8月20日は、小嶋 元太の誘拐と『彼女』の要求提示という点で、事件のターニングポイントとなる日だ。関係者全員が認める事実だろう。そして、同月24日は、要求に対する警察の答えが分かるという点で別にターニングポイントとなる日。ではその間、21日~23日の3日間は何も無い日であったのかというと、実はそうでもない。後に表に出てくるような事件かどうかはともかく、誰も何も動かない日など、1日も無かった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8月21日 午前9時14分 毛利探偵事務所 3FRRR、「もしもし、工藤か? 何や、話って?」俺の、……コナンのスマホから掛けた電話に、服部はすぐさま出た。昨晩、「他人に話せない内容で、ちょっと長く話したいことがある。朝9時以降に電話しても良いか?」と服部にメールして、了解を取り付けていた。それを踏まえた上での電話なんだから、すぐ出て当然な訳だ。ちなみに、おっちゃんは病院へ行き、妃弁護士は下の事務所で電話番。俺の周りには誰も居ない。「服部、話をする前に確認させてくれ。それで話が変わるから。『サキュバス』の事件のこと、お前は最新情報でどこまで把握してる?」俺が今回の電話でコイツに言いたいのは、もう電話をするのは止めてくれ、ということ。『蘭』の人格が誘拐事件を起こした加害者となり、それ以前に俺は『あいつ』から加護を与えられている。俺は、純粋に『サキュバス』を追及できるような立場では無くなってしまった。純粋に探偵であるべき服部とは、そもそもやり取りをするべきではない。……そんな説明をするにしても、きのう発生した元太の誘拐事件をコイツが知っているかどうかで、話の仕方が変わる。大阪府警の本部長である親父さんは、誘拐事件のことを知っているはずだ。『彼女』が手紙に書いていた新聞広告の要求で、大阪府警の名義が絡んでいた。本部長の息子なだけで、日頃府警の人からちょくちょく事件情報を聴き出していたコイツが、この誘拐事件のことまで知らされているのかは、不明。俺の勘だと、知らない確率の方が高そうな気はする。「最新の情報って言っても、普通の一般人が知ってることしか知らんで、俺。 15日に、召喚者がサキュバスの代理でインターネットに書き込んで、それで覚せい剤吸ってた婦警やらが逮捕されて、……そこまでや。最新って程でもあらへんな。後はネットの噂を流し読みしとるくらいや。 お前んトコの『姉ちゃん』が2度目に目を覚ました辺りから、俺、警察からの情報は貰えてへんのやで? それからはお前が電話で色々教えてくれてたけど、最近はそんな風に電話してくる事、無(の)うなってたからな。この電話も割と久しぶりや」今までの流れを振り返る。『彼女』が博士の家の庭で俺に会い、俺に加護を与えた。それを服部に打ち明けられない内に、俺は、召喚者の手紙出現事件の詳細を知ってしまった。服部との電話が無くなったのは、その頃からだ。「ああ、色々あってな。お前にも話せない情報が増えすぎたんだ。電話だと話しちゃいけない事まで話してしまいそうで、な」『サキュバス』は、博士のポストに投函した俺への手紙で、他者を分析する・見抜く魔術が得意だと書いていた。何をどこまで見通せるのだろうか。服部に情報を話したとして、それを見抜かれた時、良い印象を持たれるのだろうか。判断が付かず迷うくらいなら、いっそ何も話さない方が良い。これまで仲が良かったからこそ、うっかり口を滑らすのが恐ろしい。それで、通話を止めたんだった。「……そか。 実はな、ウチの親父がきのうの夜に急に俺を呼んで、『東京の毛利さんトコには絶対にお前から電話すんな。コナン君も駄目や』って強めに念押ししてきたんや。 まぁ、実のところ、元々『サキュバス』の事件が起きた段階で、そういう風には言われておったんやけど、な。 訊いちゃいけへんのやろうけど、あの親父の口振りで、何かあったらしい事くらいは俺でも分かる。何て言ったらいいかは分からへんけど、……大変なんやな、そっちは」なるほど。至極当たり前だが、親父さんはやはり誘拐事件の事を知っているのだろう。息子が毛利家と関わり合うのはマズい、と考え、念押しする判断は、府警の本部長として極めて妥当。これまではギリギリで『蘭』だけは被害者だと言えたのだけど、誘拐事件が発生した今では『蘭』も加害者。おっちゃんも俺も、その家族なんだから。「親父さんの対応、それで正解だと思うぞ。……俺も、『当分お前とは電話できねぇ』って言うつもりで、この電話を掛けたんだから」「じゃあ、もし大人達に電話の内容突っ込まれた時は、お前の方からそういう断りを言ってきた、事にしとくか? 突っ込まれん限りは黙っておくって事で」するりと自然な形で本題が言えた。服部も詳しい詮索はせずにそれに乗ってくれるのだから有り難い。「ああ、そうしてくれ。俺が、この電話自体を秘密にするようにゴネてきた事にしよう。 ……何があったのか、事情が分かっても、分からなくても、事件が解決するまでは俺に電話するのは止めておいてくれ」『しあさっての24日に、新聞で何があったのか分かると思う』。そういう風に示唆を言いそうになって、堪えて、言葉を変えた。やはり服部とは電話を控えるのが正解だ。「ああ。分かった、そうしとく」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8月22日 午前10時2分 警視庁 警視総監室刑事部長室が、普通に刑事部長室として使えなくなったのは、8月7日の夕方。召喚者からと思われる手紙等が、部屋の中に文字通り湧いてきたからだ。以降、別の会議室が臨時の刑事部長室になり、元の刑事部長室は今も使用していない。鑑識の者達に捜査に専念させるため、というのはもちろんだが、そんな魔術が使われた部屋を刑事部長室として使うべきでない、という理由もあった。この庁舎内でそんな事件が起きたのは、現段階では刑事部長室のみ。他の部屋では事件が発生していないのだから、他部の部長室や、副総監室、総監室の変更はなく、本来の用途で使用されている。そんなので良いのかと思わなくもないが、気にしたところでどうしようもない、というのが現実だろう。相手の魔術を察知する手法も、防止する手法も、警察には無い。刑事部長室以外の部屋に魔術が使われない事を、祈るしかないのだ。「失礼します」……脳裏に浮かび上がる懸念をおくびにも出さず、小田切は挨拶を一言告げて、部屋の中へ歩を進めた。中で小田切を待っていたのは、予想通り1人だけだった。現在のこの部屋の主、白馬警視総監。奥の総監席に座している彼は、無言で小田切を招き入れた。その表情の険しさから、深刻な話があるのだろう、と予想せざるを得ない。そもそも小田切がこの部屋に来たのは、内線電話で「サキュバス事件の事で、至急話したいことがある」と呼び出されたから。話される事が秘密であるならば無関係の客人が居るはずがない。目の前にまで小田切が来ると、警視総監は席から立ち上がった。刑事部長と警視総監、2人しか居ない部屋で互いに向き合う。「小田切くん。すまんな、急に呼び出して。 先ほど警察庁に呼ばれて、口頭で説明を受けた事なのだがね。……今朝、内調で、サキュバス事件絡みの大事件が起きたらしい」内調。正式名称は内閣情報捜査室で、文字通り内閣に属する。内調生え抜きの職員も居るが、関係各省庁からの出向者の方が多い。もちろん警察庁からも出向派遣されている職員が数十名単位で居る。情報機関として国のトップに有る組織、だと言っていい。「内調で、ですか?」そこで大事件とは、一体何事だろうか? 半ば信じたくなく思わず確認してしまう。総監は残念ながら頷きを見せた。「先日、キミの部屋に出現した便箋があっただろう? アレの写真は、ワシの判断で警察庁の方にも上げたわけだが。 その写真が、……きのう、警察庁から内調に渡されていたそうだ」内調は情報収集が本業だ。範囲は国内外問わず、政治、経済、軍事、とにかく国家運営に関わりそうな情報を集めて分析し、内閣へ報告を上げている。サキュバス事件は世間から大注目を浴びていて、おまけに犯人達は、無差別テロを起こしうるような厄介な技術を持っている相手。内調が事件情報を集めたがると言うのも、まぁ分かる。「そうでしたか……」あの写真を内調に渡した、警察庁のその判断に思う所は無い訳では無いが、今は何も言うまい。総監の口振りからして、別に情報が内調に漏れたのではなく、警察庁からの正式な情報提供なのだろう。今の自身よりも、指揮系統的に上の組織と立場の判断だ。さて。ただでさえ深刻な顔をしていた総監の眉間に、余計皺が寄る。ここからが大事件の本題か。大事件と言うからには、その写真が漏洩したとか? 今朝漏れたのなら、それで小田切に知らせが来ても不思議ではないが……。「今日の朝6時、内調が収集していたサキュバス事件関係の書類が、同時にほぼ全て砂になってしまったそうだ。 例の写真だけは砂にならなかったが、元の文面はモザイクが掛かったように読めなくなったらしい。その上に、“許容外への漏洩検知 制裁発動”という文字が大きく浮かび上がったらしい。 これまで、その写真に触れていた内調の職員は4名。妙な話だが全員が今も眠っていて、周りが起こそうとしても全く起き上がらない状態だそうだ。もちろん、全員、病院に収容されたそうだよ」――何ですかそれは。声に出して問い詰めそうになるのを、寸前で堪える。ここでこの人に詰め寄っても不毛なだけ。誰がこんな事件を引き起こしたのか、これ以上ないほどに分かりやすく、また、検挙や立証の困難さも、同じくらいに理解しやすい。無論、相手が持つ力の得体の知れなさも。何故そんな事件が起きたのか、動機の想像も容易だ。“許容外への漏洩検知”。この言葉から連想するのは、情報漏洩への制裁が内調に及んだという構図。思い浮かんだ内容をそのまま口に出す。激情を抑え込み思考を整理するために、必要だ。「あの手紙が出現したという情報は、当初は、私と同じ警視長以上の者と、鑑識に限定するよう要求されていました。 後で『被害者』の両親と、高木と佐藤が追加されましたが、今のところはそれだけです。 内調は、その範囲の外だと捉えられたんでしょうか」総監は、苦々しく首を縦に振った。「警察庁の方も、そう考えておったよ。 こちらから警察庁を報告したり、捜査本部の主だった面子を鑑識と兼務させることは許された、あるいは、見落とされた。内調へ情報を持って行くのは駄目だった。そういう事なのだろう、と。 こちらへの指示としては、当然だが、情報漏洩防止を徹底するように厳命された。 うちの職員は当然、毛利家や小嶋家にも、内調の件のあらましを話して良い。必要ならばワシの直筆署名付きでお願いの文書を渡しても良いから、とにかく情報が漏れないよう手を尽くすように、と」「本当ですか!? そんな指示が……」今度こそ詰め寄ってしまう。普通では考えられない、極めて異例の指示だ。そんな文書を渡すことの意味、指示を出した側も分かっているはず。“内調の内部情報を検知されました。職員が意識不明になりました。そちらの御家庭でも、情報の漏洩は絶対に無いようにお願いします”……相手に対して無力です、と、警視庁が自ら喧伝しているようなものだ。実際、無力でしかないのだが。「ああ。 24日に新聞に広告を出すよう要求されていた件も、それこそ、召喚者が自首してくるような奇跡が無い限りは、要求通りに広告を出す方向で検討するように指示があった」24日は明後日。朝刊に広告を掲載するかどうかの本決定は明日で間に合う。だが、警察庁がそう言うのなら、今日の段階でもう決まったも当然だろう。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8月23日 午後2時 小田切邸 寝室転移魔術の赤い魔力光を振りまきながら、いつものローブに仮面姿の紅子は、純和風のその部屋に出現、……出来た。事前に部屋に準備を仕込んでいた訳では無く、それどころか全く訪れた事が無い場所への転移。そういう場合は、転移魔術の成功率が若干下がる。例え、分析の魔術で見抜いたことがある場所であっても、だ。無事に転移出来たことに内心安堵しつつ、溜息の声は意図的に抑えた。この家の者は、家政婦含めて全員不在だと分かっているが、不法侵入先で不要な音を立てるのはマヌケな所業だ。その場にただ立って、仮面を着けた顔で、周囲をぐるりと見回した。ものの見事に女性の雰囲気が無い和室だ。物が少なめなうえに整理整頓が行き届いているから、どこかしら殺風景な気がしないでもない。連れ合いを亡くした50代後半の男の寝室なんて、……警視庁の刑事部長を務める者の個室なんて、こんなものなのだろうか。そんな事を思いつつ、紅子の視線は、ある方向へ向かう。この部屋の押入れだ。今の紅子の足は、パンストの上に靴下を重ね履きしていて、履物は初使用の新品スリッパだ。それに長ズボンだから、畳に足痕は残らないだろう。多分。そんな足で音を立てずに進み、ゆっくりとふすまを開く。押入れ上段の左半分には、普段使っているらしい布団や毛布等一式がある。丁寧に畳まれたそれらのてっぺんには、枕が鎮座していた。上段右半分と下の段の全部には、半透明のケースが多数。パッと見た感じ、冬物衣類や小物を仕舞っているようだ。用意していた魔術符を、紅子はローブの内ポケットから丁寧に取り出す。紙ではなく、やや大きめの絹布製の符。そもそも大きさと素材だけではなく、創った時期も、考案者も、効果も、きわめて特徴的だ。符を創ったのは、きのうの22日。符に魔力を込めたのは紅子だが、符に書いている魔術陣の構成を考えたのは『サキュバス』。この符を枕の中に入れて寝ると、夢の中で淫らな夢が見える。そんな効果を持った“淫夢の符”。夢を見た者の精力を吸い取る、……と言いたいところだが、方向性が少し違う。そもそも淫らな夢の中の、そういう行為で男性が発するモノは、一部分であれ、その“男性自身を複製したモノ”だ。この符の魔術陣は、精を魔力に変換するのではなく、精の中に有る“記憶”を得るように構成されている。一連の“サキュバス事件”にまつわる記憶を、情報を、淫夢の中で自然な形で連想させる。発した精の中に記憶が混ざる。その記憶を、枕の中の符が吸い取る。明日か明後日、転移魔術でこの部屋に出現した紅子が符を回収。符の中の記憶を、自分の屋敷の地下室で解析する、……そんな計画だ。枕の中に仕込んだ薄い絹布1枚に気付くというのは、普通のヒトにとっては相当に難しい。符の存在が発覚するかどうかは気にしなくても良いだろう。むしろ、懸念材料は、魔術が狙い通りに発動してくれるかどうか、だ。『サキュバス』が種族的に得意な分野とはいえ、魔術の構成自体が複雑すぎる。淫らな夢を見せるだけ見せておいて、肝心の記憶が上手く入手できない恐れがそこそこ高い。まぁ、そういう失敗に終わったとしても、単なる精神攻撃としては成立するから全くの無意味ではないのだが……。紅子達は、“サキュバス事件”に関する記憶が欲しいのだ。その事件に関する者との絡みでなければ、狙った通りの記憶は取れない。では、刑事部長に、誰との淫夢を見させるようにするのか、候補は3人居る。召喚者(紅子)、6日に砂になった元の身体の『サキュバス』、そして『蘭』だ。紅子は駄目だ。召喚者の姿であっても、警察相手に姿を晒したことは一度も無い。『サキュバス』の身体も、融合事件が起きた6日前後の記憶しか取れない恐れがあるから駄目。消去法で、残された候補はただ『ひとり』となる。夢の中、今の身体の『蘭』が、『サキュバス』の声で迫れば良い。高い精度で、狙い通りの行為をしてくれるだろう。――結果がどうあれ、この手法は、墓場の中まで持っていかないといけない類の話。紅子も『サキュバス』も、えぐい方法を考えておきながら、その認識は共通していた。失敗したとしても成功したとしても、世間一般にこの手法がバレた時、当事者の名誉をいたく傷つける。女子高生の『被疑者』相手に、夢の中とはいえ、やっちゃいけない行為を強制的にさせられていた警視庁の刑事部長。……うん、スキャンダルにしかならない。紅子は、符を隠し入れた枕を、願いを込めて軽く叩く。こうやって仕込むからには、この符の魔術は最後まで狙い通りに成功してほしい。淫らな夢を見せる部分も、記憶を手に入れる部分も。刑事部長が被疑者を見て連想したのだから、きっと表に出ない捜査情報にまみれた記憶であるはず。必要な魔力の少ないこの手法で捜査情報が上手く入手出来るなら、それに越したことは無い。捜査に関与してきそうな機関をひたすら監視し、分析し続け、情報のやり取りを見抜き、……そんな今までの方法は有効ではあったが、おおざっぱな流れしか見えない方法だったし、何より魔力をひどく使う手法であったのだ。今のところ、“サキュバス事件”に関わっているのは、警察庁、警視庁、大阪府警で、捜査の中心になっているのは警視庁の刑事部。ちなみに警察組織以外の機関の関与は、紅子があからさまに潰した。これで刑事部長の記憶が手に入るとするなら、事件に関する国内の捜査情報は、全般的に紅子たちの掌中に入る。それから紅子は、部屋の所々に別の符を仕込み、その作業を終えてから、部屋から転移魔術で抜け出した。仕込んだのは、かつてデパートのトイレに仕込んだのと同じ、赤魔術の転移符。春先に創った符の余りの使い回しだから、構成から何から全く同じ符だ。この符を数枚ほど、見えない場所に貼っておけば、転移の拠点として十分な効果が得られる。明日か明後日、またここに来て、枕の中の淫夢の符を回収しなければいけない。だから、この部屋を転移先として整備しておくのは当然の事だった。※8月23日 初出 8月30日 追投稿+誤植修正 最後のシーンは、先日投稿したR18短編の種明かしとなります。 (年齢制限的に読めない方に説明しますと、この結構無茶苦茶な経緯を踏まえて、刑事部長が見させられた夢のことを短編にしています) こちらの方でも明記しておきますが、小田切刑事部長の妻が物故者であるという情報は、公式にはありません。 これまでの劇場版でそう名乗る女性は出てきたことはなく、『瞳の中の暗殺者』でコナンが小田切邸を訪問した際も、妻らしい人は居なかった、という点からの解釈です。(家政婦さんらしい人は登場していました)