8月20日 午前8時16分 米花公園 公衆電話ボックス冷たく湿ったタオルを手の内で折り畳み、そのまま、万遍なく顔を拭う。ひんやりとした粗い布地の心地良さを感じつつ、短く、息を吐く。疲労のための溜息でなく、気合を入れるために。――吹っ切ろう、いい加減。『自分』の生命が何よりも大事であるならば、『蘭』のモラルは、今は抑え込む時だ。罪を犯さなければ死んでしまうから、罪を犯してでも生き延びることに決めた、……『サキュバス』が坂田・沼淵の両名を手に掛けた時から変わらない構図。それだけ。再度短く息を吐き、タオルをクーラーボックスに戻す。腰を上げて電話機を直視した。左手で受話器を取り、右手でお釣りを適当に掴み取って投入する。……そういえば、掛けるべき電話番号はワンピースのポケットの中だ。ポケットからメモを取り出して受話器を持つ指に挟み、書いてあった通りの番号を押す。メモに記載した番号は、園子の家の番号を調べる時よりも簡単に判明した物だった。電話を掛ける先は、商店街で普通に営業している酒屋だ。電話帳に店名と番号を載せてないはずがなく、実際に電話帳を広げてみたら、地図付きの小さな広告が載っていた。RRR……、「どうもー、小嶋酒店です」短いコール音で電話は繋がり、成人男性の声が明るく名乗る。まだ営業時間の40分ほど前だが、電話を取る人は店に居たらしい。『蘭』の人生を含めて、これまで会話をしたことがない相手だ。この酒店関係者で、大人の男に限っては『蘭』が話した事がある人はいない。成人女性ならば、知っている人も一応は居るのだが。……少年探偵団が引き起こした騒動で、『家族』が呼び出された時に、顔を見たことがある程度、だけど。ともあれ、電話に出たのが女だろうが男だろうが言う事は同じだ。用意していた言葉を『蘭』の声で出す。電話では『直近の性行為を見抜く魔術』の自動発動は無く、問題無く敬語を含む内容が言える。昨夜の内に検証していた。「おはようございます。帝丹小の1年B組の、元太君のお宅でしょうか?」昨夜の検証はシンプルな方法で、夜の10時頃、この電話ボックスで色々準備する時、ついでで目暮警部の自宅に電話した、だけ。電話が繋がって最初に聞こえたのは「はい、目暮です」という女性の声。警部の妻、みどりさんの声だった。警察病院で見抜いた旦那の記憶から、間違いなく非処女のはずの人。その声を聞いても、魔術が発動しないことを確認。対する『自分』は『サキュバス』の声で「あ、すいませんです、番号間違えました」と、敬語でお詫びしてガチャ切りした。……要は間違い電話を偽ったのである。実際みどりさんは、ただの間違い電話としか思っていないはずだ。あの人は『蘭』に会ったことはある。が、『サキュバス』の声までは分かるはずがない。「そうですけど、……元太のお友達ですか?」さて、今現在の話に戻ろう。元太くんを呼び捨てするということは、電話を取った相手はほぼ間違いなく元太くんの父親だ。探偵くんから以前聞かされた情報だと、チャキチャキの江戸っ子で地の喋り方も江戸っ子らしい人だけど、そうじゃない喋り方もやろうと思えば出来る人、……だったか。その(推定)父親の当然の問い掛け、……言い換えれば、予想出来るくらいありふれた質問に、『自分』はこれまた用意していた言葉で応じる。あくまで丁寧に、にこやかであるように努めながら。「失礼しました。私、元太くんのクラスメートの、江戸川 コナンくんが居候している家の娘で、帝丹高校2年の『毛利 蘭』といいます。 元太くんはいらっしゃいますか?」若干『自分』の言葉は他人行儀な気がしないでもないけれど、会ったことのない大人と通話する『女子高生』、としては有り得る範囲か。『蘭』は高校2年。礼儀正しいに越したことはないし、なれなれしく砕けすぎたらむしろ常識を疑われるくらいの年齢だ。「ぁあ! 元太からしょっちゅう話を聞いてますよ。毛利探偵のお嬢さん。 ちょっと待ってくださいね、元太を呼んできますから」相手の声には、突然高校生が小1の息子に電話してきたことを怪しむより、驚きが全面的に出て来ていた。あの子らしく、少年探偵団の活躍をいつも親に話しているのだろう。これまでの探偵団と『蘭』の間の関わりを考えると、『蘭』は元太くんの話に頻繁に登場するお姉さん、なんだろうか。……そんなことを考えている内に、通話は保留の音楽に切り替わる。――元太くんが出るまで、実質的には小休止かな。受話器を持ったまま、振り返った。沈黙を守っているあるじと目が合う、……あるじは、黙ったままガッツポーズ。激励の意思をそこから読み取り、『自分』は微笑みつつ頷く。この通話の代替は、あるじには出来ない。電話をしているこの時だけは、あるじは声を出せず、後ろに居て無言で励ますのみ。ただ、『自分』の生命を維持しようと真摯に向き合ってきた人の存在は、ただ存在するだけで十分に有り難いのではないだろうか。肝を据える。『自分』の生命のために、これから正念場だ。待つこと数十秒、保留の音楽が終わり、聞き覚えのある子どもの声がした。「もしもし?」園子と同じくらいに懐かしい。探偵くんとよく一緒に居た、身体が太めの男の子。……この受話器から聞こえる彼の声は、怪訝さを隠そうともしていない。不思議に思って当然だ。同級生の探偵くんはともかく、『蘭』が電話を直に掛けてきたことは、これまで一度も無かった。『自分』の生命のために、『蘭』らしく。とにかく『蘭』らしさを強く意識する。「おはよう、元太くん。『蘭』です。急に電話してビックリしたでしょう。迷惑じゃなかったかな?」第一声で言う内容は、園子の時とやや被る。はなから言葉のバリエーションなんて考慮していない。奇抜なことを言うための通話ではないし、直前の電話にどんな事を喋ったのかなんて、通話相手には分からないのだし。「いやいや、気にしなくて良いぞー? で、何の用だ?」――あぁ、元太くんの喋り方だな。光彦くんとは違って、この子から敬語は出てこない。性格から考えて出てくるはずがない。無邪気さに打たれた『自分』は言葉に数秒ほど詰まり、……心を立て直す。この子を騙さなければいけないのだ。親切で優しくて、ちょっと深刻そうな悩み事がある『お姉さん』の声を、演じろ、――『蘭』!「ちょっと、……コナンくんの事で、元太くんに相談したい事が有ってね。 ……あのさ、今日か、無理なら明日でもいいんだけど、『私』、元太くんと直に会って、相談できないかな?」「えっ!?」当然ながら、短い驚きの声が耳を打った。「直に会いたい」という希望が想定外だし、そもそも何を相談されたいのかも分からないのだろう。そんな相手の中で驚愕の情が落ち着く前に、『自分』は言葉を続ける。「探偵団のみんなや、博士には内緒にしてほしいんだけど……、米花公園で、待ち合わせできない?」『毛利 蘭』=『サキュバス事件に巻き込まれた女子高生』という図式を、元太くんは知らない。この子にとって、この電話は単なる『知り合いの高校生のお姉さん』からの電話。探偵くんや光彦くんに比べれば頭の回転は落ちるが、素直で、友達思いの良い子だ。警戒心なく、友達についての相談に乗ろうとしてくれる、はず。「……俺は、昼までは家で宿題しなきゃいけねーんだ、今日、昼ご飯食べてからなら……、何とか……、」――かかった。小学生の答えとしては想定内の内容だ。必ずしも午前中に会えるとまでは思っておらず、今日か明日の内にこの公園に来てくれれば、それで良かった。『自分』とあるじの狙いは、元太くんを1人で呼び出すこと、それだけなのだから。「じゃあ、相談に乗ってくれるんだね! ありがとう! 今日の1時半に、米花公園で待ち合わせできるかな? 『私』、ワンピースの上に灰色の上着を着ている格好で、公衆電話の前に居るから」意図的に、『自分』の声に明るさを含める。話に応じてくれることが嬉しくてたまらないのだと示すために。ちょっとした誘導テクニックだ。コナンくんの事で悩んでいた『蘭』が、元太くんに相談することで救われる。……そんな光景を妄想してくれるなら、待ち合わせの時までそんな光景しか頭に浮かばないようになれば、まぁ、やりやすい。「おぅ! 1時半に、米花公園の公衆電話の前、だな? 大丈夫だぞ!」「そう。くれぐれも、探偵団のみんなや博士には内緒にしてね? コナンくんにももちろん秘密だよ?」果たして、誘導した通りに元太くんの思考はハマったらしい。打って変わって元気な口調での快諾が来る。分かりやすいと内心で思いながら、表面上は、あくまで明るい口調で口外を念押し。歩美ちゃんや光彦くんならまだ良いが、哀ちゃんと探偵くん、博士の3人に漏れるのは非常にマズい。彼らは世間に秘匿された『自分』の事情を知っている。「ああ、秘密にするぞ! じゃあな!」ガシャン!失礼します、とか、そういう挨拶はなく、いかにもな締め方で電話は切られた。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~こうして、『彼女』と召喚者は、午後1時半まで現地で待機することになる。ドアを開閉すると、それだけ公衆電話ボックスに貼り付けた符の劣化が進み、魔術の効果が落ちてしまう。『彼女』達は約束の時間ギリギリまで、夏の日差しが照りつけるボックス内に篭り続けた。トイレへの行き来も極力防ぐため水分はあまり摂れず、ただ濡れタオルで身体を拭うだけの環境で、『彼女』達はひたすら待った。……呼んだ子が本当に来てくれるのか、気にしながら。小嶋家の父親なり母親なりが、訝しんで毛利家に問い合わせたら、『彼女』の狙いは即座に頓挫する。何かのはずみで探偵団に打ち明けられ、それが灰原 哀や江戸川 コナンに知られた時も同様だ。他にも、元太がもし体調を急に崩したり、待ち合わせの日時・場所を忘れられたり。……来ないシチュエーションを思い浮かべるときりがなかった。ヤキモキしながら待ち続けること5時間余り。結果から言うと、小嶋 元太は、約束通りの時間に公園に来た。来てしまった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後5時12分 毛利探偵事務所 2FRRRR RRRR……探偵事務所の机の上で、着信を知らせる固定電話の受話器を取る。掛けてくる側はおっちゃんの声の応答を想像しているかもしれないが、電話を取るのは、その事務所に居候している小学生の俺だ。「はい、こちら毛利探偵事務所です」「この声、……コナン君か!?」電話を掛けてきたのは、大人の男性らしい人。子どもの俺が出た事に少し驚いたようで、しかしその人の言葉に逆に俺の方が面食らう。どこかで聞いた覚えのある声だ。俺と話したことがある人で、だが日頃頻繁に会う人じゃあない。誰だ?ざっと頭を辿っても、……思い出せそうで思い出せない。訊いた方が良いと判断し、素直に尋ねる。「はい。えっと、……どちらさまでしたっけ?」「元太の父ちゃんだよ! 前に会ったろ?(※作者註 63巻参照) 今、毛利探偵か誰か、大人の人は居るか? 話がしてぇんだ」言われて思い出す、TV局の事件で会った、元太の父親の顔。威勢良い声で犯人を追い詰めていた、チャキチャキの江戸っ子だ。そんな人がこの事務所に、一体何の用だろうか。……ひしひしと悪い予感を感じながら、嘘を吐かず誠実に答える。残念ながらこの人の要望には応えられそうにない。「今は留守で、僕は電話番です。小五郎のおじさんは体調を崩して病院に行ったから。……事情を話して依頼を断るだけなら、僕にも出来るから」『蘭』の事件の心労のせいだろうか、突然の39℃の熱でフラフラになったおっちゃんは、今から1時間ほど前にタクシーに乗って病院に向かった。乗車の間際、俺には「事務所の電話番を頼む」と言い残して。小学1年生に電話番をさせるよりは留守電を設定する方が良い気がしたが、そこは発熱での判断力低下で御愛嬌だろう。もっとも、俺はただの小学生ではないのだし、電話番をすることそれ自体は嫌ではない。頼まれた通りに事務所に残り、今に至る。「……あー、それじゃ仕方ねえな。 うちの元太、知らねえか? そっちの家の嬢ちゃんに電話で呼び出されて、昼に出たっきり帰ってこねぇんだ。5時には帰って来い、って言ってたんだがよ」――え!? 嬢ちゃん?信じられない内容の言葉。俺の思考が凍り付く。元太が呼び出された。そっちの家の嬢ちゃんに。……この家の嬢ちゃんと言われて、該当するのは、『1人』だけ。今の『蘭』が元太を呼び出した、目的は分かりたくねぇが、――悪い予感しかしねぇ!「……嬢ちゃんって、『蘭姉ちゃん』のことですか!? それなら、警察呼んでください!」「え?」流石に今の『蘭』について何もかもをぶちまけるのは躊躇われて、とっさに、『嘘をついてない言い方』を作り上げて。そうして、受話器に向かって叫ぶ。「『蘭姉ちゃん』、……警察沙汰の事件を起こした後に行方知れずになって、警察が探し回っているから! 本当に今の『蘭姉ちゃん』が元太を呼び出したなら、誘拐だとしか思えない!」今度は、元太の父親が凍り付く番だった。「……はぁ!?」※5月24日 初出 5月30日 内容を加筆+記述が荒いと思った部分を修正+みどりさんに関する記述のミスを修正しました。 『彼女』は警察病院に入院中、目暮夫妻の営みの情報を見抜いています。だから、奥さんが処女・非処女どっちなのか確信を持っているはず、なのです。 修正前は「多分非処女」と書いていたのですが、そうすると従前の話と矛盾することになります。