「くそっ、麗羽の奴め」
白蓮は、眼下に広がる光景に、覚えず吐き捨てていた。城壁の上にさらに高くそびえ立つ物見櫓には白蓮一人がいるだけで、罵りを聞き留める者もない。
侵攻は突然だった。野戦を挑む機を逸し、自慢の白馬義従も城に閉じこもっての籠城戦である。
城郭は堅牢に築き上げている。自分の留守を安心して預けられるだけの人材に恵まれなかったという情けない事情のためだが、それに今は助けられていた。
城外に展開する袁紹軍は、五万を超えている。対して、城内の兵は一万にも満たなかった。
袁紹軍の攻城には、昼夜を問わぬという苛烈さはない。一度優勢になると、余裕を見せようとするのが麗羽の昔からの悪い癖だった。数の上で圧倒し、一気呵成に攻めたてるわけでもない状況は、いやが上にも袁紹軍の兵から緊張感を失わせていた。とはいえ、大軍は大軍である。白蓮が領する幽州全土から兵をかき集めてみたところで、三万には届かない。遠征軍として五万を発し維持し得る勢力は、今のところ麗羽だけだろう。冀州という大州によっているというのもあるし、名門の力というのもあった。人も金も、それだけで自然と集まってくる。
「あとは、曹操ぐらいか」
曹操が、青州黄巾百万の軍勢を降したという話は、幽州にまで伝わっていた。かなりの投降兵を得たという。兗州も幽州と比べればはるかに豊かな土地である。一、二年の内に曹操も大規模な遠征が可能となるだろう。
「ああ、それでなのか」
麗羽の突然の侵攻は、今回の戦勝でますます名を挙げた曹操への対抗心から出たものだと、白蓮は思い至った。
曹操と麗羽のことは、良く知っていた。特に麗羽は、互いに真名で呼び合う仲なのだ。
二人のように幼い頃から机を隣にした学友というわけではないが、官途に就いたのは白蓮も同期だ。公務に対してどこか冷ややかなところのあった曹操とは異なり、麗羽と白蓮は真っ当に官職の中での栄達を競い合うような気持ちがあった。ただ、麗羽が常に敵愾心をむき出しにしていたのは白蓮ではなく曹操に対してである。本人は隠しているつもりのようだが、傍目には明らかにそうだ。
南下して軍の再編に追われる兗州の曹操軍に向かうのでなく、あえて北上して幽州に攻め込んだ。それは、いかにも曹操など歯牙にも掛けていないと言いたげで、その内心を悟られまいとする麗羽の虚栄心を如実に表している気がした。
なんにしても、白蓮にとってはとんだ災難である。
いくら精彩を欠くとはいえ、袁紹軍の攻撃を前に城が落ちるのは、もはや時間の問題と思えた。
今、自分が騎馬隊で敵中を突破すれば。あるいは自分は城に残り、誰か信頼出来る将に遊撃を任せられれば。州内から兵を糾合し、せめて二万の兵力で袁紹軍の背後をうかがうことが出来たなら。
「……はぁ、星がいればなぁ」
せめて一人だけでも、兵権を委ねられるだけの武将が欲しかった。となれば、白蓮の脳裏に浮かぶのは、かつて客将として旗下に身を置いていたあの少女でしかあり得ない。
星―――趙雲は、今は劉備軍の一翼を担う部将だった。劉備軍、といっても本拠を持つわけでもない。天下の義軍などと呼ばれ、民の間では聞こえはいいが、ありていに言えば食い詰めた流浪の軍であった。幽州に勢力を築き上げた自分の元で、第一の将軍として仕えることと比べたら、待遇は雲泥の差だろう。それでも星が自分ではなく桃香を選んだと知った時、不思議と納得がいったものである。
戦も政も、白蓮には桃香よりもうまくこなす自信があった。
ただ昔から、自分にはない人を惹きつける何かを桃香は持っていた。盧植門下で最も将来を嘱望されたのも、成績不振の桃香であった。今、英傑として民の口に上るのも、董卓を討ち果たし百万賊軍を打ち払った曹操と並んで、桃香の名だった。なにより、星に去られ、こうして苦境に立たされてなお、白蓮自身に桃香を責めようという気は微塵も起こりはしないのだった。
「はぁ、私って人望無いのかな。民には、そこそこ慕われていると思うんだけど」
白蓮はまた、覚えず口に出していた。
最近、我ながら独り言が多い。それも、そばに腹を割って話せる相手がいないからだ。
「出陣する」
翌早朝、白蓮は決意を固めていた。
白馬だけで揃えた親衛隊“白馬義従”。はじめはわずか三十騎に過ぎなかったこの精鋭弓騎兵も、勢力拡大とともに増員し、今は三百騎に至っている。
そして、白蓮手ずから育て上げた騎馬隊二千騎。
この騎馬隊を駆けさせることもなく、城に閉じこもったまま終わりたくはなかった。
歩兵は六千。それで、城には数えるほどしか兵は残らない。
城に残る者たちには、白蓮が敗れる、あるいは敵に侵入を許した時点で、すみやかに袁紹軍に降るように申し付けてある。思い残すことはなかった。
「開門!」
城門が開かれていく。起き抜けの袁紹軍は、動き出したばかりだった。
「良し! 私に続け!!」
視界の端を、城門が過ぎり去っていく。白蓮は、思うさま騎馬隊を駆けさせた。
こちらが城を打って出るとは想定もしていなかったのか、応じる敵前線の動きは鈍い。騎馬隊でかき乱すと、そこへ味方歩兵に陣を布かせた。
城の包囲網に兵を割いているため、対峙している袁紹軍はおよそ二万五千。攻城戦の備えであるから騎兵も少なかった。
麗羽には包囲網を解くつもりはないのか、兵を呼び集めはしなかった。
本陣に一万五千を残し、残る一万の歩兵だけで、こちらの布陣に向けて前進を開始した。速戦は、白蓮も望むところである。
歩兵に陣形を固めさせると、白蓮は騎馬隊を発した。前進する敵歩兵を迂回し、狙うは袁紹軍の本陣のみだ。敵もずらりと槍を並べて、騎馬隊を迎え撃つ構えを見せた。
「放てぇっ!!」
名門らしい、というよりも麗羽らしい、煌びやかに金色の光を放つ牙門旗目掛けて、無数の矢が射られた。まだ距離が遠く、自慢の白馬義従の騎射もその手前で力を失い落ちていく。
「第二矢、番え! ―――放てっ!」
付かず離れずの距離を維持したまま、続けて矢を射込ませた。やはり、金色の袁旗に届く矢はない。構わず、三矢、四矢と放つ。
袁旗に寄り添うように立っていた文の旗が動いた。同時に、文醜の隊が前に出てくる。白蓮は、今度は狙いを文旗へと切り換えた。降り注ぐ矢を、歩兵中心の文醜隊は盾を掲げて防いでいる。
小さく丸くなりながら、じりじりと距離を詰める文醜隊を、挑発するように白蓮は接近して矢を放っては離れた。
文醜隊が、本陣から完全に切り離された。
「よしっ! 狙うは袁紹だ! 続けっ!」
白蓮は文醜隊を横目に、袁紹の牙門騎へと迫った。文醜隊が、盾も並べずに追いすがってくる。
袁紹の本陣。顔良の隊が行く手を阻んだ。交戦を避け、反転する。
背後に迫る文醜隊と肉迫した。軽く掠め、押し出されるように騎馬隊が流された。文醜の隊が、余勢を駆って追い打ちに入った。
白蓮は馬足を落とし引きつけ、引き回し、そして引き離した。次の瞬間には、再び反転して袁紹の本陣に迫った。文醜は振り切っている。
整然と並んだ顔良の隊が、槍先を揃えて立ちふさがった。大きく、迂回した。文醜の隊はまだ遠い。
「くっ、引けっ!」
視界の端で、味方の歩兵が崩れるのを捉えた。
敵歩兵に突っ込んでかき乱した。味方歩兵が陣を整え直すのを見届けて敵軍から抜け出た時には、騎兵はだいぶ数を減らしていた。
敵歩兵も、距離を取って乱れた陣形を構え直した。
あと一手。それが足りない。
軍勢を委ねられる将がいなかった。騎兵をもう一隊組織出来れば、あるいは歩兵をもっと強くまとめ上げることが出来れば、ずっと楽に戦える。今は、騎馬隊で駆け回る時には、歩兵には簡単な指示を与えることしか出来なかった。
「陣を動かす」
今度は、騎兵と歩兵一緒になって、陣を真横へ移動させた。
それまで陣取っていた城門前が、ぽっかりと空いた格好だ。そこからさらに、少しずつ陣を前に押し進めた。呼応するように敵歩兵が再び動くが、今度は五千ずつの二段の構えだ。
城内に残る兵は三百に満たない。それも退役を控えた老兵や、負傷兵ばかりである。攻城が開始されれば、一刻と待たず落城するだろう。つまりは全軍での出撃であるが、袁紹軍がどこまでこちらの兵力を読み切れているか。城内に一千や二千は兵を残していると考えても不思議はない。二段はその備えで、第一段が相当に崩れない限り、二段目が前に出ることはないだろう。
「これで一手。いや、せいぜい半手か」
歩兵を残し、再び白蓮は騎馬隊を駆った。
五千の一段が攻城に当たれば、あるいは各包囲陣での攻撃が開始されれば、城内に兵がほとんど残されてはいないことは、すぐに敵の知るところとなる。のんびりと構えている余裕などなかった。
駆け回った。
敵は、文醜隊が動けば、顔良隊が麗羽の本隊を守る。顔良隊が動けば、文醜隊が守る。徹底してそれだった。
あと一手。やはり足りない。
後方で、喚声が上がった。包囲陣による攻城が開始されていた。第二段の歩兵五千も、城門に取り付いている。
「くうっ、麗羽のやつ、どれだけ戦線を増やすつもりだ」
やはり人材の差だった。
袁紹軍は、文醜と顔良の二枚看板を本陣に残したままでなお、張郃、高覧といった部将が抜かりない戦を展開している。幕僚にも田豊、沮授と言った碩学から、審配のような忠烈の士までがそろっていた。他にも、今回の性急な侵攻にも気付けば大義名分を仕立てあげている能弁家の陳琳、かつては西園八校尉として麗羽や曹操とも同格の武将であった淳于瓊などもいる。
羨ましくなるほどだった。
三百の親衛隊に囲まれ、二千の騎兵を率い、六千の歩兵を従え、五万の敵兵と対している。
それでなお、白蓮の心は孤独の中にあった。敵将の麗羽ですら、視線の先にあるものは初めから曹操だけで、白蓮の方を見ようともしていない。
湧き立つような喚声。城壁に袁旗が踊った。味方歩兵も、潰走に入っている。
騎馬隊は、前面は文醜隊、その先に袁紹の本隊。そして左右後方を顔良隊が閉ざしに掛かっていた。味方歩兵を追い散らした敵歩兵も、顔良隊に合流しつつある。
馬の脚も、限界に近かった。
「……ここまでか」
白蓮が諦めを口にした瞬間のことだった。
不意に起った竜巻が、顔良隊を横合いから襲った。弾かれた敵歩兵数人が宙を舞う。気づけば、顔良隊の陣形に、外から白蓮までを繋ぐ道が出来上がっていた。
竜巻が口を開いた。
「いや、白馬の首をすくめて亀のように城に籠られたままでしたら、さすがに手の打ちようがありませんでした。白蓮殿にしては、なかなか果断な決断を下されましたな」
「―――星っ!? どうしてこんなところに!?」
「そんなものは、白蓮殿を助けに来たに決まっているでしょう」
何を馬鹿なことを、とでも言うように星が鼻で笑った。
「我らも、次の戦場が決まっております。籠城があまりに長引けば、軍を二分せざるを得ませんでした。いや、良いところで打って出てくれましたな。―――さあ、退きますぞ」
「あ、ああ。し、しかし退路が」
星が敵陣に穿った空隙は、素早く埋められつつあった。
星の率いる騎馬隊は、百騎にも満たない。そして、敵中で一度足を止めてしまっている。顔良隊を今一度突き崩すというのは、至難の業だった。
「ほう、袁紹軍も、存外に陣形の立て直しが早いですな。数だけの軍勢というわけではないようだ」
「呑気に感心している場合か、星」
「ふふっ、白蓮殿。ご心配には及びません。いかな大軍といえども、常山の昇り龍と謳われたこの趙子龍の槍の一振りでもって、退けて御覧に入れましょうぞ! さあ、方々もご覧じろ!」
星が、真っ赤な刀身と二股に割れた刃が目を引く愛槍を、くるくると芝居がかった調子で旋回させた。ひとしきりそうして敵味方の視線を一身に集めると、星はすっと槍を突き出した。穂先が向けられた方角は、麗羽の本陣だ。
まるで星の槍が合図にでもなっていたように、袁の字の牙門騎が、大きく傾いた。
直後、敵軍からけたたましく鐘が打ち鳴らされた。眼前に迫っていた槍が、離れていく。顔良隊が、本陣に向けて撤退を開始していた。
「さあ、退きましょう、白蓮殿。愛紗と鈴々が袁紹の本陣を乱してはいますが、それもそう長くはもちません。よもや、この期に及んでさらにもう一戦などと考えてはおられまい?」
悠々と告げる星に、白蓮は二度三度と首を縦に振った。
星の後を追って、とにかく駆けた。どれほどの時間そうしていたのか。呆然としていた白蓮の記憶は覚束無いが、少なくとも疲弊していた馬の脚が潰れる前に、星は足を止めた。
「―――白蓮ちゃん!」
駆け寄り、笑顔を見せる桃香に、白蓮はようやく独りではないと感じた。