混沌の闇の帳が降りる。
闇よりも昏い暗黒の世界。
陰々滅々とした怨嗟の声が渦巻く邪悪の坩堝。
「あれ〜、あれれ〜?」
無邪気に聞こえる少女の声が響き渡る。
ふわりと軽やかに舞い降りたのは、妖しく光る紅き翼の黒い天使――“冥刻王”メイオルティス。キョロキョロと、何かを探すように常闇の領域に視線を彷徨わせていた。
「アリシアちゃんいないなー、どこ行っちゃったんだろ?」
「――どうしたんだい、メイオ」
その背後、闇から溶け出すように薄紫のブレザーを着た少年が姿を現した。
紅い羽根を折りたたみつつ、振り返るメイオ。この領域を作り出した人物を見つけ、作り物めいたかわいらしい笑顔を浮かべる。
「あっ、アンリ」
「彼女に何か用事かな?」
「うーん、そーいうわけじゃないんだけどねー。なんかヒマだし、アリシアちゃんで遊ぼっかなーって」
ある意味彼女らしい、無邪気で不穏なセリフ。「遊ぶ」の意味は額面通りではないのだろう、人形のように整った顔立ちに浮かぶ表情は空恐ろしい。
しかし少年は、薄ら笑みを崩すことなく、納得したふうに頷いた。
「ああ、そういうことか」
「アリシアちゃん、お使いかなにかな?」
「いや、今のところ特に予定はないからね、彼女には自由にさせていたんだけど――ちょっと探してみよう」
そう軽い調子で言うと少年は瞠目し、数瞬の間、思索に没頭する。自らの強念を広げ、“表”の世界へ伸ばしていく。
探す相手は自ら(・・)の落とし子。彼の言うシナリオの要となるべき存在――そしてそれはすぐに見つかった。
――――さしもの少年も予想だにしない“出逢い”とともに。
「おやおや、これはこれは……」
「どしたの?」
瞠目し、少年の様子にメイオが不審げな声を上げる。
少年のに浮かぶのは、常の薄ら笑いではない。
どこか楽しげな玩具(おもちゃ)を見つけた子どものように。あるいは、裏庭で捕まえた昆虫の足をもいで遊ぶ幼児のように――
喜色満面としか言いようのない表情。残酷で、無慈悲で、不条理で、理不尽な――、それでいて純粋無垢な、心の底から愉快そうな笑み。
「少し、見過ごせないイレギュラーが発生したみたいだね」
“彼”の持つ妙な奇縁は重々承知していたつもりだが、まさかここまでとは。彼の人物の趣向から推察すると、あるいは気まぐれで少年の計画を根底から粉砕しかねない。
だが逆に、このイレギュラーを利用すれば今までにない極上の悲劇(トラジリティ)を演出することができるだろう。少年は、そう考える。
「イレギュラー? アンリのシナリオにもそんなことが起きるんだねぇ」
「人生は、アクシデントと準備不足の連続さ」
気障ったらしく肩をすくめ、戯言を吐く。
ふぅん、と短くもらし、メイオは口元に妖しくも艶やかな笑みを浮かべた。
比喩的な表現の真実は定かではないが、彼女はその極めて高い知性がひしひしと感じ取っていた。とても愉快で悲劇的なことが起こる――そんな予感を。
「まあ、これもいい機会かもしれないね。そろそろ、彼と直に相見えるとしようかな」
す、と身を翻す少年。その後ろ姿を、可憐な冥魔王がひどくワクワクとした面もちで見つめている。
無邪気な色を帯びた深紅の双眸は好奇心できらきらと輝く。
なんだかいいヒマつぶしができそうかも。そう内心で期待するメイオが彼に協力している理由はいくつかあるが、一番の理由は「愉しいから」。少年の創り出す混沌は、本場(・・)の“冥魔”たる彼女にとって心地のいいものだ。
ここでなら、自らが率先して謀略を編み出し、無能な配下たちを動かさなくてもいい。ただ本能の赴くまま、破壊と絶望を振りまくだけでいい。後は、“ベルちゃん”を確保できればもっと最高なのだが。
「にゅふ、にゅふふ……」
妙な方向に思考を跳躍させたメイオを視線の端に置き、少年は静かに、超然と宣言する。
「シナリオを進めよう。――この僕の手によって」
□■□■□■
時空管理局地上本部にて某中将との悪巧みという名の会合の後、攸夜は市内のジュエリーショップでちょっとした野暮用(・・・)を済ませると、いつもの背広姿のまま愛車(オラシオン)に跨って、目的もなくクラナガンの街を走っていた。
風に吹かれて気の向くまま、自由気ままな浮き雲のように、独特の駆動音を響かせて機械仕掛けの騎馬がコンクリートの森林を駆け抜ける。
性質的に魔王な攸夜は防衛という戦術戦略は苦手であり、不得手だ。その上正体も掴めぬ敵を相手にすればどうしても後手後手に回らざるを得ず、そうした理由で若干煮詰まった気分を転換する目的で、彼はこうして時折独りで街を彷徨う。
さすがにこの緊迫した情勢の中、ふらりと当て所なく放浪するわけにもいかない。致命的な方向感覚に任せて走れば、見たこともない風景に出会うこともままあり、それなりに好奇心と冒険心が満たされて楽しめているので攸夜としては満足している。
また、時にはクラナガン各地に点在する児童養護施設――要するに孤児院へと足を運ぶこともある。攸夜自身の自由に動かせる資金を用い、趣味の人助け――あるいは世直し――で支援している施設の子どもたちと戯れるのだ。
フェイトほどではないが彼もなかなかの子ども好きであり、よくも悪くも無垢な感情の塊たちとの触れ合いはストレス解消になる。無邪気というかわがままなところも、叱りはするがそれはそれで微笑ましい。
“子ども”とは、どんな金銀財宝よりも尊い“宝”である。その未熟な身に秘めた無限大の可能性は、命を懸けて護るに値するだけの価値があるものだ。
“子ども”とは、攸夜の歪な正義感――正義と悪は相容れる――と、人外の価値観――ヒトの心は素晴らしいが、ヒトの命は空気よりも軽い――の中でも、最上位に位置する概念なのである。
――――結論を言えば、宝穣 攸夜は奇特な魔王だ、ということだ。
「……うん?」
ヘルメットの斜光バイザーの向こう、高速で流れていく景色に、攸夜は見慣れない――ある意味で見慣れた小さな姿を見留めた。
黒いリボンでツーサイドテールに結った灰銀色の痛んだ髪。胸元に、小さな赤いリボンがあしらわれたモノクロカラーのシンプルなワンピース。長ずれば、相当な美女となるであろう目鼻立ちの少女が、錆の目立つブランコにひとり寂しく座っている。
――――どこか儚げな、危うげな雰囲気を纏った幼い少女だった。
オラシオンの速度が落ち、直に路肩に停車する。
攸夜には、彼女に心当たりがあった。こんな街中で見かけるはずもないが、彼が“彼女”を見間違えるなどあり得ない。
(――ったく、またこのパターンか。自分の奇運にはつくづく呆れるばかりだね。まさしく“混沌の運命”、ってか?)
フルフェイスのヘルメットの下、自身に宿るやっかい極まりない運命――縁(えにし)に微苦笑をこぼして。
オラシオンを急激にUターンさせ、もと来た道を戻る。
そして、訪れたのはセントラルパーク、自然公園の一角。錆びついた遊具がぽつねんと設置されている小さなスペース――
人々の記憶から置き去りにされたかのような、どことなく寂れた雰囲気がフェイトとの思い出の場所を連想させた。
ヘルメットとオラシオンを月衣内に収納し、攸夜はあえて“彼女”の死角に回り込んで近づいていく。当然、気配を消して風景に溶け込むように息を潜めて。
「――よお、妙なところで逢うなァ」
「ひゃあっ!?」
背後から突然チンピラめいた声をかけられ、文字通り飛び上がった少女がブランコから転げ落ちる。背中から、こてんとひっくり返った。
「いたたた…………っ!?」
痛めた腰をさすり、仰ぎ見る。生暖かな笑顔で見下ろす攸夜と視線が合って、彼女は絶句した。スカーレットの瞳をまん丸と、あらんばかりに見開いて。
彼女の名前はアリシア・テスタロッサ――フェイト・テスタロッサ・ハラオウンのオリジナル。“冥魔”によって黄泉路から引きずり出された哀れな娘。
交戦時と明らかに背丈や体格が違うのは、変身魔法の結果。攸夜にも見覚えのあるこの四、五歳前後の容姿がおそらく彼女本来の姿なのだろう。
「なっ、なななな――なんで、お、おまえ、どうしてっ!?」
ぱくぱくと、酸素を求めるコイみたいに口を開け閉めして言葉を失うアリシア。ようやく出てた言葉もどもりにどもる。
「それはこちらのセリフだな。“闇の落とし子”が、こんな街中を堂々とぶらぶらしている方がおかしいだろう。常識で考えろ、常識で」
「うぐ」
反論の余地もない正論。ぐうの音も出ないとはこのことだ。
と、ここでようやく正気に戻ったのか、アリシアの全身から瘴気じみた身の毛もよだつ魔力が噴き出す。戦闘態勢に入る予兆であろう。
攸夜はしかし、呆れるような声色で「やめておけ」と高圧的に告げるだけで歯牙にもかけない。
「お前の実力は見切った。フェイトならともかく、俺とじゃ勝負にもならんよ」
「……っ」
軽く殺気と魔力をぶつけてやれば、アリシアは次元(ステージ)の差を理解させられて矛を収める他ない。ホテル・アグスタでの一戦から見ても、力の差は歴然だった。
それでも、血みどろの瞳で睨らむのをやめない度胸というか負けん気は称賛に値するだろう。小さく愛らしい姿では、跳ねっ返りのお転婆娘に見えてしまいかわいらしくて仕方がないのだが。
「でさ、結局お前さんは何してんの?」
「……」
遙か高見から見下ろす視線を鋭いルビーの目線で睨み返し、黙りを決め込むアリシア。しかしそれは、怯えと警戒心の裏返しでしかない。
やはりというべきか、この娘も傷ついた野生動物じみた反応をする。ただ、フェイトが犬科とするならこちらは何やら猫っぽい。
濁っていなければ、好奇心の強そうなくりくりした眼や、気分屋で気難しそうな佇まいが小さな淑女(レディ)を思わせた。
――たまにフェイトにネコのコスプレをさせていることは、この件には何ら関係ない。
「まあ、ぶっちゃけた話目的とかこの際どうでもいいんだけどな。どうだろうと、俺のやることは変わらないし」
「はぁ? おまえ、なにいって……うひゃあ!」
言うなり攸夜は不審顔の少女の背後を音もなく取ると、腰の辺りをむんずと左腕で抱え上げ、小荷物のように軽々と小脇に抱える。およそ、淑女(レディ)に対する扱いではない。
「世の中は弱肉強食、弱者は強者に従うしかないのさ」
益体もないことを爽やかな笑顔でのたまう攸夜。仮にこの場にフェイトがいたならば、「蒼い“あくま”がいる……!」と彼のイイ笑顔に震え上がり、恐れ戦いたことだろう。
「や、やだっ、はなして!」
当然、アリシアは目一杯に喚き散らして暴れるが、為すすべもなく捕らわれの身になってしまう。羞恥で真っ赤になっているのが妙にかわいらしい。
何故か異能の力が使えないので、アリシアは五歳の幼女は素のままの身体能力で抵抗しなければならない。攸夜が別に人外でなくても、ちょっと子どもの扱いに手慣れていれば制圧など簡単だ。
「はなせ! はなせってば、このバカっ! 変態っ! スケベっ! ロリコンっ!!」
「はっはっは、何とでも言うがいいさ。お兄さんは元気いっぱいな子が大好きだぜ」
「わたしの話を――ちょっ、ちょっとぉーーー!?」
罵声にも聞こえる抗議の声を、微妙にアウトなセリフでスルーして、攸夜は何処かへと歩き出した。
――未成年者略取、立派な犯罪である。