水曜日 日本棋院低段者の手合日
この日和谷とヒカルは共に手合があり一緒に棋院に来ていた。
昼に打ち掛けになった時、和谷は店屋物を、ヒカルは外へと別れた。
中でカツ丼を食べた和谷はその前に見たヒカルの川崎三段との途中までの棋譜。
黒のワリツギへの通常のツグを敢えてツケるタイミングに畏れていた。
休憩所から出た時に和谷は他の棋士たちの噂話から日中韓の18歳以下のJr.団体戦を知り、来る時に計るが零していた低段者相手の物足りなさを覆す若手の活躍の場が出来ると興奮をした。
だがその時に同時に選定方法で選抜戦があるのではという噂も聞こえてくると自身の選ばれる可能性とヒカルが選ばれる可能性を考えて、ヒカルが戻った時に話題に出す事が出来なかった。
それは無自覚に既にヒカルに対し気後れした為である。
12月 本因坊リーグ 一柳vs塔矢アキラ
二人の対局に芹澤、乃木が観戦していたがアキラが押し込まれているように二人には見えた。
そんな中、ヒカルが対局室に入ってきて芹澤に軽い挨拶をしてから棋譜を覘きシマリにツケとアキラの白の対応を思いつき顔を上げた直後にアキラも同じ手を打った。
そのツケは対局者の一柳も芹澤たちも思い付かなかったが、咄嗟に芹澤が見たヒカルの表情に彼には解っていたのかと悟っていた。
だが一柳もまだ負けていない。ノータイムで打ち返し、意地を見せる。
だがこのツケが流れを変える一手で揺るがずに正確に打ち返すアキラによって一柳の敗北となったのだ。
その凄まじい対局を見て自らも早く打ちたいと欲求不満となるヒカルがエレベータに向かう時に芹澤に声を掛けられた。
「進藤くんはあのツケを読んだのかね?」
「ツケは読みましたがその後の応手は見ているだけで痺れる思いをしました」
「リーグ戦のライバルとして塔矢君は要注意と今日思い知ったよ。時間が遅いが今から少し検討しないか?」
時計は既に7時に近づいていたが家に連絡してそのまま検討をする事に同意した。
ヒカルも今の一局の興奮を誰かと共有したかったのだ。
後日、棋聖戦の予選で女流棋士との対局の歯ごたえの無さにがっかりするヒカルは出版部の記者古瀬村とその時出会いかつて院生時代の時に成り行きで対局した洪秀英(ホン スヨン)が韓国でプロとなったと聞きそこから日中韓Jr.大会の噂も知らされたのだ。
「日中韓団体戦!? 今年合格のオレも出れるかな?」
「伊角さん、進藤が言ったでしょ18歳以下だと」
和谷の研究会に早めに来て既にいた和谷と伊角に先日の古瀬村から聞いた話題を振ったヒカル。
「オレだっているさ」
その後かつて対局した秀英が既に韓国で九段と戦い勝利したと伝え、伊角が韓国だけでなく中国も10代の棋士が凄いと。韓国の高永夏は16歳で既にトップで日本は塔矢アキラしかいないというセリフへのヒカルの反論であった。
「おまえだけじゃねえ」
それはヒカルの次の本因坊戦一次予選最終戦とその後の高段者戦への意気込みに対する和谷の反論と鼓舞であった。
一次予選突破後、囲碁サロンで恒例のアキラとの検討で直接対決の機会として団体戦の4月の予選があると話したが既にアキラがリーグ入りの実績から予選控除されている事を知ったヒカルは。
「予選突破までもうここには来ない。一歩一歩行くさ。神の一手を極めるのはオレだ」
そう言ってヒカルは受付の市河の不安な表情を無視して荷物を受け取り厳しい顔つきで出て行く。
木曜日 ヒカルの五段以上の高段者との初めての手合
― 楽しみにしていた初戦の相手がアンタだなんてな
― 御器曽七段。七段とは思わなかったぜ
― アンタにだけは負けたくねェ
― 今のオレは許せない
― 毎日棋譜を並べている
― アンタはずっと碁の勉強をしていないだろう
(クソッ。才能のあるヤツに何が解る。プロ一年目で二段はまだ良い、もう一次予選突破だと。
まだ15歳で碁を始めて三年余りでここまで来たヤツにこの歳で未だに七段の気持ちが、三次予選も碌に行けない棋士にも生活がある事が解るか)
御器曽七段。かつて佐為が新初段シリーズで無理矢理塔矢名人(当時)と対局した後不満の残る結果を宥める為に行ったイベント会場で最悪の形で出会った棋士だった。
碁盤の材質を誤魔化し高く売りつけようと悪徳業者と組み、ヒカル(佐為)の指摘で断った客を指導碁で嬲る行為をしていた。
そして虎次郎の偽の署名で秀策の碁盤と偽ったのだ。
佐為亡き今、その価値を今更知ったヒカルには許される事では無かった。
御器曽は敗れた後ヒカルの経歴を調べ、あの時の軽蔑の眼差しと辛辣な台詞が何度も脳裏に渦巻いていた。
― 若いヤツに踏みつけられるのは慣れっこだが
(嘘だ、いつも心に血を流している)
― 器の違いを見せつけ
(オレもまだ出来るはずだ)
― アンタはずっと碁の勉強をしていないだろう
(それがどうした。生活するのに碁だけでは食っていけん)
そのまま家に帰った御器曽はふと碁盤に目が行った。
― いい碁盤で勉強しないと上達しないんですかね
(四段になりあいつとの結婚を意識した時に今後の覚悟を決める為に本カヤのこの碁盤を手にしたんだった)
― 秀策の字じゃねーよ
(そうとも、オレも秀策の棋譜を毎日並べるだけじゃない、秀策の書にも憧れ学んだんだ。そして、碁盤に秀策のサインを……)
碁盤と碁笥を久しぶりに取り出した時に目に入った秀策の棋譜集とヒカルの言葉が再び蘇った時に知らず知らず涙が浮かんでいた。
(どこで道を間違えたのか)
― プロにはゴールが無い。一生勉強なんだ
かつて、入段時期や年齢が近く同じ研究会に居た棋士の口癖をふと思い出した。
その棋士はオレと同じく棋戦上位には中々行けなかったが弟子を育てるのが上手く多くの棋士に慕われていた。
(もう遅いかもしれない。だがもう一度足掻こう)
この日から家で秀策と最新の棋譜を毎日並べる姿が見えた。
パソコンも株価の確認から最新の棋譜のダウンロードと整理に使用目的が変わっていった。
その時御器曽は初めてsaiの棋譜を集めているサイトに偶然入り噂のsaiを知ったのだ。
並べる棋譜の種類が増えた。
(あと10年早く出会っていれば…… 無駄だな逃げていたオレの言い訳だ)
毎日聞こえる碁石の音に愛した夫が戻ってきたと何も言わずに妻は喜んでいた。
反抗期故に子供たちも父の変化を敏感に感じ取り素直に話を聞く様になっていた。
木曜日 日本棋院
(今日は進藤が来ていないか)
御器曽は今日は大手合で出席しついついヒカルを探してしまう。
今日の対局相手も若手で勢いのある六段だった。
「「ありがとうございました」」
久しぶりの白星に手応えを感じたが、緒方十段・碁聖を見掛けてまだまだ道は遠いと戒める点だけでも勝利以上に進歩したと言える御器曽だった。
同日 葉瀬中
「藤崎さん! 進藤は今日も休みよ」
「休み? 今日は手合も無いのに」
受験勉強の厳しさとクラスが違う上に通学も一緒でなくなって顔を合わす機会が減り、寂しくなって放課後にヒカルのクラスに寄った時に三谷に勉強を教えていた金子に見つかり聞く前に答えられたのだ。
「受験一色でアイツも来ても楽しくないしね」
「ヒカルは高校に行かないしね」
隠した左手にヒカルから貰ったお守りを握りながらつぶやいた。
「みんなバラバラになっちゃうのかなァ」
既に一流校の推薦を受けている金子とは別れるのは決定で三谷、夏目とも志望校が違って囲碁部はあかりと久美子の第一志望校が同じくらいだった。
その久美子も高校はテニス部と公言していた。
「大丈夫、進藤の家に近いからいつでもは会えるわよ」
金子の言葉に顔を赤くして否定するがそのまま言葉を返す前に久美子に呼ばれたあかりは逃げる様に塾に向かっていった。
その様子に金子はヤレヤレといった顔つきでいたら三谷が金子の横の机で突っ伏したままヒラヒラと問題用紙を掲げて出来たと死にかけていたので気分を変えて勉強を教えに向かったのだ。
理科室
三年生の受験シーズンの悲喜交々の様子を他所に囲碁部は小池がヒカルが来なくてダレた女生徒たちや元将棋部の岡村のやる気を出すのに必死になっていた。
その時もう一人の部員矢部が碁を知っているという触れ込みで連れ来たのが、大きな態度と違って岡村はおろか文化祭から入部した女子部員よりも弱かったという衝撃の事実の新入部員上島。
それはヒカルの少ない指導でも効果があり、ただ打つだけでは決して上達しない事を示していた。
結果冬の大会でそれなりに成績を残したかった矢部はガッカリしていたが実は気づかない内に皆の棋力が上昇していたのだ。
それを実感した女生徒たちは今後本気に囲碁に打ち込んでいくのだ。
囲碁部の未来は明るい。
塾が終わり久美子と別れて帰る途中ヒカルの家の前に立ったあかり。
外からヒカルの部屋の窓の明かりを見て家に居る事を確認して勉強をしなくて羨ましく思いふと、金子の「いつでも進藤と会えるわよ」という言葉を思い出し「それでも会えないよ」と寂しくなったりもした。
「あら、あかりちゃん。今帰り? そうか塾ね?」
「おばさん、こんばんわ」
ちょうどそこへ買い物帰りのヒカルの母親に出会ったのだ。
そこで志望校にギリギリだと言われ勉強も難しく大変だと思わず愚痴をこぼすあかり。
そして、ヒカルも毎日遅くまで囲碁の勉強で碁石の音がすると言われたのだ。
家に入ったおばさんを見送り再びヒカルの部屋の窓を見つめた時に携帯が鳴ったのだ。
「お母さん? うん、私がんばる。何でもないよ」
手にした携帯に揺れるストラップを見つめ改めて決意をし直す。
(ヒカルも高校とは別に努力を続けているんだ。私もくじけない)
「ファイト!」
そう一言口に出し前を向き駆け出していくあかりだった。
公立受験まであと一月余り。これ以上の泣き言を言わず人が変わったかのように集中するあかりは最後の追い込みで文字通り追い上げていったのだ。
それはヒカルのプロ試験の予選から最終戦までの二月余りの間の成長を思わす伸びであった。
あとがき
中学でのヒカルたちの様子。
そして真柴や名古屋で塔矢相手に心を折られた石原の20年後の姿のような御器曽の救済。
最強初段よりは二段に敗れた方がダメージは小さいかも。
そして天才タイプでないからきっと今後指導プロとして頭角を現してほしいと同じ凡才の願い。