午後5時28分 米花公園 公衆電話ボックス公衆電話ボックスの中で立っていた紅子は、派手なサイレンがする方に、仮面を着けた顔を向ける。やっとだ。午前8時過ぎの『彼女』の電話の後、呼び出された元太が誘拐される午後1時半まで、『彼女』と紅子が公園で待機していた時間は、約5時間半。その誘拐から更に約4時間後。誘拐現場である米花公園に入ろうとする者達が、……元太以降初めての訪問者が、パトカーに乗ってやっと来た。紅子の目は、公園入り口で停まったパトカーを注視する。パトカーから降りたのは、割と若そうな男女、計3人。1人は制服姿の婦警、もう2人はスーツの男女、刑事だろう。ひょっとしたら、『サキュバス事件』専用の捜査員となった者が、まさしくこの事件現場に投入されてきたのかもしれない。『彼女』は、他者の直近の性行為を自動的に見抜く。週刊誌の報道によると、捜査本部は、性行為の経験が無い警官を『サキュバス事件』用に募集したらしいから。この公園には、紅子謹製の人避けの符で結界を張っている。中に入れる例外は、術者に中に入るよう求められたものと、中に入っているはずの者を探す者。捜査員は後者だから問題なく入れるのだが、現に問題なく入りつつあるのだが。だが、予定通りに、『結界を壊す』ために紅子は懐から杖を出す。敢えて人避けの魔術を崩壊させる一振りは、3人の内の誰かが結界の中に踏み込んだ一歩とほぼ同じ。公園の敷地一杯に、爆発のように赤い光が弾ける。3人はその場で思い切り怯(ひる)んでいた。そりゃそうだ。事件を知る者であればこそ、『得体の知れない光』の中に突き進んで来るはずがない。どんな効果が有る光なのか、判った物ではないのに。結界の崩壊に因る魔力光だから無害、という正答を知るのは紅子だけ。その結界を壊した張本人は、再び杖を振る。婦警達が我に返るよりも前、間髪を入れずに行使される魔術は、必要な物を出現させるもの。リーン……ちょうど公園の入り口に立つ捜査員達の目前、目線の位置の高さに、赤く光る門が湧く。鐘のようでもあり、鈴のようでもあるような、甲高く光る音を伴って。即座に中から長方形の『何か』が彼等に向けて吐き出され、『門』は瞬く間に形を崩す。空間に解けていく『門』と、ゆるやかに地面に落ちていく『何か』に3人全員の視線が向いた、――予定通り。3度目の魔術のために、紅子は更に杖を振るう。最後の魔術は、紅子自身が屋敷に逃げ帰るための転移。3人の誰からも妨害を受けることは全く無く、それどころか3人の誰からも気付かれることすら無く、魔術は完全に成功した。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後5時31分 召喚者の屋敷 地下大広間『自分』が座っている場所から、3メートルほど前方。石の床のある一点から、ゆるやかに赤い光の波紋が生まれた。――転移の門だ。あるじが帰ってきた。即座に腰を上げる。とんでもなく暑い季節なのに、かなり長時間、狭い空間で『自分』のために頑張って下さった方の帰還だ。椅子に腰掛けたままで出迎えるというのは、流石に非礼だと思う。床から発せられた光は、ゆるやかに、文字列と記号の緻密な組み合わせへと分化していく。召喚の魔術陣だと読み取れるほどに全体像が明確になった、瞬間。……陣のど真ん中に、思った通りの人がクーラーボックスと一緒に出現した。ローブも、仮面も、朝から全く変わっていない姿だ。一見した感じでは、あるじの見た目が変わるような特段の摩耗は無い。魂の底からの安堵と感謝を込めて、『自分』は深々と頭を下げる。「Reune(あるじ)、お疲れ様です」「あら、……『貴女』、こちらの部屋で私を待っていたのね」『こちら』の声は、意図的な小声。対する方も、声量の意味に気付いて声は小さい。この部屋の扉の先を見つめているから、意図に気付いているのだと思う。隣の部屋に聞こえると不味い、という理由付けに。扉を隔てて向こう側、『自分』用の個室に使われていたもうひとつの部屋で、誘拐してきた子が眠っている。……正確には、眠らされている。もうそろそろ、その強制的な眠りをもたらした魔術が、切れる頃合。そっちの部屋で誘拐した子が起きるのを確認するか、こちらの部屋で帰って来る召喚者を待つか、『自分』はどちらに居るか迷って、結局は後者をメインにした。大恩人が帰って来るのに出迎えないのはどうかと思ったし、それに、公園でどうなったかを、少しでも早く訊きたかったから。「はい。Reune(あるじ)、首尾はどうでしたか? ちゃんと警察は来たんですよね?」午後1時半の段階で、『自分』は、意識のない子と共にここに転移の魔術で戻ってきていた。この方だけがあのボックスの中に残ったのは、今に至るまで、やるべきことがあったから。警察が誘拐事件を認知したことの確認と、その警察に向けての文書の提示という行為だ。元太の親から通報された場合、警官は公園に真っ先に来るはず。その警官に対して結界の解除で牽制しつつ、『こちら』が書いた手紙を突き付ける。そういう流れだった。「捜査員が公園に来て、魔力光で足止めしてから手紙を出現させて、……落ちた封筒を捜査員が確認したところまでは、見届けてきた。 私は電話ボックスの中に居たから、ずっとあの場所に居たのは気付かれてないはずよ」つまり、ひとまずは成功であるらしい。「そうですか。上手くいって良かった」手紙を入れた封筒には、『サキュバス事件捜査本部 親展 ※注意 中の紙は素手で触らないでください』と朱で大書している。公園で封筒を拾った捜査員が超弩級の馬鹿でもない限り、便箋の内容はそのまま捜査本部に伝わるだろう。『自分』とあるじが良く話し合い書き上げた、犯行の自白と要求を書いた文だ。捜査本部に伝わらなかったら非常に困る。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【捜査本部の皆さんへ 小嶋 元太くんは、召喚者と私が誘拐しました。生贄目的、兼、人質です なぜ誘拐に至ったのかを書く前に、必要なことを説明しようと思います 身体と魔力についての、これまで警察には明かすことのなかった事柄です 元々の「サキュバス」は、あなた達ホモ・サピエンスとは明確に違う生物です 酸素・水・食べ物に加えて、魔力も、生きるのに必須とする、そんな生物でした では、「サキュバス」は、生きるのに必要なその魔力を「どこ」から得ていたのか、分かりますか? 答えは、「異性との性的接触」でした 「サキュバス」は、他者から受けた精を魔力に換える、いわば変換回路を持っている生き物で、定期的に誰かと交わることで生命を維持していました つまるところ、定期的に他者と交わらないと死んでしまう種族であった、ということです もちろん、本来の種族名は「サキュバス」ではなく、別の名前でした 召喚者は、元の世界での名を毛嫌いする「わたし」に、この世界での想像上の生物にちなんで「サキュバス」の名を与えた、という経緯があります その、精→魔力の変換回路を持つ元来の身体は、この世界で壊れ続け、「毛利 蘭」との融合後には砂になって今は無い訳ですが さて、御存じの通り、今の「私」は、「毛利 蘭」と「サキュバス」が融合した状態です そして、魔術の自動発動が止まらないために、このままだと遠からず命を落としてしまう、そんな危機にあります 病院からの脱走以後、どうするのが良いのかを召喚者と協議してきました 要は、魔力の欠乏をどうするのかという話でした 元の身体と同じ、精→魔力の変換回路を今の「毛利 蘭」の身体に刻み込むこと、それは魔術的に十分に可能なことではあります 代償として子を産む能力を無くし、また定期的に誰かと交わらないと死んでしまう身体になるから、「蘭」を含む今の人格はメンタル面で相当苦しい事になるけれど、でも、生命は維持できます そしてこれは、例えば、相性の良い子供ひとり程度、丸々生贄にすることで可能になる手法でもあるのです でも、それよりも、より良い手法が有りました 今言った方法がベターな手法だとするならば、もっと良い、ベストな手法です それは、融合した「毛利 蘭」と「サキュバス」の人格の再分離です 「サキュバス」用に都合の良い、この世界でも壊れない身体を創り上げ、「サキュバス」の人格をそちらに移すということ 「毛利 蘭」は元の身体で元の人格を取り戻し、「サキュバス」は、子供は産めないけれど、定期的に誰かと交われば死ぬことのない身体を得ます 代償は、融合していた時の記憶をどちらかが完全に失ってしまうことですが、この場合は、「蘭」が忘れ、「サキュバス」が覚えておくのが筋でしょう ここで必要となる生贄は、相性の良い人間の、遺体です。おそらく3~4人分で間に合うはずです】【私達が目指すのは、もちろん、ベストな方の手法です そのために、これから相性の良い遺体を探し、見つけ出せば勝手に盗んで魔術用に使います それで魔術が完成し、再分離が成功するのだとしたら、想定する中で最上の結果だと思います 懸念は、私達が遺体を盗み回っているという情報そのものが世間に出回らないかということです 情報が出回り、遺体を盗むこと自体が困難になるなら、あるいは警察が窃盗を妨害するなら、もうひとつの方法を選ばざるを得なくなるでしょう その時に生贄になり得る子、元太くんは、私達の手で誘拐されて手元に居ますからね 遺体だけでこちらの身体に関する事態が解決したならば、元太くんは生きて家族の元にお返しします 今のところは、遺体だけでなんとかしようとしている段階です どんな形であれ2学期中には、私の身体についての結論が、形となるでしょう だから、元太くんを人質にした上での、捜査本部に向けての私達の要求は以下の通りです 「私達が、遺体を探し回って盗んでいるという情報を世間に秘匿すること」 そして「遺体を盗まれた遺族が、窃盗事件を世間に広めないように要請すること」、この場合は子どもが人質に取られている事を遺族に明かして構いません 最後に「以下の内容の告知広告を、24日の新聞朝刊の1面左下に出稿すること。告知通りの対応を警察が取ること」 告知の内容は、 「拘置所被告殺人事件に付いては、現在別の誘拐事案交渉中」「人命優先のため当分の間、新規の捜査情報の公開は中止する」旨の記述を、警察庁と警視庁と大阪府警の連名でお願いします 広告の中で、「この広告は犯人の要求である』ことを明記していただいて構いません サキュバスより 敬意をこめて 追伸 「サキュバス事件に巻き込まれた女子高生」=「毛利 蘭」ということは、これまで変わらず秘匿して頂くようお願いします 今後の流れ次第では、この誘拐事件は、本当に記憶が無い事柄になりそうですから 元々、「毛利 蘭」は、「サキュバス」の策謀に巻き込まれただけの女子高生です 記憶から消えた犯罪について、「蘭」が世間から糾弾される事態に陥るのは、「サキュバス」としても結構気まずいのですので 追伸その2 捜査本部の方へ 上記の追伸まで書いた同一内容の手紙を、毛利家と小嶋家に郵送します 郵便事情を考えると23日までに届くと思います ここまで書いた事柄は、この家族には明かしてもいいと考えている事柄だ、とお考えください 追伸その3 刑事部長様 17日に手紙を送ったカップルに頼みたい仕事があります 8月31日に、これから必要になる分の元太くんの勉強道具一式を、こちらに引き渡して頂けないでしょうか? 時間潰しになる物がある程度無いことには、元太くんをずっと監禁し続ける自信が無いのです 条件は、 「勉強道具一式をビニール袋に入れた上で、そのビニール袋をリュックサックの中に入れること」 「受け渡し日時は、8月31日の正午以降、日没までの間。場所は、蘭が14日まで入院していた病室のトイレの中」 「カップルさんのどちらかが、ひとりでリュックサックを抱えて、トイレの中でドアに背を向けて立っておくこと」 なお、トイレの中に立つ方は、他人に取られたら困る物は身に着けないことを強くお勧めします】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後7時10分 警視庁 刑事部長室(臨時)便箋を読んでいる佐藤 美和子警部補の口から、……より正確に言えば、便箋を写した原寸大の写真を読み進める彼女の口から、感情そのままの声が漏れた。「……うわぁ」――至極当たり前の反応だな。佐藤警部補の目の前に座っている小田切 敏郎は、内心で呟く。小田切だって、最初にこの手紙を読んだ時はそんな呟きしか出てこなかった。ましてや、かつての『毛利 蘭』と親しかったらしいこの警部補のショックはいかばかりなのか、察するに余りある。写真を読ませるに至った経緯は、先日と似ていた。捜査員が公園で拾った、『彼女』の手紙。それを読んだ小田切が、捜査一課から例のカップルを呼び出そうとした。佐藤だけは呼び出せたので、臨時の刑事部長室で、対面する形でソファーに座らせ、経緯を明かしつつ手紙の写真を見せて、今に至る。なお、呼び出す際に知ったが、高木 渉巡査部長は、急な体調不良で今日の午後から休んでいるという。医者から安静にするよう厳命されているらしい。だから佐藤だけをここに呼ぶ、つもりではあったが、……同じ警視庁の者とはいえ、手紙の内容でショックを起こし得る女性と、密室で1対1になるのは躊躇われた。だから、今回は捜査本部から借りた女性の警部もこの部屋に呼んでいる。単にセクハラ防止の監視役として呼んだのだと説明して、ドア付近で黙って突っ立ってもらっているが。「ありがとう、ございました。 最後のカップルに該当するのは、当たり前ですけど、……私達なんでしょうね」便箋の内容をすべて読み終えたらしい。佐藤はそう言いながら、手の内に有った写真をテーブルに戻した。彼女の顔色は若干青い。手紙の衝撃を心の中で消化しきれているのか、正直、若干の疑問符が付くところだ。だが、この部屋に呼び出されたということ、それ自体には納得している。その上で、あくまで刑事として大事な話を続けようとしている。刑事部長という立場では、気を遣うよりも、仕事の方の話をするべきだろう。自分と警部補の階級差は大きい。ショックを受けている時の気遣いの言葉は、逆に、言われた本人の心に変な勘繰りを生みかねない。「ああ。色々論点はあるが、まず、その部分について率直に言うぞ。 相手の要求に従うかどうかは、まだ、決まっていない。今の段階では、要求に従う、従わない、どちらも有り得ると心に留めておいてほしい。 どちらにせよ、その決断をするのは私よりも上の方だ」小田切だけの判断でどうこう言えるスケールの事柄では無かった。犯人側が警察に対して強く敵意を抱いた時、どんな事まで出来てしまうのか、限界が全く謎。おまけに、今後、警察庁や大阪府警との協議もある。慎重に検討され、論議され、決断されるべき事柄だ。だから要求に従うとも従わないとも断言はしない。ただ、今の段階で言える予想を、佐藤の目を見詰めながら告げた。「その大前提の上で言うぞ。 もしも、もしも仮に、要求に従うとしたら、当日、トイレの中に立つのは、佐藤の方になる確率が高いだろうとは思う。 高木は、今日から一週間は休むそうだからな。31日の時点で順調に回復したとしても、直前に長く休んでいる者よりは、身体に問題のない方を選ぶ」高木の病名は、急性のB型肝炎。実に分かりやすい。このカップルがうつし合ったウィルスが、男の方の身体に牙を剥いた。現時点では入院にまで至っていないのが幸いだが、点滴のため通院する時とトイレに行く時以外、絶対に家で寝て過ごすように医師から指示が出ているという。31日になるまで、念入りに打ち合わせを行うであろうことを踏まえると、そんな病態の男は、どうしても選択肢から外される。なお、高木がかかっているのは、先日このカップルが肝炎の検査を受けさせられた際、利用した警察病院だ。今回の病名についても、勿論ウラは取れていた。※6月8日 初出 6月14日未明 追投稿 6月14日夜 更に追投稿 6月18日 更に追投稿 当分の間、1シーンが出来上がり都度投稿していく形で進めます。