やさしい月の光が、紺色の空から静かに落ちてくる。
私は息をするのも忘れて、黙りこくったままの“彼”と睨み合いを続けていた。
すぎた時間は、一分? それとも十分? ……時間の感覚がバカになっちゃいそうだ。
バルディッシュを握る手のひらがじとりと汗ばむ。
「で、こんな夜更けに何のご用かな、“魔導師”のお嬢さん?」
ようやく“彼”の口から紡がれた言葉はおどけたように飄々としていて。子ども扱いされてるみたいでちょっとかんに障る。
いろいろな意味でぽかんとしてしまった私は、動揺を押し隠して平静を装い、言わなきゃいけないことを口にした。
「──時空管理局です。この現場について事情をうかがいたい。武装を解いて、投降して」
「俺が“これ”に関係しているとどうして思う?」
「これだけの状況証拠があれば十分だよ」
「さて、それはどうだろう。関係してるもしれないし、違うかもしれない」
要領を得ない、人を食ったような物言い。表情もどこか軽薄だ。
……論点をズラされてる。その手には乗らないよ。
「そんなの関係ない。あなたから話を聞けばそれで済むことだ」
「ほう……」
今の返答のなにが楽しかったのか、“彼”が唇を薄くゆがめる。クツクツともらす軽薄な笑みに、私は期待を裏切られたような──そんな苛立ちを感じはじめた。
「道理だな。事実は数多あれども真実って奴はいつでも一つだ。
だがな、お嬢さん。質問して、何でもすんなり答えが返ってくるなんて思わないことだ。人間ってのは誰しもが何かを偽って生きてるんだから。俺しかり、君しかり、ね」
「なにを……」
煙に巻くような意味深なセリフに鼻白んでしまう。私のなにが偽っているっていうんだろうか。
返す言葉を懸命に探していた私に、“彼”はにやりと人の悪い笑みを見せて、バックステップで数歩後ろに下がる。
それから、ばさりとネイビーブルーのコートがひるがえして背を向けた。
「えっ」
大げさに裾を振り回した“彼”は、そのまま脱兎のごとく暗闇の中に走り去る。
見事としか言いようのないその逃げっぷりに、私は呆気にとられてしまって。
「あっ! ま、待って!」
すぐに意識の糸を紡ぎ直し、あわてて彼の後を追う。
視界の隅に、“彼”が斬り倒した人影──きれいに真っ二つにされた二十代後半の男性の遺体が映った。
身なり自体は悪くないから旅行客かな? でも、服の端々が切れてたり解れたりしてて、浮浪者みたいだ。
そして、一番の異常は────
(──ううん。今は、考えないでおこう。あのひとを追いかけるのが先決だ)
余計な思考をカットして、追跡に専念する。──というか、“彼”、足が思いのほか早いからそんな余裕ない。
最近、さらに身体能力が上がってきた感のある親友のひとり──すずかと同じくらいかも。
五メートルくらい先をひた走る“彼”。袋小路になってる行き止まりに差し掛かると、なにを思ったのか勢いを保ったままビルの側面に足をかける。
するとそのまま壁を足場にトントントン、と軽快な足取りで駆け登っていってしまった。
「……」
あまりの暴挙にあ然として言葉が出ない。
なんという技量と体力の無駄づかいだろうか。伊達や酔狂にも程度があるんじゃないかな?
そこで、はたと思いついた。──どうして、私は「“彼”が飛べない可能性」を真っ先にあげないんだろう。陸戦魔導師だってこともあるかもしれないのに。
自分の不可解な思考に心の中で首を傾げつつ、魔力を練り上げて飛行魔法を発動。バルディッシュのサポートの下、慣れ親しんだ術式が私の身体を重力から解放し、金属質のショートブーツがアスファルトを離れた。ふわりとマントがはためく。
体勢が安定したのを確認すると、私は速度を一気に上げて、壁面と平行に飛行。ずいぶん先まで行ってしまった“彼”の追跡を続行する。
『こちら、テスタロッサ・ハラオウン執務官。本部、応答願います』
『──はい、どうされましたか?』
急上昇しながらオペレーターを呼び出す。私が捜査中なのは伝えてあるからすぐに返答が返ってきた。
『事件の重要参考人を発見、現在追跡中。交戦が予想されるため周辺区域に強装結界を展開して隔離を。それから、被害者と思われる遺体の回収もあわせてお願いします』
簡潔に事態を報告して、結界の構成を依頼。このまま“彼”を追いかければ、戦闘になることは明らか。
市街地での戦いが危険なことは、なのはの姿を見て痛いほどわかってる。
『位置を確認しました。──武装隊の派遣は必要でしょうか?』
『いいえ。私一人で十分です』
『了解しました。御武運を』
『ありがとう』
オペレーターの了承のあと、ややあって広がった結界空間。仕事が速くて助かる。
“相手”もたぶん、閉じこめられたことに気がついているだろう。だけど、それに対するアクションがあるとは思えない。
もしもそのつもりなら、最初、私に遭遇した時点で転移で逃げてしまっただろうから。
私の予想通り、ビルの屋上に悠然と立ち待ちかまえていた黒髪の男の子。風にあおられて、コートの裾がはためいている。
左手をボトムのポケットに突っ込んで、右手に持った長剣を気だるそうに担ぐ。
「…………」
私の姿を確認した彼は、妖しく微笑すると、きびすを返して遁走を再開。
獣のようにしなやかな走りで、ビルからビルへと次々に飛び移っていく。
誘ってる。あからさまだ。
────いいよ。この追いかけっこ、つき合ってあげる。
「ぜったいに、あなたを捕まえるから!!」
叫び声が聞こえたのだろうか、少し先を疾走する“彼”が、笑みをこぼしたような気配をわずかに感じた。
□■□■□■
夜の街を駆けめぐるふたつの人影。
逃げるのは、黒髪蒼眼の少年。
追いかけるのは、金髪紅眼の少女。
『プラズマバレット』
黒き戦斧が発した合成音声と共に生成された魔力スフィア。
「──行け!」
「……!」
逃げる少年の頭上から進路を塞ぐようにして、多数の帯電した金色の魔弾が雨霰のように降り注ぐ。
フェイトの放った誘導射撃魔法──“プラズマバレット”が着弾し、その内に溜め込んだ高圧電流を炸裂、放電させて少年の行く手を遮った。
「──“荒御霊”」
少年は何食わぬ顔で何かをつぶやき、迫る電撃から軽やかなステップで逃れる。そのままの勢いで、前方を取ろうと飛来したフェイトに向け、長剣を逆手に握った右の拳を突き出した。
拳の先に生まれる闇黒の塊。
発露する莫大な魔力。彼が“母”より受け継ぎし破壊の力──その一端が、“魔法”を変質させる。
「ヴォーテックス!」
発動した魔法──“ヴォーテックス”は、その像をぶらせて無数の弾丸と化す。神の力の片鱗を揮う“荒御霊”により拡大された、“ヴォーテックス・ファランクスシフト”とでも呼ぶべき黒球の大群が、大口径のチェーンガンのごとく斉射され、金の少女に襲いかかる。
前面にばら撒かれた魔弾。顔色を一瞬だけ変えたフェイトは、即座に突撃。臆することなく魔弾の中に飛び込んだ。
「くっ! ──こ、のっ!!」
弾幕に出来た僅かな隙間。フェイトは、舞うように、踊るように──微細かつ丁寧な制動と卓越した体勢制御を駆使して、ほぼ速度を落とさずにすり抜け、少年に迫った。
さすがにいくつかの魔弾は避けきれずにかすり、彼女のバリアジャケットに傷を残す。
然しもの彼も、少女のあまりの無茶っぷりに目を見開き、同時に彼女が“何も変わっていない”ことに密かな笑みをこぼした。
そんなこととはつゆ知らず。弾幕を抜けきったフェイトは、円心運動の流れる動作でバルディッシュを横薙ぎに払う。
それに合わせて少年の携えた異形の長剣──“デモニックブルーム”が跳ね上がった。
甲高い太刀音が鳴り響き、結界空間の静寂を破る。
「チ……」
「く……っ!」
火花を散らして鬩ぎ合うバルディッシュとデモニックブルーム。顔をつき合わせるようにして、困惑と戸惑いの色を写した紅と好奇と獰猛な光を宿した蒼──ふたつの視線が交わった。
「事情を聞かせて!」
「“話してもきっとわからないから”」
「っ!?」
芝居がかったセリフに、強い既視感を覚えたフェイトの意識に出来た一瞬の隙間──それを見逃す少年ではない。
「シッ!」
半身の状態から、腰の捻りで放たれた左の手刀。顔面を狙った遠慮も加減もない一撃を、首を傾げることで何とか躱したフェイトは、いったん後退。体勢を立て直そうと距離を取る。
「まだまだぁ! ──走れッ!」
休む暇は与えないとばかりに少年は追撃は続く。魔力の刃──“オリハルコンブレード”を纏わせた長剣を、左手に持ち替えながら横薙ぎに一閃。
蒼白い魔力が鋭い光波となって低空を滑る。
「っ、と。──って、わっ!?」
それを飛び越えることで回避したフェイトの眼に映った光波の群。袈裟斬り、斬り上げ、唐竹割り──連続して放たれた斬撃が、猛スピードで飛翔した。
フェイトは、光波の嵐を前に雷速の集中で魔力を練る。
『ソニックムーブ』
彼女の十八番──“ソニックムーブ”が発動。剣を振り下ろした格好の少年の目の前で、金の少女が残像を残して消え去った。
(──取った!)
一瞬にして少年の背後に回り込んだフェイトが、バルディッシュを加減気味に振り下ろす。──明確な敵対者相手だというのに、大けがをさせないように手加減してしまうのは彼女の溢れる優しさ故だろう。
ごめんなさい、と小さく呟いたフェイトの思惑はしかし、大きく外れた。
「うそ、なんで!?」
「如何に速く、眼で追えなくとも、そこに来るのがわかっていれば合わせるのなんて容易いさ。背後に回りたがるのは君の悪い癖だな。修正しておけ」
背後から強襲する戦斧にピタリと白刃を合わせた少年は、したり顔を作り、驚愕に動揺している少女へと斬りかかる。
──速度を最大の武器とするフェイトの神速を予測し、あまつさえ防いで見せる人間などまず居ない。少なくとも、“初見では”。
「ッ、知ったような口を!」
「“知ったような口”、か。なかなか面白いことを言うね」
「さっきからごちゃごちゃと! なにが言いたいの!? あなたはいったい──私のなんなの!?」
刃を数え切れないほど合わせ、言葉を投げかけ、交わし──フェイトはわだかまっていた感情を、衝動に突き動かされるまま吐き出した。
「それを解き明かすために俺と戦っているんだろう? ならば横着せず、俺を討ち倒して見せろ──“魔導師”!」
返答は、突風の如き斬撃。
「違う! 私の名前は……そんなじゃないっ!」
剣圧に弾かれ、吹き飛ばされながら、フェイトが砲哮する。
主の叫びに呼応して、バルディッシュの柄の先に組み込まれた機構が可動。内蔵されたリボルバー式のカートリッジシステムが魔力の弾丸を炸裂させる。
突き出された左手。発生するミッドチルダ式の円状魔法陣。それを取り囲む、加速・増幅用の環状魔法陣。
「私の名前は──フェイト・テスタロッサだ!!」
『プラズマスマッシャー』
膨れ上がる金色の雷光と魔力が臨界点に達し、解放された。
フェイト愛用の砲撃魔法──“プラズマスマッシャー”が、一条の光芒となって闇を斬り裂く。
「──ッ!」
着弾。爆発。轟音。
「……はぁ……は……っ」
巻き上がった粉塵が、夜風に吹かれて散っていく。
「ククッ、やるじゃないか。こんなに早く“羽根”を使わされるとは思ってなかったよ」
愉悦と余裕を隠そうともしない声。
雷光を遮ったのは、全てを包み込む“慈愛”の橙色を纏った白亜の大盾。
ぱきんと音を立てて、七枚の白き“羽根”へと分離する。
「さあ、第二ラウンドの開始だ。せいぜい愉しませてくれよ?」
七枚の“羽根”を侍らせた闇色の髪の“魔王”が、その大海を思わせる蒼い瞳を妖艶に光らせた。