9月2日 午後9時5分 召喚者の屋敷 地下大広間【あるじ、お身体は大丈夫なのですか?】 紅子の横。 並んで床に座る『彼女』が、筆談用のノートパソコンに打ち込んだ言葉が、まず、それだった。【本調子にはまだ遠いけれど、大分復調した 朝に一旦外出した以外、ほぼ丸一日寝入っていたから】 きのう魔術を連発したために紅子に生じた体調不良は、現時点でも尾を引いている。もっとも、2~3日続くと予想していたから、想定の範疇だ。 高校はホームルームすら出ずに帰宅し、以後、自室のベッドの中でただ横になっていた。 魔力の自然回復に伴う体調の回復ペースは、想定より若干早い。日中動き回っていたならば、もっと回復は立ち遅れていただろう。【そうですか、良かったです】 『彼女』ははっきりと、安堵と喜びのにじむ笑みを浮かべる。紅子は、薄く微笑みを返した。 召喚した者、召喚された者としての繋がりがある。こちらは仮面を着けていて見えない笑みでも、心は通じる。 ――さて、話を変えよう、と、紅子は思う。 日中、自室のベッドの中で考える時間は山ほどあった。そうして思い付いたことを話すのだ。 今後やるべき事、『彼女』の心の安定方法を整理して、思い付いた事。【ところで、私が今夜もこの部屋に来た理由なのだけど、寝ている最中に考えたのだけれど、貴女、夫の方の粟倉弁護士相手に手紙を書いてみない?】【え?】 意外そうな表情と一緒に、文字が返ってきた。 粟倉 葉弁護士が癌を患っているという分析結果を、夫の方に知らせる、という行為。 それは、昨晩やるべき作業の優先順位を整理する中で、発案後に真っ先に切り捨てられた事だった。 きのう紅子が使った魔術は、計3回。1回目が弁護士本人の体調分析(これで癌が発覚した)。次に、粟倉家の異世界資料の場所の調査。最後に、この資料の窃盗。 限られた魔力を資料の早期確保に充てる、とした判断は、間違ってはいないと紅子は思う。 ただこの判断は、『彼女』の(主にサキュバス側の)心の安定には必ずしもベストのようには見えなかった。粟倉夫婦を案じる感情が、『この子』の心の内に皆無、というわけでもないのだ。【私の体調を踏まえれば、明日の夜か、あさっての朝には、転移で便箋を自宅に送りつけても体調を崩さない程度には魔力が回復しているはず 優先順位の問題で一度諦めたけれど、貴女、粟倉弁護士側に癌の発見を伝えたかったのでしょう? 意識不明の本人には、伝えることは出来ない。でも、本人の夫には、手紙は送れる】【それはそうですが、あるじは大丈夫なのですか?】【魔力は心配しなくて良い 今日丸一日寝込んで、明日も寝込むつもりで、それで復調するはずだもの。その後なら、手紙を一度転移させるくらいで体調を崩すことは無いから】 紅子は自信を込めて明言し、しかし『彼女』の返事には少し間があった。あるじ(Reune)の体調を案ずるが故の、逡巡が。【分かりました。では、文面を考えておきますね 明日の夜には送れるようにしておきます】【送る時は、封筒を郵便受けに入れるのでは無く、自宅のリビングの中に直に送りつける形を取ることになるでしょう そうでないと、間違いなく「私達」からの手紙だと証明はできない】【旦那さんに送る場合は、明確に「魔力で手紙を送った」状況を目撃させなければ、差出人の証明にはならない、ということですか?】 阿笠 博士邸や佐藤 美和子警部補宅の郵便受けに手紙を転移させた時、差出人欄に『毛利 蘭』の名前を書いた。そうすれば、間違いなく開封してくれると判断したからだ。 粟倉 葉弁護士宅の郵便受けに手紙を手紙を転移させた時には、封筒には『サキュバス』の出身地の言葉を書いた。それが『差出人』が『誰』なのかという証明になったからだ。【ええ、まさにそういうこと。相手は魔力の知識が皆無という一般人だもの】 『彼女』は納得の顔を見せてから、……特段書き込むことはないらしく、黙って続きの筆談を求めた。紅子は打ち込みを続ける。【ただその後は、もう他に手紙を送るため魔力を費やすことは当面無い、そのつもりでいてね? 約1週間前から予定を組んで手紙を転送する余力を生み出すことは、状況次第で出来るでしょう でも、突発的に翌日に転送したくなった、と言われても、どうしようも出来ないかもしれない これから貴女の身体のために色々と突き進む、そのために魔力を使うから。そのつもりで覚悟しておいて】 紅子の魔力を今後、どう費やすのか、すり合わせはとうの昔に済んでいた。 警察組織の情報の監視(情報の盗み見+淫夢の符での抜き取りの併用)と、『彼女』の身体の問題(遺体の探知とか、窃盗とか、加工とか)に費やすことになるのだ。 『彼女』の目を見る。真顔の頷きの後、簡潔で重い返事が来た。【分かりました】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【粟倉 葉先生の旦那様へ どうするべきか迷いがあり、手紙を送るのがこの時になるまで遅れたことをお詫び致します また、前回の手紙以上に不躾な形の送付になったことも、重ねてお詫び致します 紛れもなく差出人が私であるという事の証明として、こうして転移で送るという形しか思い付かなかったのです 葉先生が事件に遭われた事も、事件当日の旦那様の書き込みも、こちらは承知しております ひとりヒートアップした第三者のせいで、あのような事件が起こる事は、全くの予想外でした また、大変な状況でありながら、当日中にに書き込みを代行していただいた事、本当に有り難く感じております さて、このように手紙を送ることを決めたのは、掲示板では書けないデリケートな事を、この手法でなら打ち明けられると判断したからです 葉先生が賢橋駅近くで刺され、緑台警察病院に搬送されている事を把握してから、私と召喚者は、先生を魔術的な手法で治癒することが出来ないか、検討を行いました 私達が使える治癒の手法は、対象の体内で生命力を移動させるものに限られます すなわち、健康な臓器で有り余る生命力を、病んだ臓器に移すという手法です 単純な刺し傷で特定の臓器が痛めつけられただけならば、私達の技量で何とか出来るのでは無いかと想像していました 結論から申し上げます 私達では、葉先生を治癒することが出来ないという判断に至りました 刺された部分だけでは無く、それ以外にも、複数の臓器が事件以前から弱っていたためです 私達の分析魔術では、粟倉 葉先生の大腸に、かなり進んだ癌があるように見えました 肝臓と肺にも、既に癌が転移しているように見受けられます 襲撃事件後の緊急手術で切除した大腸の中に、癌細胞が含まれるようです 医師が生検を行えば、癌は診断として確定するのではないでしょうか】【この分析は、私達にとって予想外の発見でした それまでは先生が御健康であると無意識に考えており、御本人を分析したことは無かったのです 現代の医療で用いられるような治療の痕跡も、葉先生の体内には見られませんでした これまで御本人は、本当に無自覚なまま、日々を過ごされていたのでは無いかと推察致します 病んだ臓器に振り分ける程の余剰の生命力が見つけれなかったため、私達では治癒出来ません 残念ながら襲撃事件の前より、先生は、私達の技量では治癒不能の状況になっていたようです もっと私達が治癒に熟達していれば良かったのに、と、心から感じています 転移や遠隔分析は出来ても、私達が使える治癒の魔術はこの手法に限られるのです この手法が使えない場合、それは、そのまま何とかなる領域を外れることととなります 他に治癒で使える手法があれば、その手法で、先生を癒やすことが出来たのに そうして、元気になった先生と語りたいことがたくさんありました 先生が意識を取り戻すかどうか、楽観的に見積もっても確率は5割程だと判断せざるを得ません もう、私達には、先生が回復されることを祈ることしか出来ません Succubus Vain Reune Karuruban 追伸 御自宅の異世界資料は、ご想像通り私達の手元にあります 窃盗という行為を働いた私達に対する温かな御言葉、重ねて感謝申し上げます なお、この手紙は素手で触ると砂になって崩れるようになっています コピーを取ったりした場合も砂になり、何もしない場合でも3日経てば砂になる仕組みです フィルム式のカメラで写真を撮るのは大丈夫です(手紙が砂になっても写真は残ります) そちらから御返事がある場合は、トリップ付きで、いつもの掲示板に書き込みをお願いします 私達に対して、訊きたい事、確認したい事等が有る場合も、書き込みを下さい 内容に応じて、同様の書き込みか、この方式の手紙で、1週間以内にお返事を返せると思います 上記期間内にこちらからの返事が無い場合は、私達はyesと答えたものと御判断下さい】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【配偶者】拘置所被告殺人・考察&まとめスレ321【危篤中】984:配偶者◆Moto/.Prof [sage]:20XX/09/03(火) 22:01:36.29 ID:KKKKKKKK サキュバスさんへ。◆Moto/.Profの配偶者です。 先ほど、自宅にて、貴女からの私宛ての直筆の手紙(便箋2枚分)を確認しました。 ◆Moto/.Profの心身のことについては、ドクターからも説明を受けておりました。 専門家の目で、現状を一目見て不審に思うことがあったようです。 ◆Moto/.Profは今も意識が無いままですが、手紙に書かれた通り、当人を調べてもらうことになっていました。 また後日、詳細なお返事を書き込ませて頂きます。取り急ぎ以上のみお知らせ致します。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【配偶者】拘置所被告殺人・考察&まとめスレ348【検査中】209:配偶者◆Moto/.Prof [sage]:20XX/09/04(水) 19:09:12.09 ID:KKKKKKKK サキュバスさんへ。 現在、投稿予定の文章の推敲を行っています。 本日21:30までに推敲は完了すると思います。完了次第、長文をここに投稿予定です。 もしこの時までに書き込みがなければ、突発的にこちらの都合が悪くなったのだと御判断下さい。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【配偶者】拘置所被告殺人・考察&まとめスレ361【推敲中】197:配偶者1/4◆Moto/.Prof [sage]:20XX/09/04(水) 20:45:51.43 ID:KKKKKKKK サキュバスさんへ。◆Moto/.Profの配偶者です。2枚の便箋は全て読ませて頂きました。 ◆Moto/.Profに対する貴女方の心遣いに感謝致します。 まず、配偶者の心身のことをお伝えしますね。 本日も、ドクターの説明を受けました。 今日の段階ではまだ詳細な検査の途中であって、確定的な結論を下すには至っていません。 ですが、昨日頂いた御手紙の記述と食い違う事項は、今のところ無いようです。 当人が意識不明のままの現状で、どこまで書いて良いものか、正直なところ迷いがあります。 本来どこまで書くか、その身体の本人が決めるような事項でしょうから。 今後、この心身の件については、単に貴女方の分析が当たった場合のみでは、逐一私からここに書き込むことは無いとお考え下さい。 私が書き込むとすれば、手紙の記述が外れた時か、何かしらの動きがあった時 (例えば配偶者自身が意識を取り戻し、何か書き込みたいと望むなど)、そのどちらかになるでしょう。 (続く)219:配偶者2/4◆Moto/.Prof [sage]:20XX/09/04(水) 20:46:34.01 ID:KKKKKKKK 現状を踏まえて、一点、貴女方に御承知頂きたいことがあります。 これまで私は、◆Moto/.Prof の記憶のことは誰にも話したことはありませんでした。 また、現実社会で、◆Moto/.Prof が自分の配偶者であると明言したこともありませんでした。 これらは、他に事情を知る本人の身内が没して以降、夫婦の間だけの秘密となっていました。 ただ、本当に残念なことですが、◆Moto/.Prof のこれからを想定した時、 例えば相続関係等の様々な法的な手続きが、近い将来に発生しかねないことが予想されます。 これまでも予想外の事がありました。今後も、予想だにしていない事が起こるかもしれません。 今の段階で、知己の専門家にある程度の出来事を相談をしようか、検討しているところです。 しかし、そうした専門家に、この数日間の出来事について必要な説明を行おうとすると、 どうしても貴女方の手紙や、ここの書き込みの件に触れざるを得ません。 守秘義務のある専門家の方に、私の代理人になることをお願いする場合、 私は、上記の夫婦の秘密をその専門家に打ち明ける判断をしなければいけません。 その事を、貴女方にも御承知頂きたいのです。 (続く)232:配偶者3/4◆Moto/.Prof [sage]:20XX/09/04(水) 20:47:09.55 ID:KKKKKKKK さて 貴女の故郷がどんな風だったのか、◆Moto/.Profがここに来た後の故郷の世界はどうなっていたのか、◆Moto/.Profは知ることをとても楽しみにしていました。 貴女も、◆Moto/.Profに対して話されることを楽しみにしていたのでは無いでしょうか。 貴女達同様に、私にとっても、◆Moto/.Profの心身の現状は、本当に思いがけないものでした。 ◆Moto/.Prof自身も全くの無自覚であったはずです。 無意識の内に、自身が健康な状態でいつかサキュバスさんと語り合う日が来ることを想像していたと思います。 かねてより報道を通して、貴女方は警察にとって手強い相手なのだろう、と感じていました。 今回の御手紙で、警察が苦戦する理由の一端を改めて見た気がします。 貴女達が有し、かつて◆Moto/.Profが有していた技術は、万能ではないのだとしても、科学の枠外にある技術であることは違いないのでしょう。 貴女は、明晰な思考能力で、自己の生命のため冷静に目標を成そうとする方だと推察致します。 苦難に直面されている身でありながら、結果として、◆Moto/.Profの件で更に絶望に繋がる事実に触れる形となったことが、本当に残念でなりません。 (続く)263:配偶者4/4◆Moto/.Prof [sage]:20XX/09/04(水) 20:48:15.55 ID:KKKKKKKK 大変申し上げにくいことを書かせて頂きます。 詳細を知りうる立場に有りませんが、誘拐と交渉が現在進行中らしい、という現状で、私が一番恐れる事があります。 失礼ながら、貴女が抱える絶望が抱えきれない程になり、貴女方諸共に破綻していくことです。 これから、仮に、貴女方が◆Moto/.Profの生死を深く見つめていた場合。 万一の場合、貴女は、とてつもなく傷つく結末に至ってしまうのではないか、絶望をもっと強くしてしまうのでは無いか、とも、懸念しているところです。 以下、質問ではなく提案です。御返事も不要です。 もし、貴女の心の中に、◆Moto/.Profのために用意していた語りがあったならば、 それは◆Moto/.Profではなく、誰か別の方のための語りとしてはどうでしょうか。 元が◆Moto/.Profに向けたものである以上、何もかも元の言葉の通りとはいかないでしょう。 でも相手が貴女との対話を望む方であれば、相手にも貴女にも、きっと得る物があるはずです。 あるいは、この掲示板であれ、どこか場所であれ、不特定の第三者に向けた形でも良いのです。 十分な吟味の末、誰かの名誉を損なうことなく、広く世界中に公開されても問題ないと思える内容を、綴られたり語られたりすること。 それは、貴女達の判断能力で可能な事なのではないかと、私は思うのです。 ◆Moto/.Profの配偶者より~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 9月4日 午後9時13分 召喚者の屋敷 地下大広間 まるで毎夜9時前後の『彼女』との打ち合わせに揃えたような、ちょうど良い時間帯の投稿。 印刷した長文を、紅子が自室でそうしたように、『彼女』は何度も何度も反芻するように辿って、長考していた。 新たな絶望はその顔には無い。分かり切っていた諦めと、妙な感心があるだけ。【さすが弁護士さん。奥さんがああいう風な目に遭っている時でも、これだけ気をつかった長文を打てるものなのですね】【ええ。オブラートをいくつも包んだ刺激しない文面、必死に練ったのが丸分かりの書き込みね】 こちら側は、しょせん世間的には得体の知れない犯罪者でしかないのだ。拘置所収監者2名を殺害、更に誘拐やら自宅に手紙を送り付けてくるやらの、正体不明の誰か、だ。 対する粟倉夫婦は、揃って法律の専門家。妻の方がこんな一大事であっても、夫の中では、理性と計算が、感情よりは勝ったに違いない。【この書き込みを読んだ関係者は、今、私達よりも絶望を感じているんでしょうか 将来、この先生から事情聴取出来たら良いな、って思ってた方々、たくさん居たはずです 大腸癌という直接的な文字は出ていないけれど、書き方からして、粟倉先生が死に瀕する位にすごく重い病気なのは伝わっています】【そうね】 きのう3日の夜から今日4日に至るまで、夫の方の粟倉弁護士の書き込みは、都合、三度。 最初の書き込みの段階で、警察ほか関係者一同は、雲行きの怪しさを感じ取っていたはずだ。 ◆Moto/.Prof(=粟倉 葉)本人に医学的な問題があるのは違いなかった。ドクター(医師)が一目見て不審に感じ、検査するのだから。 字面は「心身のこと」となっていたが、意識不明者の「心の疾患」をどう調べようというのか。 「心」ではなく「身体」の方に問題があるのでは、という推論は、掲示板上の野次馬達にさえ当たり前に生まれていた。捜査機関でも探偵でも、同じ事に思い至らない訳がない。 そうした前振りの上での今夜の書き込みは、悪い予感が当たったようなものに違いないのだ。 1日掛けても確定しない診断名。相続が発生する予想。何より、『生死を深く見つめると傷つくのでは無いか』という懸念。 ――直截な文言は使っていないが、明らかに◆Moto/.Prof(=粟倉 葉)の近日中の死を、配偶者が想定し、そう一目で分かる形で公表している。【ところで、この4レス連続の書き込み中の2番目、どう思う? 私達の反応がなければ、1週間過ぎた後、代理人探しで他の弁護士に相談しに行きそうだけど】 紅子は、床に広げた文面を指し示す。 趣旨として、要は「専門家の代理人に、◆Moto/.Profの正体を含めて、ここ数日の経緯を打ち明ける判断をしなければならない。承知して欲しい」と言いたいらしい箇所。 配偶者の死が想定されるのだから、将来の相続関係とかを見据えて動き始めたい、という考えは、弁護士なら当然の思考なのだろうか。【書かれているのは相続問題だけですが、旦那さんは刑事裁判も念頭に置いていそうですね 賢橋で襲われた事件の裁判では、被害者の家族というか遺族になるかもしれないんですから その裁判で遺族側として代理人を立てる流れは、弁護士さんですから普通に思い浮かべると思います】 指摘はもっともで、紅子の思考の盲点を突くものだ。民事上の問題しか視界に浮かんでいなかった。確かに、その件の刑事裁判も、いつか開かれるはずだ。【あ、そうね】【そうだとしても、他の弁護士に相談されるのを、私達が止める謂われは無いと思います 私達の立場では、警察にまとまった魔術の情報が渡るのが嫌なだけですよ もう一度この方に手紙を送るのだとすれば、そういう内容の釘刺しでしょうか このまま、手紙を送らずに黙っておいても良いのかもしれませんけれど】 そうキーボードを打って、『彼女』の指が止まった。無言で問う視線が紅子を見つめる。 ――手紙を送るかどうか判断を任せる、ということなのだろう。 筆談用ノートパソコンの画面の右下部にカレンダーを出して、少し考える。 今は水曜日の夜。完全に復調した紅子の魔力量はどん底ではないが、無駄遣いは出来ない。 手紙を送付しなくても、たぶん問題は無いだろう。が、絶対問題ないと断言出来るものなのか。 まず、明日(5日・木)や明後日(6日・金)の転送は無い。 日々の魔力の回復ペースを考えると、遺体探しと、警察情報探査と、転送を同時に行えば、それだけで手一杯になるタイミングだ。 突発的なトラブルが直後に生まれば、また魔力量がピンチ。【念のため、そういう釘は刺しておいたほうがいいでしょうね。いつも通り文面は貴女が考えて、私が内容をチェックする 手紙を転送する日は7日か8日になるでしょうけど、何か魔力が要る事態が発生した場合は後日に延期するから、そのつもりで あと、トラブルがいくつも起きた時は、手紙を送ること自体を諦めるから】【分かりました、あと】 即答の後、『彼女』の手が止まった。逡巡しているような間を置いてから、文字が連なる。【あるじに、お願いがあります 魔術用の印画紙に余裕はありますか? 寝ている時、サキュバスとしての記憶を転写させて、物語にしたいな、って、今、思って】 えらく突然の要望だ。何故そう言い出したのかは分かりやすいが。 きっかけになったのは、やはり、この粟倉弁護士の書き込みだろう。書き込みの最後の部分を読んで、『この子』の心の内に何か語りたい物語が生まれてしまったのか。 記憶転写を使うというのは良いアイディアだと思う。 『この子』の魔力が減るという話ではないし、紅子の魔力も必要量はほんのわずか。 かつ、原稿用紙なりパソコンなりに向かい合うよりも、ずっと早く、情報量の多い物語を綴れる方法だ。 術式自体も、無茶では無い。 以前警視庁関係者の枕に仕込んだのは、複数の術式を組み合わせて『彼女』が構成した術式。 具体的には、淫夢を見せる術と、記憶転写の術、主要箇所はこれらの組み合わせだった。 そうした複雑な物が他者相手に問題なく使えたのだから、より単純な記憶転写だけの物を『作成者』自身が使って、失敗するはずが無いのだ。 ただし懸念材料はある。 語りたいことを本当に語ることが、『彼女』の心(メンタル)の安定に良いことなのだろうか? 今はそこそこ安定しているのに、わざわざ不安定になるならば、紅子は絶対賛同できない。【印画紙に余裕はあるけれど、それが貴女の心の安定に役立つなら印画紙は使って良いけれど 何を語りたいのか教えて? 心の安定を損なう内容は禁忌だし、書き上げても誰にも見せないままになるかもしれない】 不特定多数に見せたいのか、特定の者に見せたいのか、どうあれ事前に紅子のチェックは入る。 無いとは思うが、公表前提で書き綴っておきながら、紅子に止められてフラストレーションを抱える、……という流れになったりしても、困るのだ。【ありがとうございます 公表するかどうかは別として、ただ、無くしたくない記憶を書きたくて】 真剣にキーを打ち進める『彼女』の横顔に、絶望は無い。 決して喜びの表情ではないが、少なくとも絶望では無い。懐かしさとか、追慕とか、そういう類いの、遠くから俯瞰するような。【私が、サキュバス側の私が生まれる前の、母のことを書きたいな、って 官吏の頃、短い数日間の内に、失職確定やら、求婚やら、襲撃やら、激動が続いた期間があったらしくて 何から何まで語れば、私が坂田さん達に振るった剣のことも触れる流れになりますね】 ――そうか、と、紅子は確信する。 『彼女』が書き綴り語りたいのは、『サキュバス』が飲み込んで受け入れた過去なのだ。 願い通りに語っても、決して不安定になることは無い。振り返って、かすかな苦さはあっても、刺されるような痛みは無い。『自身』を見失うことは無い。【分かったわ どんな流れで書きたいのか、明日1日きっちり思考を固めて記憶転写した方が効果的でしょうね 明日の夜には術式付きで印画紙を渡すから、それを手袋と枕に仕込んで寝れば良い もし、その物語にタイトルを付けるとすれば、何になるのかしら?】【シンプルに、官吏アポリアの物語、とか、あ、サキュバスの手記だから、「サキュバスの手記 官吏アポリアの物語」とか、ですかね? 母と、義母になるはずだった方に捧げる物語にしたいです】※4月25日 初出前話掲載から1年以上の間が空いたことを深くお詫び申し上げます。投稿が止まっていた間、スランプだったり実生活で色々有ったりとあったのですが、番外編を書くのにハマりこんだりもしておりました。次回更新より、書き上げた番外編を順次投稿致します。このため当初の予定から変更し、本編をこのような内容としました(最初は、前話の後書き記載の通り、時系列が3日飛ぶ予定でした)。番外編のタイトルは、ずばり「サキュバスの手記 官吏アポリアの物語」です。内容は本文での記載通り、コナンのコの字も無いようなものになります。全24話執筆済、1回の投稿で3話ずつまとめて投稿予定です。※大切なお知らせ※ この作品は2018年4月30日より、投稿時の不具合のためarcadiaでの更新を一時停止しています。詳細は最新記事(番外編13~15)下部の告知をご覧下さい※