8月20日 午前8時 鈴木邸 園子の部屋RRR RRR……鈴木財閥の令嬢、鈴木 園子の自室に置いてある電話機は、滅多に鳴らない。使用人達が内線で用事を伝えてくることはほぼ無く、友人も家族も、用事がある時は、家の電話ではなく園子のスマホに掛けて来るからだ。そんなこんなで普段そう使わない電話機が、突然、鳴った。部屋の主である園子が、机に向かって夏休みの課題を解いている真っ最中に。この着信音を聞いたのは、いつ以来だろう? 携帯電話も持ってない子どもの頃、外との電話でよく使ってたっけ、……なんて考えながら、園子は立ち上がって、受話器を取った。「はーい、もしもし~?」ま、誰が掛けてきたにしても、ただ受話器を取っただけの今の段階では、あらたまる必要はない。ここの電話機を鳴らせるのは、同じ自宅の中の者、つまり家族か使用人に限られる。外部からの通話であったとしても、使用人の取り次ぎというワンクッションが必ず有る。「園子お嬢様に、高校の同じクラスのかたからお電話です。お話しされますか? ……毛利 蘭さん、とおっしゃっておられますが」受話器から聞こえてきたのは、若い男性使用人の声。若干訝しげに感じているのを隠そうとはしない口調だ。園子にしてみれば、電話してきた相手は『高校の同じクラスのかた』どころの存在ではないのだが。……かといって、彼の説明は責めるようなものでもないだろう。親しい友人なら、スマホの番号を知っているはず。そちらではなく鈴木家の固定電話に掛けてくる時点で、ある程度疎遠な仲の同級生、との推測が自然に付いてしまうのだ。「え!? ……話すわ、回して!」「……は、はい!」だから使用人にとっては、園子の反応は予想外の食らいつき方だったろう。電話を掛けてきた相手は、園子にとって掛け替えのない大親友。もちろん今どきの女子高生として、互いのスマホの番号を知っている仲だ。……けれど、わざわざ家の電話に掛けてきたこと、その程度の不自然さは吹き飛んでしまう、そんな事情がある。蘭は、今月上旬のある日から、ぷっつりと園子との連絡を絶っていた。いつものように蘭のスマホに電話を掛けたら、誰も出なかった、のが最初。その時騒ぎになっていた異世界人の大ニュースが頭をよぎりつつ、蘭の家に居候しているガキンチョのスマホに電話して、蘭が出ない理由を訊いた。あの子は言葉を濁し、「どこまで僕が教えていいか分からないから、一旦切って、後で掛けるね」と告げて通話を切断。20分ほど後にガキンチョのスマホから掛かってきた電話は、探偵である蘭の父親からだった。――蘭の両親の間で『何か』があった。何があったのか、詳しい事情は園子にも話せない。 とにもかくにも、蘭は、母親の元に身を寄せた。 蘭は、父親と離れたがっているどころか、東京そのものから離れたがっている。 友人関係も絶って、高校も退学するかもしれない……。嘘とごまかしの臭いがプンプンするその説明は、園子の心をひどく打ちのめした。辛うじて、蘭は、お別れの言葉すら言えそうにない状況なのか尋ねた。返ってきた答えは「これからの蘭次第。友達と話せるような余裕が出来るか、分からない」。 ……納得できなかった。納得できるはずがなかった。でも、本当にそんな事情なら(あるいは告げられた事情が嘘であったとしても)、この父親から根掘り葉掘り聞き出そうとすること自体、かなり非常識な行為になる。それくらいは弁えていたから、園子は、その時は沈黙するしかなかったのだった。そんな現状で、突然掛かってきた、蘭からの電話。出ないという選択を選ぶはずがない。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~8月20日 午前8時2分 米花公園 公衆電話ボックス使用人さんと思われる男性の案内の後、通話を切り替える音がした。公衆電話の受話器を握る『自分』の手に汗がにじむのも、『自分』の胸がドキドキするのも、きっと暑さのせいだけでは無い。出来るだけ頭を落ち着かせて、『蘭』の声を出す。「もしもし? 園子?」「!! 蘭! 話したかったよぉ……!! 今、どこに居るの?」電話の向こうで、まず『蘭』の親友は息を呑んだ。それから、勢い良く言葉が飛び出して来る。もし目の前に居たらそのまま抱き着いてきそうな、弾んだ声。実に園子らしい喋り方だ。懐かしさに、『自分』の顔に笑みが浮かんだ。今ここで必要な『蘭』の声が、自然に『自分』の口から連なっていく。「……久しぶりだねぇ、園子。今は、家じゃないところに居るの。どこなのかは話せないけれど。 そっちの家の電話に掛けて来て、ビックリしたでしょう? スマホが手元に無いから、電話帳の家の番号を調べたんだけど。朝早くに迷惑じゃなかった?」場所の問いかけには曖昧に誤魔化して、嘘でない内容の言葉を重ねた。鈴木家の豪邸の場所は元々知っている。その場所と住宅地図を組み合わせれば、番地が分かる。『蘭』は園子の父の名前も知っていた。で、市販の電話帳には、世帯主の名前と、家の番地が載っている。……かくして、固定電話の番号ならば、魔術を一切使わずに判ったのだった。魔力の無駄使いを回避出来たから、鈴木家が電話帳に番号を載せてる家で良かった、と評すべきだろう。「ぅうん! 迷惑なんかじゃないよ。私は起きてたし、使用人は電話を取り次ぐのが仕事だし」こちらの言葉に、あっけらかんとした答えが返ってくる。本当に気にしていないようだ。園子にとっては、『蘭』が電話をしてきたことが嬉しくてたまらないのだろう、……と、思う。「そう。それなら良かった。 ところで、……私の事情について、コナン君やお父さんから、話を聞いたりしたんでしょう? 誰から、どんな風に聞いてる?」『蘭』として不自然でない話の持って行き方で、『蘭』の声で問う。『サキュバス』としても『蘭』としても、一応、話の取っ掛かりとして、確認すべきことだった。あの『サキュバス』と『蘭』が融合した日、融合魔術が続行中のまさにその時。園子は、コナンのスマホに電話を掛けてきたらしい。『蘭』のスマホに連絡が付かない理由を園子から尋ねられ、あの探偵くんは、詳細な説明を一旦保留した。その場で『蘭』の両親が、園子への対応を協議。……『実の娘』が『殺人犯』と融合している、という事実は伏せられた。代わりに、『蘭』の両親間のトラブルと、それで父親から離れたがる『娘』、という構図がでっち上げられたそうな。「えっとね、蘭のお父さんから話を聞いたんだけど、……蘭のお父さんとお母さんの間で、何かがあった、って。 それで、蘭はお父さんから離れたいどころか、東京からもすごく離れたがっていて、高校も退学するかもしれない、って。 あ、あと、高校の友達と話せる余裕が出来るかどうかも分からない、って言われたわ」警察病院で覚醒し、『蘭』の両親から説明を受けた時、実の『娘』が爆発四散するかもしれない状況で、よくそんな内容を思いついたなぁ、……と、『蘭』の家族に妙に感心したものだった。探偵2人と弁護士1人、職業上当然かもしれないが、よくもまぁ頭が回ったものだ。とてもとても都合がいいことに、頭が回る家族がでっち上げた虚構は、今の『自分』に極めて役立つ方向で作用している。この嘘の説明を、『自分』があえて否定する必要性はどこにもない。「……その説明に、私から付け加えることは無いかなぁ。 申し訳ないけど、あまり思い出したくない事だから、それ以上の説明はちょっと無しにさせて」「うん。……分かった」一度もうこんな風に言ってしまえば、『蘭』の両親に何があったのか、園子はもう追求してこない。親友だから分かる。それくらいの気遣いは出来る女の子だ。そして『自分』は、……『私』は、その、人の良さに甘えて大親友の事実認識を誘導しようとしている。事実とは違う形に。「私ね、たぶん高校も近いうちに退学すると思う。先生から、私のことで説明は有った? 変な噂とか流れてない?」実は、この質問が、高校の様子を訊くこの質問こそが、『自分』が一番確認しておきたかった問いだった。園子は一瞬口ごもる。……反射的に軽く身構えた『自分』に示されるのは、心配していた事とは違う方向の、困惑。「あー、うん。変な噂と言うか、……空手部の子達には、練習の日に、顧問の先生から説明があったみたいだね。 『御両親の離婚問題のトラブルで、毛利はしばらく休む』って、先生、ハッキリ言ったんだって。 ……そんな事、バラされて良かったの? その話、登校日にはクラス中に広まってたよ」――何だ、そっちか。確かに常識的に考えて、そこは『家庭の事情』くらいにぼかして説明するところ。デリケートな事柄を他の生徒に明かす行為は好ましくない。……とはいえ、『蘭』の件に限っては特異事例として許容されるだろう。顧問は両親の意に沿おうとしただけ、だ。これから喋る言葉を、瞬時に頭の中で組み上げて、考えて。……受話器を握って立つ姿勢はそのままに、目を閉じた。普段、園子と喋っていた時の会話を思い出す。たまたま『親の離婚問題で東京を去る女子高生』の声を出すように意識する。「確か、……私のお母さんも、お父さんも、『先生に許可を出した』って言ってたよ。特に空手部のみんなには、事情をそう話すように希望したんだって。 女子高生が人格を巻き込まれる、変な事件が最近あったでしょ? その事件と同じ日に、『私』はみんなと連絡取らなくなったから、事件に絡めた噂が立っても不思議じゃない、って、お母さん達は思ったみたい。 えーっと……、お母さんは結構心配してたんだけど、そういう噂とか、本当に大丈夫?」この、両親の振る舞いに関する説明には、虚偽は無い。『蘭』は、ただ両親のトラブルが原因で高校を休んでいる。……そんな説明が、園子だけでなく、空手部に、ひいては高校内に定着するよう希望したのは両親だ。但しその嘘に乗っかり、事件とは無関係に振る舞う『自分』の喋りは、我ながら白々しい。 言い切ってからゆっくりと目を開き、相手の反応を伺う。 今の言葉、変には思われなかったらしい。園子は『こちら』の心の葛藤に全く気付いておらず、合点しきった強い声を、電話の『相手』に向けた。「なるほどねー。そっちの親が心配している方向での、そういう噂は流れてないよ。 もし、これから学校でそんな事を言い触らすヤツが出たら、……私、思いっきり反論してあげるからね!」――あぁ、苦しいなぁ、これは。励ましのつもりであろう言葉はグッサリと胸に突き刺さった。他の生徒に食って掛かる園子の様子が頭に浮かぶ。『蘭』の罪悪感が激しく揺さぶられる。だが、今不審に思われるのは、結果として『蘭』自身に不幸な結果を呼びかねない。長時間の会話はメンタル的にとても無理。違和感が無い程度に会話を短縮させて、切り上げるのが上策か。変に思われないために、雑談を一言か二言入れて。……電話が終わるまでの辛抱だ。懸命に『己』の心を叱咤し、溜息を堪え、……鼻から息を吐き、唾を呑む。そうしてから出せた感謝の言葉は、『自分』でも意外なくらい落ち着いていた。「……ありがとう。園子みたいな親友が居て、本当に良かった。 ところで今日電話したのは、その事の確認もあるけれど、それだけじゃなくて。……お別れだから、挨拶しようと思ったんだ。 私、高校には戻らないと思うし、これから園子と会うことも無さそうだから」「そうなんだ……」もう会えないという予測を聞かされても、相手から驚きや反発は最早無い。残念さと納得の入り混じった感傷だけが有る。幼い頃からの大親友との別れだから、本当に無念だろう。無念だろうが、園子の力ではどうしようもないことだと、理解もしているはず。……互いの感傷が終わらない内に、心の内から湧き上がってきた一言を『こちら』から言う。「園子と私、10年以上一緒だったよね。保育園の頃からだもん」『蘭』は覚えている。むしろ忘れるはずがないし、今後また人格が変化したとしても絶対に忘れたくない。保育園で、小学校で、中学校で、高校で、……これまでの人生でずっと一緒だった大親友の、大切な記憶だ。「そうだねぇ。……ねえ、蘭。……離れていてもさ、これからも、私と親友で居てくれるのかな?」返事は決まっている。『蘭』ならば否定するはずがない質問。声だけでなく実際に頷いてしまいながら、……『自分』のメンタル状態のマズさを悟る。いい加減に通話を終わらせないとキツい。「もちろん! 園子とはずっと親友だよ。 ……ごめん園子、慌ただしくて申し訳ないけれど、あまり長い時間話せないんだ。目一杯喋りたかったんだけど。……またいつか会えると良いね」高校はおそらく退学する、もう会えないかもしれない、やっと掛かってきた電話は長時間喋れない。……両親の離婚問題だけでなく、もっとややこしい事情があるように思われるかもしれない。でも、園子に色々と想像されるのは悪くない。今後電話すら一切無かったとしても、『事情があって電話も無理なんだろう』と、勝手に納得してくれるだろうから。「あー、……そうなんだ、じゃあ仕方ないね。蘭、いつか会おうね」予想通り『こちら』の言葉を受け容れてそう言ってきた親友に、『蘭』の声を出す。再会する確率はかなり低いと思うけれども、それでも最後は、再会を期する言葉が良い。「うん、また会えるといいね。園子。……バイバイ」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~8月20日 午前8時14分 米花公園 公衆電話ボックス『彼女』は、受話器を静かに電話機に戻した。ジャラジャラとお釣りが戻ってくる音を聞きつつ、電話機に思い切り手を付いて、……深々とした溜息が、その口から出る。長めの溜息が終わるのを見計らって、紅子は『彼女』に言った。「想像以上に精神的にキツかったみたいね。大丈夫?」返答は無言の頷きだったが、紅子の目には大丈夫そうには見えない。召喚した者・された者の繋がりとして、互いの心の動きは、魔力を使わずともある程度検知できる。遠距離なら視えなくなるが、今は狭い場所に2人きりだ。『彼女』がどれくらい苦しみながら通話したのか、後ろに立っていた紅子にはハッキリと判っていた。『彼女』と紅子は、共に、米花公園内の公衆電話ボックスの中に居る。公衆電話ボックスのガラスには、人避けと視線避けの魔術の符をベタベタと貼りまくっており、2人に視線を向けてくる輩は今のところゼロ。そもそも公園の出入口に人避けの符を巡らせているから、ボックスの周辺には人間自体が居ない。魔術の符をふんだんに使っているのは、当然、不審者として通報されるのを避けるため。『彼女』は、黒いワンピースの上に薄灰色のローブを羽織った姿。紅子は、黒い長袖長ズボンの上に濃灰色のローブと仮面のいつもの姿。ローブを着た成人体型の者が、2人で電話ボックスを占拠しているだけでもおかしいのに、その内1人は仮面で顔を隠しているのだ。対策を取らないと速攻で警察が来てしまう。「『貴女』、とても大丈夫に見えないんだけど。……次の電話の前に少し休みましょうか」電話機に手を付いて数十秒ほど俯いたままの『彼女』に、紅子は提案する。――ひょっとしたら、鈴木 園子への通話は失敗だったかもしれない、と思いつつ。さっきの通話は、先日、探偵くん、……江戸川 コナン/工藤 新一に会いに行ったのと同じで、『蘭』の罪悪感をどうにかするための方策だったのだ。だが結果は逆効果。『蘭』の声で延々喋り続けるのは、予想以上に精神面の負担が大きい。『サキュバス』の声ならそうでも無いのだろうが。紅子の目の前で、『彼女』は吹っ切るように短く息を吐いた。俯いていた顔を上げて、こちらを真っ直ぐに見る。「……いえ、Reune(あるじ)、休むと却って苦しくなると思うので。顔を拭いたら、電話します」「そう……」ここまで強く言い切ったなら、もう『彼女』が言うようにさせるしかない。でも、足元に置いたクーラーボックスから濡れタオルを出して、強く顔を拭く『彼女』を眺めながら、……本当に大丈夫だろうか、と、紅子は思う。これから電話するのは米花町内の酒屋。先ほどとは異なり、友人相手に話すための通話ではない。顔見知りの子どもを連れ去って人質にするための、おびき出すための通話なのだ。※5月10日 初出 5月17日 後半部を加筆しました 人の心の揺れ動きを書くのは、難しくて時間が掛かるけども楽しいです。更に、読者の方から見て読みやすければなお良いんでしょうが。……どうでしょうか。 それと、この話はどこまでを1話にしようか迷って、若干文字数が多めになりました。次の話は酒屋さんとの通話です。