年度の予算が例年にも増して減ったと愚痴っておったがな。開発費と設備投資費が嵩んで管理局の財政は火の車だ』
『我々が確保していた機密費やプール金の一部で補填せねば破綻しかねなかったぞ』
『“世界樹”計画についてもそうだ。“冥魔”打倒に必要不可欠だとは理解しているが、あの全容はお前の個人的な趣味だろう? 過剰戦力だという、他の管理世界や聖王教会からの突き上げをどうしてくれる』
「はてさて、何のことやら」
糾弾を、あからさまなお為ごかしで飄々と受け流す攸夜。梨の礫というか、破天荒な孫に振り回されるお爺ちゃん状態で、利用するどころではないようだ。
このような間柄になるまでに、血で血を洗う血みどろの抗争が繰り広げられた、かどうかは定かではない。ただ、攸夜が身内以外に対する容赦をカケラも持ち合わせていないことと、最高評議会が“魔王”の──人知を越えた存在の恐ろしさを嫌と言うほど教えられた、ということだけは述べておく。
「前置きはこれくらいにして。アニー、今日の報告を始めてくれ」
「はい。ではまず、各部に配備されたマシンサーヴァント制式仕様の稼働状況ですが──」
静観していたアニーが、手元の資料を捲りながら報告を開始した。
──“マシンサーヴァント”。それは、ファー・ジ・アースの“錬金術師”が用いる機械仕掛けの使い魔の名前である。獣、鳥類、幻想類はもちろん、人型にデザインされた個体も存在し、ここで話題にされているのは人型──いわゆる、ヒューマノイドタイプのものだ。
本来、“錬金術師”でなければ扱えないところを様々な機能──主に戦闘力、武器変形機構など──のカットで解決、先行試作型の試験運用を経て、この春に晴れて実戦配備に成功した。開発局の有志と、監修に携わったテスラ・陽炎・フラメルの努力の結晶である。
テスラの協力を得るために、攸夜はチョココロネを山ほど焼く羽目になったのは全くの余談だ。
現在、管理局で稼働しているマシンサーヴァントは全て魔力炉を内蔵しない充電式で、オペレーターなどの非戦闘員系業務を担当している。ミッドチルダの優秀な人工知能技術を応用、ヒトと遜色ないコミュニケーション能力を備えた“彼ら”は、人手不足にあえぐ時空管理局のまさに天の助けとなった。
現在、二千体を越える機械の隣人たちが、地上本部や本局にて日夜を問わず人々の未来のために働いている。
なお、特にゴタゴタもなくマシンサーヴァントが受け入れられたことに攸夜は驚いていたりする。インテリジェントデバイスという前例の存在を加味しても、ミッドチルダや管理世界の民度はおおむね高いらしい。
とはいえ、協力者である“詐術長官”カミーユ・カイムンと“告発者”ファルファルロウを使ってヒューマノイド・ロボットに関係する条文を管理局法にねじ込む作業は忘れていない。人間社会において法定遵守と根回しの大切さは説明するまでもなく、自ら隙を招くような真似はしなかった。
「“教育”の方はどうです?」
『至って順調だ。──まったく、我々をこき使いおって』
「亀の甲より年の功、未来の管理局を担う“人材”を自らの手で育てられるんです。本望でしょう?」
マシンサーヴァント、そして、未だ完成を見ない“上位機種”の基礎人工知能の教育は、評議会と管理局魔導師が保有するインテリジェントデバイスのコピーデータが担当していた。
任務の内容に合わせて最適化された知識はもちろん、道徳や一般教養、人間関係を円滑に進める術を学ぶ。そして、規格化生産された“身体”にデータを移植することで“彼ら”は生まれ、その後、それぞれが経験を積み、それぞれの個性を得ることになる。
「それから、無限書庫の“秘密侯爵”リオン・グンタより“ギャラクシアンライナー”建造を要請する上申が」
「……あの鉄子め。銀河鉄道でもSDFでも、落ち着いたら好きなだけ作ってやるから大人しくしとけと伝えておけ」
「了解しました。では続いて、教導隊で試験運用中のガンナーズブルームおよびウィッチブレードについてですが──」
会議は続く。
この後、報告に基づいて今後の方針の決定や、遂行中の計画の微修正などが話し合われるのだが、管理局全体の運営について攸夜は完全にノータッチ。口出しは基本的にしない。
それは門外漢だからというより、必要がないからだ。最高評議会には長い間、時空管理局の巨体をある程度維持してきた実績がある。よほどのことがない限り、下策は打たない。
実際、攸夜は最高評議会をお人好し集団だと見抜いていた。切羽詰まれば手段を選ばないだろうが、必要に迫らなければ間違った道は取らないだろうと。
──攸夜にとって、ここにある“遺物”たちは合従連衡の間柄であるものの、同時にいつでも蹴散らせる路傍の石でしかない。そうしないのは、利用するに足りる価値があるから、というのは建前で、単にその後に起こるであろう混乱の処理が面倒なだけ、眼中にないだけだ。黄河は水溜まりを叱らないのである。
最高評議会が真っ黒なのは攸夜も重々承知している。だが正直、彼らが人体実験をしようが何をしようが知ったことではない。それで“世界”がよりよくなるのなら、嫌悪しつつも賞賛するだろう──身内に被害が出ない限りは。
フェイトに述べた「命を冒涜する真似は嫌い」とは所詮その程度の、信念とも呼べない張りぼてだった。
最大多数の最大幸福──それが人間社会の正しいあり方、最良の理論だと。肝心なのは、幸福の範囲を最大限にまで広げる努力と、こぼれ落ちてしまう人々を救う仕組みを作ること、それを“みんな”で維持することだと攸夜は考えていた。「独りでは何も出来ない」──この言葉は、その考え方を象徴している。
以前、反目する攸夜とクロノについてユーノがフェイトに語ったことがある。「ユウヤは“自由”と“混沌”」の人だ、と。
確かに、攸夜本人の性格にそういった要素があることは否定できない。しかしながら、本質的に宝穣 攸夜という“人間”の思想は、“管理”と“統制”──最も正しく、最も賢い、統べるに値する能力と意志を持った指導者によって統治・管理された世界こそが理想郷である、という独裁者の思想だった。
──考えてみてほしい、攸夜は破壊神“シャイマール”のレプリカだ。皇帝カイザー“シャイマール”とはその称号通り、群雄割拠の裏界ファーサイドを圧倒的な力によってまとめ上げ、裏界帝国という国家を造った始祖王を指す言葉である。その王の子を自称し、彼あるいは彼女から知識と記憶を引き継いだ攸夜が、そういった考えに行き着くのは当然の結果だった。
極端な話、民草が安寧と幸福を得るなら、思想まで統制された完全なる管理社会を肯定しかねない。もっとも、エゴイストな攸夜であるから、自分とその周りが対象になれば断固として拒絶するだろうけれども。
それでいて、自らが支配するという直接的な行動に走らないのは、世界が一部のイデオロギストのものではないと理解しているからだろう。由らしむべし、知らしむべからず──結局のところ、民衆は自分たちの頭がすげ変わろうとどうでもいいのだ。雨風がしのげる場所と一日の食事、明日へのわずかな希望さえあるのならば。
────あるいは。
すでに攸夜は“世界”を手にしているからなのかもしれない。
フェイトの傍らという、彼だけの、なにものにも代え難い“世界”を。