8月13日 午後3時40分 東都警察病院 703号室――ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ……「……さん、毛利蘭さん! 分かりますか!!」どこか聞き覚えのある電子音を背景に、名を呼びかける大きな声が、耳に入ってきた。まぶたを開けると、眩しい光が視界を染める。ぼんやりとした世界は徐々に輪郭を露わにし、『自分』の顔を覗き込む女性の顔と、その上の真っ白な天井が見えてくる。「かんごし、さん……」そんな言葉が、ひとりでに『自分』の口から洩れた。『自分』を見つめる女性、――看護師は頷き、はっきりとした声で更に質問を投げてくる。「ええ。自分の名前、言えますか?」「ぇ、と、…………!!」瞬間。激烈な勢いで、脳裏に『記憶』が流れ込んだ。誘拐した、誘拐された、刺された、刺した、覚醒した、父、母、捜査員、会話、手を取り、記憶を見せ、殴られ……呼んだ、呼ばれた、抱き寄せた、抱きしめた、相手、名前、感情、会話、言葉、肌の色、汗、匂い……「ッ!!」跳ねあがるように飛び起きる。両手で頭を抱え込み、『自分』の過去を選り分け、反芻する。記憶を見せて、殴られて、それで、意識を落として、いた? ――では、『自分』以外の記憶が見えるのは、何故?「大丈夫ですか? 頭が痛いんですか?」今度は、看護師ではない落ち着いた声が問いかけてきた。声の方を向くと、すんでのところで顔が激突する事故を回避して冷や汗をかいている看護師の横、髪を束ねた女性医師がやや腰を曲げて『自分』の様子を観察していた。これまで気付かなかったが、この病室には、その医師と、もうひとり別の看護師が最初から居たらしい。看護師ふたりは若く、医師はそれよりは年上だと思う。看護師は両方とも、高めに見積もっても30代前半くらい。医師は更に10歳くらい上か。「ぃや、いたいんじゃなくて、……」指先に色々と機器が貼り付いている左手を毛布が掛かった膝の上に落とし、だが右手は引き続き頭を押さえつつ、言葉をどうにか紡ぐ。今でも、脳裏に流れてくる『記憶』があるけれども、本当に、本当にとんでもない『記憶』が流れ込んできているけれども。そのことを言ってはならないと、とっさの思考でそう判断する。誤魔化せるだろうか。「あたまが、クラクラしてる、だけ。 かんごしさん、……『わたし』、なぐられて、それから、どのくらい、ねてた? いま、なんじ?」言おうと思っても、敬語が出てこない。魔術を行使しているときの典型的な喋り方だった。魔術師にとって敬うべきは神様と自身を召喚した者だけ、というのが、あの世界の大抵の魔術流派に共通する基本。逆に言えば、それ以外の相手との会話では、魔術を使っている間に敬語は使えない。どんなに努力をしても、だ。「今は8月13日の、……午後3時43分。 意識を無くしたのは11日の午前だから、丸々2日間眠っていたことになりますね」白衣のポケットから時計を取り出し、文字盤を見て看護師が答える。「……そう。まる、ふつか」思わず息が漏れた。意識不明だった時間の長さにも、また、脳裏に見えてくる突っ込みどころの多い『記憶』にも感嘆しながら、『自分』は考えを巡らせて。……考えたついでに、下腹部がジンジンとする違和感を訴えていることにも気付く。これまでの生涯、『サキュバス』の身体では感じたことのない感覚だ。とはいえ『蘭』の記憶から、何の兆候なのかは分かる。ほぼ毎月女性の宿命として感じている違和感だから、こちらの方は問題無いと言い切って良い、はず。やはり問題として大きいのは、脳裏にちらつきっ放しの記憶の方だろう。自動発動状態で、どれだけ念じても止まらない魔術は、今の『自分』にとっては害悪に等しい。でも誰かに相談するのは不味い。魔術の性質からして他人の身体に直接害悪をもたらすことは無いだろうが、だからと言って魔術の正体を軽々しく明かすのは不味すぎる。――だとしたら、黙っておくべきなのか? これから、どうする? どうなる?「“……fyusee-h(……弱ったな)”」引き続き右手で頭を押さえたまま、……ついでに左手は自己主張する下腹を押さえ。他の誰にも聞き取れない程度の大きさで、溜息に紛れ込まれる形で『サキュバス』の故郷の言語を呟く。これから、ひとり密かに悩みを抱え、考えなければならない。判断を間違えれば『自分』の生命は遠からず失われる、そんな危機に、またも『自分』は直面していた。※4月29日初出 11月22日改稿しました