午後12時59分 神奈川県 某所【サキュバスの、故郷の話はここまでだ ここからは、直にここで話したかったテーマに移ろうか。相も変わらずサキュバス関係の話であるのは、一貫して変わらないがな これは、貴女を魔術でここに連れて来た理由の説明でもある。複数あるが、重要じゃない理由ほどまず先に書くぞ】床の上で縛られている美和子の目前、タブレットの画面にそんな前置きの文字が連なる。重要じゃない理由が先、重要な理由が後。こちらが理解して大きく頷いたら、前方ノートパソコンのタイピングの音と一緒に、メモ帳上の文字が続いた。【理由1点目。貴女達の性病のうつし合いをサキュバスは見抜いた訳だが、そのカップルが、私の目にはどのように見えるか確認したかったから まさか、彼氏の方が、体調不良どころか生死が危ぶまれるほど深刻な容態になるとは予想していなかったが この目的は、貴女をここに連れて来た段階で叶っているな。今の私の目には、貴女も、あと半日経たずにB型肝炎を発症しそうに見える】最初に書いたということは、重要度が一番低い理由のはず。なのに、しれっと書かれた情報の意味は、美和子にとって重要でないはずがない。こちらの硬直を、召喚者はどう取ったのか。思考がフリーズしていてもお構いなしに、次の一言が映し出される。【この見立てが気になるのなら、ここから解放された後に医者に泣きついて入院させてもらえば良い ま、貴女が希望せずとも、転移魔術の後遺症調査で半強制入院になると思うが 病院で半日経てば私の判断が間違いかどうか分かるだろう】魔術は、ヒトの病の感染をどれほど見抜くのだろうか。召喚者は、『サキュバス』は、各々ヒトの身体をどれほどまでに見抜くのだろう?『サキュバス』は、他人の直近の性行為の情報を見抜くと打ち明けていた。では、召喚者もそうなのか。同じ魔術なのか、あるいは別の分析の魔術なのか。それ以前の話として、――今書かれたことは果たして正しいのか。「……。ええ、そうなるしかないわね」渦巻く疑問を、一旦飲み下す。魔術関係の質問は、問うても答えてくれない予感が強かった。魔力という力自体が、召喚者達の最大かつ唯一の武器なのだ。問うこと自体、相手の気分を害して話が止まる恐れがある。わざわざベラベラ喋ってくれている時に、ぶつけるような質問ではない。今書かれた内容の真偽を検証するなら、書かれた通りに半日待ってみるしかない。それだけしか対応法がない話。それで、落着しておくべき話だ。心の中でだけ深く息を吐いて、改めて気を張り直す。複数ある理由の、最初の物を明かされた段階で、相手のペースに飲まれてはいけない。こちらが顔を上げたタイミングに合わせるように、画面の文字は、次なる理由の説明に増えていく。【2点目。これは貴女の誘拐というよりも、むしろ、元太少年の勉強道具一式を望んだ理由だが 私達は、本当にギリギリになるまでは、あの子を生きて帰すことを前提に動きたい 公園に残した手紙に書いた通り、サキュバスの身体の状況を勘案すると、2学期中には、サキュバスの身体の問題にどうにかケリを付けないとマズい状況だ 逆に言えば、2学期中丸々監禁した後で解放という流れになる可能性だってある。その間、何も勉強させずに過ごさせるのはどうなのか、と思ったんだ この学年なら、勉強道具が一式あれば女子高生でも教師役は出来るしな】「それ、警察にわざわざ要求を出したのには深い意味があるの? そちらが自分達で勉強道具を集めることだって出来るのに?」公園に残された手紙を回収して以来、捜査本部でずっと渦巻いていた謎。誰もが意味を知りたがっていた要求だ。このタイミングでなら、訊ける。【ああ、それは気になるんだな 小学生に勉強を教えた経験自体が皆無なのでな、まず何を集めたらいいか、そこまで自信が無かった 警察に言えば、無駄なく役立ちそうな物を最低限調達してくれるだろうから、その方が楽だと思ったんだ わざわざ警察に要求した動機は他にも有るが、ここでは伏せるぞ】召喚者にとっても予想していた問いらしい。まるで肩をすくめたような調子の、大した事ないと言わんばかりの文章。伏せている内容にまた酷い動機がありそうだが、ここで追及できるはずも無く、他に訊くことがあるとすれば、……!!。――ああ、そういえば! 私が持っていたリュックが無い!「ところで、そのリュックサックはどこに有るの? 私、警察病院のトイレで持っていたはずよねぇ?」動揺を心の内に抑え込んで、静かに質問。何故今まで気付かなかったのだろう? 自分の目につく範囲の床に、元太くん用のリュックはどこにも置いていないというのに。今の今まで、思考から存在自体が抜け落ちていたのだ。【貴女が意識を取り戻す前に取り上げた。隣の教室に置いてる】「……そう」答えはすんなりと出てきた。何故隣の教室に置いたのか分からないが、ここで見当たらない理由としては説明が付く。何も追求しなかったことで、この話は終わり。次の理由の説明へ。【で、貴女を連れて来た理由3点目。ここからがより重要な話になるが、その前に確認を 今、警察病院で意識不明になっている貴女の彼氏は、あくまで彼氏なんだな、夫ではなく。入籍を検討したことは有ったか?】――高木君。28日にICUに担ぎ込まれて以降、美和子が見舞いに行けたのはたった1度。どうにか職場と掛け合って、時間を無理矢理作って行けた1度だけ。生気の感じられない顔色だった。たくさんのチューブが付いた身体でベッドに横たわり、意識の無いまま病気と闘っていた、大事な“彼氏”。身体を許すくらいの相手だ。もちろん愛は有る。だけども、この召喚者に答える事実は、あくまで事実のままで答えるしかあるまい。大人の女としては、やや不恰好な回答になるけれど。「彼氏よ。結婚はしていないわ。 ……互いに独身同士で、お付き合いはしていたけれど、入籍がどうこうという話が出てきたことは全く無かった。今までの時点では、ね」それにしても、何故、美和子にこんな事を訊いて来たのだろう。自分を誘拐した理由の3つ目は、高木君に関わるような事柄なのだろうか?【私達は、本当に大事な事は、手紙ではなく、こうして直に語る。但し、語った内容は後に必ず残る形で。その記録を世に公表するかは別だがな それが、私達の魔術師としての流儀だ 彼の入院以降、その彼に関して提案したい事柄が生まれた。それが、貴女をここに連れて来た理由3点目だ 貴女は彼の家族ではないが、警察の者で、事件の経緯を把握している。この場でこの提案を真っ先に話すのが、一番良いと考えた】死にかけている刑事について、犯罪者が提案したいこと。大事な話で、この言い方では、御家族にするような話でもあるらしい。ああ、――嫌な予感しかしない。「……何を、提案したいの?」自然と声が低くなる。提案内容を見たいような、見たくないような。目の前、ノートパソコンに向き合っているのは、『彼女』の生命しか考えていないらしい犯罪者だ。そのために他者を犠牲にすることを厭わず、子どもを人質にするような、そんな相手が、……彼にとって良い提案を持って来ることが、果たして有り得るのだろうか?【劇症肝炎でかなり危ういらしいな、貴女の彼氏。生きるか死ぬか分からない状況なんだろう? 貴女も承知の通り、私達は、サキュバスの新しい身体を創り上げるために、魔術の素材として使えそうなヒトの遺体を探している もし、彼が病死した場合、その遺体をこちらに譲渡してはもらえないかという、提案だ 当然、魔術の素材として使用するという前提だぞ。魔術的な観点から見た場合、高木渉刑事は元太少年並みに素材として良い身体だ。遺体であってもかなり使える】――ふざけるな!!思わず絶叫する寸前。理性が、辛うじて、喉から出かかったその発声を止めた。前方の仮面の相手を怒鳴りつけられたら、情を吐き出したその一瞬だけは、自身の精神は楽にはなれるだろう。そう、一瞬だけは。しかしこの場所で相応しいのはそんな態度ではない。情報を相手から引き出すための場なのだから、ここは何よりも冷静であらねばいけない場所だ。うつむき、迸(ほとばし)るほどの憤怒を必死に鎮める。これまでの話との矛盾を何とか思い出し、……顔を上げて、さして深く考えることも出来ずに質問がただ口から出る。「…………。 警察官を、役人の身体を傷つけるのは、『サキュバス』にとって禁忌ではないの?」言いながら美和子は思う。――間の抜けた質問を口走ったかも、も。コイツは先ほど『サキュバス』は役人殺しを禁忌として忌み嫌う、と書いていた。遺体を傷つける行為をも嫌うのなら、こんな提案を向けてくるはずがない。死体損壊は、刑法上、殺人とは全く別の犯罪だ。殺人と共に犯されることの多い罪だが、単に死体損壊だけの場合、殺人と比較して法定刑は遥かに軽い。果たして召喚者の答えは、見込み通りの否定形。【勘違いはするな。生きている役人の殺害がキツいというだけで、元から死んでいる身体を損なうのは全く別だ。そちらは問題無い 遺体を盗む形でも、サキュバスの精神は余裕で維持できる。承諾を得た上での譲渡なら、余計に忌避感は薄くなる さっき触れたように、貴女は彼の家族では無いだろう。この場で即答は出来ないだろうから、今は、捜査本部にこの提案の情報を持って行くだけで良い】スラスラと書かれた文章は、美和子の怒りをおおよそ鎮静化する働きをもたらした。即答を求めないという姿勢は、変な気遣いへの微妙な反感と一緒に、こちらの余裕を生んだのだと思う。刑事として、この提案が為された時に、捜査本部がどう動くのか自然と想像出来てしまう。仮に、元太くんの解放と同時に行うという条件ならば、捜査本部は、高木君の遺体の譲渡提案に乗る確率がかなり高い。子どもの人命が、病死した刑事の亡骸一人分で確保できるなら、警察庁の偉い人達はきっとそんな決断をする。この場合にハードルが有るならば、最大のハードルは、……“彼”の御家族が、『サキュバス』事件の推移について、一般人並みの知識しかないということ。「そういう提案って、あなたが書いたように、高木君の家族に持って行くのが本筋よね。 遺体の譲渡を求めるのなら、それを承諾するのは高木君の家族よね。警察じゃなくて、御家族が、承諾するような話よね? でも、あなた達は、捜査本部以外の人達への情報提供をかなり制限してしまった。あなた達がヒトの遺体を求めていること自体、世間の人は何も知らない。 遺体を盗まれた場合の御遺族の場合と一緒で、高木君の御家族には、子どもを人質に取られている事を明かして良いのね?」高木君のお母さん目線で思い浮かぶ、最悪のシチュエーション。息子の病死を悲しんでいる時に、息子の勤め先の人達が複数人やって来る。捜査に必要だからと言って、手元から遺体を取り上げて連れ去ってしまう。何故遺体が必要なのか警察から一切明かされず、おまけにその遺体がいつ戻って来るかも分からない。――今の御時世、どんな大炎上するか分からない話が一丁出来上がり、となる。せめて、どうして遺体が求められているのかを警察から遺族に説明できなければ、遺族の口封じも無理だ。【ああ、遺体の譲渡話が固まった場合は、高木刑事の遺族に事情を話してくれ。むしろこの場合は話してくれないと困る 一応言っておくが、この件に関しては、事態は流動的だぞ ただ、現在は、もし彼が死んだとき、譲渡提案がこちらから来るかもしれないと念頭に置いてくれ 彼の家族に、伏せている情報を教えるかどうかも、今後の流れ次第だ 闘病中の貴女の彼氏が回復するなら、この提案は意味を無くす 病死に至った場合でも、その時、他から盗んだ遺体だけで何とかなっている状況になるかもしれない 遺体と引き換えに元太少年が戻って来るのかどうかも、譲渡話に乗るかどうか判断を左右する材料になるだろう? それすら、今後の経緯次第としか言えないんだから】では、遺体の譲渡についてあれこれ、という話はここで終わりか。まさか、闘病中の当人を死なせておくから民間人の遺体窃盗をその分止めてくれ、……なんて、口が裂けても言える話では無い。刑事としても、恋人としても。「そうね。それは、言う通り、念頭に置いておくわ」無難な返答しか出来ない状況なのだから、話題は当然、次へと進む。【そして、貴女をここに誘拐した4つ目の理由に移ろう。これが最後で、一番重要な理由だ 貴女には正真正銘権限が無く、ただ、大事な事だから直に明かしたいだけの話だ。警察にすら権限の無い話だろうな サキュバスの今後のことについて。その事を、ここで、今話したい。それが、何よりも大事な誘拐の理由だ】※11月7日 初出 12月16日 文章量が多いので話を分割しました。