午前11時32分 警視庁 刑事部長室(臨時)秘書に連れられて、佐藤 美和子警部補と高木 渉巡査部長が臨時の刑事部長室に入室してくる。……応接用のソファーに座っている小田切 敏郎刑事部長の視線に射すくめられた2人は、ガチガチに緊張しきっていた。至極当然の反応ではある。普段の指揮系統では、たかが警部補と巡査部長のカップルを、個別に刑事部長室に呼び出すような事態は、まず無い。大体、このカップルが精神的に大丈夫なのかも実は怪しい。「捜査本部での聴取と警察病院での肝炎の血液検査が終わったら、何も話さずに刑事部長室まで連れてこい」、と、異例の指示を出したのは、刑事部長である小田切自身。指示通りにこのカップルが扱われているのならば、今朝以降、精神的なストレスが無いはずが無い。……病気をうつし合った件に関しては自業自得だから、その分、同情は大きく目減りするが。「挨拶はいい。佐藤 美和子警部補と、高木 渉巡査部長、だったな? 2人とも、そこに座りなさい。 ああ、今から2人だけに話すことがある。……案内ご苦労だった」ひとまず、病気の件は無視して、今、説明しておかないといけない事がある。2人が口を開く前に、小田切はテーブルを挟んで向かい側のソファーを指して、指示を出す。ついでに2人を連れて来た秘書にも席を外すように指示。「はいっ!」「はいッ!」「……はい」3人共もちろんその言葉に従い、動いていく。カップルは小田切に対面する形でソファーに座り、秘書は部屋の外へ。2人がきちんと座ったのを確認し、……相変わらずひどく緊張したままの捜査一課のカップルの目を順に見つめながら、小田切は口を開いた。「そちらの家に今朝来た手紙の内容は把握している。病院で受けた血液検査の結果も、だ。その件の説明はここでは不要だし、説教も、今ここではしない。 こうやってお前達を呼んだのは、手紙の追伸欄に載っていた内容について説明するため、だ。 ……そもそも、今月7日の夕方の段階で、『サキュバス事件』はどういう状況となっていたか、思い出せるか?」喋りきった後、小田切は視線で、高木の方に回答を求める。こちらの言葉に納得半分、驚き半分の表情を見せていた高木は、一瞬だけギョッとした顔をして、でも迷いなく答えた。ひょっとしたら、今朝、手紙の内容を知った段階で当時の時系列は確認済みなのかもしれない。「その頃は、……既に、『毛利 蘭』さんと『サキュバス』が融合した状態の『女の子』が、意識不明のまま警察病院で眠っていたはず、ですよね。 その『女の子』は、7日の午前4時に保護されて救急搬送されていますから」正解だ。大阪でサキュバスに坂田 祐介が殺され、東京で沼淵 己一郎が殺され、そして毛利 蘭が誘拐された、一連の事件が8月6日に発生。その6日の18時代に始まったらしい『蘭』と『サキュバス』の融合の魔術は、日付が変わっても終わらなかった。融合魔術の光が止んで、救急隊員がようやく『彼女』の元へ踏み込めたのは、7日の午前4時。以降、『彼女』は9日の夕方に覚醒するまで、眠り続けていた。「そうだな。その通りだ。さて、……ここから先は、本当に極秘となっている事柄だな。その日、何があったのか」小田切は、腕を組み、目の前のカップルに向けた視線を強くする。対する2人も、覚悟を決めたように唾を呑みこちらを見詰めてくる。今から話すのは小田切が、これまで幾度も役職も階級もより上の者達に説明してきたこと。警視庁と警察庁の上層部の判断で秘匿され続けた事件であり、今朝、その上層部の協議で、このカップルには情報開示やむなしと結論に至った、そんな顛末。「8月7日の18時、この警視庁の、元々の刑事部長室には、私と秘書が居た。 ……突然、何の前触れもなく、部屋の中の空間に赤い光が湧き起こったんだ。同時に、刑事部長室内で電気が通っていた電化製品が全て一斉に故障した。 光はすぐに消え、代わりに光った空間の真下の床に、ハツカネズミの死骸と、変な便箋が残されていた。……便箋には、サキュバス事件の召喚者からという、要求が書いてあった」目の前の若い2人は、予想通り驚いた様子だ。あの手紙の追伸欄の内容から、薄々事件についての予想はついていたかもしれない。だが、刑事部長の口から実際に聞かされるのはショックだろう。ともあれ、2人が、共にこちらの言葉を受け止めているであろうことを確認。小田切は自身のソファーの後ろに置いていた封筒に手を伸ばしながら、言葉を続ける。「まるで、テレポートか何かで、ネズミと便箋を遠隔地から刑事部長室まで出現させたようだった。そうとしか思えん出現方法だったよ。 ……実際の便箋の写真が、これになる。ほぼ原寸大だ」封筒から写真を取り出し、テーブルに置いて2人に見せた。元々の便箋がピッタリB5判だったから、その便箋が丸ごと収まるように引き延ばした写真は、当然便箋そのものよりも若干大きい。灰色がかった便箋の上に、定規を当てながら書いたのか、全体的にやたらカクカクした細かいボールペンの字体が踊っている。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【警視庁 刑事部 部長宛 私はサキュバスを召喚した者だ 辛うじて便箋一枚と贈り物程度なら転移させられるほどには調子が回復したので、この手紙を送付させて頂く また、今も今後においても、私がいかなる形であれ、警視庁の方々と直に言葉を交わす気は無い点は承知願いたい きのう8月6日の、坂田 祐介・沼淵 己一郎の殺人、及び、毛利 蘭の誘拐と人格融合 上記の件を自白したサキュバスのインターネットの書き込みについて、私が読む限り、書き込みの内容に真実と異なる点は無い すなわち私は、彼女を召喚した後、彼女の生命を維持するために、拘置所の未決囚2人の殺人と、女子高生1人の誘拐と融合を立案した、ということだ もっとも、肝心の犯行時には、私の方は魔力不足で身動きが取れなくなっていたが 私にとっての理想は、サキュバスが生命の危機に瀕することなく、この世の中で平穏に一市民として生活できること ずっと生き足掻いてきたあの子には、そんな平穏をどうか与えたいと、強く思っている 少なくとも現時点では、毛利 蘭という他者と融合した人格ではあるが、それは叶いつつあるようだ だから私から警視庁に要請だ 今後どんなことがあっても、サキュバスが融合した女子高生、毛利 蘭の、身元を特定する情報は決して表に出さないこと 特に容姿と氏名についての情報を外部に漏らすのは厳禁とする その情報が世間に流通することは、サキュバスが今どんな姿をしているのか知られるのと同じだから また、この手紙がこうやって出現したという情報は、刑事部長と同階級以上の者、及び、この手紙を調べる鑑識チーム限りとしてほしい もし手紙が出現した瞬間を見てしまった者が居るならば仕方無いが、それはあくまで辛うじて許された例外とする 私は転移の魔術で、普段一般人の立ち入らない刑事部長室という場所に、こうやって物を送ることが出来る 私がもしキレたら、別の物を別の場所に送るだろう その意味をよく考えて動いてほしい 追伸 共に送ったネズミは警視庁宛ての贈り物だ 魔力の塊だから魔道具としては最適だろう、たかだか6時間程度で砂になる魔道具を使いこなせる者が、そちらに居るかは謎だが なお、この便箋は素手で触ると砂になって跡形もなくなってしまう コピーを取った場合も砂になってしまうはずだし、他に何か鑑識の使う手法で調べた場合もそうなりかねない 写真に撮った場合は大丈夫だと思うが、試したことはないので保証はしない また、何もしなくても4日過ぎれば砂になる 今後、もし仮に私の方から警察や職員相手に手紙を出す場合には、必ずこの用紙を使う、と、ここに明言しておく】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午前11時45分 警視庁 刑事部長室(臨時)「佐藤、高木、この手紙を読んでどう思った? それから疑問に思ったことも、今ここで出来る限り訊いてくれ」鑑識の職員にもかつて言ったのと同じ内容の言葉を、小田切はこのカップルにぶつけた。本当は、本庁職員どころか他の道府県警にも大々的に知らせたいほどの深刻な事件なのだ。だが、この手紙の情報を知っている人間はかなり限られている。逆に言えば、情報を知らされている面子からは、出来る限り多く意見が欲しいのが本音だ。前代未聞の事件だから、若い者の柔軟な発想は、多いに越したことは無い。佐藤も、高木も、手紙を読み終えた後の顔色は真っ青だった。額には冷や汗すら浮かんでいる。最初に口を開いたのは高木だった。写真の『私は転移の魔術で、普段一般人の立ち入らない刑事部長室という場所に、こうやって物を送ることが出来る』『私がもしキレたら、別の物を別の場所に送るだろう』を指差して、震える声で、「これって、……遠回しな脅しですよね? 『刑事部長室に手紙とネズミを送ることが出来た。もし召喚者を怒らせたら、もっと困る場所に有害な物を出現させることが出来るんだ』って……」 病気をうつし合うバカでも、刑事としての思考は有るらしい。この間接的な脅迫はすぐに読み取って、意味するところがどういう事なのかも分かっている。流石にこれまで便箋を読んできた者が気付いてきたことなのだから、これに気付かない程のバカであるのは流石に困るのだが……。まぁ、そんな思考は表面に一切出さず、小田切は苦々しく頷く。「この便箋を読んだ者は、私を含めて、皆、まさしくそういう意味だろうと判断した。……だからこそ、ここに書かれていた要求に従わざるを得なかった。 召喚者がどこにどんな物を出せるのか、その限界は一切不明だ。前もって転移の魔術を防ぐ方法も、今の我々には無い。相手を刺激させる判断は出来ん。 一度、ネズミと便箋を出現させた相手が、次に出現させる物が、……例えば、爆発寸前の爆発物、という恐れはぬぐえんからな」……決して声には出せないが、ただの爆弾テロならば「まだマシな方」だと、小田切は思っている。少なくともただの爆弾なら、物や人身が損なわれても、大地も空気も汚染されない。損傷が子孫に継がれることも無い。そういう意味でテロに使われると恐ろしいことになる凶器は、日本国内に限ってもいくらでも存在するのだ。「……では、この便箋が出現したという事実も、要求の通り、一部の方だけがご存知だったんですね? 具体的にご存知なのは、刑事部長と、それから……?」この質問は佐藤の方から。教えられる事柄だから軽く頷く。「具体的には、私と、便箋が出現した時にたまたま部屋に居た、私の秘書。元の刑事部長室と便箋の調査に当たった、鑑識達。 それから、刑事部以外の8つの部の長と、副総監と、総監。……この警視庁内では以上だ。今日追加されたのが、お前達2人だな。 警察庁の方にも総監の判断で報告を行ったが、ご存知なのは、階級が私と同じ警視長か、それ以上の方々のみだ。 なお、……今朝そちらの自宅に届いた手紙の内容も、今言った上層部の方々は承知している。肝炎うんぬんという部分も、お前達の診断結果も」言葉の最後に、知りたくないかもしれない事実を追加した。カップルの表情が揃って強張る。――今朝の手紙を警視庁に提出した時点で、覚悟は決めていただろうに。動揺が全く無い、とは、いかんのだな。階級的に遥か高位の者達ばかりがB型肝炎感染の事実を知っている、という構図に同情はしないでもないが、自業自得と諦めてもらうしかない。独身同士が己の意思で仲良くするのは大いに結構だと思う。でも病気をうつし合うのはバカだし、よりによって『被疑者』に指摘されるのは刑事の面目丸潰れ。小田切達が事実関係を知った以上、いずれ何らかの形で処分は必要だろう。その処分が重いか軽いかは、今は、分からないが。 ……ずっと俯いていた高木が顔を上げた。こちらの言葉で連想して思い出したらしい、質問が来る。「あ、その、今朝、佐藤さんのお宅に来た方の手紙での疑問なのですが、……きのうの夜にネットで記事になったこと、って何だったんでしょうか? 毛利さん御夫婦が警察に不信感を持つかもしれない事柄って、……どんな記事かお分かりですか?」――そう言えばその件には触れていないな。まだ7日に来た手紙の件しか話していない。高木が言いたいことは分かる。今朝佐藤宅に来た手紙の、追伸欄。『彼女』の手紙が言及していた記事だ。立ち上がりながら小田切は言った。「ああ、それか。……おそらくこれだ、というのは分かっている。ちょっと待っていろ、持って来る。 ついでに、お前達のところに来た手紙の写真も」「す、すいません」恐縮しきった高木の声を背に、自分のデスクの上を探った。半透明のクリアファイルに、今日上がってきた『サキュバス事件』関連資料をまとめていたはず。……有った。言った通りのネットの記事のコピーと、今朝佐藤の家に来た手紙の写真。両方を取り出して応接用のソファーに戻る。佐藤と高木が読める向きで、机の上に記事を広げた。記事のタイトルは、『サキュバス事件 捜査本部の謎判断 女子高生の顔も氏名も手配されてない!?』内容はまぁタイトル通りで、真偽も、……警察として情けない話だが、嘘は書いてない。「『彼女』は、色々なトラブルの後、病院から消えた。未成年の被疑者か家出人として手配するのが筋だが、今のところ一切それはしていない。 それだと、『毛利 蘭』の名前と具体的な特徴を、所轄の末端まで行き渡らせることになる。漏洩のリスクを考えると出来なかった。 ……その対応を不審に思った奴が居て、こういう記事になった訳だ」情報はどこから漏れるか分からない。警察内部限りと厳命して情報を流すよりも、そもそも警察内部にすら情報を回さない方が安全。小田切よりもさらに上の判断で為された決定だ。召喚者を刺激すると不味い、という前提に基づいた、決定。「召喚者が、……7日の段階で、『毛利 蘭』の情報が漏れないように要求していたから、ですか。 『サキュバス』がどんな姿をしているのか、世間に流れてしまうと、……召喚者は怒るだろうから」確信のこもった佐藤の言葉。何もかも正解だ。「……そういうことだ。 なお、毛利夫婦には、今日の14時に、鑑識の者とうちの秘書が、捜査本部で一連の経緯を説明することになっている。捜索願が出されても捜査出来なかった理由の説明も兼ねて。 お前たち宛てに来た手紙のうち、本文の内容は伏せるぞ。あの夫婦がお前達と親しかったのは知っているが、……今は、『被害者』兼『加害者』の親だ。刑事の肝炎うんぬんという内容までは教えたくはないからな」※2月22日 初出 2月26日 最後のシーンを加筆しました。 2月28日 誤植などを修正しました。 次話は、引き続き刑事部長室での会話のシーン(便箋内容考察)+コナン側の描写です。その後作中時間が一週間ほど進みます。 刑事部長室宛ての手紙を読んで思い浮かんだ疑問ありましたらコメントどうぞ。作者の発想外のことがありましたら作品内容に反映させるかもしれません。