9月2日 午前8時23分 江古田高校前 2学期初日の朝は、若干の風があって蒸し暑さを全く感じない。極めて清々しい朝だ。が、他の生徒に交ざって校門へ続く道を歩む紅子には、案の定、その心地良さを満喫する余裕は無い。 分かり切っていた事だ。前の晩に体調不良を承知で魔術を複数回使って、予想通りに体調が本調子になっていないというだけ。 こんな体調でも登校する理由があったから、むしろこんな体調を理由付けにしてするべきことがあったから、執事の心配顔を振り切って登校したのだけど。「おはよう。久しぶりね、黒羽君、中森さん。あなた達はいつも元気そうね。……私と違って」 歩みを進める生徒の群れの中に、同じクラスの2人組を見付けた。 こちらの見立てでは白い怪盗の裏の顔を持つ彼と、無邪気で純粋な幼馴染の彼女、という組み合わせの2人組。平静を装って話しかける言葉に、無意識に皮肉が入る。「おう……、体調悪いのか?」「おはよう紅子ちゃん。大丈夫?」 2人からこちらに返って来たのは、当たり前だが、身体を案ずる言葉。 体調不良アピールに演技臭さは無いはずだ。食欲は無いのに、朝食を口の中に流し込んで来た顔だから。きっと、自邸を発つ前に鏡で見た通り、結構青白いはず。「ええ。少し、ね、ぅぇ……!!」 ――あ、本格的にこみ上げてきたわ。 左手で掴む物を探して、すぐ横、高校の校門を掴んだ。まっすぐ立てそうにないと脳が指令、その場にかがみ込む。うつむく。目を閉じる。 消化器の中身が、気管を逆流する。欲求に逆らえない、逆らうべきでない、飲み込むべきでない、出すべき……!!「紅子ちゃん!」「おい、大丈夫かよ!?」 目を開けて、地面を見る。 たった今自分の口から出た、朝食だったモノがぶちまけられている。ものの見事な吐瀉物だ。 「……黒羽君。先生呼んできて下さる? ひとりで保健室まで行けるか分からないの」「あ、ああ! ちょっと待ってろ!」「中森さんは、背中をさすってもらっても?」「うん! 本当に、大丈夫?」 ずいぶんと楽になったが、まだ顔を上げる気分にはなれない。 うつむいたまま言ったお願いは両方とも叶えられ、彼の方はここを去り、彼女の方は紅子の背中を撫で始めた。 声を出すだけの元気だけは、今のところは有る。 少しスッキリした今の気分でなら、あえて誤解を招くような長台詞を、……きっと上手いこと言えるだろうか。「大丈夫かどうかで言えば、ひとまず、……今日の授業は無理でしょうね。 もしかしたら明日からも休み続けるかもしれないわ。色々とね、無理があったの。高校に通い続けるかどうかをずっと迷い続けて、……やっぱり無理ね。これでは」 嘘を吐く事、涙を流す事。今は禁忌である事は、どちらも無いように振る舞わねばらならない。 泣かないのは大丈夫だ。問題は嘘を吐かない事。あからさまな嘘を吐く事は出来ない。ただメンタルの不調を偽るように、紛らわしい言葉を連ねる事。「紅子ちゃん。無理はしないほうが良いと思うよ……」 嘔吐した同級生に掛ける言葉として常識的な気遣いは、今の自分の身には有り難い。精神的な意味でも、続く会話の取っ掛かりやすさと言う意味でも。「……そうね、中森さん。私、もしかしたら、ここを辞めるかもしれないわ。 家族からは、高卒認定試験に通るのを条件に、もう高校に行かなくても良いと思われているの。 ああ、誤解しないでね、貴女も誰も、クラスのみんなも悪くない。人間関係が原因ではないのよ。上手く言えないけれど、……私の、心と体の、問題だから」 あの執事は、表向きは家族の一員だ。高卒認定に合格すれば高校を辞めて良い、と、言われたのは事実。 心と体の問題と言うのは、この高校に登校しながら『サキュバス』の事件に関わり続けるのは難しいという事。確実に紅子のキャパシティをオーバーする。 だから高校に登校しないという、そんな実態は、無論、説明しない。『彼女』の事は、自分と、執事と、『彼女』しか知らない事。「……そう」 2学期の初日に校門前で嘔吐。授業に出ずに家に帰り、以後、不登校。 ……完璧な流れだ。本当は体調不良を理由にして登校直後に保健室に行くつもりだったが、それ以上に良い流れだ。 校内で噂にはなるだろう。知らないものが誰一人居ないくらいに話のネタになるだろう。だがこれで、不登校になった事そのものに不自然さは生まれない。 物騒な事件に掛かりきりになったから登校しなくなったのではなく、何かしらメンタルの不調で登校しなくなったのだと思ってくれるなら、まさに今朝登校した狙いの通り。「おい、小泉! 先生呼んできたぞ!」 その声で、顔を上げた。 遠巻きに自分達を見ている生徒達、彼らを掻き分けて小走りで寄って来る黒羽 快斗と、その後ろで担架を持って駆けて来る教師2人と、それから更に背後に建つ校舎。ぼんやりとそれらを眺める。 自覚は無かったが、ある程度この学校への愛着を持っていたらしい。 納得ずくの決断だから、高校生活との決別は惜しくはない。それでもこみ上げて来る感傷を、まとめて吐く。……さて、出て来る物は息だけだ。 ――卒業には1年半ほど早いけれど、この学校での高校生活は、たぶんこれで終わりね。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午前9時5分 召喚者の屋敷 地下 個室 カレンダーとしては2学期最初の朝。 警視庁提供の元太くん用勉強道具一式は、早速今日から活躍することとなった。 ――まぁ、ド素人の高2女子でも、正式な小学校のカリキュラムに遅れない程度には、家庭教師の真似事は出来るだろう、と、『自分』は思う。 午前中は9時から集中力が尽きるまでが算数、午後は1時から集中力が尽きるまでが国語、というえらく大雑把なスケジュールだが、他教科を教える事もなく、この2教科だけ。 勉強道具に同梱されていた教え方の手引も、手元にある。良くつまづくポイントと、そのカバーの仕方も載っている。その通りに進めば挫折することもあるまい。 さてさて、最初の算数の授業は、“10から20までのかず”だ。1学期に教わっただろう10までの数を振り返った上で、11から先へ。「10と1で11、10と2で12、10と3で13、10と4で14、10と5で15。……さあ、今言った通りにやってみて」 机の上の大きなTの字の上、左側には、さんすうセットのブロックをまとめた10の塊がある。右側に、言葉に合わせてブロックを1つずつ足していく。 15まで進んだら、右側のブロックを一旦全部取り払い、隣の席の生徒(=元太くん)に手渡し。「じゅうといちでじゅういち、じゅうとにでじゅうに、じゅうとさんでじゅうさん、じゅうとよんでじゅうよん、じゅうとごでじゅうご、‥…はい」 言葉が若干たどたどしい気はしないでもないが、習い初めの小学1年生としては思い切り許容範囲だろう。答え自体は完璧に合っている。 『自分』は小さく拍手しつつ、教師役として当然のリアクションを示した。「正解です。良く出来ました。……」 ――それにしても、元太くんの様子が気になるな。 ホッとした顔を見せるのは分かるのだ。誤答よりは正答の方が良い。……ただ、全般的に元気がない。今朝からずっと。 原因の心当たりは、無いではない。こちらの想像通りなら完全に『自分』が原因だ。不安定さを隠そうとして、この子に隠しきれなかった昨夜の『自分』のせい。「……何だ、『姉ちゃん』?」 じっと見つめる『少女』の視線は、その意味を訝しがる、無邪気な子どもの視線に打ち返される。 冷静沈着であるよう『自分』の心に言い聞かせ、逆に問いかけた。「うん。元太くん、何か集中してないなーって、思ってね。もしかして、算数以外のことを考えてた?」「……実は、『姉ちゃん』は自殺したいのかな、って、ずっと考えてた。 死なないよなぁ、『姉ちゃん』!」 ――やっぱり。 昨夜、あの寝る寸前の物語は、この子にとって物騒過ぎたのだ。『こちら』が何かしら抱え込んで浮き足立っていた、その状況でのあの話は、この子の心の平穏を明らかに害していた。 今は、もう大丈夫だ。あるじの元で思いっきり泣いて、それから一晩過ぎたから。だから微笑んで、真剣な眼差しで、言い切ろう。「それは無いよ、元太くん。それだけは無い。 確かにね、ここじゃない世界での考え方のお話はしたけれど、それと、『私』が自殺したいと思っているかどうかは別だもの。『私』はね、きっと限界まで生きつづけるわ」 あの世界で、実父達は、実に不遜だった。今すぐの自殺を徹底的に妨害し、出産後の自殺を強要したのだから。 だから自殺は出来なかった。自殺するとしたら、それは、実父の殺害を成し遂げた後に掴み取ったでだろう成果だった。 でも、あいつを殺しきれずに世界の壁を越えて来たこの場所では、この生命は、恩人と分離し難く連動している。 あのあるじの温かさと決意を知っているのだから、あの御方を巻き込む自殺は無い。「じゃあ『姉ちゃん』は、何で、きのう俺にあんな話をしたんだ?」 考えていなかった質問。元太くんに取っては自然に浮かび上がってくる問いだろうが、『こちら』に取っては不意打ち。一瞬考え込む。「何でだろうね、うん、……たぶんね、あのおとぎ話を君に知ってもらいたかったから、かもね」 誤魔化しだと思われるかもしれない。でもきっと、この正答は、一面としては正解だ。 また別の面があるとすれば、きのう入手したあの弁護士の手製資料を読んで、 ――どうしても消せなかったあの世界への追憶と思慕に、ほんの少し中(あ)てられてしまったから、かもしれない。 粟倉 葉さんは、『自分』とは違う。 『自分』のように、故郷を捨て去りたいと願ったわけではない。また、あるじのように記憶を共有する者も、そばに居なかった。 ただひとり、かすかに望郷の念を抱えながら生きてきて40数年。ようやく見つけた同じ世界生まれの『少女』と語り合いたいと、願っただけだったのだ。 昨夜この子に神話を話した事は、『自分』の心の中で浮かんだ様々な感情を、咀嚼して消化するプロセスの、一環だったのだと思う。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午前11時25分 警視庁 とある会議室 きのう、『サキュバス事件』に関して、短時間の間に事態が動いた。 派手に状況が一変したために、捜査が一段落したタイミングで、小田切から他の幹部達に捜査情報を説明する必要が生まれた。定期的に開いている警察庁・警視庁間の会議を、臨時に開くことになるわけだ。 記者会見の場ならば“事件に関係あるかどうかも含めてコメント出来ません”と連発するような内容でも、この場ならば全て詳らかになる。 出席者は階級が警視長以上の幹部達だ。小田切が捜査情報を伏せる必要性もない。 会議の冒頭部、佐藤と高木のカップルの動向についてはサラッと流す。 佐藤が入院しているが症状は軽いこと、高木がICU(集中治療室)で死に掛けていること、どちらも前回の会議から事態は変わっていない。高木の方が回復するか死ぬかすれば話は別だが、現在のところ“意識不明の重体”が続いている。 この場で何より重要なのは、このカップルの事ではなく、きのう以降の事件の動きについての説明だ。「配布の資料に記載の通り、きのう大きな動きがありました。重要な点を要約すれば4つとなります。 1点目、召喚者による掲示板の書き込みがありました。 2点目、粟倉 葉弁護士が、19歳の少年に刺されました。 3点目、粟倉 葉弁護士の夫による代理書き込みがありました。 4点目、その書き込みで、粟倉家から異世界についての資料が盗まれた疑惑が浮上しました。以後、長くなりますが、時系列順に説明させて頂きます」 小田切は言葉を切って出席者を一瞥。きのうの朝以降に発生した事象は、要点を掻い摘んでもそれなりに多い。「1点目の召喚者による書き込みについて。まず書き込みに使われた端末と手口について説明致します。 結論から申し上げますと、いつもと変わらない手口です。端末の所有者は早々に特定され、聴取も完了しています。 所有者によると、地下鉄杯戸駅の女子トイレ個室を使った際、鞄ごとスマートフォンを忘れたそうです。忘れ物に気付いて戻った時には、鞄からスマートフォンだけ消えていたとのことでした。 駅の監視カメラから、所有者の行動の裏は取れています。一旦トイレを離れた約10分の隙にスマートフォンを盗まれ、書き込みに使われた模様です」 東京都内、人が集まる施設の、女子トイレ個室の、パスワードの掛かっていないスマートフォンか携帯の忘れ物。 男子トイレが狙われたことはなく、忘れ物ではない端末が狙われたこともない。 召喚者が女ということなのか。あるいは、女子トイレは、男子トイレに比べて効率が良いということなのか。(用を足す時、女性は確実に個室を使う) 女子トイレ内の忘れ物を魔術で検知しているか、さもなくばトイレの使用者に魔術を掛けて忘れ物を生み出しているのか。 ……そういう推理は捜査本部内で以前に出て、この会議で触れたことがある。「所有者と同じ時間帯のトイレに出入りした者は居ません。監視カメラに一切映っていませんでした。 一方でスマートフォンの通信範囲は大きく動かず、書き込み直後に通信が途絶しています。 トイレの浄化槽からは、破壊されたスマートフォンの残骸がごく一部ですが発見されました。現在は鑑識が分析中です。 上記の点より、召喚者が転移の魔術でトイレの中に直に移り、スマートフォンを盗み出して書き込みに使った後で便器に流し、そのまま転移魔術でトイレから消えたのだと推測されます」 これまで、いくら調べても、召喚者のDNA等は何一つ得られなかった。だから今回も、おそらく証拠は得られないだろうと予想できてしまう。 そんな意味でも、変わらない手口。「……肝心の書き込み内容ですが、御手元の資料をご覧下さい。 前半部は召喚者によるスレッド住民への書き込み、後半部は『サキュバス』による粟倉 葉への出題です。どちらも、先日の拉致事件での召喚者とのやり取りを、極めて強く意識した物と言えます。 ご覧の通り前半部の内容は、誘拐事案の存在を召喚者が認め、なおかつその行動方針を記した内容です。 我々にとっては既に知れている情報ばかりですが、世間一般には始めて公表される情報が含まれます」【誘拐以後、私達と警察との間で意志疎通の機会はあった。 私達の要求により、警察は誘拐事案の詳細を今の時点で何も語っていない。そして、事案がひと段落つくまでは、警察は何も語らない。 前述の通り2学期中には、何があったのかが世間に明らかになるだろう】 この中で小田切達にとってやや重要なのは、書き込みのこの部分。 これで、“人質事件の決着が着くまでは事件について一切報道発表しない”という態度への理解は、広く得られた事になる。 世の中には警察発表を信じない層が一定数居るが、そういう層は、逆にこの手の犯罪者本人の書き込みは大体信じるものだ。 警察の態度を巡るマスコミの悪評も、今後は大きく減るだろう。替わりに、事件解決後の情報公開を待ち望む視線が注がれることになるが。 今なお即座の情報開示を表立って望んでいる者は、ネット上でもごく僅か。記者クラブに出るようなマスコミでは多分居ない。「書き込みの後半部は、◆Moto/.Prof(元教授)への、……粟倉 葉弁護士への出題です。 先日の拉致事件の際、召喚者は“異世界の記憶を持つ者”の認識について、【後日、私達が掲示板に書き込むからそれで分かる形になるだろう】と答えています。 それを踏まえた出題が、まさしくこれなのでしょう。出題された問題は、全て、佐藤警部補に与えられた情報を見れば答えが分かる内容です。 粟倉弁護士の解答が合致するかどうかで、我々警察にも、本当にこの人が異世界の記憶を持っているのかどうかが判断可能になるはずでした」 だから、この書き込みをきのうの朝に見てから、小田切は粟倉 葉弁護士の答えを待ち望んでいた。 異世界の装束を尋ねる問1~3も、寿命の解析の原則に関する問4も、どう答えるか期待を抱いていた。 本当に異世界の記憶を持つのかどうか、何かしら確実な判断材料が来ると思っていた。答えが書き込まれる前に解答者が重大事件に巻き込まれるなど、全く想定しなかった。 そんな思考は、今振り返って見ると、――見込みが非常に甘かったと言わざるを得ない。※5月22日 初出 5月23日 誤字等を修正しました。 5月29日 1シーン加筆しました。 6月11日 お待たせしました。最後のシーンがかなり長くなったので分割します。第5部-2は一応書き上げていて、推敲が完了次第(たぶん6月12日中に)投稿します。 最後のシーンについて、当初は刑事部長の記者会見のシーンを考えていました。 ……が、「事件に関係有るかどうかを含めてコメントできません」の連発&心の中の呟きがすごく気持ち悪くなったので没。 次に考えたのは会見前の部下とのやり取りですが、これもすごく書きにくくて没。最終的にこの形に落ち着きましたが、予想以上の長文となりました。 以前にも記載しましたが、この小説がどういう流れで決着するかはもう決めています。 現在読んできた方々にとっては、どんな風な終わり方を予想されているのか、作者として非常に気になる所です。エスパーみたいにドンピシャで当ててくる方が居そうだという怖さもありますが……。