8月31日 午前8時32分 東都警察病院 3階 廊下東都警察病院は、1階と2階が、外来と色んな検査室。3階が集中治療室。4階には機械室とか守衛控室とか、患者が使わない部屋群。5階から上は普通の病棟で、最上階の7階には、見張りに警官が立つような訳有りの患者が優先で割り振られる。……細分化すれば、どの階に何があると詳しく言えるのかも知れないけれど、佐藤 美和子本人の認識は、大まかにそんな感じだ。今日は、警視庁への出勤ではなく、病院へ直に出勤することが許されていた。昼から美和子は703号室のトイレに立つのだけど、そのずっと前から隣の705号室で諸々の打ち合わせを行う。まだ一般外来を受け付ける前の時間だから、病院に入る時は、表玄関からではなく、目立たない場所にある関係者用出入り口から。もちろん病院側に事前に話は通している。普通にエレベーターで7階まで昇ればいいものを、3階まで敢えて階段を使って、そこから廊下に出たのは、……きっと、許されるはず。まだ出勤しなきゃいけない時間の前だし、病院内をうろつくわけじゃないし、7階まで階段で歩き通せば「何となく歩きたくなって」という言い訳が効くし。うん。美和子の前方15m位先のドアには、“ICU(集中治療室) 関係者以外立ち入り禁止”の大きな表記がある。見舞客向けのICUの出入り口は別にある。おそらく病院スタッフ用のこのドアは、一般向けの案内表記は一切無くて、美和子から見てすごく簡素だ。ドアの向こうがどうなっているのか、美和子からはもちろん全く伺えない。けれど、大事な後輩が、チューブだらけの身体になってでも、あの部屋で重大な病と闘っているのは、間違いのない事実。昨晩、彼のお母さんから電話で聞いた愚痴によると、劇症肝炎のうち急性型のもので、この病気自体、現在の医療では生存する確率が50%ほど。特にずっと意識のない彼の今の状況は、かなり悪い部類に入る。いつ死んでもおかしくないし、生存した場合でも脳に後遺症が残るおそれがある。肝臓移植を行えば、生存の確率は大きく上がる。逆に言えば、生存の確率を大きく上げるような方法は、肝臓移植くらいしかない。が、御家族の中で肝臓を提供できる者は居なかった。志願した方々全員が医学的な理由でハネられたらしい。脳死移植に望みを掛けて、登録を行い待機中。……だが良く知られているように、日本では臓器の提供者が少ない割に希望者がかなり多く、移植を受ける前に亡くなる患者が大半。「……行って来ます、高木くん」――どうか、死なないで。……とは、言わなかった。言えなかった。きのう初めてあの部屋にお見舞いに行った時もそうだった。手を握って色んなことを言ったが、その時も、「死なないで」とは言えなかった。口に出した途端、却って生命が危うくなってしまいそうな気がして。この場でも、あえて、行って来ます、とだけ。こんな時間に、こんな場所。呟くような言葉は誰にも聞こえはしない。どう考えても自己満足だけど、美和子自身のケジメとして、懸命に生きようとしている彼に向けたこういう挨拶は、どうしても必要な気がした。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後12時10分 神奈川県 某所使われなくなって大分経った山奥の廃校舎の、元々教室だった部屋。そこが、小泉 紅子が今1人で居る場所だった。無論、仮面とローブを身に纏った召喚者の装束だ。ローブの中の身体は、上は帽子から下のブーツまで、毛一本落とさないような厳重装備。仮面の上には目を見られないようにミラーシェードまで着けている。何しろ、今日、……警察の者と直に接触するのだから。埃っぽい床の上で、魔術陣を描いた布が赤く光る。紅子の魔力で陣の中央に浮かび上がった鏡は、接触対象の現在の姿を映し出している。天井から俯瞰するような目線で映し出される、警察病院の個室の中の、洋式トイレの風景。物々しい機械類がわんさか設置されている空間の中。たった1人ドアにもたれかかる形で、スーツ姿の女性が、男の子向けのリュックサックを抱えて立っていた。指定通りに小嶋 元太の勉強道具入りリュックを抱えた、佐藤 美和子警部補。紅子が魔術で盗み見た打ち合わせの記録によると、バッヂも、拳銃も、警察手帳も、何一つ不所持。隣の部屋の捜査員とのやり取り用にイヤホンマイクを着けているが、手に持っているのはリュックだけ。“盗られたら困る物は身に着けるな”という、こちらの勧めに従った結果だ。これで彼女が用足しでも始めれば、ある意味すごいモノが見えることになる。が、この場所に限っては有り得ないだろう。カメラやマイク等諸々の観測結果はリアルタイムで隣室に情報が飛んでいて、ここで用を足すという本来の用途はハナから放棄されている。打ち合わせ記録によると、警部補本人がおむつ着用とかどうとか。下手すれば日没まで立ちっ放しになる仕事なのだから、至極順当な判断だ。――12時10分になりました。変わりありませんか?――今のところ問題ありません。11時40分からトイレに入り、以後10分おきの定時連絡の声が、こちらにも届いた。この遠隔透視の魔術の利点は、設定次第では、現地の風景だけでなく音も聴こえるように出来ること。もちろん、その分余計に魔力は掛かるが。そしてそれにも増してなお重要な利点は、……機械が掴めないような力の存在を、うっすらとでも可視化してくれること。鏡を視界の隅に入れる程度に離れて、自分の屋敷から持参した長杖を構える。杖に魔力を流し、転移の魔術を創り上げていく。対象がどこで何をしているのかは鏡で見えている。転移の基準になるような符は現地に仕込んでないが、鏡で様子が見える分、魔術の行使はまだ容易い。転移の範囲は警部補中心にやや広め、トイレの一部を巻き込むとしても、狭すぎて本人の身体が切断されるよりマシだ。転移できる範囲を確定させて、杖を一振り。現地の機械を出来るだけぶちのめすような魔力光を強く念じつつ、昏睡を込めた転移の魔術を、思いっ切り作動させた。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~午後12時11分、佐藤 美和子警部補は、抱えていた荷物ごとトイレから消えた。警察がトイレに据え付けていたマイクやカメラは、彼女が消えると同時に一斉に壊れていた。隣の部屋から駆けつけた刑事達は、本人が立っていたはずの場所が、空間丸ごとえぐれたようになった現場を、ただ呆然と見つめる羽目になった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後12時25分 神奈川県 某所後ろに回された手首が、普段感じないような感覚を訴えていた。硬めの金属っぽい、何か鎖らしいもので強めに締め付けられ、動きが妨げられる感じ。「ぅ……」呻きながら、佐藤 美和子は目を開く。視界に飛び込んできたのは、薄汚い、木目の、床。自分はどうやら、うつ伏せに寝転がっているらしかった。手首と、それから両脚の膝から下も、鎖か何かでぐるぐるに縛り付けられている状況で。視線を上げる。目の前約30cm前方に置いてあるのは、パソコンのディスプレイ、……ではなく、タブレットっぽい。専用のスタンドか何かで立てかけた、タブレット。職場で使っているのと同じOSの画面は、メモ帳が全開状態の表示で、ただ【この文字を読んだら声を出して】の文字がある。内容を理解して、指示通りに声を出すよりも、周囲を良く調べたいという欲求が勝った。タブレットにはケーブルがくっ付いている。ケーブルが繋がっている先は、更に2mほど前方の床の、ノートパソコン。ゲームの中の魔術師みたいな、濃紺のローブを纏った『誰か』が、そのノートパソコンの画面を見下ろす形で床に座っている。黒い仮面とサングラスを着けた、『誰か』。見る限り両手は手袋装備、足は黒いブーツ。元の肌の色は全く分からない。その『誰か』の後ろは壁だ。教室のような、……実質、教室なのだろう、大きな黒板があるだけの壁。他には誰も居ない。この床の埃具合から考えて、ここはどこかの廃校舎の一教室なのだろうか。ようやく、直前の記憶を思い出していた。警察病院のあの病室のトイレに立っていた。突然視界が真っ赤になって、考える間もなく意識が飛んだんだった。『彼女』達が自分を誘拐するのではないかという推測が、捜査本部では強く主張されていた。その予測が正解だったのだのだろう。『犯人』の転移魔術でここに連れて来られて、手足を縛られて、……タブレット画面右下の日時の表示を信用するなら、15分ほど眠っていた後、今に至る、と。目の前のローブ姿の『彼女』、――いや、この人が『彼女』とは考えにくい。『彼女』は『毛利 蘭』の身体。顔も、指紋も、毛髪も、警察は最初っからばっちりデータを把握済み。今更、あえて身体を隠す必要性がどこにあるのだろう?だから、目の前に居るのは『彼女』ではなく、美和子の知識で当てはまる者を充てるとすれば、それは。「あなたは、召喚者さん?」仮面の下から声は出ない。ノートパソコンのキーボードを叩く音と、それに合わせてタブレットの画面に文字列が加わっていくだけ。【いかにも。私が召喚者だ】なるほど。ノートパソコンでメモ帳を開いて文字を打ち込んでいて、その画面がそのままタブレットに映っている、ということなのか。特別なソフトウェアが要るのかどうかまでは分からないけれど、設定を工夫すればそういうことは出来るのだろう。美和子が喋って、この召喚者がメモ帳の表示で応えれば、一方が声を出さない形でやり取りは成り立つ。【最初に言っておく このノートパソコンも、タブレットも、ケーブルも、この校舎を管理している役所からの盗品だ 後で警察から役所に返却しておいてほしい】――窃盗か。これで『彼女』達の犯罪が1個追加。ツッコみたい気持ちが湧き上がっても、言葉としての追及は抑えた。現在の状況で相手を刺激したら危険だ。ここは、“校舎”。役所に管理されているということは公立の学校だろう。そもそも、この場所は都内なのだろうか?「分かったけど、……ここってどこなの? 東京都?」【神奈川県内のどこか、とだけ言っておく。ここは、だいぶ前に廃校になった市町村立の小学校の、校舎だ 過疎地だが、近隣には一応民家がある。最終的には貴女を解放することになるから、その時はどっかの家で警察を呼んでもらえばいいだろう】タイピングの速度は途切れない。1行改行して、饒舌に喋るように、画面の文章が増えていく。【警察の者と直にやり取りしたいことがあるから、こうやって貴女を誘拐したんだ 後で貴女を解放するつもりだからこそ、必然的に、私の容姿を徹底的に隠しているのだと捉えてほしい 貴女の口からダイレクトに捜査本部に情報が行くと分かっているのに、わざわざ個人を特定される手掛かりを残すはず無いだろう?】――本当だろうか?真意は分からないけれど、この場ではその主張を信じるしかないのも事実。美和子から見て、目の前の者の姿は全く掴めない。内容のつじつまは合っている。自身の生還を前提に、とにかく有益な情報を引き出すしかない。相手側に会話を成立させる意思はある。では、警察の者として、真っ先に聞き取るべきことは……。「何を話したいのか分からないけれど、何か話す前に、まずこちらから何点か質問させて。 小嶋 元太くんは無事なの? 私と会わせたりすることは出来ない?」即答が返ってきた。【あの子は無事だ 今ここに居るわけでは無いし、連れて来ることも出来ないが、今は病気も無く生きている】「一目で良いから様子を見せてもらうというのも、駄目?」念押しの懇願に、更なる即答。【無理だな あの子を返す時は、サキュバスの問題が、どんな形であれ決着した時だけだ。途中で誰かに会わせることは無い 返ってきた時生きているかどうかは、保証できないがな】最後の一文に、酷い言葉がくっ付いてきた。元太くんは、人質を兼ねた魔術の素材だと、誘拐当初に『彼女』が手紙で明言していること。あの子が遺体で返ってくる状況が有り得る。分かっていても想像したくない。もう1つ、元太に関する問いをぶつける。誘拐された場合、必ず訊くことになっていた内容。「じゃあ、捜査本部の者として提案なんだけど、……こちらの捜査員が、誰か、元太くんの身代わりとして、元太くんと引き換えに人質になれないかしら?」※10月18日 初出 10月19日 シーン加筆&既出話を少々加筆しました。 10月24日 シーン加筆しました。 会話が長くなったのでいったん切ります。次の話はたぶん1話まるごと佐藤刑事+召喚者のシーンの続きです。