9月2日 午前11時41分 警視庁 とある会議室「2点目、粟倉 葉弁護士刺傷事件についてです。 皆様ご存知の通り、事件発生はきのうの昼前です。賢橋町の路上で、19歳の大学生の少年が粟倉弁護士を刺しました。 少年の氏名住所は御手持ちの資料に記載の通りです。刺された側は、この資料をまとめた今日の11時現在でも意識不明のままとなっています」 とんでもないタイミングで刺傷事件を起こして逮捕されたのは、米花大学の文学部1年生の若者。 未成年だから報道発表には絶対に出ない名前も、ここの資料には堂々と載る。流出厳禁の警察内資料だから出来ることだ。 きのう賢橋署で撮影された顔写真は、青白い肌にひどく血走った眼。いかにも病んでそうな面を晒している。 これでも襲ってくる前は至極まともそうに見えたらしい。まぁ小田切の経験上、ひどい動揺で容貌が一変するのはままあることだ。「被害者の搬送先である緑台警察病院で、賢橋署員が一度だけ夫に事情を聞いています。 粟倉弁護士は夫婦で路上を歩いていたそうです。少年は東都大学の元学生を名乗って近づき、騙し討ちで奥さんの方を襲った模様です。 少年はその場で夫に取り押さえられました。なお、事件を目撃した通行人がすぐ近くの賢橋署に直接駆け込み、少年は現場で署員にそのまま引き渡されています。 被害者は肩から腰にかけて背中を7ヶ所刺されており、緊急手術を受けました。きのうの内に手術は終わりましたが、引き続き緑台警察病院のICU(集中治療室)で予断を許さない状態が続いています」 正直、防ぎようのなかった事件だと思う。現実社会で全く接点の無かった相手の襲撃だから、被害者も警察も全く予期出来ないものだった。 後知恵で“粟倉弁護士に護衛を付けるべきだった”とも言うまい。警察の者が接触すること自体が、状況上、絶対的に禁忌だった。 『サキュバス』からあらぬ誤解を受ける事を恐れ、この弁護士夫婦には、護衛どころか常時の行動確認も付けていなかったのだ。 ただし連携不足からこちらの対応が半端になった点については強く反省が残る。 『サキュバス』事件捜査本部と賢橋署の間で行き違いが生まれ、“何も知らなかった”署員が、ただの刺傷事件の聴取のつもりで夫に接触してしまっていた。 当然刺傷事件に限った内容の聴取であったが、夫はこの聴取には極めて協力的だったらしい。 ……あの弁護士夫婦への非接触は、出来るならば徹底的に貫くべきだった。今となっての弁明は、誰に対するものであれ却って不自然。『サキュバス』が変に誤解しないように祈るほかない。「少年の取調べと家宅捜索の情報が私の所に上がってきていますが、……どうも妄想をベースにして、この弁護士が異世界人に違いないと思い込んでいたようです。 今朝の家宅捜索結果は精査中ですが、『サキュバス』事件に関する資料類が少年宅から発見されており、少年は妄想と現実の区別が付いてなかったのではないかと強く疑われています。 掲示板の住民の言葉を借りるならば、粟倉弁護士は、あくまで異世界人の筆頭候補でした。複数人居る候補の中で社会的地位が最も高いのではないかと話題になっていた、それだけの女性です。 勝手な妄想の結果が、ピンポイントでたまたま実際に異世界人の記憶を持つ人を直撃し、こういう形になったと思われます。 この『サキュバス』事件は、特に部外者が妄想を逞(たくま)しくする要素の多い事件ですから」 出席者全員が、苦々しくも納得した顔を見せる。本当にピンポイントで嫌な事件が発生してしまったのだという苦さが、この場の者達の共通理解。 その後に書き込まれた文章によって、粟倉 葉弁護士本人の重要度が跳ね上がった。書き込みの内容を知っているからこそ、この刺傷事件は実に痛い。「そして3点目と4点目、粟倉弁護士の夫による書き込みと、資料の窃盗について。 書き込み内容は、お手持ちの資料記載の通りです。アクセス開示請求により、この書き込みが粟倉家の回線からだと確認されました。 ……書き込み内容の通り、警察病院から帰宅した夫による書き込みだと思われます」【こんばんは。召喚者さん、サキュバスさん。私は◆Moto/.Prof本人ではなく、◆Moto/.Profの配偶者です。 トリップキーを事前に夫婦で共有してしていたため、このトリップで書き込んでいます。】 会議の出席者に配布された資料を改めて辿る。刺傷事件の発生を知り、解答の書き込みを半ば諦めかけていた頃、期待を裏切る形で登場した書き込みだ。 問1~3の魔術師の装束に関する規定、――手袋・杖・仮面・ローブ(上着)の着用、仮面とローブの色の規制、身分を表す色の濃淡。 問4の分析魔術の原則と例外、――生物の寿命は覗けないという原則、例外はいずれかただ3つ(他の世界の生物である・魔術による寿命が規制された・明らかに死ぬ寸前である) 代理で書き込まれた解答が全て正しいものであったという事実。これが意味するものは、非常に大きい。「ご覧の通り粟倉弁護士の解答は、何から何まで、件(くだん)の拉致事件で佐藤に与えられた情報と合致します。 この解答で、粟倉 葉弁護士が『サキュバス』と同じ異世界の記憶を保有することが、我々の目から見ても確定したことになります。 粟倉弁護士が書き込んだ知識は、これより前の物も含めて全て正しい内容であったと見るべきでしょう。 召喚者も『サキュバス』も、当然ながら、こういった我々の認識を把握しているはずです」 以前の◆Moto/.Prof名義の書き込みを見た所で、『サキュバス』を即座に逮捕できそうな手掛かりが知れる訳では無い。ほんの少しだけ異世界の情報を垣間見る事が出来るだけ。 確実に1ヶ国は帝国を自称する国があったこと、戦乱に関する巫女の思い出話、年齢起算の手法、変則式だという氏名の中の単語の意味、結構エグい王と姫の神話(歴史)、……。「御覧の通り、皆様御手持ちの資料には、8月24日の粟倉弁護士の書き込みを改めて掲載しています。(※作者註:第4部-9参照) 『サキュバス』に関係するところだけ抜き出すと、まず、自称15歳という年齢が、満年齢の15歳と同じなのかが疑わしくなりました。 満年齢で自称しているならそのままですが、自称が異世界の15歳だった場合、満年齢は14歳という可能性があります。 また、イルンクス、“笛の民”とも書いていますが、他人と定期的に性行為を交わさなければ死んでしまうという種族の特質も、記載の通りなのでしょう。 もっとも、……本当に『サキュバス』の元の身体がそんな種族であったのか、そもそも年齢も含め自称の情報が正しいのか、厳密に言えば証明出来ませんが」 異世界にIrunkus(笛の民)と呼ばれる種族が存在した、その種族の女性は、ある程度成長すると性行為が必須となる身体だった、という、情報その1。 『サキュバス』は、元の世界の種族はIrunkus(笛の民)であった、という情報その2。 混同しがちな事柄ではあるが、論理的に考えて、この2つは互いに矛盾しないというだけのそれぞれ別個の情報だ。 幾度もこの会議で出た話だ。『サキュバス』と召喚者が嘘を吐く必要性は見受けられないが、さりとて真実を主張したのかどうか、判別する知識自体がこの国の警察には無い。「最後の、粟倉家からの資料の窃盗についてです。我々にとっては、資料の存在自体が初耳でした。 粟倉夫婦が住んでいるマンション“リブラ賢橋”での、きのうの監視カメラのデータは入手しましたが、それから先の捜査は足踏みしている状況です。 書き込みの通り、窃盗罪そのものは非親告罪ですので捜査の着手自体は可能です。 が、相手は、こう明からさまに警察へ協力しないことを表明している弁護士です。本音か建前か分かりかねますが、表向きこう書いている相手に捜査協力を求めるのは非常に困難と思われます。 なお、監視カメラのデータの入手については奥の手を使いました。この点も併せてこの場で報告致します」 最後の言葉に、数名ほどが怪訝そうな顔をした。彼等は事前に何も聞いてなかったらしい。 出席者の内、白馬警視総監は深く事情を知っている側に入る。真摯な顔でこちらに頷きを見せた。 一瞬目を合わせて軽く頷き返し、この会議の配布資料にも載せていない話に、小田切は踏み込む。「今回、リブラ賢橋の中で何かしら盗まれたと騒ぎ出す住民が出るはずも無いのに、“窃盗捜査のため”と言ってマンションの管理会社にデータの提供を求めるのは憚(はばか)られる状況でした。 粟倉弁護士が刺傷事件に遭った事、この弁護士に異世界の記憶を保有している疑惑がある事、それから、異世界の記憶がある者の自宅から資料が盗まれた事、全て世間一般に公表されています。 捜査事項照会書に馬鹿正直に理由を書けば、管理会社から情報が漏れた時、この弁護士こそが異世界の記憶を持つ張本人だと警察が答え合わせをする形になってしまいます。 ……そのため、たまたま粟倉夫妻と同じマンションに住んでいる、『サキュバス』事件捜査本部の警視を口実に使いました。 警視本人と白馬総監の許可を頂いた上で、警視庁(うち)の監察に、管理会社と接触してもらいました。 捜査事項照会書の書面上は、窃盗の捜査ではなく“内部通報に基づく職員不詳事案疑いの調査のため”とし、きのうのマンションの監視カメラのデータを1棟丸ごと手に入れています」 何人かが露骨に顔をしかめた。 外形上、警視庁の監察が管理会社にやって来て、“警視庁(うち)の者が変な事をやっているっていうタレコミがあったから、調べるためにマンションの監視カメラのデータ1日分下さい”と言った事になる。 まずまともな会社なら、言われるがままデータを提供するだろう。 警察を信頼する企業であれば当然、嫌っている企業でも、こんな文面の依頼を受ければ必ずデータを出してくる。この管理会社の内心は不明だが、データは、即、丸ごと提供してくれた。 ただし、今後、管理会社から情報が漏れた場合、実際に住んでいるその警視に要らぬ悪評が立ちかねない。 リブラ賢橋全体で見た場合、この警視以外に警視庁職員は住んでいないという(ある意味では何かの物語のような)都合の悪さもある。他の居住者が疑われる余地すら無い。 この手法を思い付いたのが居住している当の警視本人でなければ、小田切もこの手段は受け容れなかっただろう。「そうして入手した監視カメラのデータの分析結果ですが、特段に粟倉家に入り込んでくる不審者はありませんでした。 たまたま監視カメラの向きが、粟倉家のドアの出入りもギリギリで映していたようです。室内へ出入りした者は、粟倉夫婦のみでした。 夫の書き込みの通り、召喚者か『サキュバス』か、転移魔術を使える者が、転移の魔術で棚ごと盗み出した。そんな見方が一番有力だと思われます。 以上のことから考えて、……」 溜息めいた息が知らずに漏れて、一呼吸置いて、総括する。「どう見ても、警察は後手に回っているとしか言えない状況です。粟倉 葉弁護士が亡くなった場合、異世界関係の知識を得る望みが完全に消える事になります。 ……報告は以上です」 生きているが捜査に非協力的というこれまでの態度が続くとしても、死んでいて一切証言が取れないよりは絶対的に良い。 前者ならば、今後の流れ次第で口を割ってくれるようになるかもしれないという望みが、まだ有ったのだ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(※作者註:原作1巻1話のような斬首描写あり。予め御了承下さい) ?月?日 午前/午後??時??分 ??「ア゛ア゛ア゛ア゛――――!!」 明らかに変声機を通したくぐもった野太い声の、腹の底からの絶叫。へたり込んだ美和子の耳に突き刺さる。 ローブ姿の『毛利 蘭』を抱えて、濃紺のローブに黒い仮面の魔術師は、激しい叫び声を上げていた。 魔術師の腕の中、『毛利 蘭』の身体は猛スピードで砂になり崩れていっており、その砂もわずか数秒で虚空へと消えていく。 美和子の手の中の拳銃がもたらした、『彼女』の落命という結末が、目の前で進んでいく。 周囲の刑事達は遠巻きにこちらを見ているばかりで、何も手を出してこない。 手を出したくとも、この空間に手を出しようが無いのだ。自分達の周囲、金色に光るドーム状の結界は、外側からの接触を拒む働きをしているから。 どんな罵倒が向けられようと、何をされようと、こちら側に手は出せない。「アンタなのかよ!! よりによってアンタが! なぁ、アンタが『この子』を手に掛けたのか!? こちらの事情を知っているはずのアンタが!」「ちが、違うの、これは誤射で、」「知っている! いや、過失か故意かなんて関係無いんだ、警察が『この子』を死なせた。それ以外の何なんだ? なぁ!」 美和子のたどたどしい言い訳をぶった切って、召喚者は言葉で責めてきた。 どうにかして収集を付けなければならない立場なのに、説得しなければならないのに、言葉が上手く出てこない。 確かに、国家権力で『彼女』を殺してしまった場合、何が起こり得るのか知っている。表に出せない深刻な事情を、この人に直に教えられて知っている。 思わぬところからの助け舟が、不意に来た。地面に転がった無線機から出てくる、聞き覚えのある男性の声。「召喚者さん。私の話を聞いてくれないか。 私は小田切 敏郎。警視庁の刑事部長だ。君達の事件の捜査責任者でもある。この事件について部下が起こした行動は、全て、私が責任として負うべき事なんだ。 この警部補への思いも、この国全体への恨みつらみも、……全部私にぶつけて、それで、どうか収めてはくれまいか。 ……私は、この建物の通信指令室に居る。君ならば一気にここに来れるだろう?」 ――何をおっしゃっているんですか、刑事部長。 美和子の心はそのまま凍り付いた。言葉を向けられた相手の方は、怒りを隠せないまま更に言葉を吐く。「アンタひとりの生命にそれほどの価値は有るとでも? なぁ、自惚(うぬぼ)れるなよ。……クソが」 悪態ひとつ残して、もはやローブしかない『彼女』の残骸を固く抱え込んだまま、その場から召喚者は消えた。きっと、転移の魔術だ。 その場に残されたまま、どれほど時が過ぎたろう。 結界と同じ金光が美和子を包み込み、同時に生温かい物を浴びた。ベシャリという音と共にナニカが後ろからもたれ掛ってくる。 見た事は無かったが聞いたことはあった。頭部が切られた人間の身は、首の切断面から盛大に血液を吹き出すことがあるという。 両膝を付いた座位のスーツの身は、美和子の右肩と腕を経由してズルリと地面に倒れる。 血まみれの視界で、血を吹き続ける“それ”を見る。 顔が無くても分かる。 刑事部トップの、頭の無い、――~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 9月2日 午後2時15分 緑台警察病院 509号室 ――そこで、目が覚めた。 思わず周囲を確認してしまう。上は病室の白い天井、前は病室の壁、左は窓ガラス、右はベッドのすぐそばで立っている看護師と、……目が合った。「大丈夫ですか? とてもうなされていたので、起こそうとしていたんですが」 聴いた台詞が引き金になり、記憶が一気に蘇る。 自分は、佐藤 美和子は、B型肝炎により入院中。 絶対安静を言い渡されているので昼食後に眠りに就き、そのままとんでもない夢を見て、看護師が起こす寸前で勝手に目が覚めた、らしい。 『サキュバス』の誤射も、その後に浴びた血の感触も、――全てが悪夢の中の出来事、という訳か、全く。「あ、はい。大丈夫です。ひどい夢を見てしまって。……拳銃の誤射で人を死なせて、責任を取った上司のクビが飛ぶ夢で。 すいません。お水を飲みたいんですが、どうすれば飲めるんでしたっけ」 嘘は吐いてない言い方がとっさに口から出る。『少女』を死なせたとか、物理的に刑事部長のクビが飛んだとかは、そういう言い方は、何となく不味い気がした。「えっと、ちょっと待って下さい」 言われるまま水を準備する看護師の動きを視界に入れながら、無意識に髪を掻き上げた。汗ばんだ前髪が、同じく汗のにじんだ右手に貼り付く。 つくづく最悪な内容の夢だった。 馬鹿なミスをした刑事ひとりの生命を守るためだけに、流石に刑事部長がわが身を呈したりはしないだろう。 しかし国土の危機の回避のためならば、それを成し得る相手を鎮めるためならば、博打半分での献身は、無いとは言えない。そういう意味でも、やたらリアリティのある夢。 やはり拉致された時に知らされた情報の衝撃は、我ながら大きいらしい。『サキュバス』の死を、召喚者の怒りを、自分はどれほどに恐れているというのか――! ……全く、現状のみじめさには溜息しか出ない。 入院中の身では、どう望んでも捜査復帰は出来まい。捜査に加わったところで警察らしいことが出来る事件とも思えないが、病院で蚊帳の外なのは、なお、辛い。 事態が動いている事は分かっていても、美和子にはどうしようもないことだった。ただ、この病室から捜査の行く末を案じるしかないのだ。※6月12日 初出 6月19日 誤植を訂正しました。 7月3日付記 作者多忙で書けないうちに、本当に書く調子がつかめなくなりました。本調子になるまで少々お待ちください。すいません……。 9月4日付記 ご無沙汰しております。長いスランプでしたが、番外編を原稿用紙に書く程度なら何とか出来るようになりました。ハーメルンの私の活動報告にリンクを貼っています。本調子になるまで少々お待ちくださいませ……。 作中の9月2日はこれで終わりです。次のシーンより、日付が3日進みます。 作者として明言しますが、作中で異世界の記憶を持つ者は、粟倉 葉と『サキュバス』の2名のみ。 最初の召喚時に『サキュバス』の記憶を覗いた紅子、及び人格融合した『毛利 蘭』を、『サキュバス』と別にカウントしたとしても4名となります。 今後新規に異世界記憶持ちのキャラが登場することはありません。