こうして8月24日の朝がやって来た。衝撃的な朝だった。幾日かぶりに、『サキュバス』事件が幅広い層の注目を浴びた。何せどこの全国紙でも(ところによっては地方紙でも)、朝刊の一面の左下に、普通なら考えられない内容の政府広報が堂々と鎮座していたのだ。それは『サキュバス』側が求めた要求に対する、警察の答え。明確な形で事件の大まかな事情を示すその広告は、警察の、ひいては政府自体の屈服と、無力さを喧伝するような代物だった。【 告知 拘置所被告の殺人事件(いわゆる「サキュバス事件」)に付いては、現在、別の誘拐事案の交渉中です 人命を優先するため、当分の間、新規の捜査情報の公開は控えさせていただきます なお、この広告の掲載は、犯人の要求によるものです 警察庁 警視庁 大阪府警察 召喚者さんとサキュバスさんへ 上記の誘拐事案とは別件でお願いがあります 今月22日に当室の職員4名が意識を失い、今に至るまで目が覚めていません(23日午後10時時点) このことがあなた達の事件に関係して起きたことなら、どうか意識を回復させていただけないでしょうか あなた達が示した秘密を知ってもいい範囲の外だったのに、秘密にするべき情報が当室に渡っていたことは承知しています ですが、その情報を得た職員自身には何の落ち度もないのです 内閣情報調査室】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8月24日 午前5時45分 召喚者の屋敷 2F 紅子の部屋紅子の家では、朝の新聞はいつも午前5時前後に配達される。これまでの経験上、配達店の方で何かトラブルがあった時でも5時30分には届く。だからそれくらいの時間を目途に、今日の紅子はいつもより早起きをした。そうして読むことにした今日の日売新聞には、前代未聞の告知が載っている。紅子の想像通りも部分があり、想像していなかった部分もある。もちろん警察の部分が前者で、内閣情報調査室の部分が後者だ。警察と一緒の広告で職員の意識回復を懇願してくるのは、少々意外だった。全体的な印象として、内容自体が矛盾しているように思えなくもない。捜査情報を一切出さないと宣言しておきながら、同じ広告内に、内調で起きた事件のあらましを暴露しているのだから。とはいえ、秘密が漏れた結果どんなことが起こったのか、何を警察が恐れているのかは、一発で示せる。貝のように口をつぐみ、情報を抱え込み続ける。そんな風な警察の今後の態度を、この告知はこれ以上無い説得力で正当化してくれる。組織内の機密情報のやり取りを見抜いて、職員を意識不明にしてくるヤツを、この国の政府機関は敵に回したくない(敵に回せない)のだろう。「……ふぅ」寝起きで頭がさほど働かない。眠気を誤魔化すように、マグを掴んでぬるい牛乳を一気にあおる。とりあえず情報を集めれば、他人の考えを頭に入れていけば、少しは思考も進むだろうか。新聞を片手に、机の上のノートパソコンを開いた。昨夜はスリープ状態にして閉じたから、ネットを見るのならログインしてブラウザを開くだけで良い。これまで、『サキュバス』や召喚者(=紅子)が書き込みに使っている掲示板のスレッドは、書き込み速度を見る限りプチお祭りの状態らしい。今朝の新聞を見てこのスレに飛んで来た者が、もうたくさん居るのだろう。日本人の標準的な起床時刻を踏まえると、このスレのお祭りは当分ヒートアップし続けるはず。流石に、そういう雰囲気のスレッドを隅から隅まで熟読するのは無理だ。時間がいくらあっても足りない。ざっと流し読みをして、この事件に絡んだ新しいニュースが出てないか、紅子達が考え付かなかった考察が無いかを探る。日本のインターネット界隈の中で、ここのスレは事件絡みの知見が一番集積している場所なのだから。スレを開いて画面をスクロール。大まかなまとめ、広告への感想、考察、煽り、コピペ、諸々が混在する画面を下に進め、……!?。「……えっ!?」そのスレの中、とある書き込みが目に入る。内容を把握した途端、紅子の眠気は一気にすっ飛んだ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【誘拐事案】拘置所被告殺人・考察&まとめスレ132【交渉中】82:◆Moto/.Prof [sage]:20XX/08/24(土) 05:32:43.30 ID:KKKKKKKK ずっと悩んでいたけれど、新聞の政府広報を読んだ後、ここに書かずに後悔するよりは、と思ったので書き込ませて頂きます。 サキュバスのお嬢さん、私の話を読んで頂けないでしょうか。 私は、この世界とは違う世界で、生きた記憶を持つ者です。果たして、あなたと同じ世界の生まれなのでしょうか。 以下、私の身の上話です。 あちらの世界は、(少なくとも私が育った場所は)帝政で、最初の帝が統治を始めてからの通算年数で年を数えていました。 その暦で、帝政96年目の12番目の月、第2週の4日目に、私は生まれました。 出生地は、帝国の南端(なおかつ大陸の南端)の大きな港町です。建前としては帝の直轄領でしたが、実際は代官が統治する町でした。 父は代官の下で働く末端の役人でしたが、私が幼い頃に、父は役人をクビになりました。 父が失業した経緯は詳しくは知らないのですが、とにかく家の生活は苦しくなり、口減らしを兼ねて、私は神殿に預けられました。 母方の叔母が神殿勤務だったので、それに頼った形です。 魔術は、得意な術が『破壊』と『呪詛』のみで、それ以外の系統の魔術が不得意でしたが、神殿を追い出されない程度には才覚を認められました。 そうして、生まれ育った町の神殿で、私は巫女として成長することができました。85:◆Moto/.Prof [sage]:20XX/08/24(土) 05:33:06.52 ID:KKKKKKKK 私が(あちらの年齢の数え方で)21歳になる前、冬の終わりに、戦乱が発生しました。 発端になったのは、自分の町から見て北東方向にある大きな町です。 草、木、花、キノコ、等々、森の中に生きる生命が肥大化して、意思を持って互いに争い始め、また町も襲い始めたそうです。 何者かが、森の中の生き物に、凶悪な魔物の意思を大規模に埋め込んだのが戦の原因だと言われていましたが、はっきりとは分かりません。 (上記の原因が真であった場合、そういう術式は、大規模な攻撃目的の術式であるという点で、宗教的にも法律的にも禁忌です) 攻められた側の兵は懸命に闘ったそうですが、力及ばずいくつもの町が壊滅したそうです。 戦乱は収まらず、116年目の、あちらの世界で21歳の誕生日の次の日、軍への派遣が決まりました。 魔術が使える巫女が戦力としてアテにされて軍の中に入るのは、相当なレアケースだと思います。 私が異世界に飛ばされる事故に遭ったのは、117年目の2番目の月の第1週です。日差しがつらい夏の日でした。 軍の上層部は、相手を止めるには、最終手段を使うほかない、という結論に至ったそうです。 関係無い者を巻き込むのを承知で、時空を弄る魔術で、一気に相手の軍団を消滅させることを決めたそうです。 ですが、肝心の魔術が起動に失敗、暴発。それに巻き込まれた私は、元の世界から弾き出されました。90:◆Moto/.Prof [sage]:20XX/08/24(土) 05:35:18.56 ID:KKKKKKKK そして弾き飛ばされた先が、この世界になります。 山の中の登山道を逸れた場所で、目の前には、遭難死寸前で倒れている女子学生が居ました。 貴女が以前書いたように、この世界は、本来、異世界の者にとって非常に厳しい環境です。 世界にいじめられ壊れていく身体を必死に保持しつつ、無我夢中で学生の手を取ったのを覚えています。 気が付いた時、「私」は女子学生の身体で倒れていて、救助隊に囲まれていました。 元々身に着けていた巫女の装束も、異種族の身体も、発動した魔術の贄になって消えていったのだと思います。 異世界を渡った痕跡は跡形も無くなり、ただ学生の身体に記憶がふたつ宿ることになりました。 以上の経緯が嘘か真か、誰にも判断は付きません。私自身にも、判断は出来ません。 ただ確実であることは、私はもはや何も魔力らしき力を持っていないこと、ひとつの職場を定年退職するまで勤め上げたこと。 そして、ここでない世界の記憶を持っていることです。96:◆Moto/.Prof [sage]:20XX/08/24(土) 05:37:23.35 ID:KKKKKKKK その遭難からもう40年以上、「自分の記憶」について考えてきました。 遭難死しかけた脳が生み出した「もう一人の私」の妄想なのか、それとも本当の「異世界を生きた私」の記憶であるのか。 どちらであれ、この世界に骨を埋めるほか生きる道は無い、という結論は変わりませんけど。 本当は、あなたの力になりたい、と書きたいところですが、そんな風に助力できそうな事柄が残念ながら思い付きません。 図々しいお願いですが、あなたの故郷が「私」の故郷と同じであるのなら、「私」がここに来た後の世界の趨勢を教えて頂けないでしょうか。 あの戦乱がどうなったのか、「私」が生きた帝国がどうなったのかがとても気になっています。 つらいことも楽しいこともたくさんありましたが、「私」にとってあの場所は、竜が統べる愛おしい古里です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午前6時3分 召喚者の屋敷 地下大広間「何でまた、こんなタイミングでこんなカミングアウトが……」A4の紙2枚に印刷された内容を理解した『自分』の感想は、率直なところ、そんな感じ。思わず声に出してしまい、隣の部屋で寝ている元太くんに聞かれかれないと気付いて、慌てて『自身』の口を抑える。あるじが『自分』を叩き起こしてまで、書き込みを見せようとするはずだ。あの人が『サキュバス』を召喚した時、召喚魔術の効能で、互いの世界の知識が自動的に交換されている。『サキュバス』の故郷の言語とか一般常識とかを把握している状況で、この書き込みを見たのだから、かなり驚いたに違いない。現地の暦も、地理も、年齢の数え方も、約40年前、……正確には43年前の大乱の情報も、全て『サキュバス』の知識に合致。書き込んだ相手は、本当に『サキュバス』と同じ世界の出身だ。それも、同じ大陸出身で、出身国まで一緒。元々遭難死寸前だったとはいえ、融合先でそれ以外の生命の危機に陥っていないのだったら、――正直、ちょっと羨ましい。こんな経歴の女性がこの国に居て、こんな風に書き込んで来るなんて、あるじも『自分』も、全く想定していなかった。【これ読んで考えをまとめておいて 私は、あなた達の朝ご飯と筆談用のノートパソコンを持って来るから】紙に貼り付いた、あるじ手書きの付箋メモに視線が向く。いかにも女っぽい字体だが、本人が性別を明言していないのだから追及しないのが礼儀だ。そもそもReune(あるじ)という単語自体が中性名詞なのだし。あるじが書いた通り、今この時は、書き込みから得られる情報の推理に集中するべき。相手の性別は女性だ。元の世界では巫女で、この世界でも女子学生に融合したのだから、女という性別は揺るがない。43年前にあっちの数え方で21歳だから、今現在の年齢は、同じ数え方で64歳。こちらの世界でも、43年前の融合先が女子学生で、学生時代の後に職場を勤め上げて定年退職したのだったら、同じくらいの年齢だろうか。ここの社会では60歳定年が主流だ。ネックになるのは、魔力の知識を、この書き込み主がどれだけ持っているかだ。魔力を持っていないと書いているが、軍に派遣されていた巫女だから魔術に関する知識はあるだろう。今こちらが使っている魔術は、あるじが習得していたものと『サキュバス』が習得していたもののチャンポンだ。40年物の知識程度で完全に打ち破られることは無い、と思う。とはいえ、警察を含めた政府機関が魔術について全く無知のままなのと、若干でも知識があるのとでは対応策が変わる。警察ならば、掲示板の書き込みログから誰が書き込んだのかを辿れるはず。ここの書き込み主が警察に友好的な態度を取ったのなら、それで体系づけられた魔術知識が政府機関全体に渡ってしまったら、少々厄介だ。『自分』の願いを叶えるために、これからの計画を出来る限り歪ませずに遂行するために、どんな風に動けばいいだろうか……。※9月5日 初出 9月11日 シーン3つ分追投稿しました。 9月15日 最後のシーンを削除し、丸ごと次の話の3つ目のシーンに移動させました。