午後7時20分 召喚者の屋敷 地下 個室部屋の中はごく静かだった。誰も、何も、口を開いてはいなかった。いつもの仮面にローブ姿のあるじは、石の壁にもたれかかって腕を組んでいる。『自分』は、ワンピースの上にローブだけ羽織った状態で、いつも使っているベッドの上に腰掛けている。2人の視線が共通して向いている先は、もう1つベッドの上。計画通りに誘拐した男の子が眠っている、その顔だ。――元太くんの覚醒は、近い。この子に昏睡魔術を掛けて誘拐した『自分』達が、元太くんの観察で判断した共通の見解だ。覚醒した後でどう対応するのかは、無論協議済。それこそ、今更喋る必要は無いくらいに。目が覚めた後で、口を開くのは『自分』だけ。あるじは徹底的に声を出さないことになっている。覚醒寸前の耳に届くかもしれないから、その意味でも今の段階での会話は不要だ。「ん、ぅ、……」覚醒の時が遂に来た。目覚めを示すうめき声が上がる。あるじは無言で元太くんの視界から外れるように遠ざかり、『自分』は対照的に傍で膝を折る。毛布の下の左手を取った。『蘭』の両手で、小学1年生の手を出来うる限り優しく握る。元太くんの両目が開く。ぼんやりとした思考のまま、顔は、自らの手と、その後ろの『女子高生』の方を向いて……、「蘭姉ちゃん? ……ぇ?」予想通り混乱の声を漏らす彼に、『自分』は微笑んだ。喋る方が内心びっくりするぐらい『サキュバス』らしい声色が、『自分』の喉から出る。「目が覚めたんだね、元太くん。今はもう夕方の7時だよ。 取り敢えず、夕ご飯食べようか。色々あったけれど、何があったのか話すのは、食べた後の方が良いと思うの」『自分』と元太くんのベッドは隣だ。これから話を交わす機会はいくらでもある。都合よく虚実の入り混じった話だけれど。だからこその言葉だった。説明を急ぐ必要は無いのだ。元太くんの反応は、非常に分かりやすい。顔は、漫画ならば疑問符がいくつも頭の上に登場しそうな表情を見せる。一方でお腹の方も別の意味で素直だ。盛大な音で答えを示したのだ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後7時30分 毛利探偵事務所 2F捜査員2名がゆっくりと階段を降り、ややあってから車に乗って去って行く。事務所を退出してからの彼らの動きを耳だけで把握してから、事務所の応接用ソファーにひとり座る妃 英理は、これまでに無いくらい特大の溜息を吐いた。心にべっとりと貼り付くような疲労を感じる。我ながら精神的な摩耗が酷い。だが、……どんなにショッキングであっても、親として見つめなければいけない『娘』の現実が、目の前にある。刑事達は先ほど探偵事務所を引き上げたが、彼らが持参した写真は机の上に残された。忘れ物では無く、警察の意思として明確に置いていったのだ。外部に漏れると厄介な事態になる類の物だが、捜査本部は、自分達にこの手紙を渡しても漏洩は無いと判断したのだろう。英理としても外部に漏らす気は毛頭無い。むしろ警察は、探偵と弁護士が披露するかもしれない推理まで、ひょっとしたらという形で期待しているのかもしれない。被疑者の親なのに、そのくらい信頼されているということか……。「警察の人、帰ったんだよね?」その言葉で我に返った。コナン君が、事務所のドアを半開きにしてこちらを覗き込んでいる。この子、捜査員が出て行く様子を伺ってからここに降りて来たのか。思索に沈みすぎて全く気付かなかった。英理の口から答えが無くとも、ここの様子は見れば分かる。ドアノブを握って完全に部屋に入った彼は、少しあらたまった。「あの、……今日、ここに来てくれて、ありがとうございました。たぶん、おじさんと僕だけだったら大変な事になってた」この子は聡い。元太くんのお父さんの電話で『蘭』の誘拐事件を察知し、すぐに捜査本部へ通報したらしい。次に英理に電話を掛け、最後に、あの夫に連絡した。英理は自宅マンションに居て、電話を受けてこの事務所に駆けつけた。病院で点滴を受けていたあの人は、治療を切り上げて戻ってきた。それから捜査本部との細かいやり取りと、捜査員の訪問と、協議があって、……今に至る。コナン君の初っ端の電話の順番は妥当だと思うし、それ以前に自分に連絡する思考が湧いた点で、英理にとっては賞賛に値する。「……こちらこそ、呼んでくれてありがとう」小さな探偵くんに向き直って、英理はそう返した。この子の言う通りだ。あの状態の夫が英理不在の状態で警察に対応していたら、どんな事になっていたか判った物では無かった。あの人が普段『娘』思いであることは、別居している自分も否定しない。だけども、発熱のせいだろう、誰が見ても情緒が明らかに変だったんだから。RRRR RRRR……突然、英理の携帯とは違う着信音が事務所内に鳴り響く。音源がどこかはすぐに気付いた。あの人が普段使っているであろうデスクの上の、固定電話だ。受話器を取るべきだろうか思案しながら電話の前に回り込み、英理の思考が、……ナンバーディスプレイの表示を見た瞬間、凍り付く。ピカピカ光っている上下2列のデジタル画面。下が掛けてきた者の番号ならば、上の文字列はズバリ掛けてきた者の正体だ。現在の表示は“小嶋酒店(元太の家)”。「今日、電話を貰った時に、この番号を登録しておいたんだ。さっそく掛かって来たんだね。 元太のお父さんは、地が出ると、まさに江戸っ子ー、……って感じの話し方になるからビックリするかも」英理が凍り付いている間に駆け寄って来たらしい、傍に立つコナン君が、喋りつつこちらの顔を見上げた。流石に英理と言う大人が居る状況で、この子が受話器を取る気は無いようだ。いや、勝手に取られたら非常に困るからそれで良いんだけど。うん。……改めて実感する。実にこの子は聡い。番号を電話に登録するとか、そういう細かい措置にまで気が回ってくれて助かった。どんな相手か分からない状態で電話を取って、内心慌てふためくような事態に陥るよりも、今の状況は遥かにマシだ。……予め覚悟を決める事だけは出来る。「本当にありがとう、コナン君」短くだが本心からの礼を言って、受話器を上げた。鳴り続けていた着信音が止まる。英理は、小さく一呼吸置いてから名乗った。「もしもし、毛利探偵事務所です」「ぇ、あー……、小嶋 元太の父ですが、えっと」コナン君が教えた通りの男性は、しかし、想像したような威勢の良いべらんめぇ口調ではなかった。予想外の成人女性の声に戸惑っているのか、それとも、喋りたいことが山ほどあるのに躊躇ったのか、あるいはその両方か。相手の心中の機微は、今はまだ分からない。ただどうあっても、『加害者』の親として、告げるべき事柄は最低限告げようと思う。どんな感情を心に抱えていたとしても、押し殺して表面上冷静に振る舞う術は、職業柄身についている。感情的になりうる相手に対して振る舞う術も、当然。「小嶋さん。私は『毛利 蘭』の実の母で、妃 英理と申します。 警察の方から話は伺いました。『娘』がとんでもない事をしでかしたと……、本当に申し訳ありません」小学1年生を誘拐。生命を維持するための人質、兼、素材候補として。今後の経過としては殺害も有り得る。……振り返ってみると『あの子』の行動は酷い。「とんでもない事」以外の何なんだろうか。そう思いながら話した言葉。でも電話の相手は、全く別のことに引っ掛かって訊いてきた。「……奥さん、名字は毛利探偵とは違うんですか?」無難に答えられる問いだ。嘘を吐く必要は無いけれど、過剰に喋る必要も何一つ無い。「はい、事情があって、10年ほど夫と娘とは別居しております。 夫は、今、体調を崩して会話できる状況ではない、ということで、コナン君が私を事務所に呼んでくれたんです。 大変申し上げにくいんですが、……このところ『娘』の件で、夫が一番振り回されておりましたから」「でしょうね……、『サキュバス』の事件がどうのこうのとなれば心労が溜まるでしょうねぇ……!!」こう喋るに至って、ようやく相手の口から怒りが出た。どう会話を切り出すか迷い、結局はこういう形で触れたい事項に対する切り口を見つけた、……そんな父親の心を英理は察知する。怒りを感じつつもこちらの事情も知っているから、結果的に感情の爆発は抑えられている方、なのだろう。コナン君の言うような地は出ていないのだから。英理は黙って相手の言葉を聴く。喋りたいだけ喋ってもらった方が良い。黙って耳を傾ける道義的な義務は、こちらに有る。「こちらも今警察から手紙の写真見せられたところですけどね! 『サキュバス』事件の報道を色々聞いていましたから、ややこしい経緯の挙句、人格を半分乗っ取られたんだと分かってますけどね? 人格の半分はそちらのお嬢さんでしょう? 人の息子人質に取るなんて、……どんな性格していたんです!?」……英理は弁護士だ。少年事件の加害者だけでなく、その家族が責められる構図は知っているし、現に見たこともある。今回、元太くんのお父さんから言われた罵倒は、十分に予想できた言葉ではあったけれど、それでも。実の『娘』の件で追及される、その精神的なダメージのキツさを、英理は初めて身を持って知った。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後7時35分 召喚者の屋敷 地下 個室紅子は一旦個室から出て、キッチンで2人分のカレーライスを温めてからこの個室に持って来た。『彼女』と元太くんの夕食だ。人質である彼にとっては、得体の知れない、顔を隠していて全く口をきかない相手が出してきた食事になる。流石に小学1年生でも警戒心はあり、当初は手を付ける事か迷ったようだ。が、『彼女』が食べている様子を目前にして空腹には抗えなかったらしい。結局は2人ともそこそこの早さで平らげたのを、紅子はまた壁にもたれかかったまま一部始終見ていた。「ごちそーさまでしたっ! じゃあ蘭姉ちゃん、俺がここに居る訳を話してくれ!」何があったのか話すのは夕飯の後にする、と告げたのは『彼女』の方だ。この子もそれを承知してカレーを食べたのだから、完食すれば、……当然こうなるか。元太くんに詰め寄られた『彼女』は、チラリと紅子に目配せをする。打ち合わせ通りで問題無い。こちらは了承の頷きを見せ、意を汲んだ『彼女』は元太くんに目線の高さを合わせた。「まず、言っておくね。元太くんは、『私達』の戦いに巻き込まれたんだよ。きみは何も悪くない」2名分の人格を抱えた『彼女』は、声を使い分けることが出来る。この説明をする時は、『サキュバス』の方の声を通すと決めていた。『蘭』の声が前面に出ると、動揺が隠しきれないだろうとの判断だ。「たたかい?」物騒な単語に、元太は首を傾げる。『彼女』は微笑みながら紅子を示して言った。「ええ、話せないことはいっぱいあるけれどね。『私』と、あの人、……Reune(あるじ)は、ある目的のために一緒に戦っていたんだ」『彼女』は嘘を言うのを忌み嫌う。『蘭』は、日本人として標準的な倫理観から。『サキュバス』は、信仰面と魔術面での理由から。意図的な嘘は、魔力を一時的であれ削いでしまうのだ。ただ、嘘は駄目だが、何か重要な事を伏せて話すのは良い。肝心要の事柄を伏せ、喋れる事柄だけを選び、かつ誤解を受けやすいよう誘導するのも、許容範囲の内。打ち合わせの最中、『彼女』は、「それはもう虚実入り交った説明と同じですね」と評した。紅子も同意見だが、今の『彼女』には、そういう話し方が求められる。「レ、ウ、ネ……?」「そう。あの人をここではそう呼んでる」呼び方はそれで正解。『彼女』は“頭を撫でながら”元太を褒めた。褒められた側は、そう深く喜んではなさそうだけど。まぁ褒める以外の意図があって触っている面があるから、喜ばれなくても良い。魅了や洗脳の魔術の中には、相手に触れることが起動のトリガーになるものも存在する。以前探偵くんに使った術よりはるかに弱い、ほんの少し聞き分けを良くする魔術なんて、……造作もない。『彼女』は更に元太に顔を寄せた。心に直に刻み込むように、“思いを込めた”言葉を重ねる。「『私』とReune(あるじ)は、とってもとっても大事な目標のために頑張っていたんだよ。『私』が欲しいモノを手に入れるっていう目標のためにね。 それを邪魔しそうな人達が居て、『私達』はその人達とも戦っていた。元太くんはそれに巻き込まれて、ここに隠しとかないと困る状況になっちゃんたんだ」仮面ヤイバーか、ゴメラか、あるいは他にTVで溢れてそうな特撮か、他には女の子向けの魔女っ娘ものか。この『彼女』の説明で元太の頭に浮かぶのは、それくらいだろうか。現状とはかけ離れた状況だが、意図的にそれを思い浮かべるように『彼女』が“誘導している”。「正義のために、戦ってる? 相手は強いのか?」「どうだろうねぇ。正義だとは言いたくないなぁ。戦っている相手も、自分達が正しいと考えているはずだから。 相手の強さは、そうだね、強いけど弱い人達だと思う」元太の“手を握ったまま”、『彼女』は微笑む。「強いけど弱い人達」、……ふさわしい表現だ。治安が良いこの社会の、魔術の知識を一切持ち得ない警察組織の表現として、実にふさわしい。「元太くん、今は細かい事は話せないけれど、時が来たら秘密にしている事を話せるから。 長くても2学期一杯は、ここに居てもらう事になると思う。『私達』の戦いが終わったらお家に返すよ」長期監禁の宣言に元太は少し驚いたようだが、深刻な動揺は見せない。頭の中ではきっと、どうしようもないパワーを持った者達の戦いの最中、この地下室でずっと戦いが終わる日を待ち続けている、そんな彼自身の姿が、出来上がっている。家に帰れないのはどうしようもない事なのだと、彼は今“諦めさせられた”。「……『蘭姉ちゃん』の声が変なのも、その戦いのせいなのか? 『姉ちゃん』、姿は『蘭姉ちゃん』なのに声が別人みたいだ」当初からずっと頭にあったであろう質問。「そうだね」、と、『彼女』は微笑みを壊さずに頷いた。※7月6日 初出 7月12日 0時30分頃 シーン加筆 7月12日 21時5分頃 シーン加筆 一部修正 7月15日 誤植を修正しました 8月18日 誤植を修正しました