※この番外編は、完全にオリキャラしか出ない異世界ファンタジー物です。コナンのコの字もありません。予め御了承下さい。※第8話にはややこしい親族関係の説明があります。 当作はハーメルンにも1~2日遅れで掲載中ですが、そちらには補足の図を掲載します。ハーメルン上でのジャンルは「名探偵コナン」ですが、当作連載中は公開設定を「チラシの裏」にしています。ご注意下さい。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ※官吏アポリアの物語7 縁談のこと 誰かに養われている限り、養われている側の婚姻縁組に関する一切は、養う側の意思のみに掛かる専権事項。 更に血縁の上下関係が有れば、それこそ生活上の一切を当事者の意思に関係なく決められると言っていい。 そんな、やたらめったら尊属の権限が大きい民事法制の中で、官吏は、親族の軛(くびき)からは自由で居られる身分のひとつだ。 神殿に属すること、官吏になること、どちらも生家との法律的な絶縁を意味する。大昔からそうだった。 大多数の一般庶民は、己の名の後に、父の名を連ねる。同名の者が居て紛らわしい場合は、父方の祖父の名を更に連ねる。名門の生まれならば、その後ろに更に一族の名が付く。 大方の場合は、それで用が足りる。 生家と絶縁している身分だと、名乗りが変わる。 一族の名も、父や祖父の名も使えない。代わりに、地名を名乗る。 神殿の者は、例外として、神殿の所在地。それ以外のあらゆる絶縁者は、出身地を代用とする。 なお、司法府の官吏の場合、採用区分や勤務年数に関係なく、名前と地名の間に、『ユバンクス(裁き手、断罪者)』の職業名詞を必ず置く。 アポリアはフォルネスレンスマキナ出身の司法府官吏であるから、アポリア・『ユバンクス』・『フォルネスレンスマキナ』。 同じくドルゴネアはドルゴネア・『ユバンクス』・『カルルバン』。 司法府長も、ゲノムヘリター・『ユバンクス』・『カルルバン』だ。 他者と混同しない状況ならば、『ユバンクス』は略しても良い。むしろ内輪の日常会話では、(改まった場所でも無い限り)呼び掛ける必要もそう無いわけで、完全に省略する場合の方が多い。 地名の部分も、混同の恐れが無い場合は末尾が略される。だからアポリア・フォルネスや、ドルゴネア・カルルゥになったりする。 ちなみにそれ以上の省略は、砕けた(=親密な)呼び方になる。誰かをあだ名で呼ぶようなもので、砕けすぎるので、社会通念として公式の場では使わない。 官吏であるがために、アポリア・フォルネスは、退職後の己の縁談について自己の意志で自由に決断できる。 官吏に就く事による絶縁は、あくまで相続・扶養の権利義務から外れるだけで、一切合切の付き合いを絶つことまでは要求されていない。 だから、ドルゴネア・カルルゥは、大叔母を頼って純粋な厚意に甘えることが出来る。そこに金品の利益が介さない限りは合法だ。 腐っても司法府勤めだ。法に違えない動き方はアポリアもドルゴネアも弁えている。もちろん、元司法府勤めの者も。「失礼する。貴女が、……ここの塾長か」 集会の翌日の昼下がり、アポリアもドルゴネアも共に非番。連れ立って私塾を訪れた。 灰色の生地に赤く縁(ふち)取った上着(ローブ)は、現在は在野の魔術師で、元職が官吏である者の服装。 私塾の塾長らしい老魔術師は、年齢のせいだろう、全盛期とは比べものにならないほど魔力は弱い。でも、アポリア達よりも不思議な貫禄がある。 彼女は、親戚の子とその同僚を見て、事情を聞くよりも前にピンと来た様子を見せた。「ええ。私が塾長でドルゴネアの大叔母よ。一応ね。 中にお入りなさいな。ああいう事件が起きてから、退職後の進路未定の方が居られるならばここに連れて来るように、ドルゴネアに言っていたの」「それは、有り難い」 私塾の一室にアポリア達を案内しつつ、老いた魔術師の目線はアポリアの腰に向く。 職務時間外の官吏2名は、私服の上に灰色の無地のローブ姿だ。仮面も着用していない。 ただアポリアだけは、赤い剣帯に、鞘に収めた広場の剣を差している。 月番で貸与された剣は、勤務時間外でも常に佩(は)くのが決まり。誰が何をやらかしたせいでその剣が誰に向くのか、何故アポリアがここに来たのか、一目で理解出来ているのが当たり前だろう。「いえいえ、良いのよ。年が離れているとはいえ、貴女達後輩のためだもの。 貴女の場合は、職の相談事でしょうかね。それとも、縁組の相談事?」 誘導された先の部屋、アポリアの隣の椅子に腰かけつつ、ドルゴネアが答えた。「就職も縁組も、何も決まっていないのよ。大叔母様。 同期の中では、アポリアだけ年明けにどうするか決まっていないの。ここに持ち込まれている話について、詳しく聞きたいんですって」 魔術を教授するような私塾の長は、その塾が長く続くほど、どの街でもひとかどの名士の部類に入る。特に、司法府の雑用要員の子ども達を預かっているような者は。 ここに私塾が開かれてから35年少々。雑用要員の衣食と教育についてカルルバン司法府から委託を受け、育てて官吏にすること30年少々。この塾長は、間違いなく名士だ。「そう。貴女がアポリア・フォルネス、笛の民ね。 特技は、治癒と、他に何が使えるのかしら? ああ、あの爆発の現場処理で治療で大活躍したのは見て知っているわ。私も駆り出されたもの。貴女、凄かったわね」 居住者数12万の街が、70名少々の司法府でいつも完全に手が回るはずもない。突発的に誰かの手が欲しい状況下では、有志の魔術警防隊に負うところが大きい。 裁断権は全く無いが、捕縛と救助については一定権限を正式に与えられた、日常では別に正業を持って暮らしている職業魔術師の市民の面々。あの暴発事件で、この塾長も出動したのだろう。 アポリアは椅子に深く座り直し、小さな賞賛の言葉を軽く受け流す。あの作業をこう言われるのはむず痒い。「それはどうも。本職は分析だ。他に治癒が使える。それ以外の系統は仕事には使えない実力で、特に転移は駄目だ」「……喋り方は、体質上の問題でその口調なのよね? 魔術を鍛えて、丁寧に喋れなくなった方」「ん。最大限柔らかくしても、いつもこんな感じになってる」 魔術師は、大抵、話し方に制限が入る。庶民でも一般常識で知っている事。 魔術を使う時のみ制約が掛かる者も居るが、使わない時でも制約が掛かる魔術師も居る。特に笛の民は後者が多い。ここまでぶっきらぼうな口調は、特段に稀というわけでもない。「では、……そうね、その特質でシックリ来そうな話は、一応ここに来てるわ。親戚から持ち込まれた話なのだけどね。 子どもを産みたい、産みたくない、そういう希望は有るかしら?」「その希望なら、可能なら産んでみたいとは思ってる」 アポリアは即答した。塾長は応じる。「爆発事件の前からだけど、この街で商売をしている親戚から、相談事が来ていたの。嫁が亡くなってから1年経って、息子に後妻が欲しいんですって。 まぁ、亡くなった嫁の方も私の親戚で、従兄妹同士で結婚した仲だったんだけど。 ……貴女達も知っている家のはずよ。今の家族構成は、近い将来の引退を視野に入れている店主と、その息子と、嫁が遺した男の孫が2名。 たまたまドルゴネアが、嫁の倒れる瞬間に居合わせた。これで、どこの話か分かるかしら」 瞬時に分かった。およそ1年前にそういう出来事があったのだ。 アポリアにとっては、よく通っている店の店主一家に不幸があった話。 ドルゴネアにとっては、親戚、かつ、同じ私塾に通っていた姉弟子を偶然看取った話。 昨年の今頃、その店の1階で、第3子を妊娠中だった嫁は、腹を押さえて突然倒れたのだった。それも、本来の出産より約半年も前の時期に。 勤務時間外のドルゴネアと、婚約者かつ同僚のベルゼは、真横の客席に座っていた。慌てたドルゴネアは手を握って様子を『視た』。 で、体液の流れが無茶苦茶な、死に瀕した胎児と、その胎児の影響を受けて生命が危うくなっている母親の姿が『視えた』。 その場から動かすのは危険だった。家族と、手を振り解けなくなったドルゴネアと、急遽呼ばれた治癒系の魔術師が囲む中、床の上でのお産が始まった。 胎児は、女の子だった。意外にあっさりと産まれた子はあまりに小さく、一泣きだけでその生命を終えた。 胎児の絶命と同時、母体の身体からも力が抜けた。ドルゴネアとベルゼは、私塾の教本をそのままなぞるように寿命が失せていく様(さま)を、はっきり『視た』。 胎児同様見る見るうちに呼吸が止まり、二度と目を覚ますことはなかった。 そんな出来事があった店がどこなのか、アポリアは知っていた――、「――監獄用の食事を作っている、あの宿屋か」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ※官吏アポリアの物語8 親戚関係のこと「亡くなった嫁の名前は、グセイア、だったか。生地屋で生まれ育って、あの宿屋の従兄に嫁いだ魔術師、だった、と、……聞いた記憶がある。合っているか? 生前、歌が得意だったな。1階の料理屋で、癒しの魔術を、歌声に乗せて披露していた。代わりを探しているのか」 アポリアは、あの店の常連客だ。 店主の息子はアポリアの2歳上で、他の客からは『若旦那』と呼ばれている茶髪の男。 その亡き嫁グセイアは、アポリアの1歳上だったはずだ。夫と同じ茶髪で、くせっ毛のある長髪を束ねていた。美しい、柔らかい笑みを自然に見せる女性だった。 アポリアがこの街に配属された時には、夫婦の間に最初の子はもう生まれていたが、2番目以降の子は、それこそお腹の中に芽吹いた頃から知っていた。 ドルゴネアとあの宿屋の一家に面識が有ることも、配属当初から知っていた。 ……が、実は親戚で、かつ嫁の方は姉弟子だということまでは、その嫁が子ども共々死去した経緯をドルゴネアに聞いた時に、合わせて知った。 この私塾で魔術の腕は磨きはしたものの、治癒系にしか才能が無く、官吏になろうとは全く思いもせずに従兄に嫁いだ魔術師、だったらしい。「ええ。何もかも合っているわ。可能であれば嫁を、そうでなくても通いで来てくれる魔術師を紹介してくれないか、って、店主と息子が相談に来ていたの。 嫁ぎ先の宿屋で苛め抜かれたなら、ふざけるな、って言うところだけどもねぇ。 そういう事は無かったし、死因だって、誰かの悪意で亡くなったんじゃなく、ただ不運が重なっただけだもの。縁があれば紹介するという事で、相談だけは聞いていたのよ」「あの宿屋は、貴女とも親戚であるんだな。ドルゴネアと親戚だとは聞いていたけれど」 ドルゴネアと、宿屋は親戚。ドルゴネアの大叔母がこの塾長。気が付かなかったが、塾長と宿屋に親戚関係が有っても矛盾はしない。「ええ。私は三姉妹の末よ。私自身は出産とは無縁で、官吏を辞めた後にこの私塾を開いたけれど、姉達は、普通に子どもを産んで生きてきたの。 あの宿屋の若夫婦は、どちらも、私の一番上の姉の孫。 上の姉も、子どもは三姉妹でね。長女は、若い頃に子どもと一緒に産褥死した。次女は宿屋の後妻になって、三女は生地屋に嫁いだ。で、次女方の孫息子と三女方の孫娘が結婚した訳ね」 いとこ同士が結ばれるのは、一部禁忌だが一部合法だ。 父方の祖父が同一、つまり父親同士が兄弟なら駄目。それ以外の関係ならば許容される。「……ちなみに、ドルゴネアと、ベルゼは、どっちも、下の姉の方の孫よ。この子達も、いとこ同士で結ばれていることになるわね」「へっ!?」 一定以上の分析系の魔術の技量が有れば、他者同士の、ある程度の血縁関係の有無を見抜けるようになる。 アポリアの場合、目の前で隣に並び立った者同士程度の血縁の有無につき、4~5親等以内なら大体分かるくらいの腕前だ。 ――例えば、目の前の同僚と、自称大叔母の塾長の間に血縁が有るのかどうか、秘かに疑問を感じるくらい。 これまで一緒に働いていた同期2名の間には、従兄妹の関係だと呼べるほどの血縁は無いように思えた。遠い姻戚なのだろうと、アポリアは思い込んでいた、が。「アポリア。初めて話す事だけど、私達のお母様方は、どちらもお爺様とお婆様の養子よ」 ドルゴネアは何でも無いように言った。塾長も、軽く微笑む。「そう大それた経緯でもないのよ。 今から50年くらい前になるわ。私が余所の街で官吏の1期目していた頃に、この街で病気が流行ったんですって。下の姉夫婦は、それで1番上の女の子以外の子を3名、一気に亡くしたの。 その頃、同じ病気で両隣の家も病みついたそうよ。一方では、1番下の当時4歳の女の子だけが生き残って、他が亡くなった。もう一方の家でも、同じく当時3歳の女の子だけが生き残った」「で、夫婦は、自分の子の葬送の帰り道に、途方に暮れていたお隣さんの女の子達に気付いて、両方とも家に連れ帰ったのね。 そういう事情で養子になった4歳の女の子が成長して、嫁に行って、そこから生まれた娘が私。3歳の女の子が成長して、嫁に行って、そこから生まれた息子がベルゼ。……そういう訳よ」 アポリアは頭の中で系図を書き上げていく。 ドルゴネアと大叔母、ドルゴネアとベルゼ、ドルゴネアと宿屋の若夫婦、いずれも血縁を感じなかった原因は分かった。途中で養親と養子の関係が挟まれば、そこに血縁は無い。 言える感想は、一言だけ。「それは、大それた経緯だと思うぞ。そんな子どもを複数保護するなんて。公の手で身売りされてても不思議じゃないだろうに」 生きている親族間での養子はごく普通にある。亡くなった親族の子を引き取る話は、もっと身近。困窮とは縁遠い身分であっても、養親・養子になる話は、アポリアのごく傍にあった。 一方、親族に子どもを養える余裕が無く、あるいは親族全て亡くした子が身売りされる話、どちらも同じ位、世の中に溢れている。 孤児の側に魔術の素養があれば、誰かの庇護が少なからずあるが、そうでも無ければ世間の扱いは非常に冷たい。 血縁が無い他者の子どもを、それも複数引き取る奇特な者の実例を聞くのは、アポリアの生涯で初めて、だと思う。「そうね。当時のお母様方が、ある意味で幸運に恵まれたから、私もベルゼも生まれてる」「その時保護された女の子達が、大きくなって、こんな立派な子達を産み育てることになるって、……当時、姉夫婦を含めて誰も思ってもいなかったでしょうね。 この塾だって、親族の中で継げる技量がある者は、この子達の他には居ないのよ」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ※官吏アポリアの物語9 告白のこと「ところで元の話に戻るけれど、私のところに持ち込まれた、宿屋の縁談。流石に、嫁に行くかどうかなんて即答は出来ないでしょう。 単に、通いで宿屋に勤める場合も含めて、働くことを前向きに考えてもらえるなら。……私と一緒にあの宿屋に行ってもらうことは出来ないかしら?」「え?」「恐らく大丈夫だと思うけれど、実際に歌いながら治癒を使えるのか、実地で試したほうが良いと思うわ。今日だと1階は義務休業で営業できない日、お客に披露して利益供与になる事は無いわね。 店主父子も、働いてくれそうな術師が居たら実際に連れて来てほしい、って、言っていたの」 なるほど、と、思った。 アポリアは音痴ではない。が、じんわりと歌に魔力を込めるようなことは、日頃行っていない。実演が出来なければ勤め話すらも成立しない話だ。「では、塾長。今から一緒に行ってもらっても?」「ええ、もちろん」――風が吹くたび 故郷を想う わたしが去った あの時に どんな風が 吹いたのか――風が吹くたび 故郷を想う わたしが居ない この時に どんな風が 吹くものか――風が吹くたび 故郷を想う わたしが戻らぬ これからも 変わらず風は 吹き続く かくして、かつて若旦那の先妻が生きていた時のように、料理屋で歌ってみることになる。 床よりも一段高い踏み台の上は、客に歌を披露する者のための場所。広場の剣を佩いた者が立つのは、きっと宿屋の歴史の中で初だろう。 見下ろす客席に本物の客は無い。宿屋の一家4名と、同僚と、同僚の大叔母、それだけだ。 塾長経由の魔術師探しで、よく知っている現職官吏(しかも広場の月番)が来たのは予想外だったらしく、店主は話を聞いたその時こそ驚き顔を見せた。 まぁ、すぐに平静を取り戻して歌を聞く顔は、冷静な経営者のそれだ。「今くらい歌えるなら、問題無く勤まると思いますよ。ちょっとばかり魔力が多いので、魔力酔い防止で少し魔力量を抑えて頂くことになりますがね。 今の歌を、毎日、昼と夜の、客が多い時間帯にそれぞれ5回ほど、出来ますかね。えっと、か、じゃなかった、アポリアさん」 現職の官吏が仕事で来たなら年齢問わず『官吏様』。私事で来たなら、相手の年齢差によって『○○さん』か『姉さん/兄さん』、あるいは、『姉さま/兄さま』。 分別が付かない子どもでもない限りは呼び分けを区別するのが道理であって、その辺りを混同するのは立場上少々マズい。 店主の苦笑いの自嘲を無視しつつアポリアは踏み台から降り、一言簡潔に答えた。「ん。問題なく出来ると思う」 店主達の方に歩みを進めながら、こちらからも、質問を投げる。 元から知っている店で、一家が慌ただしく働いている姿は間近で見てきた。悪印象は無いけれど、過剰に美化された姿を見ているわけでもない、と思う。 ただ、嫁ぐか通うか分からないけれども、この店と縁が出来るとするならば、今のうちに言っておかねばならない懸案事項が、確実に存在していた。「店主。率直に言って、ここで働く選択は『有り』だろうと思っている。退職後に本当に働くかどうか、いつまでに貴方に返事をすれば良いんだろうか? それから、……もし本当に働く事になるのなら、私は、働く時は若旦那の所に通ってもよろしいか。私には、退職後の男のアテが無い。もし、若旦那が駄目なら他に誰か紹介して欲しい。 在職中は官吏と交わるしかないが、年明け以後のアテがないんだ。ドルゴネアと違って」 成長した笛の民の女は、定期的な異性との性交渉が生存に必須だ。 生涯のうち、10代前半の二次性徴期から、大体50代後半ほどまで。子を生(な)す仕組み、魔力を生ずる仕組みの両方に直結するそれは、この種族の女として生を享(う)ける限り魂に付き纏う制約。 笛の民しか居ない一家で、亡き先妻だって笛の民の女だ。知らないとは言わせない。 ドルゴネアにはベルゼが居る。共に退職し、私塾を継ぐ。組み合わせが揺らぐことは無い。 アポリアにはかつて別の男が居た、今は司法府長が居る。こちらは、司法府長が月末に異動するから、変化せざるを得ない宿命だ。 現職官吏は現職官吏同士でしか交われない原則。 官吏ではない者と交われる例外は(収監者相手の例外はまた別として)、相手側が婚約者かそれに準じる者で、かつ、官吏側が1年以内に確実に退職する場合のみ。 ……上級職は結婚禁止なので、普通職にしか適用しようがない例外規定だ。 司法府長がこの街に居る間は良い。司法府長の異動後は、別の官吏と交わって年末の退職まで生命を繋ぐしかないが、年末までならば協力してくれそうな男性官吏のアテは一応ある。問題はその後だ。 店主父子は顔を見合わせた。やや、思考の間があって、店主が答える。「退職は、年末なのでしょう? もし働くとなった時、倅(せがれ)と関わることは、私としては道理だと思います。雇い主だろうが夫だろうが、大事な女性を生かす営みは義務でしょうから」 そうはっきりと言い切り、話を息子に振った。 振られた側は、店主よりも、……ずっとずっと長い沈黙を、前置きにした。不意に、真剣味を帯びた声で告げる。「むしろこの場での、婚約を、願ってはいけませんか。アポリアさん。 これは、良縁なんだと思います。ここで歌う貴女を、僕はずっと見ていたい……!」 背丈はアポリアより僅かに低い。前妻と同じ色の髪を首筋辺りまで伸ばしていて、眼の色も前妻やアポリアと同じ、茶。 視線が、魂を射抜いた気がした。 目を閉じる。 今の状況を思う。料理屋には、同僚とその大叔母と、店主と、息子と、孫2名。 それから、……何故だか知らないが、外からこの店に入ろうとしている司法府長。何の用で入店したいのか分からないが、縁を結んだ相手がこちらに近付いてきているのは感じ取れる。 頭の中で、理性の算段と感情の欲求が激流を作って渦を巻いている。普通ならば適当に無難な返答をするところだ。普通の精神状態ならば。 魔術で心を改変されているとか、そういう裏事情は、……ない。その手の術は受けた側が即座に気付くし、官吏に気付かないほどの力量を持つ者は希少だ。 直ちに職を放り出せるとは思わない。月番の『仕事』の直前で失職した馬鹿官吏と、失職させた宿屋の馬鹿な若旦那、の構図が出来上がってしまう。 現在一期目のアポリアは年末に辞めるのでなければ退職手当も出ない。結婚の即断は無い。それは不幸しか生まない。 ――そもそもの大前提として認めざるを得ない。アポリアは若旦那に惚れたのだ。「凄い時期なのに言うんだな。……若旦那。本気か?」「はい!」 どうしてだろうか、自分の声はかすれて震えていた。若旦那からは勢いの良い即答が来る。 今やりたい事、言うべき事を想う。心の中で結論を出し、目を開けて、アポリアは声を絞り出した。 「じゃあ。……そうだな。 私は、」※4月28日 初出