「天の落とし子」達の中でも、北郷一刀と桃香の最初の子である阿斗は、妹たちより数年の年長だった。
その理由は「天の御遣い」が、“後宮”などと言う制度の無い「天の国」から落ちて来た、普通の若者だったから。
その結果、阿斗が人格形成期を迎える頃に、次々と妹が生まれる事に成った。
そのため、良くも悪くも「長女属性」というべき成長をした阿斗だった。
義理の姉である璃々は居たが、阿斗の人格形成に関係する限り、年長の従姉か若い叔母の様な影響だった様である。
ある時、SD桃香の様な阿斗が、泣きながら両親を探して来た事があった。
「またか」
実の処「この」原因で阿斗が泣く事は、少ない事も無かった。
では何の原因かと言うと、妹同士のケンカ、
正し、大勢の姉妹が同居して居れば、普通の家庭で何時でも起きる様な他愛も無い姉妹ゲンカに過ぎない。
その度に、妹たちを止めようとして、自分が泣いてしまう阿斗だった。
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「正史」『三国志』の筆者は、劉備の後継者である劉禅(幼名阿斗)に仕官したことがある。
その旧主に対する評価は、
「白い糸。ただ染まるだけ」名君となるも愚王となるも臣下次第。まったく普通の素直な人。
あるいは、太平の治世には、相応しい君主だったかも知れない。
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今朝もまた帝都の皇宮に、出勤をうながす太鼓が鳴りわたる。
「天の御遣い」と恋姫たちも、ゾロゾロと出勤して行った。
何時もの日常である。
後漢王朝以来の帝都である洛陽の城内には、“官邸”であり“公邸”である「南宮」と“後宮”である「北宮」が、
隣り合う事も無く並存していた。
無論だが、政務を執(と)るためには「北宮」から「南宮」へと出勤する事に成る。
そのため、皇帝専用の復道(上下2段式道路または上段の高架式通路)が
2つの宮殿が最も近付く隅の城壁同士を連絡していた。
当然、下段の公道を往来する下々に皇帝の姿を見られない様、両側の壁と屋根をそなえた「屋内回廊」に成っている。
そして「今上」の治世の特徴は「北宮」の后妃たちが、文官武将の高官でもある事。
それで天下太平なのが、この時代の特徴だった。
そんな訳で「天の御遣い」と恋姫たちは「北宮」から復道を通って「南宮」へと、ゾロゾロ通勤する日々だった。
『玉座の間』本来、帝国で只1ヶ所、帝都の皇宮にだけ存在が許される場所。
その室内の御前から、階段の下の広場まで、それぞれの官位の上下に従って官吏が整列した。早い話が「朝礼」である。
「朝廷」とか「王朝」とかに“朝”の漢字が入っている所以(ゆえん)だ。
“にわ”を意味する字が入っているのは、大部分の下級官吏は広場に整列するから。
当然ながら『玉座の間』に上がるのは、皇帝に直属する高官たちである。
その高官の大半が「北宮」から皇帝と出勤して来るというのは、やはり特徴のある時代だった………。
……。
…その日も落ち始めて、退出を合図する銅鑼(どら)が鳴らされた。
当直とか残業とかの理由がある者だけを残して、官吏たちも市内の自宅へと戻って行く。
「天の御遣い」と恋姫たちも、復道を帰り始めた。
とはいえ、たまには市内に出て、寄り道しながら帰りたいとも思ってしまう。
「せめて、復道の出入口辺りにコンビニとかファーストフードとかないかな」
周囲の恋姫たちが、急に出てきた「天の国」の言葉に(?)を浮かべていた。
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『演義』では主人公である劉備の母は、当然の様に「賢母」として語られる。
では史実はどうか?などとは「外史」ではヤボだろうか。
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蜀に拠点を確保した劉備陣営は、益州以外の故郷から家族を呼び寄せたりした。
桃香の母にしてみれば、住み慣れた幽州を離れて、それも天下の東北の端から反対の西南の端まで引っ越す事に成るのだが、
それでも「靖王伝家」の使命に恥じ無かった娘をほめてくれた………。
……。
…実のところ、現在は居てくれて頼母(たのも)しい。
主君である桃香が身重なのだ。おまけに同志たちの中でも、経験があるのは紫苑くらい。
桃香本人を生んだ人の存在は、それこそ「天(?)の助け」の様なものだった。
おまけに天下のほぼ中央にある許昌から蜀の成都まで、この時代としては大旅行を、
ちょうど悪阻(つわり)の時期の直前にする羽目に成ったのだから。
名医華佗の訪問ともまた別に、桃香本人を生んだ人が成都に居てくれた事は、大切な事だった。
…北郷一刀の知る「正史」では、劉備の母は、孫にあたる阿斗に対面していない。
しかし「この」外史では異なっていた…
桃香が陣痛を訴えた時、傍に居たのが当然だった一刀を筆頭に、成都城中がパニックに成りかけたが、
その“ぱにっく”を収拾したのは、紫苑と「天の落とし子」の祖母だった。
こうして「天の落とし子」は、北斗の空から成都の地上に遣って来た。両親と仲間たちと祖母に祝福されて。
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現代の動物愛護からは批難されるだろうが、古代より中国人は狗(いぬ)を食べてきた。
と言うより、漢王朝の時代に豚の品種改良が行われるまでは牛・羊・狗の順で、豚や鶏より格上の食肉とされていた。
余談だが、正式の『宴会』とも成れば、牛を儀式で捧げ物にした後「スープ」にする。
そんなわけで、犬の野生種である狼を狩猟対象にする意味も、例えば羊を守るとかだけでも無かっただろう。
「漢末三国」の時代は、豚肉が改良されて狗を抜いた頃だった。
「筵(むしろ)を織り履(くつ)を売っていた」没落王族だった劉備が、行商の帰りに「張家肉店」(張飛の実家)とかで買っていた肉としては、
案外と狗とかが手頃だったりしたかも知れない。
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「桃香お姉ちゃん、筵や草鞋(わらじ)が無くなっているのだ」
「うん。今日は久し振りに、いいお肉が買えそうなんだ」
「だったら、すごく美味しい赤犬の肉があるのだ」
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孫呉陣営の1人呂蒙は、若き日には「脳まで筋肉」タイプの武将だったが、
出陣や任地での統治の間に勉学を重ねて、
ついには、かつての「脳筋」を馬鹿にしていた同僚を感嘆させた。
「もはや昔の「呉下阿蒙(無理やり訳すると「呉のお馬鹿ちゃん」)」では無くなった」などと言わせたのだ。
「士は三日会わずば刮目して(目を見開いて)見よ」とは、この時の呂蒙の言である。
この故事から、逆に進歩の無い例えに「呉下阿蒙」
そして、努力して成果を出した人を「士は三日会わずば刮目して見よ」と讃える成語が出来た。
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さて、この「外史」の亞莎もまた、お勉強家である。
「…三日会わずば…」の故事成語を「天の御遣い」が思い出したのは、
例によって桂花に「脳筋」と言われてキレた春蘭を秋蘭と押さえている時だった。
「そうか。亞莎(すでにそう呼び合う間柄(あいだがら)強引にしても)と三日の間、勉強すれば好いのだな」
今度は引き止める暇も無かった。
「三日も持つかしら」むしろ桂花も今は心配そうだ。
現在「北宮」で共に生活し(桂花としては不本意?)「南宮」に文官同士として出仕しているのだから、
どれだけ亞莎が勉強家なのかは、桂花も認めている。
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帝都のある洛中盆地は真夏を迎えていた。
その季節をわざわざ選択して、南からの客人が帝都を訪問していた。
南蛮王孟獲の1行である。
正式の用件としては、南蛮王の「金印紫綬」を、あらためて皇帝の手から受ける事だった。
役儀上からも案内してきたのは、益州刺史の黄権である。
黄権(霧花)は、孟獲(美以)たちを宿舎に落ち着かせると、城内の某所に足を向けた。
霧花には「前世記憶」がある。その「記憶」の最後の場所だった………。
……。
…吉日を選択し、皇宮『玉座の間』では、皇帝と南蛮王の対面が行われた。
「これがしゅくにゅうにゃのにゃー」
『演義』では孟獲夫人の祝融(しゅくゆう)は、どうやら「この」外史では娘らしい。
今回の対面には、祝融を南蛮の次期王として認めてもらうための「お披露目」の意味も有った。
問題は、いくら「この」世界の「チート」女性たちでも母親だけでは娘は生めない、と言う事である。
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皇帝とは、帝国の政治に関する限り、全ての権力を1人で持っている。
それだけに、臣下に任せるべき仕事は任せないと、
「天秤に竹簡を乗せて、その日の仕事分を計量する」などと言う笑い話を後世に残したりする。
「天の御遣い」は優秀な部下を信頼する主君であり、時と場合によっては「丸投げ」でもするのだが、
本来の性質として真面目である事もあって「天秤に竹簡」の危険は日常的に存在した。
そんな某日、所管の官吏から提出された1通の人事案に、とある「正史」を連想させられた。
「兗(えん)州陳留郡の太守である張孟卓に対して、現職と兼任のまま、朝廷における名誉職を併せあたえる」
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北郷一刀の知る「正史」における張孟卓は、曹操や袁紹が「花嫁泥棒」なんかをしでかした頃からの親友だった。
その縁もあったか、袁紹や曹操が「反董卓連合」を起こした時、治めていた陳留を連合軍の集結地としている。
更に、董卓軍に返り討ちにされた曹操が出直すための勢力圏としたのが、張孟卓の居る陳留が在る兗州だった。
これだけの縁があったからだろう、曹操が父親の復讐のために徐州へと出陣する時には、残して行く家族に対して
「自分に“もしも”の事があった場合は孟卓を頼れ」と言い残した。
だが、徐州大虐殺の報いか、曹操は留守の拠点を預けていた旧友の信頼を失ってしまった。
張孟卓と軍師陳宮は、涼州軍の残党を率いて落ち延びて来ていた、猛獣呂布を引き込んで挙兵したのだ。
勢力圏を失った曹操を迎え入れたのが、10年近く前に初陣を飾った予州潁川郡の名士、荀文若たちだった。
潁川郡の許昌に今度こそ拠点を確保した曹操は、旧友たちに反撃を開始。
呂布と陳宮は、劉備が譲(ゆず)られて治めていた徐州へと追い払われた。
そして、曹操と張孟卓の友情は、最悪のDeadEndを迎えた。
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しかし、この「外史」の華琳には「天の国」から転生した弟がいた。
同じ潁川郡での初陣から、許昌に拠点を確保するまでの「10年ループ」はスルーされ「徐州大虐殺」も止められた。
したがって、張孟卓は兗州陳留郡の太守のままだった………。
……。
…竹簡を見付けた「天の御遣い」は、担当の官吏に確認した。当人は帝都に出頭して来ている。
「それから、華琳と麗羽は休憩する余裕があるかな?」
広い皇宮の庭の隅にある亭。
そこにささやかな飲茶の席が設けられ、華琳と麗羽に「天の御遣い」そして、張孟卓が同席していた。
「それで、例の『花嫁泥棒』の時は、孟卓はどうしていたの?」
「私の役目は証言でした。問題の刻限には両名と共に酒席に居たと」
「成程「アリバイ」か」