そしてまた、表向きは何も動きが無い日々がやって来る。24日の時点で、8月31日は、警察病院で、佐藤 美和子警部補が巻き込まれるかもしれない、何かがあるかもしれない日となっていた。8月24日が終わり、25日となって、それから31日が来るまでの日々。表に出ないと言うだけで、誰かが、どこかで、何かしらの行動を取っていた。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8月25日 午前11時58分 警視庁 刑事部長室(臨時)元々の刑事部長室への手紙出現やら、あるサイトの掲示板の書き込みやら、『サキュバス』事件が大きく動いてから、一夜。――例の、自称“異世界出身の女性”の身元がある程度判ったので、報告したい。そんな報告が昼前に小田切達の元に上がる程度には、警視庁の捜査能力は、今のところは生きている。きのう24日の昼以降、小田切は迷いつつも、“◆Moto/.Prof”さんの身元調査にゴーサインを出した。捜査本部はその指示通りに動いた、という流れだ。定められた手続きを踏めば、ネットの特定の書き込みが、一体どこの回線の、どこの端末からの物かは突き止められる。回線と端末が分かってしまえば、そこから、書き込んだ人が誰なのかも推測可能。もちろん、書き込んだ側が端末や回線を偽装したり、召喚者のように他人の端末を使っていたりしたら話は別だが。“◆Moto/.Prof”さんの書き込みの場合、そんな工作の痕跡は見受けられないという。素直に、自宅のパソコンと契約回線を使って書き込んでいたようだ。では、誰が書き込んでいたかというと……。「粟倉 葉(あわくら よう)さん。62歳の弁護士、東都大学名誉教授、か」捜査本部の捜査員がまとめ上げ、持ってきた資料の初っ端には、当然のことだが名前と年齢と職業が記載されていた。小田切はまずその内容を口に出す。資料に連ねられた文字列は、その女性の経歴を大まかに語っている。想定外のことだか、書き込み主は社会的地位がかなり良い学者だった、らしい。――東都大学法学部から(途中で山岳遭難事故に遭いつつも)順調に大学院に進み、博士号を取得。以来ずっと民法学者として東都大学法学部に奉職。 最終的には教授になり、そのまま60歳で大学を定年退職。大学からは名誉教授の称号を贈られた。 退職後に他の私大に勤めるなんてことはせず、弁護士登録を行って現在に至る。「確かに、『ひとつの職場を定年退職するまで勤め上げた』人ではあるな……」呟きに、資料を持参した捜査本部の者2名、……名前が誰だったか、警視と警部は、ただ頷く。大学の教職員は全て大学と雇用契約を結ぶのだから、勤め人だったのには違いない。その点、本人の書き込み内容と食い違う点はない。それにしても、名門大学の名誉教授で現在弁護士というのは、やや意表を突かれる職業だ。中央官公庁の中にも、学生時代にこの教授に教わったことがある者が、探せば絶対居ることだろう。――修士課程在学中に、学部の同級生だった夫と結婚。夫は、学部時代に司法試験に合格した弁護士。 34歳の頃、夫の甥っ子が7歳にして両親を亡くしたので、夫婦で引き取って養子とする。その息子は都庁職員になり、所帯を持って独立している。 他に実子・養子は居らず、現在は賢橋のマンションで夫と2人暮らし。 登録している弁護士事務所も、夫と同じ所。元々は夫の個人事務所だった所に、退職して弁護士になったこの先生が追加加入した流れ。警察が接触を図った場合、ちゃんと法律の定めに則って瑕疵なく振る舞ったとしても、何かしらクレームをつけてきそうな夫婦だ。……小田切は素直にそう思う。この夫婦なら、何かがあった時に頼れるような法律家の人脈は、それこそ腐るほどあるだろうし。もっとも、今現在の捜査状況では警視庁の側から接触することは当面無い。『サキュバス』側に昏睡魔術を食らいかねないからだ。そういう意味で接触時の事を考える必要が無いというのは、刑事部長の立場だと凄まじく薄ら寒いものがある。資料のページをめくる。このページからは、粟倉先生が若い頃の山岳救助記録についての記述だ。山の中で遭難死する寸前で救助隊に助けられた、と、あの掲示板に書かれていた。記述内容そのものズバりの遭難記録が残っていたらしい。――43年前の8月中旬、大学の仲間と谷川岳を登っていたのに、1人だけはぐれて行方不明になった。当時19歳の学部1回生。 はぐれて3日後に群馬県警の救助隊に助けられ、救出劇は地元の新聞の記事になる。 本人がその遭難体験の事を、大学在職中に山岳部のコラムに書いていて、……コラム自体が今でもインターネットで閲覧可能!?捜査本部謹製資料、最後は、入手できた外部資料のまとめだ。東都大学のページに掲載されている名誉教授の略歴とか、当時の新聞記事のコピーとか、大学山岳部のサイトに堂々と載っている本人執筆のコラムとか。ここら辺は適当に見出しだけ一瞥。形だけは最後まで読み終えた資料を手の中に収めて、顔を上げる。「インターネットで特定されるんじゃないのか、この人の身元」警視も、警部も、苦々しさを隠さない表情を露わにしながら、頷いた。警視が口を開く。「もう、掲示板では実名が候補に挙がっていますよ。 『40年以上前』、『夏の日に』、『山で遭難死しかけた女子学生』で『ひとつの職場を定年退職するまで勤め上げた人』。それ以上のヒントが無いので、流石に絞り込みできないようですが。 当時の山岳遭難の記事を漁って、該当する女性の実名を並べるくらいは、あの掲示板で普通に行われているようです」容易に想像が付く。ここまで注目を浴びている事件だから、さぞかしネット住民が全力で探偵団になって大活躍している事だろう。過去の新聞記事を収集することも、遭難事件の記事をネットにまとめ上げることも、何一つ制限されることのない合法行為だ。「……そうか。言うまでもないが、掲示板の情報は注視しておいてくれ」夏の時期に山で遭難して救出される者は、昔から毎年の風物詩のように出る。『40年以上前、遭難死しかけた女子学生』、……新聞記事を調べて浮上する者は複数存在するはずだ。かつ、ネットで調べられる範囲で、定年前に退職したとか定年退職したとか、その後の人生が分かる者がどれほど居るのか。出来うるならば、書き込み主が粟倉先生だと特定されないままであって欲しい。その方が、まだ色々と面倒が無い。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8月26日 午前9時 召喚者の屋敷 地下大広間石の床に大きく魔術の陣を描いた部屋で、仮面にローブ姿の、つまり召喚者装束の紅子は、陣の縁(ふち)の線上に杖を付いてしゃがみ込んだ。同じく陣の外側、少し離れた壁際に立つ『彼女』は無言。紅子も無言。陣のど真ん中に置いた大きな鏡も、今は何も言わない。この部屋に在る時は無言を通すように、元から鏡を躾けている。紅子は、両目を閉じて心を鎮めた。魂の内に魔力を練り上げて、そのまま素手の両手で掴んだ杖に渡す。杖の魔力はそのまま床へ。陣の線を辿って、中心部の鏡へ。……魔力のラインが明確に繋がった。足元に緩やかな風が湧く。薄目を開けた。魔術陣は眩いほど真っ赤に発光している。床に置いた鏡は、縁をやはり赤く光らせながら、『彼女』の目の高さまで浮上していた。『彼女』の青とは違う、紅子の赤を含んだ魔術陣も、中央で浮上する鏡も。……最早日課になったと言って良いと思う、それくらいに見慣れた光景だ。『サキュバス』が召喚されてから一旦ここを去るまで、そして人格を融合させた『彼女』が病院を逃げ出してから、今まで。紅子達は、この形の陣を、この魔術を、ずっと愛用してきた。他人の様子を覗き見る、余所の組織の情報を盗み見る、そんな視たい物を鏡に映し出す、遠隔透視の魔術。あくまで映し出すのは外形的な物だけだ。他人の精神や心の内は、別の魔術でないと覗けない。けれど、そんな制限を踏まえても、この魔術は大いに使える。――まず、いつもの魔術ね。 前回の魔術行使から今まで、私や『あの子』が贈った手紙や、それを写した写真。その情報が警察の外部に渡ったなら、光景を見せて。無言で念じれば、鏡は応える。鏡面を赤く光らせながら、……陣を経由して紅子の体内から魔力を吸い上げながら、魔力的手法による世界の精査が進む。一枚一枚写真の在り処を掴み、そこから手紙に触れた者、写真の写真を作り上げた者を掴んでいく。全て探った結果は、――手紙に触れたのも、写真に触れたのも、全員が警官。故に該当なし。――そう。今日は、特別に調べたい物をまず探すわ。 警視庁の捜査本部内、“◆Moto/.Profさん”の正体が判る資料は有る? 紙の資料が有ったなら、とりあえず最初のページを見せて。紅子に命じられた通りの精査が始まる。精査対象は、捜査本部内で、きのうの朝と比較して変わった物、作られた物……。精査は一瞬で完了。まさしくその通りの紙が鏡に映し出された。色々と書かれているようだが、文字サイズが大きい最上部のタイトルが【◆Moto/.Profの身元について(報告書)】。あまり形式ばった書類ではない。おそらく警察内部限りの簡易な資料だ。紅子の背後で、『彼女』が小さく息を呑んだ。鏡に映った情報のメモ取りは『彼女』の仕事だ。数秒待つ。『彼女』が身構えたであろう頃に、鏡に念じる。――ありがとう、その紙をズームで見せて。文章をゆっくりと上から下へ。【・身元特定の経緯: 掲示板に対する情報開示要請及びプロパイダに対する開示請求より、書き込まれた際の回線と端末が判明 24日の05:32と12:51の2回の書き込みは、同じ回線の同じ端末によるもの(特段のアクセス元偽装工作は見受けられず) プロパイダ契約先の世帯の女性が浮上し、経歴を調査したところ、おそらくこの人が◆Moto/.Profであろうと推測するに至った・身元: 粟倉 葉(あわくら よう)(女・62歳) 弁護士・東都大学名誉教授・住所: 賢橋町2丁目8-○○ リブラ賢橋 807号室・生年月日: 19◎◎年6月19日生】見覚えのある名前だ。あの掲示板の“◆Moto/.Profさん”探しで、真っ先に候補に挙がっていた名前。東都大学山岳部のサイトの、粟倉教授(当時)著の遭難体験談を見つけ出した人が居た。芋づる式に、図書館所蔵の縮刷版から当時の新聞記事を掘り当てる人も居て。“◆Moto/.Profさん”候補の中では一番社会的地位が高い部類じゃないか、と、スレッドで一瞬話題になっていたんだった。たしか今も、“◆Moto/.Profさん”候補テンプレのリスト入りしているはず。後ろでメモを取りまくる音が凄い。ああ、名前と住所は必ず記録するべき内容だ。こちらが把握しているかどうかで選択肢が段違いに増える。鏡はメモ取りの速度に頓着しない。紅子が止めない限り、報告書の上から下へのスクロールが続く。【経歴】、――とんでもなくすごい学歴の人。学生時代から退職まで東都大学に居続けた民法学者で、退職後に弁護士になって、今に至る。間違いなく頭が良いに違いない経歴だ。【家族構成】、――修士課程に居た頃に、学部の同級生だった夫と結婚。夫も弁護士。法律知識が豊富そうな夫婦だ。昔、夫の甥っ子が孤児になったので引き取って養子にした。それ以外に子は居ない。養子は成長して東京都庁の職員になって、粟倉夫妻とは別に米花町で所帯を持っている。現在は夫と2人暮らし。弁護士事務所も夫婦で一緒。ページが最後まで表示され、ページの上下スクロールが停まった。そのまま数十秒経つ頃、『彼女』のメモ取りの音が止み、まさしく一息吐いたと言わんばかりの吐息が聞こえる。これが合図だ。――この報告書のページをゆっくり進めて。ページ毎のズームとスクロールはひとまず不要。必要になったらページを止めるから。鏡面の映像が動く。【山岳遭難の記録について】、――ネットで掘り出されて分かっている情報だ。ズームせずに次へ進む。残りはネットから持って来た資料のコピー。見覚えのあるページの塊だ。これも飛ばすように指令して、……報告書が終わる。――では、別の情報を頼むわ。私が昏睡させた内調の職員について、今も昏睡状態の職員は居る? 居るなら映して。精査結果は、――全員意識回復。該当無し。意識を回復させる基準が25日午前6時で、前後に6時間のズレ。今は26日の朝だ。現時点で目を覚ましていない者が居る方がおかしい。――では、最後の指示ね。さっき調べた粟倉教授の資料以外で、警視庁の、捜査本部内の書類を精査して。 きのうの朝と比較して変わった書類や、新たに作られた書類を見せて。1ページ目だけで良いから。 とりあえず、あなた(鏡)の目線で、重要そうな物から優先して見せて。この魔術の最後の指示はいつも同じだ。最初の指示もいつも同じだけど。映像がつらつらとスライドショー形式で表示されていく。内閣情報調査室職員の記憶状態について、――21日以降の記憶が飛んでいた。詳細は要検査だが、日常生活に支障を残すような目立った障害は残っていない模様。警察庁と内閣情報調査室の合同での折衝の議事録、――きのうの折衝の記録、要は捜査が手詰まり状態、なるほど。高木 渉巡査部長の病気休暇の申請書と、警察病院の診断書、――両方とも色合い的に原本のコピーで、提出日が24日付。この人が届を提出した部署が別にあって、捜査本部が資料として収集した?捜査本部の捜査員の、9月からの人員リストと勤務シフト、――大したことない情報、飛ばしましょう。他にも、作成された書類は複数あるが、紅子の目線で特に目ぼしい物は無い。――ありがとう。これでこの魔術は終わりよ。浮かび上がっていた鏡が、ゆらゆらと床に沈んでいった。割れずに軟着陸したのを見届けて、自身から流していた魔力を停止。あれほど強かった床の魔力光が一気に萎れていく。完全に光が消えた頃、杖から手を離して立ち上がった。……魔力が身体からゴッソリと抜けた感覚が、紅子を襲う。馴れた感覚だ。この程度ならばまだ心地良い範囲。ローブの懐から手袋を出して、両手に着ける。同時に聞こえてくるのは、背後から『彼女』が小走りで駆けて来る感覚。そのまま紅子の横を通って、床の上の鏡に小さく会釈。布で鏡面を丁寧に拭いてから、鏡を抱え上げて紅子の元へ持って来て、小声で一言。「お疲れ様でした。Reune(あるじ)」いつも紅子は無言の会釈で応える。もはや定型化してしまった、魔術後の流れ。この後の流れも決まりきっていた。紅子が自室に鏡を置きに戻ってから、今知った情報をベースに色々と話し合うのだ。※10月4日投稿 この話に加筆投稿予定はありません。次話は、8月27日-粟倉 葉(自宅)、28日-高木 渉(警察病院)、29日-佐藤 美和子(警視庁)、30日-『自分』(召喚者の屋敷)計4つのシーンを1話に入れる予定です。1シーンあたりの文章量は少なめになると思います。今回の話は、解説した方が良さそうな情報が多くなりました。魔力の光について:紅子は赤、『サキュバス』と融合後の『彼女』は青。最初からこの小説内では統一している設定です。作中登場した魔術がどちらの魔術なのか、実はこれで判別可能にしています。東都大学について:原作で名前が登場している大学です。沖矢 昴さんがここの大学院工学部の学生だったり、群馬県警の諸伏警部が法学部を首席で卒業していたり。雰囲気的に、作中世界では名門大の模様です。粟倉 葉の弁護士登録について:弁護士になるには、原則として司法試験に合格し、司法修習を受けなければいけません。ただし、大学で法律学の教授等を5年以上勤めた者は、所定の手続きを踏めば弁護士になれます。粟倉教授はこの制度を使ったという裏設定です。(平成16年3月末時点で大学助教授・教授の勤続5年以上→研修とか何も受けずに弁護士資格をゲット)この制度では、大学教授以外にも弁護士に認定されるルートが有ります。興味がある方は「弁護士資格認定制度」で調べてみてください。おまけ:遠隔透視で報告書を覗き見するシーンで、粟倉 葉の経歴を書いたのですが、載せたらかなり間延びするので没にしました。もったいないので以下に晒しておきます。執筆に当たり、実際の東京大学法学部サイトの教員一覧ページを大いに参考にさせていただきました。大学院の学科名も東京大学が元ネタです。【経歴: 19××年 4月 東都大学法学部入学(※同年8月 群馬県谷川岳で遭難) 19××+4年 東都大学法学部卒業、東都大学大学院法学政治学研究科修士課程入学 (19××+5年 現在の夫と結婚) 19××+6年 東都大学大学院法学政治学研究科修士課程修了、東都大学大学院法学政治学研究科博士課程入学 19××+10年 東都大学大学院法学政治学研究科博士課程修了(博士(法学)) 19××+10年 東都大学大学院法学政治学研究科講師(専門分野は民法。以後同じ) 19××+12年 東都大学大学院法学政治学研究科助教授 (19××+16年 夫の甥と養子縁組) 19××+22年 東都大学大学院法学政治学研究科教授 20●●年 定年退職 東都大学名誉教授称号授与 20●●年 弁護士登録(東京弁護士会所属、粟倉法律事務所)】