生物としての強さはだいたい重量に依存する傾向がある。ガチンコで殴りあい殺しあった場合、重い生き物ほど強く、軽い生き物ほど弱い。そんな一般則のなかで人間はどちらかというと例外で、例えば体重60kgの平均的な成人男性が40kgほどの野犬にガブガブやられちゃったりもするもんだ。
ぶっちゃけ弱い。
もっとも人間という種の基本にして奥義は武器を使うことであるのは周知のことで、いまさら素手で勝ち得ないことを恥じる者なんていないだろう。鉄砲を持たせれば逆に十倍以上の体重を持つ生き物だって指の動き一つであっさりと殺れてしまうのが人間の脅威だ。そういう意味では人間は二重の意味で例外に属していると言えよう。
さて、そんなわけで、今もズリズリと擦り寄ってくる黒き毛玉と僕の戦力を大まかに比較してみよう。
大きさ
僕:高さ1.3 m 弱、棒状
毛玉:1 m 強、球形
重さ
僕:約25 kg
毛玉:500 kg超(体積あたり水と同じ重量比として概算)
ポケットをゴソゴソ、周囲をキョロキョロ。
もちろんどこにもナイフなんて落ちていないし、銃だってもってない。あるのはそこらの木切れくらい。
つまる話が……無理っぽくね?
――――――――――――――――――――――――――
アホウ少年 死出から なのは
第10話 運命
――――――――――――――――――――――――――
にじり寄ってくる気色の悪い毛玉を観察して僕の判断は一瞬だった。思考力の割り振りを『毛玉の打倒』から大幅に削減し、それらを『毛玉からの逃走』に再分配した。
いやはやしかしどうしたもんだろうかねえ。
僕は毛玉のでかい血色の瞳をしっかりと見据え、牛歩の進行に合わせて後ずさる。
急に走り出したりしなければ、いまのところは襲い掛かってこないようだったが、ここまでの数分は今後の数十分を保障してくれるものではない。
だが、そもそもヤツは何を目的として僕を追っているのかも不明瞭で、僕は思い切った行動をとりかねていた。
あの目をそらしたくなるような醜悪な毛玉はジュエルシードによって作られたモンスターだ。そのジュエルシードは腐っても願望器で、ヤツの発生起源は出現の直前までシードに触れていたはやての願いにあると思われる。
ここまではいい。
ではそのはやての願いとは何なのか。そのときはやてが願っていたことさえわかれば――いや、ちがうか。はやてが何を思っていたか、わかったとしてもどうしようもないだろう。なにしろジュエルシードは願望器として本当に腐れきっている。原作を思い返すに曇りガラス越しに雑多な願いを見てから、ごく一面的な解釈で針小棒大するといった感じだ。
大きくなりたいと願った子猫を巨大怪獣にする宝石である。
愛くるしい小型犬を飼い主の前でみるからに獰猛そうな暗黒不思議生物に作り変えて牙をむかせる宝石である。
そんなだから、たとえはやてが単純に僕の誕生日を祝っていただけだとしても、
誕生日はめでたい。
↓
めでたいことがずっと続けばええなあ。
↓
これよりも年を重ねなければ毎日が誕生日的な?
↓
ぶっ殺す!
くらいの斜め上をかましても不思議はない。
とにかくしばらくは時間を稼ぎつつ――って、
「ぬわっ」
急速に目の前で黒いものが広がって僕は反射的に首を振った。
四方八方に黒い弾が打ち出され、その一つが泥団子をたたきつけるような音を立てて背後の木幹に着弾した。風が触れたほほに手を添える。その軌跡は間違いなく数瞬前まで僕の顔があった空間を突き破っていた。
僕は心中で安堵と驚愕をないまぜにして毛玉を見やる。
距離は保っていた。毛玉の牛歩の接近に合わせた僕の後ずさりは、近づきもせず遠ざかりもせず。一本の棒をはさんだように一定だった。
では、なぜ? 痺れを切らしたのか。片目だけで探れば、はやてはすでに見えなくなっている。だからか? いや、やめよう。現段階でヤツからルールを読み取るのは早すぎる。いま重要なのは『どうして』ではなく『いかにして』だ。
他者からの介入は見込めない。ユーノは力を使い果たしてダウン中。なのはが魔法に目覚めるのは原作どおりで今夜。フェイトがくるのはさらにしばらく経ってから。
ゆえに誰からも助けは来ない。よって、全ては自らの意思と力で――
『ギギギッギッギィィぃ、アシッギィギキキシャァァァァ』
爬虫類の威嚇音に汚濁を溶かしこんだように病的な鳴き声はこの歪んだ太陽を掲げる封鎖領域にあってなおおぞましい。だが先ほど打ち出された無数の黒い泥弾は、それこそ我が故郷とでも言わぬばかりに狂的な意思すら感じさせて我先に吸い寄せられていく。
その有様はアリが角砂糖に群れるよう。または麻薬中毒者か、蜘蛛糸の罪人か。
僕は地獄を振り切るように駆け出した。
『ギジィ?』
黒い弾丸を回収している毛玉はその全身をコロリと傾けることで、僕の突然の行動に対する疑問を表現して見せた。
まずは太めの木の一本に目星をつけた。僕の姿が木の陰になって見失ってくれれば僥倖だ。
全速力である。つま先が地面を強く突き放し、心臓が全力で血を回転させる。肺のガス交換には限界があり、それでも口は新鮮な酸素を要求した。
勢いよく腕を振るう。高くひざを上げる。行き来する空気に気道が乾くのを感じながら僕はなおも加速を求めた。
汚らしい鳴き声とともに泥弾が僕の横を飛び、地面に着弾して黒いシミになるも、僕に当たるものはなかった。良し良し。僕と毛玉を結ぶ線分上に立つ太い幹がしっかりと僕の身を泥弾から遮ってくれているようだ。泥弾は重力の影響を受けるようだし射程は有限。ならばこのままいけば逃げられるだろう。あとはなんとかはやてと合流すればいい。封鎖領域は晴れなくても、最悪、数週間もすればフェイトあたりがシードの回収に現れるだろうしそれまでの辛抱だ。
――――そんなふうに考えていた時期が僕にもありました。
『ギキィィキャィァァギ、ギッギシャアァアァィィィィィィぁぁぁぁぁ!!!』
(日本語しゃべれ毛玉やろう)
逃亡成功が見えてきて気の大きくなった僕は負け犬の遠吠えを鑑賞してやるつもりで振り返り、そこに信じられないものを見た。
毛玉が自身のおぞましさに耐えかねたようにひときわ大きい鳴き声を上げるとともに破裂し、四方八方にその断片を撒き散らす。いや、それ自体はかまわない。僕も攻撃の気配を察した時点で、再度横にずれたから攻撃は毛玉と僕の間に立つ木の幹で阻まれる。
問題はその量だった。今までの体表の一部を飛ばして周囲のベンチや木々を所々汚していたのとは規模が違う。まるで公園の全てを汚染しつくすような黒の拡散が巻き起こっていた。
振り返れば重油のような汚れでまだらに染まった地面。
僕は恐る恐る逃げる足を止め、毛玉がいた場所をまじまじと見返すと、そこには黒々としたシミのみでもはや毛玉と呼べるモノは存在していなかった。
嗚呼、これで毛玉が死していたのならどんなに良かったことか。けれど重油のようなシミの全ては確実にうごめいていて、僕は背後で蠢動する異様な気配に釣られて半ば強制的に振り向かされた。
「おいおい、こりゃいったいどういう……」
飛び散った黒い泥の断片が再び一点に集合する。ただ、そのリユニオンの座標は破裂した場所とは変えており――つまりは僕のすぐ近く、先ほどまで僕が逃げようとしていた経路をふさぐようにその黒い泥たちが集まりつつあった。
『ギギ、ギギ、シシギィィギヒィ』
いまだ拡散した構成断片は集まりきっておらず、今もナメクジが這うようにそこへ泥がよってくる。今、黒い球形は30 cm以下のサイズに縮んでいたが、それでも腐ったトマトのような汚らわしい赤色をした目と口の再構築はされており、それらの端をニィとつり上げて僕のことを嘲っていた
「な、ぁ――」
本能的に背を向けて走り出す。その方向は今来た道を逆走するもので、もしやするとこのまま同じ場所でいたちごっこを続けることになるのではないかと一片の冷静な思考で危惧したが、その心配は図らずも杞憂に終わった――より都合の悪い結果を伴って。
『ギシァァァア!』
「ぐぁッ」
よくわからない衝撃に体が吹き飛んだ。ずいぶんと長く感じられた浮遊感がなくなると、僕の体は地面をゴミくずのように転がった。全身に封鎖領域の枯れ色の芝生をまとわせながら僕は爪で大地を引っかく。
こんなときに思い出すのは、もう主観において10年近くの彼方。前世の僕が死したときのこと。あのときの地面はアスファルト。今は芝生であるあたりずいぶん恵まれているじゃないか。
だが、内面に渦巻く感情については大きく異なる。恵まれているかなんて知ったことではない。
衝撃は毛玉の体当たりだったらしい。見れば毛玉がすぐそばで鞠でもつくように飛び跳ねて、うれしそうにギィギィと鳴いている。なんと憎たらしいことか。何がそんなに面白い。嘲りに対する正当な怒りは僕の中で半ば故意的に増幅され、そうでなければこの身を支配しかねない恐慌へのアンチとして燃え盛った。
『ギジッ』
痛む体を抑えつつ地面に手をついて立ち上がる――いや、そうしようとしたところに再び毛玉が飛び掛かかってきた。体を支えていた手を肩からはじかれて僕の体はまたもや無様に転がった。カサカサの芝生が頬をこする。僕の瞳にはすぐそこの醜悪な影が映っていた。今度の攻撃では、毛玉は僕を転ばせても、そのまま離れずに僕の肉体に取り付いていた。
そして、
「いっ――だああぁぁああぁぁ」
獰猛な笑いを浮かべて僕の肩にとかぶりついた。
血が噴出する。
その泥のような体でどうしてと思うほどの鋭く固い牙が服すら貫いて僕の肌へと食い込んだ。
痛い、痛い、痛い。
ギィ、ギィ、ギィと黒い毛玉は肉の抵抗を楽しむような唸りを上げながらその肉体を振るわせる。
なにが、なんなのか。
それは間違いなく恐怖である。生きたまま喰らわれる。意識を保ったまま、直前までの自身の構成要素が他者の栄養となる。どのような声も慟哭も哀願も届くことはなく、ただただソレは自己の本能を満たすべく牙を突き立てる。赤い紅い朱い血のような口の中、そこで咀嚼/啜られる肉片は僕の皮膚でした。ああ、なら今はなんと言うべきか。物理的な自己の拡散。いったいいつまで僕という意思は保たれるのか。指がなくなればソレは僕か。腕がなくなったときソレは僕か。足を落とし、髪を失し、心の臓をえぐられて、いつまで僕は僕といえるのか。もしかしたら千切れてもパーツごとの意思があるのかもしれない。そして化け物の腹の中で僕は再び僕になる。あるわけがない。
もしや意識を絶ったほうが楽なのでは? 頭のどこかで諦念からくる提案がささやかれ始めたとき、それよりも耳にこびりつくのは下品な咀嚼音だった。くちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃくちゃ、くちゃと音を立てながら満足げに僕の肩肉を食らう毛玉。
不意に目が合った。
『ギシィ?』
「口をとじて喰えトンチキがっ!」
かじられたのは左肩。ならば僕は右手で殴る。
下から無理な体勢で突き上げられる一撃は決して強力なものではなかった。けれど僕の拳は毛玉の無駄に大きな真紅の瞳を打ち抜いた。
毛玉が化け物らしい悲鳴を上げて吹き飛ぶ。つかの間の空中浮遊をお返ししたが、毛玉はいまだ再集結の過程にあるバスケットボール大の肉体で三度地面をバウンドするとつつがなくこちらをにらみつけた。
『ギジャァァァアァァァァア』
おうおう怒っているのか――いい気味だ。
僕は今度こそ立ち上がる。靴の中、親指を地面に突き立てる、上がらない左肩に風が触れる痛みに耐えながら腰を落として眼前の化け物と相対した。
武器。とにかく武器が要る。毛玉は反撃に警戒してか、瞳に怒りを宿しながらもかかっては来ない。けれど先ほどの大破裂で巻き散らかされた黒の断片は今も刻一刻と集合しつつあった。再構築が完了するのにはあと1分もかかるまい。だからこの毛玉を叩き割ることのできる凶器が必要だった。
その場を見渡す。しかし辺りには拳の中に握りこめる石ころさえ見当たらなかった。
公園なんてそんなものか。小さな子供も利用するのだから危険物なんてそうありはしない。見つけた一番マシそうなものでさえ殴りかかれば折れてしまいそうな木切れだった。
『ギシシシシ』
毛玉がさえずる。化け物語の素養なんてない。だがそこに嫌みったらしい意図がこめられているのはどうしようもなく理解できた。事実、順調に断片を再吸収し続けている毛玉はすでに1 m近くにまで膨れ上がり、最初の姿を取り戻そうとしていた。『その時』がくるのも時間の問題だ。故に、
――くたばれっ。
完治とともに襲い掛かってくるだろう。確信した僕はそれよりも早く襲い掛かった。底なし沼を連想させる黒い泥溜まりを踏み荒らし、毛玉の本体へ。何が意外か驚愕の鳴き声をあげるがもう遅い。僕は未熟な身体機能の限りをつくして疾走し、そのまま靴に守られたつま先で目玉を蹴りつけた。
『ギジャァァァ』
それは苦痛か。だったらいいなあ。けれど毛玉の化け物は身もだえして盛大に鳴き声をあげながらもその瞳はつぶれていない。瞬膜のようなもので守られているのだろうか。ほんとうはその汚らわしい肉塊を尻からストローで息吹き込んだカエルみたいに爆破四散させてやるイメージで放った一撃だったが、ゴムのような感触で押し返されていた。
(よしムリ!)
やっぱあんなの倒せません。もしかしたら、という僕の希望的憶測は打ち砕かれ、その下から揺るぎのないリアルが現れた。すばやく転心。それならばそれなりの行動をするべきだ。
僕はまたもや反転、節操なく逃げ出した。やっぱり打倒はムリという最初の判断は間違えていなかったのだ。
聞けば全力疾走というのは一歩ごとに身長と同じ高さから飛び降りるのと同じくらいの衝撃を受けるらしい。連続する振動に左肩が痛み、同時に服を赤く染めてゆく。
腕を振ることのできない現在の全速力はベストよりも数段劣るが、それでもここで戦うよりは生存の可能性は高かろう。
とにかくこんな開けた所ではまずい。なんでもいいから建物の中に逃げ込まなければならない。そうすれば、それが有効打になるかはともかく、使えそうな道具や案はいくらでもある。
一瞬でも早く公園を抜けるべく疾走する。その背中にもはや聞き飽きた感のある鳴き声がぶつけられた。
『ギシイイイイィィィィ、ギジジイィィ、ギギギッギギ』
逃げ足をとめずに後ろを見れば、迫り来る飛来物。反射的に体を捻ると、それは僕のわき腹を掠め、黒いツバメが飛び去るような影を残して消えていった。そして走る灼熱感と遅れて流れるジンワリとした感触。触れてみてみるとその手は新しい血に濡れていた。
これまでの泥弾ではありえない類の創傷に驚愕し、そしてそれに気がついた。
どうやら僕の攻撃は毛玉を倒すことこそ出来ずとも、その不遜な行いに怒りを覚えさせるには十分だったらしい。
毛玉がうねる。鋭く、その体毛が槍の形へ生まれ変わろうとしていた。
怒髪が天を突くとアピールでもしたいのか、肉塊は先までのストレートヘアをかなぐり捨てて、急速にうごめきながら、まるでウニのような形態をとろうとしている。赤の中で攻撃色を強めた瞳で僕の命を狙っていた。周囲にはたった今の攻撃で発射したのであろう、黒色の短槍がいくつも突き立っている。
その中の一本、僕の太ももほどある木の幹に深々と突き刺さっているものを見て僕は思う。
(あ~、こりゃ死ぬかもなあ)
『ギアアァァァァァアァァァ――』
咆哮とともに発された次の一撃をよけることが出来たのはただの偶然だった。眉間に飛来した必殺の黒槍に対して足の力を虚脱し、その場に崩れ落ちることで回避する。髪の二、三本をさらって飛び去る刺殺。偶然はそこで品切れだった。
『シイッ』
黒槍の発射でわずかに身軽になった毛玉がボールのように飛び跳ねて襲い掛かってくる。その襲撃を、僕は目でこそ認識しながらも、崩れた体制でかわすことは出来なかった。相撲取りのぶちかましがこんな感じなのか。踏ん張ることもできずに僕の両足は地面から離れていた。
地面に倒れこむ。息が詰まり、不意の苦しさに咳き込んだ。毛玉は今度こそ逃がす気はないらしく、先ほどのように目玉を殴ろうとした僕の手は、微妙に体の向きをずらされて届きそうになかった。
ただひとつ幸いなことといえば、毛玉の全身を覆っていた黒い短槍が事前の攻撃で全部発射されていたおかげで、体当たりを食らっても串刺しにはならなかったことか。それも今後の展開しだいで、さらに不幸なことだったと嘆くことになるかもしれないが。
『ギシイィ』
捕まえたぞ、とでも言っているのか、大きな口の端を嗜虐的に吊り上げる。僕も唯一動かせそうな右手でひとしきりの抵抗をしてみるものの、いかんせん現在の毛玉は十分な質量を持っていて動きやしない。
毛玉の化け物の血色をした口がゆっくりと近づいてきた。
「っグアッ」
まるで飲み込まれたみたい。噛み傷の残る左肩に口付けて再度牙を突き立てられた。牙を突きたてたままジュルリジュルリと音を立てている。
痛みに明滅する思考を叱咤して現状を分析。どうやら、この化け物は傷口から僕の血を吸っているらしい。
おぞましい。怒りを込めて右手で押す、殴る、ブリッジで跳ね除けようとする。しかしあらゆる抵抗は無意味だった。僕の肉体は圧倒的な質量にかなわない。
「あ――」
痛――――――――い。
この汚らわしい化け物は僕の苦痛でも栄養としているのか、それとも単に流れ出る血が少なくなって新しい吸い口を作る程度の気持ちなのかもしれない。またも左肩に噛み付かれた。
どくどくと流れ出ていく血液。心臓にあわせてなくなっていく。ジュルリジュルリと音を立てて吸い取られていく。ザラリとしたが舌が僕の傷口をなめると僕の体は跳ね、そのたびに毛玉の化け物は真っ赤な血のような瞳の喜色を濃くした。
死――圧倒的な予感が僕を包み込む。
嗚呼、武器がほしい。このクソ毛玉を真っ二つに断ち切るような、そんな刃。この物理的にも魔導的にも心情的にも閉塞した現状を打ち壊し、高笑いとともに飛び立てるような。今も僕の血を吸っては酔いしれるこの毛玉に鉄槌を。貫く弓を、導く石を、打ちつける鉄甲を。僕の気に入らないありとあらゆる存在を灰に出来るような素敵な道具がほしい。
そう、僕だったらそれがありえるはずだったのだ。僕は魔力を持っている。昨晩、ユーノの声を聞けたのがその根拠だ。高町なのははレイジングハートを手に入れたその直後からジュエルシードの化け物を打倒して見せた。フェイト・テスタロッサはその魔導の閃光で自身の胴回りほどもありそうな木の根を易々と切り裂いた。ならば僕とて。彼女たちの半分の、そのまた半分でもいい。魔力を使えればこんな毛玉なぞに遅れをとるはずがないのだ。
だからこそ武器を、――――――――――デバイスを。
妄想の飛躍は状況の悪さに比例する。ないものに思いをはせている間にも状況は悪くなっていく一方だった。身動きの取れない体。何度も牙をつきたてられてぐちゃぐちゃになった傷口。十分に柔らかくなった肉をざらついた舌でなでられるたびに激痛が走り思考にノイズが混ざってくる。血が足りない、それでもさらに抜けていく。口は既に意味ある言葉を吐かず、僕の血が啜られる不愉快な音と、同じくらい汚らしい僕の叫び声ばかりが耳につく。指が反り返る。散々に振り回したせいで爪の中には草やら土やらが詰まっている。毛玉に引っかかり薬指の爪が剥げた。
ジリ貧――いや、もう既に詰まれているか。
意識の中に、急速に闇が広がっていくのがどこか他人事のように感じ取れている。
いつ死んだってかまわないと思っていた。
生きることに絶望していたわけではない。死に希望を見出したわけでもない。
ただ僕という人間はたしかに生に無頓着で、死ねば終わりという言葉に肯定的な意味を見出していた。自殺などについても硫化水素や電車への飛び込みなど他人様へ迷惑をかける方法さえとらなければそれも良いと思う。尊厳死にも大いに賛成。
自身もちょっと辛い期間が続くだけで、空から槍でも降ってきて痛みもなく死ねないかなどと、ろくでもない妄想にふけったりもする。
生きるも死ぬもニュートラル。
故にこの現状で早急な死を求めてしまうのも一貫しているし、
そして僕はすでに人を殺している。
あの廃墟ビル。昼でも薄暗いあの空間ですでに僕は手を血に染めていた。それも三人分。
贖罪の意識があるわけではない。そのときの殺人は僕にとって死んでもかまわない人間を必要に応じて殺しただけだから罪の意識なんてあるはずがない。
ただ、それでも僕は思うのだ。
人を殺す人間は、また自らも殺されることを覚悟すべきである。
べつに倫理や法則としてその言葉を信じているわけではない。だが、その瞬間まで自らの死なんて考えてもいなかった人間に襲い掛かって殺害した僕が、いざ自分の番になって死にたくないと喚きたてるのは、そう――いささか『かっこ悪い』
そういうわけだから、まあ、かまわんだろう。さすがにこんな形で終わるとは思ってもいなかったが、だからこそ世界は面白いともいえる。
そもそもあるとは思ってもいなかった第二生。うたかたの夢としては長すぎたくらいだ。
痛みにも耐えかねてきたことだし、僕はゆっくりと黒い視界を閉じようとして
――アイリ。
そのなつかしい声に目が覚めた。
彼女はすでに逃がしたはずだ。だから今際の幻聴なのかもわからない。だがそんなことどうでよかった。それで思い返された彼女のことこそが、ただひたすらに重要なのだ。
八神はやて。今生ではじめての友人。大人びていて、そのくせさびしがり屋の女の子。
そういえば、彼女はどうだろう。僕は、まあ、死んでしまってもいい気分ではあるのだけど、はやては僕が死んでしまったらどう思うか。
決まっている。彼女は泣くだろう。
きっと彼女は泣き崩れる。僕にとってのはやては数少ない友人であるが、同時にはやてにとっての僕も似たようなものなのだ。八神はやてという少女のもともとの性質からして情が深い。それまでろくな交流のなかった闇の書の管制人格が逝くというだけで泣いてすがるのだ。僕も思い上がっていいのなら、それくらいには悲しんでくれるだろう。
少し、胸が痛んだ。
そもそも八神はやてという少女は僕にとって、ほかのいかなる知り合いと比べても趣が異なる。庇護対象とでもいうべきか。僕はこれまで彼女と友人として付き合いながら、漠然と彼女が陰のない笑顔を浮かべてくれればいいと思ってきた。
それがこのざまか。
頭がジンと痛む。僕は死に、彼女は泣く。もとより親がなく、足が悪く、知人も少なく結局のところで幼い彼女にとって、住まいさえ共にした友達の死はいったいいかほどの傷を残すだろうか。中途半端な救いは、持ち上げたぶんだけ叩きつける。それくらいなら僕ははやてにとって、もとからいないほうが良かったのだ。
なるほど――――――気に入らない。
ピシリと骨がなる。限界が近いのだろう。過剰に重いものの乗った体はもはや呼吸さえ苦しく、視界は狭まる。土の湿った感触ばかりが感じられ今でも熱が抜けて行く。血行か欠損か、いかなる問題か今では左手には感覚すらないが、いまも取り付き肉を食む毛玉によって傷は深まるばかりだ。額が痛い。目の奥が霞む。身動きが取れない。赤い色が清潔を蝕んで、それでいて僕の脳は高速で回転を続けていた。
どうしてこんなことになってしまうのか。僕ははやてに屈託なく笑っていてほしかった。いつ消えてしまうかも不安になる儚げな微笑を晴らしてあげたかった。なのにその結果がこれか。なんと情けない。その僕が一番彼女を苦しめようとしている。
崩壊の予感がする。しかし認められるはずがなかった。
そうだ、認められないとも、こんなばかげた結末。
気に喰わないのだ。彼女が泣くのも、彼女が笑わなくなるのも。なによりその原因が僕にあるということも。
つまりそれはどういうことか?
あまりにも安直すぎる問いかけに対する、なんの捻りもないその解答は斜面を下り落ちるよう自然に僕の手の中に納まった。その解はきっと正しいという直感がある。だからこそ見てはいけない、知ってはいけない。僕が僕であるためには認めてはいけない禁断の真実が手の中にあった。けれど、その解は覆い隠す僕の手の中で勝手に花を咲かせ、押し隠す指をこじ開けて燦燦と真実を訴える。
もはや認めざるを得まい。
僕は、死ねない。
決定的に何かが壊れる音がした。
「ははは、は。――あはっ、あははははは、はははっははっはあっはっははははあ、はっはははっはははははハハハハハハハハハハハハハッハハハアハハハッハハハハ――――――」
狂笑が踊る。化け物が肩から血と肉を啜るのもおいて僕はかまわず笑い続けた。
なんという無様、なんという皮肉、そしてなんという禁忌か。
死にたくない――それだけは僕が僕であるために思ってはならないことのはずだった。
いつ死んだってかまわない。僕という人間は常にそう思うことによって、いままでやってこれた。飄々と、超然として、とらえどころなく、何よりもただあるがまま自由に。いかなる苦難がわが身に降りかかろうとも、耐え難いほどに辛ければ死ねばいいと、常に逃げ道を用意することで心に余裕を持つことが出来た。
苦しさ、悲しさ、憎しみ、満たされない欲求がどんなにに内面で吹き荒れようとも、死に向かって開かれたドアから風は抜ける。死に向かって流れる柳こそ僕だった。
それを否定してしまった。
非常口にシャッターが落ちた。こうなれば僕はもう生きたままに焼け崩れるしかないではないか。
死ねない。
死ぬわけにはいかない。
ああ、死にたくないとも。
これを笑わずして何を笑う。僕が――いままでずっと死を許容することで己を維持してきた僕がいまさら死にたくないと? 馬鹿らしい、くだらない。何たる自己矛盾、何たる不合理か。まるで道化だ。あまりの無様さに自分で自分をくびり殺したくなる。しかしそれでも僕という人間が前世も含めて後生大事にとっておいた最強の逃げ道は、今、ほかならぬはやての存在によってふさがれている。
肺を押しつぶされて声など掠れたものしか出ない。それでも僕の喉は愉快で不愉快でひたすらクツクツと跳ね続けた。
『ギジィ?』
狂態を見かねたのか毛玉が肩から口を話して僕の目を覗き込む。――目が合った。
「いつまで乗ってんだよファック野郎!」
とりあえず呆けた横っ面をぶん殴る。すると毛玉は殴られたところから自身の腐った泥のような構成要素を盛大にぶちまけて奇声をあげながらごろごろと転がっていった。
ああ愉快だ。歪んだ封鎖領域の大気の中にいて、まるで青空と太陽の全てが祝福してくれているようではないか。うす雲から月の覗く程度の穏やかな夜が好きだというのに実に不愉快だ。
まったく不自由なこと極まりない。
『いギジャァァァキシジジギギギギャァァイァァァァァ』
収まらない笑いの衝動に身を任せたまま立ち上がれば、転がっていた毛玉もよたよたと姿勢を直して向き直っていた。その思った以上に感情の読みやすい真っ赤な瞳には、すでに抵抗の力が果てていたはずの捕食対象になぐり飛ばされたことへのわけのわからない戸惑いと焼き尽くすような怒りがあった。
毛玉の黒い肉体が再び作り変えられていく。皮の下に別の生き物がいるかのように肉体の表面がうごめき、無数の短槍が形成されていく。許さない、殺してやると血走った瞳が告げている。憎しみの迸る咆哮は不遜なエサがこれから迎える残酷な運命を天地に知らしめんとしているようだった。
「ハハ――でもなあ化け物。悪いけど、今の俺は強いぜ」
そう、不自由だからこそ強い。銃はその爆発を限定されることでこそ突破力を持つ。槍は乗せられた力を穂先の一転に集約させるからこそ貫ける。
逃げ道のない世界。ならば前に行くしかないだろう。
痛む体、拡散する視覚の全てを手のひらにのせて握りこむ。わかりきったことだ、俺はこの化け物を殺すだろう。
一歩、体の中で肉と骨が軋む音を聞きながら歩き出す。すでに死に体の進行がどう見えたのだろうか。毛玉は一度たじろぐように震え、そして直後には自身の反応を打ち消すようにひときわ高く叫びを上げる。
『ギギギィィキキキイィィィィィ――ッァアアアアァぁ嗚呼アァッァァァァァアァッァッァァアッァ』
全身から放たれる無数の短槍。一本一本が十分に引き絞った強弓の威力を持つ殺意の弾幕がドームとなって広がっていく。逃げ場などない360°全方位に向けた刺突の爆心地。その傍らにあって、この身に向いた必殺の数は十と三。漆黒の残像を引き連れた槍襖にかわす隙間などあろうはずもなく――だから無理矢理こじ開けた。
半身になって振り下ろす右腕。空虚な白い光をまとった一閃は大気に焼け付くような軌跡を伴って殺意の黒壁をたやすく引き裂いた。
毛玉が今度こそ悲鳴のような声を上げる。俺はかまわず、壊れかけたからくりのように足を踏み出した。
そうだ、デバイスなんて要らなかったのだ。ないものを無策に願うなどくだらない。ないならば、それを用いずに目的を果たせばいいだけの話だ。そも、デバイスなど例外を除けば術者が蓄えている魔力を吸い上げて指向性と機能性を与えているに過ぎない。つまりエネルギーはすでにあるということになる。
死に近づいたせいだろうか。俺はここにきて思い出していた。前世の最後、冷たいのか熱いのかもわからないアスファルトで灯火が消えていく記憶。ぬるい太陽の中で終わっていった。刻まれた裂け目から血液とともに命が流れていく感触。大切なものが肉体を抜けていった。
あれが魔力だ。
今の俺は死への扉が閉じられている。故に高められた内圧は後ろに逃げることは出来ない。一点を開放すればただひたすら前へ。己が意思、己が命を叩きつければいい。
『ギギァイキッキキィッィィィオォァァッァァァアキイキキイキジギギギィィィィ』
にわかに毛玉の球形が潰される。それは大地に叩きつけられたボールが跳ね返るために歪みを蓄える工程と同一だ。
毛玉はおぞましくも決死の狩り声を上げる。それは捕食存在としての意地なのか、毛玉は短槍の射出を破られてなお退くことはしなかった。飛び掛る毛玉。咆哮とともに迫る速度はまさしく大砲というにふさわしく、それをまともに受ければこの身はばらばらになり、もはや生きながらにして喰われることすら叶わないだろう。
ああ、本当にありがたい。もうそっちに行くのも億劫なところだったんだ。
迫り来る毛玉。俺はその軌道に拳を乗せるだけだった。
「じゃあな化け物、お別れだ」
魔力を放つ。
極光が毛玉を包み込んだ。
毛玉の突進と迎え撃つ魔力。拮抗したのは一瞬だった。月白の奔流が空間を荒れ狂い全てを無味乾燥に塗りつぶすなか、毛玉は叫びを止め、ただただ呆と自身が白に侵されていくなかで俺の瞳を見つめていた。
白く崩れ落ちていく。洪水のような魔力を受けて毛玉は磨耗するように削れていき、ついに線香花火が落ちるよう光の中に消えていった。
空を見上げて嘆息をひとつ。光は肺の中の空気を全て絞りきったような虚脱感とともに終息した。もはや僕の前に毛玉はいない。ただ、その代わりに芝生に刻まれた大小無数の傷跡と青い宝石が一つ残されていた。
勝った、のだろう。僕はいつしか空に眩しいまでの青さが戻ってきていることに気がついていた。
とりあえず億劫なのをこらえて膝を折るとくしゃくしゃのハンカチでジュエルシードを包み込んでポケットに突っ込んだ。んで、もう一度立ち上がるのにも一苦労――って、うおゎっ。やっばい、いまものすごい立ち眩みが襲い掛かった。
あぁ~~~~~~~~血が足んね。つーか今もちょっぴり流失中。というかなんか眠いんだけど普通にやばくね?
まあ、いいや。とりあえずはやてを探そう。
胡乱な思考を抱えて僕はふらふらと歩き出すのだ。
僕は生きている。
故に、この日はまだ終われないのであった。