午後7時14分 警視庁 刑事部長室(臨時)刑事部長の言葉は、警察の判断として完全に合理的だと思う。佐藤 美和子は、心底納得しながら頷いた。病気中の男vs(今のところ)健康体の女。二者択一で選ぶなら、仕事を任せる場合の相手として選ぶべきは後者だ。もっとも、本当に仕事を任せられるのかどうかが、今は分からない。刑事部長ですら即答できない未定の事柄について、警部補の身分で言えることは一つだけ。「『31日に、指定されたトイレに立て』と言われれば、もちろん従います。言うまでもない事ですけれど」上からの命令は絶対。警察という組織に属する限りは守るべき鉄則だ。ただ、無茶な命令に対して渋ることや抗うこと、それは辞表と引き換えなら出来てしまう。大顰蹙は買うにしても、全くの合法なのだ。そんな事をする気は全く無いけれど。上層部の方々が、要求をどう捉え、美和子の心をどう懸念するのか分からない。臆病風に吹かれて仕事を拒むような女性の姿を想像するなら、……それは違う。「確かに、当たり前の事だな。だがこの状況では大切な言葉だ。その言葉は決定される方々に伝えておこう。 ところで佐藤、先日呼んだ時と同じ事を指示するが、……今ここで、手紙を読んで気付いた事や、訊きたい事があれば言ってくれ」「はい」先程机の上に置いた2枚の写真に、視線を戻す。刑事部長室に湧いたり自宅に届いたりしたのと同じ、灰色がかった色の2枚の便箋。封筒には素手で触らないよう書いてあったそうだから、これまで同様に特殊な用紙を使って書かれたのだろう。きっと4日経てば砂になる。書かれた内容を検討する。文章の字体はどこか『毛利 蘭』に近い気がするけれど、……美和子では確証は持てない。御両親に訊かないと分からないだろう。それにしても、記述の内容に、手紙を書いた『彼女』に、ツッコミたい気持ちが山ほど湧いてくる。疑問に思う事は沢山有る。でも言葉に出来なくて、全部を言葉の形にまとめ上げるのにはもっと時間が掛かる気もする。最初に形にできた質問を、とにかく美和子は訊いた。「関係者には、いつ、どれだけ、情報を明かすんでしょうか? 書かれた通り、毛利家や小嶋家の皆さんには話すんですよね? 高木君には、どうするか決まっているんですか?」「高木にいつ話すかは決まっていない。この手紙の情報を明かすどうかも未定だ。 毛利の探偵事務所と、小嶋 元太くんの家には、捜査員が出向いている。……どちらの家にも、手紙の写真を、追伸その2までは見せることになった。ちょうど今は読んでいる頃だろう。 なお、追伸その3の内容は当然伏せることになる。が、『御家族に伏せている部分がある』という事自体は捜査員の口から明かすことになっている」開示範囲は、ごく自然な帰結だ。毛利家・小嶋家の両家族にとっては、捜査員に見せられた便箋の最後の部分に『ここまで書いた事柄は家族に明かしても良い』という記述が来てしまう。そこから、『これから書く事柄は家族には明かせない』のだと、とごく自然に類推するだろう。探偵はもちろん、普通に考える頭を持つ者なら分かる程度のこと。隠している部分の有り無しを問われた時、警察が無回答を貫いたり否定したりするのは変。「仕方が無い事ですけれど、追伸その3について、毛利探偵のお話を伺うことは出来ませんね」警察が意図的に情報を一切開示しないのだから、いかに名探偵といえども推理は不可能ということだ。思い浮かんだことそのままの呟きが、自身の唇から勝手に出る。「そうだな。その部分について推理するのは我々だけだ。佐藤はどう思う?」机の上の写真を、ふたたび手に取った。2枚目の便箋の、追伸その3の部分だけを読み通す。まとめると『8月31日の午後に、元太くんの勉強道具一式を持たせた高木か佐藤を、警察病院のトイレに立たせろ』というのが、『彼女』からの要求の要旨だ。最後の文は、『トイレの中に立つ方は、他人に取られたら困る物は身に着けないことを強くお勧めします』とのあからさまな警告。「……露骨に、トイレの中に立った私達に何かをしてきそうな内容だ、と思いました。 当日、病室の周りには捜査員が配置されますよね。それを踏まえても、元太くんの勉強道具を奪い取れるのだと考えていて。 『他人に取られたら困る物は身に着けないように』、っていう忠告は、つまり身に着けている物を簡単に奪い取れる状況に置くという示唆で……、」頭の中で考えをまとめた一瞬の後、自分は更に言葉を足した。時間を掛けて考えればもっと沢山の事を思い付くかもしれないけれど、文章を読んだ段階でパッと思い浮かんだことを言おうと、そう決めて。「少なくとも『彼女』は、魔術で『自分自身』を転移させることが出来るはずですから。 文を読んで最初に思い浮かんだ光景ですけれど、……私か高木君のどちらかがトイレに立った後、『彼女』や召喚者が出現して、中に立っている者を無力化して、その上で丸ごと転移する、そんな図(え)を想像しました」今月14日、『彼女』は、病院のトイレから転移の魔術で脱走したらしい。翌15日、他人の携帯電話からネットに書き込んだ召喚者は、デパートのトイレから転移で逃げた疑いが濃厚。そして今日、元太は公園から転移で連れ去られた線があるという。『彼女』も召喚者も、他人と一緒に転移する魔術が使える疑いがある。……そう見立てたておいた方が、捜査する側としては無難だ。「順当な想像だな。これまでこの手紙を見た者達も、まさしくそういう事を想像していた。 もしも佐藤や高木を要求通りに立たせた場合、奪われたら悪用される物は持たせられない、という話が出ていたな。 拳銃や手錠はもちろん、警察手帳も、バッジも持たせないかもしれない。今後の検討次第だが、そういう指示が出るかもしれないことは理解しておいてくれ」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後7時10分 毛利探偵事務所 2Fドンッ!!不意打ちのように音が生まれた。目の前の2枚の写真に向けていた思考が、一気に現実に引き戻される。おっちゃんが、握り締めた自身の拳をテーブルの上に叩き付けたのだ。おっちゃんの顔は真っ赤だ。この便箋を読んで激情に駆られるのは分かる。けれど、体調が万全でない男性のこんな顔色が、身体に良いはずがない。「……おじさん、大丈夫? まだ熱があるんでしょ? 体調、また酷くならない?」「そうよ貴方、……休んでもいいのよ?」労わるような俺と妃弁護士の言葉に対して、おっちゃんから返ってきたのは強い拒絶だ。「娘の一大事なんだぞ、休んでられっか!」おっちゃん本人の話によると、病院では腸炎だと診断されて、点滴を受けて、点滴後の体温は37度8分。病み上がりどころか、まだ病の最中に居る状態だ。家に帰って早く寝るように、と、医師は当たり前の事を言ったらしい。おっちゃんも、それは分かっているんだろうけれど、……現実問題『娘』が新たな事件を起こしたら、そうはいかないという事か。「僕、おじさんを心配しているんだからね……」俺はそれだけ言って、ひとまず引き下がることにした。もし俺が同じ状況になっても、おっちゃんと同じ態度を取るだろうと思う。俺にしたって、捜査員が証拠写真を見せるのを渋っていたのに、ゴネにゴネて無理矢理おっちゃんの横に座っている立場なのだ。改めて目の前の捜査員2人組、――俺とは面識は無い、共に男性の、ベテランと若手の刑事のペアだ、――の方を向き、写真へと視線を落とした。『本人』が書いたと思われる便箋、を写した、2枚の写真。見た感じではB5サイズくらいか。どちらが1枚目でどちらが2枚目なのかは内容で一目瞭然。2枚目の写真末尾には、ハサミか何かで写真そのものを切った跡がある。「警察判断で見せない部分がある」らしい。この捜査員達から事前に明言されていた。「それにしても、……『蘭』では有り得ない事件です。何で、『あの子』が……」おっちゃんに付いては俺と同じ判断をしたらしい妃弁護士が、呟いた。言葉の最後はフェードアウトしていて、どんな言葉が続いているのか俺には、――ひょっとしたら本人にも、分からない。何で、『蘭』が、『サキュバス』に人格を巻き込まれたのか。『サキュバス』曰く、相性が良い一般人を探した結果だという。何で、融合後の『彼女』が、病院から脱走して召喚者の元へ戻ったのか。『彼女』曰く、魔術が自動発動状態になって止められなくなったからだ。何で、『彼女』は、阿笠博士の家の庭で俺に加護の魔術を与えたのか。それは、……!!――『わたし』が今夜君に会いたかったのは、ずばり『サキュバス』と『蘭』が、この『わたし』の中に居るから、なんだ。 『女子高校生』の倫理観と、罪悪感が、これからの『わたし』の歩みを止めてしまわないように。 君が無事で生きているんだと、そう確信していける間は、きっと『蘭』も『サキュバス』も、自分のやっている事にも耐えられるから――――これからすごくキツい事をして、再分離が成功して、『蘭』が帰ってきても、それから先君と一緒に過ごせるか、とってもとっても怪しいけれど。 せめて『蘭』が帰ってくるその時は、見届けてあげて。それが、君の事情を見通した上で『蘭』の心に触れた、『サキュバス』からの願いだよ――雷のように、『彼女』があの庭で俺に告げた言葉が蘇る。あの日、俺に会おうとした時点で、少なくとも何かしら犯罪行為をすることまでは決めていたに違いない。『蘭』の心が罪悪感に負けないために、俺の生存を心の支えにするために、そのために、――俺に加護を与えたのか、『アイツ』は!「ボウヤ、何か気付いた事があったのかい?」明らかにハッとした顔を見せたんだから、見せてしまったんだから、当然捜査員は理由を訊いてくる。目の前の2名と『蘭』の両親、計4名の視線が俺に向いた。己の思考を落ち着かせるために、息を吐く。前髪を掻いた右手をそのまま額に置いて、再度深めの呼吸を1発。「おばさん、今、『何であの子が』って言ったでしょ? 僕、それで、何で『蘭姉ちゃん』がこんな事件起こせるんだろう、……って思ったんだ。 元々の『蘭姉ちゃん』って、余所の子どもを誘拐するような性格じゃないよね。 もし百万歩譲って何か悪い事したとしても、やった事の悪さをずっとずっと抱えながら、苦しみ続けて自首しちゃうような、そんな人だったよね」あの庭での出来事は、今も、これからも、打ち明けられるはずがない。会った経緯を話すことが、イコールで俺の正体を打ち明けることに繋がるから。『あいつ』が俺に望んだのは、『あいつ』が帰って来る、その時を見届けること。コナンの姿のまま帝丹小学校に通い続けることは、今のところその望みを叶える上での一番の安牌で。……だから俺は、気付いた事の核心には触れないことにする。『彼女』があの庭で見せた感情を、告げた言葉を、俺なりの理解で焼き直して披露するだけだ。「ベストな方の手法で、人格が再分離した時、『蘭姉ちゃん』は融合していた時の記憶を忘れてしまうんだよね? 今『本人』の心の中には、元々持っているはずの正義感があるけれど、他にも、「生きたい」っていう思いと、「どうせ忘れてしまうんだから」っていう考え、全部あるんだと思う。 僕が想像したのは、そういう罪の意識とかを、……それ以外の願望とか思いとかが無理やり押さえつけている、そんな構図。 後で忘れてしまう予定だから、心がギリギリ耐えられる、……つもりなのかもしれないな、って、思ったんだ」一から考えを組み立てたように見せかけた、……実際には以前言われた事を基盤にした、そんな推理を、小さめの声で言い切る。結果として、この場の大人4人に対しての説得力はあった。無言の頷きと同意の目線と、それから溜息とが、各々から発せられる。警察側もこれくらいは推理しているはずの内容だが、この場で俺の披露する推理としては、極真っ当な内容でもあった。ただ、全員が賛同しているようだが、それは声としては出ない。補足するような意見は出ず、もちろん異論の声も上がらない。自然と沈黙が生まれた。沈鬱な雰囲気が場を包み込む。『蘭』の両親と俺が、心の内からこみあげてくる様々な感情を処理するための数十秒。……何度目かの小さな溜息と共に、妃弁護士が沈黙を破った。腕を組んだ『蘭』の母親は、テーブルの上の写真から目を逸らさないまま口を開く。「考えたくもない事ですけれど、この手紙、……果たして『本人』は、何から何まで真実を書いたんでしょうか? 嘘やごまかしが有ったとしても、確認のしようが無いですよね。私達には知識が無いんですから」――ああ、そうか。何で俺は、『あいつ』の主張が真実だと思い込んでいたんだ?人格の分離や取るべき選択肢についての記述は、記憶する限り、あの庭で『本人』が言った事と矛盾は無い。けれども、それでもって「書いていることは真実だ」なんて言い切れるはずも無い。「おばさん。それって、魔術関係のことや『本人』の身体のことは、誰にも、警察の人でも分からないから、……っていう事?」妃弁護士は俺の確認に大きく頷き、そのまま、俯いていた顔を上げた。問い掛けるような視線が刑事2人組に向く。視線を受けた側も、やはり明確な頷きで答えた。ペアの片方、若手の刑事の口から予想通りの答えが示される。彼の口から出てきたのは、冷静さの中に苦悩を隠せない口調の声。「そうなりますね。もしこの手紙に真実でない事が書いてあったとしても、今のところ、警察には、それを見抜く方法は有りません。残念ですが」「嘘があったとしても、どうこうできる話でも無ぇだろーよ、……これは!」おっちゃんがかなり投げやりな言葉を被せる。身も蓋もない内容だが、確かにその通り。知識を持っているのは『本人』と召喚者しかいないのだから。……そしてまた、場に生まれる何人かの溜息。心の中の諸々を消化するだけの静寂。本当に、居た堪れない。「で、でもっ、無駄かもしれないけどさ、推理すること自体は、別に禁止されている訳じゃないんだよね? 『相手』が誤魔化すなら、どんな部分を誤魔化すんだろう、って、……考えても良いんだよね? 警察の人達も、そういう推理、期待していたんじゃないの?」空気を打破するために、目の前の捜査員達に質問する。答えの分かりきっている問い掛けだが、今、必要な言葉だと思いたい。『犯人』に加護を掛けられた、その出来事を秘密にする、どちらも探偵失格だと思える事。でも、考える事は封じられてはいない。おっちゃん達夫婦に考察するよう誘導することも。ここで考える事や意見を披露する事は、仮に無駄であったとしても、捜査への害までは生まない。きっと、――俺は、考えることで、『あいつ』の事件に挑戦し続けた気でいたいんだ。それだけの情けない男なんだ。「確かに、そういう部分は無いとは言えないな。そちらのお二人は、探偵さんと弁護士さんだからね」捜査員達は互いに顔を見合わせてから、今度は年配の方が俺に告げる。言葉が指しているのは、無論、俺の横に座る『蘭』の両親。無言で2人の意見を促す。「親の立場としては、……身体についての記述が、本当に、全部真実を書いているのか気になります。 記述内容の都合が良すぎる気がするんです。『蘭』も『サキュバス』も、書いていないだけで、何か後遺症を負うのではないかと。 変換回路も、元の身体と同様に機能するものなのか、疑問はありますね。その回路があったという元々の身体も崩壊しているんですから。 ……疑心暗鬼になったところで、どうするという物でもないですけどね」言葉通り、親として当然に浮かび上がってくる疑問だ。警察を誘導するために書いていないことがあっても変じゃない。あるいは『本人』すら見落としていることがある、怖れすらある。召喚者と『本人』が検討した結果だから大丈夫だと考えたいが、そもそも大元の発端は召喚者の召喚魔術のミス。魔術も召喚者も万能ではないのだ。「元々の身体の生態についても問い詰めたいところだな。赤子から年食った個体まで、……書かれた通りのことが必須だったとしたら、ちょっと不自然だ。 ところで、警察はどうするんだ? 内容の検証が出来ない状況でも、『相手』の要求に乗るのかどうか。これは逆に、警察にしか答えられない事だろう?」これまで出てきそうで実は一度も出なかった質問を、おっちゃんがついに訊いた。問いを想定していたのだろう、若い方の刑事がスラスラと答える。「私の立場ではまだ何とも。これから関係機関と協議することですから。新聞に公告を出すとも出さないとも、どちらにせよ決まった時点でお伝えします」まぁ、一介の刑事としては模範解答だ。今日(20日)の夕方に警察に突き付けられた手紙。広告を出すよう指定されたのは24日付の朝刊。明日以降、警視庁、大阪府警、警察庁のそれぞれの幹部が協議して対応を決めていくはず。「予想してやろうか? たぶんお前ら広告を出す方を選ぶと思うぞ。 魔術をどうこうする方法が無いんだろ? 生きてる子ども1人と遺体2~3人の天秤だろう? 『相手』を刺激した結果、子どもが死んでバッシング、……なんてことは避けるだろうなぁ、組織防衛として」すげぇ嫌味な毒舌がおっちゃんから出る。真っ当な回答をした警察に対して、普段なら考えられない態度。『自分』の娘の一大事に加えて、元からの熱で、理性が少々おかしくなったのか。「……おじさん、38度近い熱のせいで礼儀が吹っ飛んでない? ちょっと失礼だよ、その喋り方」図星だったんだろうか。「うるせぇ!」という短い一喝と本気の拳骨が降って来た。俺がとっさに拳を避けて、刑事達が止めに入る。全員一致でおっちゃんを無理矢理休ませることになり、ついでに俺も強制退席させられ、今日の警察との協議はそれで終わる。※6月22日 初出 6月27日 シーン加筆 6月29日 シーン加筆 7月4日 シーン加筆 これでこのシーンは完了です。 筆力の都合上、コナンだけでなく毛利夫婦と一緒の考察になった点、ご了承ください。 感想掲示板での考察本当にありがとうございました。時間が掛かりましたが、その分書きごたえのあるシーンでした。 また、頂いたご意見をこの場で全部反映させることも出来ませんでした。後で登場する内容もありますのでご期待ください。