8月14日 午前9時 都内 某銭湯 更衣室「おじさん待って! ロッカーの鍵、抜くのを忘れてる!」「お、おう」俺が大声で指摘して、それで初めて鍵の抜き忘れに気付いたらしい。タオル1枚腰に巻いた格好のおっちゃんは、ロッカーの鍵を抜いて、バンドを手首に巻いた。やはり一連の『本人』の事件で、おっちゃんにも疲れが溜まっているのだろうか。8月6日に発生し、蘭が巻き込まれた事件から、早1週間。今日、俺に、ようやく『本人』のところに見舞いに行く許可が出た。きのう、2度目の意識不明状態からようやく覚醒した『本人』が、『コナンくんに会いたい』と言ったことが決め手になったらしい。で、見舞いに行ったことが決まった直後の、きのうの夜。探偵事務所の風呂が突然壊れた。『病院に向かうのは、朝に銭湯に行ってからにしよう』という事になり、俺とおっちゃんは、近所の24時間営業の銭湯に来ている。「あの、毛利小五郎探偵じゃないですか?」視界の外からの、突然の声掛け。近くに人が居ることにまるで気付いていなかった俺達は、勢い良く振り向く。声の主は、中肉中背の中年男性だった。これから風呂に入る俺達とは違い、どう見ても風呂から上がってきた直後のようで、タオル一丁の全身は万遍なく濡れて湯気も上がっている。……俺にとっては、知らない顔の男性。「……すいません、どちらさまで?」その中年の男性は、おっちゃんにとっても、面識のない相手であったらしい。怪訝そうな声で問いかけられた相手は、少し焦った様子で自己紹介を始める。「あ、いえ、たぶん初対面だと思います。 毛利探偵と同じく、探偵をしている者です。星威岳 吉郎(ほしいだけ よしろう)と申します。 事務所が東京ではないですし、私はさほど有名ではないのですが。……いや、お会いできてとても嬉しいです。貴方みたいにドンドン事件を解決されるかたは、私にとっては憧れですから」この探偵は、御世辞ではなく本当におっちゃんに憧れているらしい。こんな風に褒められて悪い気になる人間は居ない。おっちゃんは照れながら頭を下げ、世間話を振る。「え? そうですか? ……ありがとうございます。ところで、星威岳さんはお仕事でこちらに?」星威岳探偵は、笑顔で頷いた。「ええ、昔していた仕事の関係でこちらに来ています。 毛利さんが有名になられるよりも前、本当に短期間でしたが、東京である探偵の助手をしていたので、その関係で。 本当にお会いできて嬉しいです。私が東京から出た後で有名になられた方の話題は、気になっていたんです」「ホゥ……。東京では、どなたの助手だったんですか?」その質問は、別に失礼という内容でもない。おっちゃんからしてみれば、星威岳探偵の元上司が、顔見知りの同業者の可能性があったから訊いただけ。本当に何気ない問いだったが、それを問われた相手の反応は、変だった。「あ、……いえ、もう亡くなられた方なんですけど、すいません。それでは失礼します」笑顔だった表情が、突然真顔に変わって、言い淀み、そそくさとロッカーの奥へ去って行く。おっちゃんはポカンとしながら星威岳探偵の背中を見送り、……視界からその背中が消える頃に、小声で呟いた。「何だ? 訳有りか?」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~午前10時30分 東都警察病院 703号室の前「良い事? コナン君。 『あの子』は変わってしまったから、違和感はあると思うの。覚悟は決めておきなさいね? きのう昏睡状態から目覚めてから、また何か、様子が変みたいだし……」銭湯で入浴した後、約束通りの時刻に、病院のロビーで妃弁護士と合流して。そこから7階に上ってくるまで、何度も何度も、それこそ耳にタコができるほど聞いた忠告は、流石にこれで最後。『本人』が居るはずの病室の前、俺に目線を合わせて真剣な顔でそう告げた妃弁護士を見つめ返し、俺は短く答えを告げる。「分かってるよ。おばさん」この階の廊下には、警官が立っている。正確には、この階にある病室のドアの傍に、それぞれ警官が立っている。『本人』が入院する病室だってそうだ、婦警が1人、見張りのように立っている。……それを見て実感する。病室の中に居るのは『被疑者』でもある少女、なのだ。その見張りに会釈をしてから、おっちゃんがドアをノックする。何言っているのかまでは聞き取れないが、向こう側から声の反応は有って、俺達3人は病室へと入って行った。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~午前10時32分 東都警察病院 703号室病室は、一見する限りはごく普通の個室だった。薄いベージュ色の、柄の無いパジャマ姿の『彼女』は、そんな個室のベッドの上で上半身を起こしている。俺に気付くと目を丸くして、それから微笑んで声を掛けてきた。「あら、おはよう。よく来たね。 『はじめまして』と言うべきかな? それとも、『お久しぶり』と言うべきなのかな? 江戸川コナン君」――なるほど。『蘭』の親がふたりとも俺の面会を止めるはずだ。この『彼女』は、純粋な『蘭』ではない。見た目は確かに『毛利 蘭』だ。『毛利 蘭』そのものの姿だ。だが、話す声の高さは『蘭』よりも低くなり、話し方も『蘭』らしくない。「僕、『貴女』のことをどう呼べばいいのかな? 今の『貴女』に、僕についての記憶は有るの?」覚悟は決めていたから、『蘭』の違和感には今更言及しない。ただ、これからどんなことを話すにしても、『彼女』の事をどう呼ぶべきか、希望を聞かないことにはそもそも会話が進まない。俺の質問を受けた『彼女』は天井を向いた。その姿勢のまま腕を組み、数秒ほど考え込んで、それから、再び俺を見て。「そう、だね。『サキュバス』と『蘭』の、両方の記憶が、今の『わたし』にはあるからね。 だから、『蘭』の記憶も引き継いでいるはずで、……確かに、君のことは覚えているはずだ、と、信じたいな。 今の『わたし』をどう呼ぶかは、今の君の判断に任せるよ。『サキュバス』でも『蘭姉ちゃん』でも、好きなように呼ぶと良い」そんな口振りなら、『サキュバス』か、『蘭姉ちゃん』か、あるいは、それ以外か。こだわりはさほど無いのかもしれないが、念のために言い方を変えて質問し直す。俺が選んだ呼び方を変に感じられたら困るから。「『貴女』が望む呼び方は、あるの? 『蘭姉ちゃん』でも『サキュバス』でも、どちらで呼んでも違和感は無い?」俺が『彼女』をメンタル面で気遣っているのだと察し、質問の意図が腑に落ちたのか。軽く息を吐いてから、『彼女』は自身の左胸に手を当てて答える。「この身体、見た目はまるっきり『蘭』の見た目だけど、記憶が両方あるから、どちらで呼ばれても違和感は無いかな。 特段、どっちで呼んでほしいとかの希望も無いよ」「そう。……おじさんとおばさんは、どう呼んでるの?」言いながら、俺の後ろのおっちゃんと妃弁護士を振り返る。不意打ちで話を振られた『蘭』の両親が答えようとする、その前に、『彼女』が口を開く。「ふたりは、『わたし』のこと『蘭』って呼んでいるね。 ……まぁ、無意識かどうかはともかく、みんな使い分けてはいるよ。『サキュバス』が起こした事件の事を聞くときは、『蘭』とは呼ばない。その話題の時は『サキュバス』か『貴女』だよね。 当たり前のことだけど、『サキュバス』の事件は、『蘭』がやった訳じゃないから」自分から事件に言及してきた『彼女』の喋りには、動揺も、不自然な明るさも暗さも一切無い。あくまで平静なものだ。「……そうなの?」言っている事自体は至極もっともな内容だが、一応再び振り返り、大人ふたりを見上げる。「そうね」「そうだな」――どう呼ぶべきか、これで決めた。おっちゃん達と別にする必要性は感じないし、……そもそも『蘭』の姿のままなら、普通は『蘭』のままで呼んでおきたい。それこそ、あえて『サキュバス』と呼ぶべき時、以外は。「……そう、じゃあ僕も同じにする。普段は『蘭姉ちゃん』って呼ぶことにするよ」「うん、分かったよコナン君」真っ直ぐに見つめて告げた俺に、『彼女』から笑顔が向けられる。声は若干高く、この台詞だけはまるで事件以前の『蘭』のようだ。さて、もうひとつ『彼女』には質問がある。絶対に聞いておきたいと以前から思っていた、名前に関する質問だ。「ところでさ、その上で『サキュバス』に質問していい? 前から気になってたことなんだけど」「……何?」声から、『蘭』らしさが霧消した。低い声の、警戒した喋り方。また、向き合ったベッドの上からだけでなく、背後のふたりからも、俺の背中に視線が注がれているのを感じる。が、そんなのは無視して、俺は質問をぶつける。別に変なことを尋ねるわけではない。これまで、俺以外の誰かからも、訊かれた可能性が高い内容のだから。「えっと、うまく言えるか分からないけど……、『サキュバス』っていうのは元々の『貴女』の名前じゃないんだよね? 『貴女』自身には、名前は無いの?」『彼女』の緊張が、一気に緩んだ。頭をガリガリと掻いてから、険しさが取れた調子で俺に訊き返す。「あー、それか。……もしかして事件の時の書き込みを見て、思ったのかな?」『彼女』の想像は正解だ。あの8月6日当日の、『彼女』の掲示板の書き込み内容を読んで、俺は疑問を抱くに至った。そしておそらく、俺が訊く以前に、同じ事を尋ねた人間が居る。少なくとも、警察からはこの点は質問されたことが有る、と考えるのが自然だ。「うん。 『交渉の中で、召喚者は私を『サキュバス』と呼び続けた。その名が、私の生態に合っているかららしい』って書いてあったよね? それってさぁ、元々別に名前が有った『貴女』を、召喚者が初めて『サキュバス』って名付けた、……って事じゃないのかな?」今ここで諳んじろと言われれば全文言えるほどに、あの書き込みは、何度も何度も読み返したのだ。疑問点もツッコミ所も言いきれないほど沢山抱え込んでいるが、それをそのままぶちまけると、ほぼ間違いなく俺は以後の面会を止められる。ここで質問しても無礼にはならないだろう、……と、そう判断できたのが、この名前の件だ。初っ端で、俺が『彼女』をどう呼ぶべきか尋ねたのも、一応は計算の上。名前にこだわっているから関連する質問をしている、と印象付けられるなら、周囲の不信感もいくらかは軽減されるだろう。「君の言う通りだよ。元々『サキュバス』には、別に本当の名前が有った。これから名乗ることはまず無いだろうけどね」ひょっとしたら、この質問については、応答の型が『彼女』の中で既に固まっているのかもしれない。穏やかな台詞の中に、つっかえたり考え込んだりする部分が無い。ならば、この答えなら必ず生じるであろう更なる追及にも、どう応じるかは型が出来ているのだろうか。「何で、名前を使わないの?」答えが返ってくるまでに、やや間があった。毛布の端を掴み、俯いて、それからまた顔を上げ、俺を見つめ。口調は落ち着いているが、嫌悪の感情自体は全く隠そうとはせずに、説明の言葉を連ねていく。「名付けの仕組みが、この日本とは違うんだよ。フルネームが『誰々の孫の、誰々の娘の、誰々』なんだよね。 それも、全部父方を辿っていく名前で、自分を示す『誰々』の部分を命名したのも父で。正直な話、名乗るのも、呼ばれるのも、……すっごく嫌」最後辺りは、吐き捨てるような喋り方になっていた。本気で嫌っているらしい。あの書き込みの所業が本当ならば、親を嫌って当然なんだろう。遺産目当てで、進路の断念と出産と落命を押し付けたなら、どんな娘でも親に対して絶望する。「父親と、えっと、……すごく揉めてたって書いてたね、掲示板に」気を遣った気で考えた言い回しでも、イラつかせてしまったかもしれない。反射的に何か言おうとして、でも寸前で堪えて。――溜息ひとつで感情を飲み込み、自身を落ち着かせてから、それから『彼女』は言い切った。「まぁ、『揉めてた』どころじゃなかったんだけど、ね。 召喚者のところに居た頃から『サキュバス』で、本名を名乗ったことは無いし、これからも『サキュバス』で良いと思ってる、『わたし』は」※5月6日~12日初出 11月22日 第2部-1~2を統合・大幅改稿しました 11月23日 誤植等を修正しました 2015年3月14日 冒頭部に日付(8月14日)を追記しました