午前7時36分 都内 某マンション 佐藤刑事の実家 美和子の部屋封筒を持ち上げて、部屋の電球の光で透かしてみる。でも、中の様子は一切伺えない。――封筒を開けて読むしかないのね。高木君には、その時に読み上げるのを聞いてもらう形が良いかしら。これから電話を掛けるにあたり、ドアの向こうの母にも隣の部屋の住人にも、出来る限りこちらの声が聞こえないようにする配置を考えるのに、数秒。……結局、美和子は、自室のベッドの端に、押入れに向かい合う形で座り込んだ。足元のシーツにハサミと例の手紙を置いてから、手袋を着けた手でスマホを操作、愛しい後輩のプライベートの方の番号を選ぶ。RRRR R、……「……おはようございます、高木です。何か御用ですか? 佐藤さん」着信音が鳴ってから何十秒もしない内に、彼は電話に出てくれた。起床済みだったのかハッキリした声で、怪訝そうにこちらに問うてくる。不思議に思われるのは当たり前。普段、自分はこんな時間帯には電話してこない。美和子は、心の中でだけ溜息を吐く。この状況で望ましいのは、小声で、でも相手が聞き取れるくらいの、落ち着いた喋り方。「……おはよう、高木君。佐藤です。朝早くにごめんなさい。 『蘭ちゃん』の事件のことで、今お話しできる? うちに『あの子』から手紙が来たの」「!? だ、大丈夫ですけど。……『蘭ちゃん』って、毛利探偵のところの? 今行方不明の『蘭ちゃん』ですか? その『蘭ちゃん』から手紙が!?」やはり非常に驚いたようだ。高木君は想像の通りの狼狽の声で、差出人の正体を訊き返してきた。平穏な日常ならば、こういう慌て声は、後輩が見せる表情の一コマとして微笑ましく感じるのだろうけど、……今はそんなゆるい雰囲気ではなく、余裕もない。「ええ。その通りよ。うちの母がさっき気付いたんだけど、郵便受けに、新聞と一緒に入っていたらしいの。 真っ白い封筒で、まだ開けてはいないんだけど、差出人は『蘭ちゃん』の名前で、宛先が、私と貴方の連名になっていて、他にも、変な注意書きがあって、ね」一旦ここで言葉を切る。重要なのはここからだ。この注意書きがあったからこそ、自分は彼に、こんな風に電話する決断をしたのだから。「注意書き、ですか?」手袋を着用済みの手で、シーツの上の封筒を拾い上げる。母に受け取っていた段階で知ってはいる文面ではあるけれど、改めて、一から見つめて読み上げた。「表は『中の紙は素手で触らないでください』。 それで、裏が……『先日のハニーロードの件で、デリケートなお話があります。あなた達の身体に関して、わたしが視たことについてです』」表側も重要な注意書きだが、自分達二人にとってより重要なのはもちろん裏側の方だろう。『ハニーロード』は自分達が交わったホテルの名前。それを『彼女』に見抜かれてネットに暴露されて、色々と監察から聴取されたのは、わずか2日前。つまり『彼女』は、魔術で視た、8月7日の自分達の交わりの情報の中で「何か」を知って、わざわざそれを知らせるために手紙を送ってきた、ということだ。「……、それは、中身、は、まだ開けてない、っておっしゃっていましたね?」彼は、問いかける途中で美和子の言葉を思い出して、でも確認の形で言葉を結ぶ。きっと頭の中で疑問が渦巻いているのだろう。今の美和子だってそうなのだ。『彼女』は、一体どんなものを視たというのか。そして、手紙で送ってくる、……それも郵便を使うのではなく家のポストに直に入れる、という行為に、一体どんな意図があるのか。何であれ、……開けて確かめないと分からない。「ええ、まだ開けてないわ。……高木くん。今から開けて、読み上げるから。一緒に聞いて。 デリケートなことだって書いてあるし、宛先が私と貴方の連名だから」この封筒は佐藤 美和子だけに宛てたのででも、高木 渉だけに宛てたものでもない。連名だ。だから、きっとこの手法が、……どうか正解であって欲しい。捜査本部に知らせずに開封するという決断も、『デリケートな内容』と注意されているからこそギリギリ許される、と思いたい。「……分かりました」スマホからの承諾の声を受けて、美和子はハサミを取った。……封筒のできるだけ端を開いて、中の紙を取り出し、広げる。全体的に灰を帯びた色の、ゴワゴワした厚い1枚の便箋に、ボールペンで書いたらしい文字列がビッシリと並んでいた。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【佐藤 美和子様 高木 渉様 私が病院から居なくなった後、インターネットの召喚者からの書き込みを読まれた前提で、この手紙を書いています 警察病院で、魔術で見たあなた達の情報について、どうしてもお伝えしたいことがありました あまりにデリケートすぎたので弁護士さんにも打ち明けなかった事柄です 私が自動発動中の魔術で見抜いたのは、性行為の日時・場所・会話、だけではありません その性行為で妊娠できたかどうかや、病気に感染してないかどうかも、判別はできます 今月14日、警察病院で入院中だった私は、御存じの通り、佐藤さんと高木さんの両方の情報に触れました 佐藤さんは私と会話を交わしましたし、高木さんは私と対面することは無かったけども、病室の前を通りましたね 迷ったけども、魔術で視た情報をこうしてこの手紙でお知らせします 私の目には、あなた方お二人が、ハニーロードで肝炎をうつし合ったように見えました カップルの両方が、元々肝炎ウィルスに感染していて、互いに互いのウィルスをうつし合っている、という構図です もっとも、この魔術で得た情報に、100%の確証は有りません、とも付け加えておきます 性行為から時間が経つにつれ、病気の感染についての情報はどんどん劣化していきますから 例えるならば、文字が所々でかすれたり消えたりした文章を、読み取っていくような状態になります どうしたって、どこかで情報を読み間違えている恐れはゼロではありません ところで、この便箋は、素手で触ると触った部分から砂になって崩れていくようになっています 下の「追伸」よりも下の部分は、警視庁に報告してほしいのですが、この本文の部分まで報告するかは、そちらの判断にお任せします 便箋をハサミで切った後、本文だけ砂にして読まなかったことにする、という手法も可能なはずです ただしどこまで報告するのであれ、報告する以上は、今後、高木さんか佐藤さんに、余計な仕事が割り振られる可能性があります これから私が自分の身体のために色々とやりたいことがあり、その痕跡として警視庁宛てに、手紙を残す予定があります その手紙と、この手紙の情報を付き合わせたら、高木さんか佐藤さんに、捜査本部から仕事が降ってくる、かもしれません 敬意を込めて 追伸 警視庁の上層部の方々へのメッセージです 8月7日夕方の、刑事部長室のネズミと手紙の件について 蘭の両親と、この手紙を宛てたカップルさん達には情報を開示しても構いません 色々と捜査で気遣われた結果、不審に思われた事項が、16日の夜にネットの記事になったようですからね 蘭の両親が警察に不信感を持つことを私は望まないし、このカップルさん達には、経緯を全部知っている前提で、今後頼みたいことがありますから なお、当時召喚者が書いた、私についての理想は、私も同じ思いとして心の中にあります】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午前7時45分 都内 某マンション 佐藤刑事の実家 美和子の部屋「……手紙は、以上よ」美和子なりに感情を消した声で読み上げるよう努めていたが、果たして本当に出来たかどうかは分からない。内容が内容だけに、便箋を握る手には震えまで出ている。追伸部分に内容がよく掴めない箇所があるが、それ自体はさほど問題無い。『警視庁の上層部の方々』には通じる話なのだろう、ということは分かる。自分達にとっての問題は、そこよりも前の箇所だ。内容は理解できるけども、認めたくない事実、……肝炎をうつし合ったのではないか、と、指摘されている部分。高木君もその点について認識はあるようで、信じたくないと言わんばかりの引きつった声を出して訊いてくる。「た、確かに、デリケートな内容ですねぇ。……肝炎、って。 内容は……、全部、……本庁まで、報告されますか?」少なくとも、「追伸」以下の部分を砂にする、という選択肢は、今の自分の心の中には無い。そこを消すのは怖い。それより上の部分を残すかどうかがカギだ。無論、何も包み隠さず素直に上司に報告するのが、警視庁の職員としては唯一の正解なのだろう。けれどもこの便箋は、大半を砂にして隠蔽したくなる誘惑が、正直に言って、……強い。内容からして、手紙の内容は警視庁のかなり上の方に報告されるはず。仮に便箋がそのままなら、自分達が肝炎をうつし合ってうんぬんという部分も、そういう方々の目に留まることになる。無意識に己への言い訳を求めて便箋を読み直し、シーツの上の封筒も眺めて、……先ほど読んだ封筒の文面が目に入った瞬間、美和子の迷いは、止まる。「高木君。……今、気付いたんだけどね、半端に隠したところで、矛盾が出るわ。 封筒に、『先日のハニーロードの件で、デリケートなお話があります』って書いてあるもの。該当する内容が一切見当たらない手紙、提出できる訳が無いわね。 封筒自体もウチの母に読まれている。だから、……全部報告するしかないわ」「……ぁああー、そうか。それでは、報告するしかないですね」微妙に残念さがにじんでいるような後輩の声を、美和子は咎めなかった。一瞬魔が差しかけたのは、自分だって同じ。でも、警察の者達の矛盾を見抜く能力の高さを、自分達は一番身近で知っている。こうやって隠すのは無駄だと事前に気付けたのは、自分達にとってはベターな事だ。きっと。「報告すると、……手紙の内容を検証するために、肝炎の検査を受けさせられるのは確定するわね。 それから、『サキュバス』の事件について、知られていないことを教えてもらうことになるんでしょう。……『あの子』、どんな仕事を頼む気なのかしら?」知り合いの女子高生が巻き込まれたから一旦は担当から外れた事件の捜査に、変な因果を抱えた状態で、これからまた復帰することになるのか。それも、おそらく警視庁の上層部限りで秘密扱いになっていた事項を、これから自分達2人には知らされることになる、かもしれない。……この時、これまで話題に出る機会もなく、頭の片隅に埋まっていた記憶を、自分も高木君も、完全に思い出していた。確か『サキュバス』が『蘭ちゃん』と融合した状態で保護された翌日の8月8日、警視庁の刑事部内の職員に出された通達だ。捜査一課も刑事部だから、その通達を自分達も読んでおり、……。「『8月7日夕方の、刑事部長室のネズミと手紙の件』ですか。本当に、何があったんでしょうね? 刑事部長室で、……刑事部長室の場所が変わるような、何かがあったんでしょうけど」そう。その通達は、刑事部長室の場所が変わる、という内容だった。7日に部屋の電気系統が派手に故障したそうで、修理が完了するまでは、別の会議室を臨時の刑事部長室として使うと書いてあった、はずだが……。「ええ。電気系統の故障じゃないことが、……起こっていたのかもしれない」※2月11日 初出 2月15日 3つ目のシーンを追投稿しました。 2月28日 既存話と表記が食い違う箇所を1点修正しました。 次の投稿は1週間後の予定です。