それはいつもと変わらぬ夕暮れ時のことだった。
ジャンヌは出勤前の早めの夕食を終え、清掃局の仕事から帰って来た父に食事を用意すると、化粧台で肌に白粉を薄くのせていた。
品を失わないように、それでいて色気を最大限見せる給仕の化粧を慣れた手つきで行っていたときのこと。
家にメイジの集団がやってきた。
それは今までも何度かあったことだった。悪名高い徴税官の手下が、彼女の父から何かを聞きだそうと、杖を片手に脅しつけたり暴力を振るってきたりしていたのだ。
だが、今日はいつもとは様子が違った。
メイジ達は十人を超えるほどの数であり、また手には物騒な刃が入ったレイピア状の軍杖を持っていたのだ。
彼らの服装は貴族のメイジが普段着るような高価そうな絹織物ではない。傭兵が着るような厚手で無駄のない無骨な服だ。
そして、彼らに対するジャンヌの父の様子も違った。
いつもは家にやってくるメイジ達に無抵抗だったはずが、今はジャンヌの前に仁王立ちし、手には金属製のいかつい杖を持っていた。
ジャンヌは恐ろしくてたまらなかった。自分に杖を向けるメイジ達も怖いが、それ以上に父のことが怖かった。
ジャンヌの父は温厚な人物だ。人を傷つけることを嫌い、杖を他人に向けることなどジャンヌは一度も見たことがなかった。
だというのに、今彼女の父は杖を侵入者達に向けている。ジャンヌを守る背中からは、強い怒りの気配が感じ取ることができた。
メイジ達は何も言わなかった。いつものように、指輪はどこだと問いかけてくることもなかった。
ただ杖をジャンヌ達に向けて魔法を使えるためのルーンを唱えるだけ。
魔法の矢がジャンヌ達に襲いかかる。
それに対し、ジャンヌの父もルーンを素早く呟き炎の魔法を放った。
巨大な炎の壁が室内へと現れる。
炎は部屋を焼くこともなく魔法の矢だけを消し飛ばした。
炎の壁はジャンヌ達と侵入者の間に立ちふさがるように燃えさかる。
それをただ呆然と見ていたジャンヌは、不意にこちらへと向き直った父に手を取られ、身をすくませた。
「行くぞ!」
ジャンヌの父はそう言うと、ジャンヌの手を引き、部屋の壁に向かって走り始めた。
何を、とジャンヌが思うやいなや、父は壁に向けて杖を突きつけた。
次の瞬間、杖の先が爆発した。
まるで火の秘薬を使ったかのような轟音と衝撃。
火と風を組み合わせた強力なトライアングルスペルは、壁を吹き飛ばし人が通るには十分な大きな穴を作り出していた。
ジャンヌは父に手を引かれるままに部屋の外へと逃げ出す。
部屋の先は家の外、花や料理用のハーブを植えた庭だ。
この家は塀で囲まれているため、表通りに逃げるにはまた塀を破壊するか大きく迂回しなければならない。
だが、それを塞ぐかのように新たなメイジ達が塀を乗り越えて現れた。
爆発の魔法を使う際に部屋の炎の壁が消えたため、壁の穴からも侵入者達が続々と出てくる。
退路がなくなり、ジャンヌの父は娘を背で庇うように左腕を広げる。
「私が口を割らぬからと、今度は口封じに来たか……!」
そして、父はルーンを唱えるとメイジ達に向けて火の魔法を放った。
巨大な火球が眼に追えぬ速さで飛んでいき、地に触れると共に巨大な火の柱に変わる。
火の柱に巻き込まれた二人のメイジは、抗う時間もなく一瞬で燃え死んだ。
それで止まることもなく、ジャンヌの父は杖を振るい黄色く燃える火の矢を十数本ばらまいた。
避ける者もいたが、水の魔法でそれを防ごうと氷の盾を作り出したメイジは、一瞬で蒸発した氷と共に命を落とす。
メイジ達も負けじと魔法を次々撃つが、ジャンヌ達の前で生まれた爆発の渦に全て吹き飛ばされた。
ジャンヌはこれまでメイジの使う魔法というものを何度か目にしたことがあった。
多くの人が集まる首都だ。魔法を使った決闘などが突然起きることもある。
だが、己の父が使う魔法はそれとは比べものにならない強大なものであった。
彼女の父は常日頃から言っていた。
火の魔法は人を殺すために用いられるべきではない。水の魔法や土の魔法のように人を助けるために用いられるべきだと。
だが、今彼が使っているのはまさしく人を殺すためだけに洗練された魔法であった。
ジャンヌは自分が生まれる前に父がどのような人物であったか知らない。
だが、これだけの数のメイジを前にひるむこともなく、着実に相手を殺していく。
軍人であったのだろう、とジャンヌは思う。
そして、父に任せておけばこの状況もなんとか切り抜けられるのではないか、とも。
しかし。そんなジャンヌの甘い考えを見透かしたかのように、魔法が彼女の身を襲った。
火や風が身を傷つけたわけではない。ただ、足下の土が急に盛り上がっただけ。
だが、たったそれだけのことでジャンヌは平衡感覚を失い転倒し背を地に打ち付けて一回転。身を任せていた父の背から大きく離されて、尻餅をつく姿になった。
彼女の父は叫ぶ。
「ジャンヌ!」
無防備なジャンヌに向けて、メイジの一人が燃えさかる炎の槍を投げつけた。
魔法を使えぬジャンヌにはそれを防ぐ手立てはない。
彼女は死を覚悟し目を閉じた。
だが、想像していた熱が彼女の身に襲いかかってくることはなかった。
ジャンヌは目を開ける。
彼女の目の前には、敵に背を向け自分を守るように立つ父の姿があった。
ジャンヌの父は娘を助けるため、魔法の前に己の身を差しだしたのだった。
背には火の槍が突き刺さり、肉を焦がし臓腑を焼いていた。
血管が焼き切れ、行き場を失った血液は細胞を突き破って気管を逆流し、咳と共に口から流れ出た。
形勢が逆転した。そう受け取ったメイジは『ブレイド』の魔法を杖にかけ、確実に相手の首を落とそうと近寄っていく。
しかし、それを邪魔するかのように、突如炸裂音が鳴り響いた。
『ブレイド』を構えるメイジの胸元に小さな穴が空く。
それは、メイジ殺しと貴族達に恐れられる銃による一撃であった。
胸に銃弾を受けたメイジは、突然の事態を理解することもなく胸から血を吹き出しながらその場に倒れた。
そして次の瞬間、メイジの集団に向けて空から竜が突っ込んできた。
固い鱗に覆われた重たい竜の突進にメイジ達は為す術もなくはね飛ばされる。
その竜を駆る人物。王族のドレスを身に纏った王女アンリエッタは、竜が体勢を整え直す前に風の魔法で背から飛び降り、着地と共にジャンヌ達を囲むメイジ達に向けて氷の嵐を飛ばした。
それにわずか遅れるように、空からヒポグリフの群れが降り立った。その幻獣を操るのは黒いマントのメイジ達。トリステイン魔法衛士隊ヒポグリフ隊であった。
彼らの他に、周辺の家々の屋根に乗り銃を構える隠密の姿もある。
アンリエッタは鞘から抜いた杖剣を手に持ったままジャンヌの元へと走った。
土に汚れた服と髪のジャンヌの前で、ジャンヌの父が口から血を吐き倒れていた。
背は黒く焼け焦げ、見るからに重体である。
事態は一刻を争う。そう瞬時に判断したアンリエッタは、マントの隠しポケットから水の秘薬を取り出し治癒の魔法を始めた。
「アン殿……」
意識をかろうじて保っていたジャンヌの父は、かすみかけた視界に娘の友人が映っているのを見た。
「いえ、姫さま……」
己の身を包む水の魔法。その発生元である杖剣の刀身に掘られたトリステイン王室の家紋を見て、ジャンヌの父は清掃員であったはずのこの少女が姫殿下であると察した。
そして、焼けた肺に息を吸い込み、アンリエッタに語りかける。
「助かりませぬ……。火で人がどのように死ぬのか……、この目で見てきたゆえに……」
「駄目です! 死んではなりません!」
しかしアンリエッタの言葉とは裏腹に、ジャンヌの父の顔からは血の気が失せていく。
彼は自分が助からないことを誰よりも理解していた。
それは、かつて魔法研究所実験小隊で学んだこと。
隊では魔法研究所の知の探究のために、人体実験を行わされることもあった。そして、誰よりも火の魔法に長けていた隊長の補佐として、火による多くの死をこの目で見てきた。
例え水のスクウェアであろうとも、死が訪れる前にこの焼け落ちた臓腑を癒すことはできないだろうという確信があった。
「姫さま……娘を……頼みます……」
「ええ、ええ任してくださいまし! このようなことが二度とないように、きっと、必ず!」
秘薬を背に振りかけながら強く答えるアンリエッタの言葉に、ジャンヌの父はすでに感覚がなくなりかけている頬を動かし笑みを作った。
この方ならば娘を任せても大丈夫であろう。そう感じ取った彼は、最期にもう一つ、己の他には数人の元同僚しか知らぬ秘密を託すことにした。
「指輪は……隊長の元に……」
言葉と共に、彼の身体から力が失われた。
水の魔法で半ば無理矢理動かしていた心の臓も最早自ら動くことはない。
焼き切れた肺がもうこれ以上呼吸を続けることもない。
彼の言葉通り、秘薬と魔法の力を尽くしても、死を覆すことはかなわなかった。
ジャンヌの父の死を理解したアンリエッタは、治療の手を止め、杖剣を腰の鞘へと収めた。
その意味を理解したジャンヌは、父の亡骸の前で声を上げて泣き崩れた。
日が沈み夜闇に包まれつつある平民街の庭先。すでに魔法衛士隊による鎮圧は終了し、声を上げる者はジャンヌ以外にはいない。
慟哭が日の無い空を覆い尽くす。
アンリエッタは、それをただ無念の表情で見つめるしかなかった。
力なく立つアンリエッタの隣には、ヒポグリフと共にかけつけていたアニエスとルイズの姿があった。
「ねえ、アニエス……。貴女の仇の一つが晴らされたわけのだけれども……どういう思いを抱いているのかしら?」
「……ここには私欲により殺された不幸な父と、残された哀れな娘子がいるだけです。私の仇など、関係ありません」
アニエスの顔に浮かぶのは悲痛の表情であった。
二十年前の悲劇は彼女の脳裏に浮かばない。ただ救うことができなかった一人の男とその娘の泣く姿を見つめることしかできず、己の無力さを痛く感じ取ることしかできなかった。
□暴れん坊君主□