数日後の夕刻、清掃員アンは残る仕事をファンションに押しつけ早速『魅惑の妖精』亭へと訪れていた。
店は夜の営業の準備時間中。
前の騒動の時は店にいなかった店長のミ・マドモワゼルことスカロンにアンはジャンヌの家について訊ねた。
「あの子の家? 何でそんなこと知りたいのかしら? アンさんと言えど店員個人に深入りはあまりしてほしくないわね~」
何かとワケありな娘達を集めて店を経営している店長として、スカロンは当然のように拒否の意思を見せた。
ここは叩けば叩くほどホコリが出るような店である。なにせ、街角で路頭に困っているような子供でもお構いなしに店員として招き入れているのだ。
だからといって、店で違法な仕事をさせているわけではない。
汚れた過去から足を洗うための場として娘達に給仕としての仕事を与えているのだ。
店の決まりの一つ、店員はお客からいくらでもチップを巻き上げても良い、というのも彼女達が独り立ちするためのお金を稼がせてあげようというミ・マドモワゼルの心遣いであった。
だが、アンもこの程度で引き下がるつもりはない。
「ほら、わたくし水のメイジでしょう? もしジャンヌさんのご家族があの徴税官に乱暴されているのなら治療できるかしら、と」
「なるほど、そういうことね」
スカロンは考える。アンにジャンヌの家を教えて良いものかと。アンの『本当の姿』は知っている。この店でそれを知っているのはミ・マドモワゼルだけであるが。
もしジャンヌに表沙汰にできない過去があったらアンはどうするであろうか。今までアンが解決してきた街の事件を思い出す。
問題ない。アンは不良清掃員の姿をしている限り、法の力を振り回そうとすることはない。
そしてジャンヌ。スカロンは彼女の抱えている事情を何も知らない。
だが自分がいないときに店内でジャンヌを巡って一騒動起きたのは知っている。長く勤めた店員は皆、スカロンにとって実の娘のような存在だ。過去はともかく今現在その身に不幸がふりかかっているならば、手をさしのべてやりたかった。
「別にジャンヌさんをどうこうしようとしているわけではないですわよ?」
アンもジャンヌがレコン・キスタの間諜などではない限り、例えジャンヌに多少の後ろ暗い過去があっても無理に探る気はなかった。
狙いはあくまで彼女に狼藉を働こうとしているチュレンヌ徴税官とその背後なのだ。
法を犯す者全てを断罪するなど面倒極まりないことだ。アンはしばしばトリスタニアで目にした悪を成敗することがある。が、正義の心や法の精神などという崇高なものではなく、ただの自己満足でやっていることである。
「……よし、解ったわ! 教えるけど、ちょっと暗い事情を抱えていても責めないであげてね」
スカロンは腰を振りアンに向けてウインクを飛ばした。
ジャンヌが今辛い状況にあるのならできれば助けてあげたい。それがスカロンの思い。だがしがない店長にはできることがとても少ない。だからこそ、このあちこちに首を突っ込んでは豪快に解決してしまう不良清掃員に託すことにした。
「ええ、約束。ついでに徴税官の職務態度も調べますわ」
「トレビアーン! それは助かるわ~。あの貴族さん、アンさんがしばらく顔を見せていない間にずいぶんと好き勝手していて困っていたのよ」
「ファンションがうちで働いてくれればこんなこともないのですけれど」
アンは貴族の横柄の責任を幼なじみの居候に全力で押しつけた。
彼女が自分の手助けをしてくれれば、トリスタニアは住みよい街になるのに、と。
別にアンは彼女が悪いと言っているわけではない。ただの愚痴だ。
「だめよ~。ああいう子は野山の花と同じで、無理に手元に置いたら枯れちゃうのよん」
「わたくしの方があの子とは長いのに、言いますわね」
「こればかりは人生経験よ」
スカロンは再びアンにウインクを飛ばすと、ジャンヌの家の場所について話し始めた。
トリスタニアは広い。
ここ数年は善政で評判になったヴァリエール領やモット領にいくらか人が流れているが、ハルケギニア一美しい都としての名は高く、今も二十万人近い人々が居を構えている。
トリスタニアを大きく二つに区分すると、王城と貴族の屋敷が建ち並ぶ貴族街と、平民達の住居や商人の店が集まる下町に分けられる。貴族街と下町の間には大きな川が流れており、貴族と平民という二つの階級を物理的に分ける象徴となっていた。
アンがやってきたのは下町の中流階級の住居が並ぶ裏通り。そこに、ジャンヌの住む家があった。
ジャンヌの家はアンが想像していた小さな家屋とは違い、それなりに立派な白い石造りの建物であった。
家と屋敷の中間ほどの佇まいの建築。下流貴族やそれなりの規模を持つ商人の住んでいるような家だ。周囲の家と比べるとその大きさは少々目立っていた。
自称している貧乏貴族の家というものがあるのなら、このような家なのだろうとアンは思った。
アンは家の扉に付けられた大きなノッカーを叩く。
すると、ノックの音にわずか遅れて扉の裏から鈴の音が響いた。来客を知らせる家屋用の魔導具の一つだ。
ジャンヌは『魅惑の妖精』亭などに勤めているが、それなりに裕福な家柄らしい。
アンが思い出してみるとジャンヌは店の給仕としての仕事を楽しんでやっていた。
純粋に人と接するのが好きであの仕事を続けているのだろう。だからこそきわどい格好でお客を魅了し機嫌を取るという仕事で給仕の中でも上から二番目の人気を誇っているのだ。
なにかと複雑な事情を抱えるあの店の店員の一人ということでアンはジャンヌを色眼鏡で見ていたが、人を思い込みで判断していたと彼女は少し反省した。
アンがそのようなことをつらつらと考えていると、木製の扉が小さくきしむ音を立てながらゆっくりと開いた。
扉の奥から出てきたのは、四十歳ほどの男性。トリスタニアの清掃員の制服を着て、肩には焼却担当の貴族階級の火メイジであることをしめすマントがかけられていた。
この人がジャンヌの家族だろうか、とアンは思った。となると、ジャンヌは平民ではなく貴族の子女ということになる。昼夜問わず店に勤めていることから、この家の給仕も兼任しているということはないだろう。
「おや、急ぎの焼却ですかな?」
と、貴族の男はアンの清掃員のマントを見ながら言った。
彼はアンを清掃局から仕事の催促に来た連絡員だと思ったのだ。
トリスタニアには多くの清掃員が街中のゴミを拾い水で道を清めているが、当然拾われたゴミはどこかに集めて処分しなければならない。
ゴミの処分は水メイジの魔法では汚れを落とす程度のことしかできない。
ゴミが可燃物ならば、火の魔法が得意なメイジに処理施設で焼却処分する。だがただ火をつければいいというわけではなく、より高火力でかつ施設へ熱の影響を与えないという魔法が必要なため、それを行う火メイジにも高度な技術が求められる
だが高度な魔法教育を受けている中流以上の貴族は、清掃員という職になかなかつきたがらない。そのため焼却担当のメイジは街中の清掃を行う水のメイジと比べて少ない。これは、焼却後の灰や不燃物を錬金して再利用可能な物質に変換する土メイジも同じだ。
この男は腕の高いメイジで、かつ貴族街に居を構えない下流貴族なのかもしれない、とアンはあたりをつけた。
そしてアンは初めて会う男に軽く一礼をする。
「いえ、お仕事ではありませんわ。わたくしはジャンヌさんのお店に通わさせていただいております、アンと申します。お友達のジャンヌさんの家を人づてに聞きまして、訪ねてみようかと」
アンの自己紹介を聞いて、男はわずかに呆ける。ジャンヌの店は男性客向けの酒場であり、このような若い貴族の娘が通っているものなのかと。
だが、男はすぐに表情を正すと、アンに礼を返した。
「これはこれは。私はジャンヌの父でございます。見ての通り貴女と同じ清掃員をやっております」
父であると言った男は、ジャンヌと同じ栗毛の髪をしていた。
やはり、ジャンヌは貴族の娘であったようだ。
「しかし、娘は先ほど出勤したところでして……」
「そうでしたか……。でしたら、こちらのお土産をジャンヌさんにお渡しいただけますか?」
そういうとアンは腰にさげた荷物袋から街で評判の小麦菓子の袋を取り出した。
「これはまたご丁寧に。どうですかな、娘はおりませんが東方から来たという『茶』の一杯でも」
「あら、ありがとうございます。少しご馳走になろうかしら」
ジャンヌの父に案内され、アンは家の中へと入っていく。
若い貴族の娘を家に連れ込んだという図にも見えるが、ジャンヌの父には下心などなく、娘の貴族の友人を素直にもてなそうとしただけである。アンもそれを解って茶の誘いに乗ったのだった。
貴族が住むのにはわずかに小さいこの家に使用人はいないらしく、ジャンヌの父自ら炊事場に茶の用意をしにいった。
彼の妻らしき人もいない。始めはジャンヌのように仕事に出かけているのかと思ったが、居間に置かれた死者を弔うブリミル教の位牌を見て、妻はすでに亡くなっているのだと知った。
数分後、ハルケギニアの陶器とは違う独特の佇まいを持つ『茶器』を盆に載せ、父が居間へと戻ってくる。
湯を沸かすには少し短い時間だったが、火の魔法を使ったのだろうとアンは予想した。
「はは、娘が店員の子達を連れてくるということはありましたが、お客が訪ねてくるのは初めてですなぁ」
茶器からこれまた異国風の茶碗へと茶を煎れながら父は笑った。
アンはその言葉に、確かにそれはその通りだろうと笑い返す。
「ああいうお店ですから、お客がお店の子の家を知るのは良くないことですわ」
『魅惑の妖精』亭は、色香のある若い娘が給仕をするというのが売りの店だ。
店員に本気で入れ込んだ客が、家まで尾行して問題を起こすという事件もたびたび起こる。スカロンが給仕の家を教えるなど、アンが相手でなければ絶対にしなかっただろう。
「あ、わたしくは別に『そういう趣味』ではございませんよ? あのお店は良いお酒を扱っているのです」
そう言い訳するアンだったが、実際のところアンはあの店の雰囲気が大好きであった。良い酒を飲みたいならば実家で飲めば良いだけだ。
可愛い女の子に酌をされるというのが好きなわけではない。奔放な貴族が若いメイド達に酌をさせるという夜会に忍び込んだことがあるが、そのときは特に感じ入るものはなかった。
『魅惑の妖精』亭の妖精達は、あのときのメイド達と違って、生き生きと仕事をしているのだ。自発的に色気を振りまき、チップを貰って心から喜ぶ。アンが普段見ることができない、城下の平民達が全力で生きる姿なのだ。
「それで、今日はご挨拶とは別にジャンヌさんのご家族にちょっとお話があって来たのです」
渡された茶を優雅に飲みながら、アンはそう話を切り出した。
彼女は別に意味もなくお茶を楽しみに来たわけではない。
「先日、ジャンヌさんがお店であの悪名高い徴税官に攫われそうになったのを見まして」
「何ですと!」
アンの言葉を聞いて、ジャンヌの父は茶器をテーブルの上に取り落とし勢いよく立ち上がった。
茶器からはねた湯が服にかかり、熱さでさらに飛び跳ねた。
「あら、聞いていなかったのですね。でもご安心くださいまし。徴税官達は憲兵に追い払われていましたわ」
そう言いながらアンは腰の荷物袋から人差し指ほどの長さの小さな杖を取り出すと、一言ルーンを唱えてテーブルの上に拳ほどの大きさの氷を作り出した。
ジャンヌの父はかたじけない、と礼を言うとお湯のかかった服の上に氷を押し当てた。
「それで、あの醜い徴税官のことですから、わたくしのお友達のご家族にまで乱暴を働いていないかと心配になりまして……」
「は、いや、そうでしたか。でもご心配なさらず。私と娘二人で暮らしておりますが、この通り怪我も病気もなく……いや火傷はありますが」
「少し失礼いたします」
アンは杖をしまい茶碗を置くと、立ち上がりジャンヌの父の元へと歩き、おもむろに彼の左肩を握った。
すると父は顔をしかめて低い声でうなった。彼の左肩は打ち身になっており、若い娘の力で握られただけで痛みが表に出てきてしまう。
「あらやっぱり。わたくし、医療も少したしなんでいる水メイジですの。怪我をしているか何となく解ってしまうのです」
彼が茶を煎れているとき、右手を多く使っていた。
また、お湯がかかり立ち上がったときも、身体の一部をかばうようにしていたのも見受けられた。
「治療させていただいても?」
アンは先ほどしまった杖を再び取り出しながらジャンヌの父に問いかける。
「はは、これは情けないところをお見せしましたな。しかし魔法に頼るほどの傷でもありません」
「いえいえご遠慮なさらず。お金のかからぬ簡単な治療ですので、秘薬なども使いませんわ。ほらほら、お座りになって」
アンは彼を強引に座らせると、長いルーンを口ずさみ治癒の魔法を発現させた。
軽い感じでアンは魔法をかけたが、これは治療魔法の中でも特に高度なトライアングルスペルだった。
傷を調べ、症状に相応しい治癒の力を相手に与える。本来ならば水の秘薬無しに軽々しく使えるような魔法ではない。
だがアンがわざわざそれを言って治療費を請求するなどということはしない。
同じく高位の魔法の使い手であるジャンヌの父は、アンの使った魔法を理解していたのだが、だからといって彼がアンに無理にかしこまるということもしない。娘の友人の好意として彼は素直に治癒の魔法を身に受けた。
「しかし、徴税官の手によるものとなると、何故ジャンヌさんが狙われるのでしょうね。ジャンヌさんはただの雇われ店員で、ミスタは王国直下の公職で、徴税官の狙う相手には思えないのですけれど……」
魔法をかけながらアンがそうつぶやいた。
それを聞き、ジャンヌの父は険しい顔をする。
「あらいやだ、立ち入った話をしてしまいましたね。そんなつもりはなかったのですけれど。忘れてくださいまし」
アンが素直に話題を撤回すると、ジャンヌの父も表情を元に戻しアンに向けて笑みを浮かべた。
「見事な魔法の腕ですね。私の勤める清掃支局でお会いしたことがありませんが、もしや中央支局の幹部の方でしたかな?」
「いえいえ、しがない貧乏貴族の末女でありますゆえ、そのような地位はとてもとても」
杖を持たない片手でマントに触れながらアンは大げさに首を振った。
彼女のマントは清掃員の貴族に与えられる物の中で最も格が低い物である。
「仕事をさぼってばかりの不良局員ですわ。ジャンヌさんにもよく税金泥棒などと言われますね」
「それは、娘が失礼を」
「事実ですので全面的にわたくしが悪いのです。あ、今日も仕事を他の方に押しつけてここに来てますの。内緒ですよ?」
そう言ってアンはジャンヌの父に笑みを返した。
豪奢な化粧に飾られていないが、それは確かにトリステインで最も美しいと言われる笑みであった。
「はは、治療代として黙っておきますよ」
ジャンヌの父はその笑みに魅了されるわけでもなく、ただ冗談を返した。
「うふふ、ありがとうございます」
アンは魔法を終え杖をしまうと、優雅な礼をする。
そして、茶の続きを楽しもうと元の席へと戻っていった。