午後12時42分 神奈川県 某所紅子は、ノートパソコンから視線を上げて、目の前の床に転がる女性警部補を見やった。こちらが誘拐したあの少年の無事を確認する質問と、警察の職員が身代わりになれないかという提案。どちらも、予想通りの内容。捜査本部の情報を盗み見ていたから、早い段階で必ず訊かれるだろうと確信していた。どう答えるか、もちろん『あの子』と合議して事前に決めている。身代わりの提案に対しては、ワンクッション置くということも。あたかも初耳の提案であるように、提案責任者の所在を探るように問い掛けるのだ。こちらが警察側の情報を詳細に盗んでいる事を、悟られないために。【念のため確認したい。その提案は、貴女の独断ではないのだな? 警察庁と警視庁、どこまでのお偉いさんがこの提案を承知しているんだ? 貴女が答えられる範囲で良いから教えてくれ】さてさて、どんな答えが来るだろうか。黙り込んだり、独断だと答えたりするならば、貴女ひとりの考えには答えられない、と文を打って終わり。しかし、そんな流れになる確率は低いだろう。元太の誘拐から今日まで、約10日あった。警視庁の捜査本部が組織内協議に当てる時間は十分にあったはずで、独断だと言い切るのはかなり不自然だ。警部補はしばらく思考する。やがてその口から出たのは、割と素直な答え。「警視庁だと、少なくとも捜査本部のトップは、……警視庁の刑事部長になるんだけど、この提案を貴方に言うことを承知しているはずよ。捜査本部での会議で、本人が話題に出していたもの。 警察庁は、この提案にOKが出たって話だけは、もっと階級が下の、別の上司から聞いたわ。私が実際に警察庁の人に会った訳では無いけれど」【なるほど、では警察の、組織としての提案なのだな】魔術で盗み見た情報と照らし合わせても、矛盾は無い。嘘ではないらしい言葉に対して、更に紅子は念押しの文章を打つ。佐藤警部補は無言で頷きを返してきた。……十分に間を置いて、答えを打ち込んだ。前もって決めていた答えだが、この場で思考をまとめ上げて、考えながら書くように見せかける。【その提案は却下だ、2つの理由で まず1つ目、人質としての価値の問題 民間人の子どもと、死ぬ覚悟を半ば決めた警察官 果たして、警察という組織が、心情的に見殺しにしても良いと考えるような人質は、果たしてどちらだ? 2つ目の理由は、サキュバスの価値観の問題 あの子は、出身地の文化的に、官尊民卑な価値観が多少ある。役人を殺すことに対しては、特に強烈な嫌悪がある 警察官だって役人の一種。最初の坂田被告の殺害だって、殺す相手が大阪府警の元警官だから若干渋っていたくらいなのに 現職の警察官を殺害して魔術の素材にした段階で、毛利蘭だけでなくサキュバスの心も間違いなく折れるだろう それでは、わざわざ魔術を駆使して生き延びた意味が無い】鍵になるのは2つ目の理由だ。ここから、『あの子』の経歴、価値観、目標、それら一切をこの場所で打ち明ける、そんな起点にする。「……そうなの」宗教とか嗜癖とか、その手の価値観の話題は、深く追及してケチをつけるものでもない。社会人としてその辺のマナーは弁(わきま)えているようだ。わざわざ『サキュバス』の情報を明かしたこちらへの注目を隠さず、しかし言葉のリアクションとしては無難な一言だけ。そんな警部補に、紅子は、追加の文字を打った。警察に対しては初めて知らせる情報を、更に開示するために。【誤解はしないでほしいが、サキュバスは、殺人そのものを忌み嫌うという訳では無い そもそもあの子は、誰も殺さない生涯というものを、元から想定していなかったようだからな 元の世界で元々志望していた職業が、新人の内に、誰かの生命に手を掛ける、そういう行為を必ずやらされる職だったと聞いている】「ちょっと待って、それってどんな仕事なの?」明らかにギョッとした問いが来る。想定通りのリアクションと、質問だ。どんな仕事なのか直接には明かさない。ヒントをひとつ挟んで、説明はそれから。そういう風にした方が、こちらが言いたいことを理解させるのに適していると思う。【ヒントだ 今のこの国で、刑事事件の被疑者が逮捕されて、被告となり、判決を言い渡されるまで、その被告に関わる公務員を思いつくだけ挙げてみろ 国家公務員と地方公務員の別を問わない】「……警察官、検察官、裁判官、それと、刑務官。その条件でパッと思いつくのは、これくらい、だけど。 サキュバスはそんな司法に関わる仕事を目指していたの? 誰かを手に掛けるということは、……刑務官?」単に知識を問うだけの質問は、比較的答えやすかろう。警察官であるならば必ず知っているはずの内容の謎掛けは、特に。そしてこのヒントは、こちらが指し示す職にも辿り着きやすい。ひたすらにひたすらに長文を打つ。『あの子』との打ち合わせで、ここで明かしてしまおうと決めていた、過去の志望。【実は刑務官に限らず、今貴女が言った職種、全てが正答例になる。あの子の出身地の刑事司法は、こちらの世界とは仕組みが違うから 捜査で罪人を特定する事、罪人を捕まえる事、裁く事、罰する事、それら全部を同じ役所が一手に担っていたらしい 流石に、行う仕事によって、役所内でも部署はそれぞれ分かれていたそうだが サキュバスが目指していたのは、その役所に勤める官吏。この国の裁判官以上に社会的地位が高いらしいぞ 今は亡き実の母親は、結婚する前はそこの官吏だったそうだ。あの子は、母親が昔勤めていたのと同じ役所を目指していたことになるな もっと具体的な志望を言うと、捜査に携わる専門職。母親と同じ、分析系の魔術を駆使するスペシャリストになりたかったらしい 人事異動の仕組みとして、専門職でもたまに専門外の部署に飛ばされる例があったそうで、だから、貴女が挙げた全職種が正解となるわけだ その役所は伝統的に、専門職だろうが何だろうが、新人官吏には、とにかく刑を執行する仕事を任せる慣例になっていた 役所に入った新人の内、9割9分以上が、初任地でそれを任されるらしい 身体刑と生命刑が中心、なおかつ厳罰主義、公開刑が原則の法体系の世界で、こちらと比較したイメージとしては、2~300年以上前の先進国だろうか さてと。ここまで説明すれば、元の世界で希望通りの官吏になっていたら、あの子がどんな形で誰を殺すことになっていたのか、分かるだろう?】同じ世界同士でも文化の違いで価値観がかけ離れていることがあるのに、このケースでは正に世界が違う。文化の差異そのものは貶(けな)せないが、貶すべきではないが、情報が佐藤警部補に与えた衝撃自体は隠せない。やや引きつった顔の彼女は、言葉を選びながら、ドンピシャな正解を言い当てる。「職務で、犯罪者の、公開刑が原則ってことは、公開処刑を、それを、新人の官吏にやらせる慣習だった……。『サキュバス』も、多分そうするはずだった。これで合ってる? うーん、その世界でそういう仕組みだったこと、それそのものにとやかく言うつもり無いけれど、……本当に、こことは丸っきり制度が違うのね」【まさしく、その通り サキュバスの実母がかつて官吏としてそうしたように、あの子もそんな官吏になっていた可能性は、ひょっとしたら有ったんだ 薄赤い仮面を顔に着けて、胸に役所の紋章を縫い付けた薄赤のローブを着て、広場の石畳で罪人相手に長剣を振りかざす官吏に もちろん、今更この職業に就く夢が叶えられるはずがないと、本人はちゃんと認識しているぞ。一応それは強調しておく】新人は必ず公開処刑を任せるような役所があった、実母は昔そこに勤めていた。情報を組み合わせた帰結として分かるのは、『サキュバス』の実母は公開処刑の処刑人の経験がある、という、実に反応に困る事実。母と同じ職に就く、――今となっては実現する事のない、『あの子』の夢だ。この世界で叶わないのは当然、元の世界に戻っても叶えられまい。相続で揉めたとか、恩師親子がとばっちりで殺害されたとか、そういう事情もあるが、それ以前の事として、……『実父の殺害未遂を起こした者』には、ハナから官吏になる資格が無い。尊属殺と役人殺しは、『あの子』の故郷では極めて重い。未遂であっても、現地の年齢で16まで育った『あの子』であれば、広場の石畳で命を奪われる側になる確率がかなり高いという。「……そうね。それは認識した状態じゃないと、うん、困るわ。 ところで、召喚者さん。今あなたが書いた格好が、その世界の官吏の制服なら、……あなたも今は仮面とローブ着けてるわね、関係は有ったりする?」――そこに気付いたか。良い着目点だ、と、やや感心しつつ文字を連ねる。服飾のことは、話の流れによっては教えても可、ということにしていた情報だ。紅子のこの装束には文化的に由来がある。【こちらが、サキュバスの召喚後に、サキュバス側の世界の慣習に合わせるようになっただけだ 貴女みたいに顔を覚えられたら不味い者が相手でも、顔かたちを隠せるから、ちょうど良いというのもあるが 仮面とローブと杖と手袋が、あの子の世界の「魔術で身を立てている者」の標準的な装束。日本で例えるなら、江戸時代の武士の、袴や刀の二本差しと同じようなものだな 仮面とローブには、所属によって色の決まりがあって、官吏は赤。どこにも属さない在野の者は、黒か紺か灰 他にも文字通り色々な種類があるが、ここでは省略するぞ。どんな色でも共通の法則として、その色の濃さが上下関係を表す。偉いほど色が濃い、そうでなければ薄い】「じゃあ、あなたと『サキュバス』では、ローブの色は別? あなたの方が濃くなる? 他の人達は?」召喚者と『サキュバス』なら、召喚者の方が上。捜査本部で情報に触れる限り、自然に導かれる推理だろう。これまで徹底して、召喚者として、『サキュバス』を庇護するような態度を取ってきた。上下関係が逆になるのは経緯からして考えにくい。だが一見自然な質問のようでいて、ナチュラルにこちら側の人員構成まで探ろうとしている問い。意図を察しつつ、答える。【ああ。私が元々持っていたローブは、たまたま薄い色は数が多くても、濃い物は数が少なかった あの子は薄い灰。私は、今着ているような濃紺か、黒か、濃灰。1人がずっと同じ1着を着続けるのは無理があるから、洗濯の都合で着回してる 他に、こちらにどれほど人が居るかは、教えられないな】「……ローブだけで最低5着でしょ。十分すぎるほど多いと思うわ、それって。何で、あなた、そんなにいくつもローブを持っていたの?」実は慣習に合わない色のため最近使っていないローブが、まだこちらの屋敷にはたくさんあるのだが、それにはわざわざ言及しない。正答は、――魔術を使う家の当主として、儀式用のローブは多いに越したことはないから、なのだけど。それも敢えて明かすものではないだろう。ここで問いに答えることは、義務ではない。【さぁ。その問いには答えられないな】事前の想定通り、全く教えられないような問いが来たら、話題を変える。今回この警部補を誘拐してまで話したかった、本題に触れる。改行を1個挟んで、ノートパソコンのキーを叩く。【サキュバスの、故郷の話はここまでだ ここからは、直にここで話したかったテーマに移ろうか。相も変わらずサキュバス関係の話であるのは、一貫して変わらないがな】これまで、食いつくように、ディスプレイとその後ろの紅子を見つめていた警部補の目が、ここでより一層ギラついた気がした。※10月30日 初出 10月31日 シーンを加筆しました。 11月1日 シーン加筆&既存シーンを一部改訂しました。これで加筆は完了です。次話でも、紅子と佐藤刑事のやりとりが続きます。 11月2日 誤字脱字・表記ズレ・分かりにくい表記等を修正しました。 11月3日 既存話と矛盾する部分を発見したので修正しました。用語補足(刑罰の分類について):生命刑-生命を奪う刑罰、つまり死刑のこと。身体刑-身体を痛めつける刑罰のこと。現在の日本では制度として存在しません。一部の外国では、むち打ち刑等が制定されている場合があります。なお、この話では登場しませんが、他の概念として、自由刑(刑事施設に拘禁して移動の自由を奪う)、財産刑(財産を奪う)、名誉刑(名誉・身分を奪う)などがあります。現在の日本の刑法では、生命刑(死刑)、自由刑(懲役・禁錮・拘留)、財産刑(罰金・科料・没収)のみが定められています。身体刑は憲法36条違反となるため、どんな法にも一切存在しません。名誉刑は刑法にはありません。が、公職選挙法等にある、公民権の停止や剥奪を、これに分類する場合があるそうです。