宿屋の2階の、とある部屋の中。神話を暗唱する声が響く。寝台(Karuto)に腰を掛けた幼い『わたし』が唱えるのは、今から200年ほど前の有名な演説。歴史に残る偉大な巫女が、竜に告げた言葉だ。「――kurau n vain e, enkureib gusena chimo mipu is, siso sowari nan.(血の繋がりが、必ずしも善いものではないことを、私は知っています) ――sisi-s sutwu-ku na to, kurau n vain e be-ta na den.(私を傷つけた者は、血の繋がりが有る者でした)」一連の言葉は、世界に刻まれ、神話となり、学ぶべき大事な教養となった。祭政一致のこの地で、官吏志望者の必須知識になる程度に、大事な教養になった。『わたし』は、母と共用のこの寝室で、そういう“覚えるべき言葉”を少しずつ覚えていっている。最終的には、暗唱できる形を目指して。毎日の暗唱訓練は、寝る前の日課だった。「――oruru karuen is, naren ka-su mipu to be-ta nan.(この身を、呪いかけたことはあります) ――ta-ji, fol mipu is mushu rumu doru to……(結局、そんなことをしなかった理由は……)」母は隣の寝台(Karuto)に腰掛け、向かい合う形で『わたし』の暗唱の様子を見詰めている。対する『わたし』は、天井の木目が視界に入るくらいに顔を上げ、記憶を絞り出す。あと2文、末尾の言葉と、演説者たる巫女の名前を言えば終わりなのだが。「――sisi-s yugus unase na n be-tan e, sisis-n mizetto da riyunion dorunan.(私を守り抜いた者の存在が、私の魂に刻まれたからです) ――Aporia Eruneta Karuruban.(アポリア・エルネタ・カルルバン)」――出来た。ほうっと息を吐いて、母を見つめる。母からの評価は、柔らい抱擁と、くしゃくしゃに頭を撫でる手と、暖かな褒め言葉で示された。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~8月20日 午前2時 召喚者の屋敷 地下 個室夢の向こうから、不意に意識が浮上する。故郷とは毛布の質が違う、とまず気付く。ゆっくりと、両目を開ける。目に飛び込んできたのはほぼ暗闇と言っていい色。……あるじの屋敷の、地下の、石の壁。――ぁ……脱力し、心の中で溜息を吐きながら枕元の目覚まし時計を見る。時刻は夜中の2時ちょうど。夢を見ている最中に目が覚めた、らしい。幸運な時代の夢だった。確か5歳か6歳頃の記憶。実家の商売が落ちぶれていなくて、母も、次兄も、弟も、生きていて。寝返りを打ち、隣のベッドに目を向けた。記憶の通り、視線の先のベッドは空だ。毛布は、シーツごと丁寧に畳んで置いてある。……思わず苦笑が漏れる。母親が寝ているはずがない。世界が違うし、そもそも死んだ者が居るはずがない。二重の意味で有り得ない。ちなみに、隣のベッドは召喚者用、というわけでもない。あの人がこの部屋で寝たことは無い。元々、この部屋のベッドは『自分』用の1つだけで、隣にベッドを持ち込んだのは昨日の昼だ。これから『自分』と召喚者が誘拐し、人質になるはずの子が、このベッドを使う予定になっている。ベッドへの視線を遮るように、『自分』の右の手のひらをかざして見つめる。暗い空間の中で、目に映るのは当然『蘭』の手。『もうひとり』の手ではなく。あの身体は、もう砂になって存在しない。この『蘭』の身体の中に、『自分』の人格だけがこうして存在する。そうなるように願ったのは間違いなく『自分』だ。他者の命を奪いながら、それでも生きたいと願ったからだ。「“Kasmariora(おかあさま……)”」脳裏に浮かぶのは、もちろん、妃 英理弁護士では無かった。元官吏であり、宿屋の主人の後妻であり、5年前の夏に貝毒に中(あた)って、次兄や弟と一緒に死んでいった、『もうひとりの自分』の方の母親。娘が、自分と同じ道を歩むことを強く望んだ女性だった。娘の『自分』も、その道を目指す、つもりではあったのだけど、……今となっては、叶うはずがない。目指していたのは、魔術で犯罪者の心を見透かし、真実に迫る、魔術専門職の官吏だった。配属によっては、公開の場で剣によって裁きを下すことも有り得る、そんな職場の公僕。最早、絶対に就けない職業だ。この世界では、司法の仕組み自体が違う。元の世界でも、実父に剣を向けようとした時点で『自分』が犯罪者になっている。でも。元々、そんな魔術の使い手を目指していたから、魔術に関して高い水準の知識や技能を有していたから、今のところ、この世界での『自分』の生命が存在する。※以前皆様に御応募頂いた『ファンタジー世界っぽいカタカナの単語』を、ようやくここでたくさん出せました。安価スレ時代に募集した単語も一緒に使用しています。 (作者の力量というメタな事情で)異世界語の文法はほぼ日本語と同じです。募集時に明記した通り、この言語は、後の話で暗号用に登場予定です。※5月4日 初出 5月10日 誤字等を修正しました