午後10時9分 召喚者の屋敷 地下大広間地面から湧き上がる転移魔術の光を目一杯に浴びた刹那、『自分』の立っている場所の感覚が切り替わる。探偵くんが居た、夏の風と湿気の強い屋外から、四方の壁のロウソクと床の陣の魔力光に照らされた、あるじが立つ地下室の広間に。とはいえ、安全に転移が完了したのを確認したからだろう、転移の陣への魔力の流入は止まり、従って床の方の光も止まった。「おかえりなさい。やりたい事は、全部出来たみたいね」今度は転移後の目まいは無かった。あるじに完全にお任せした転移ではこれまで大丈夫だったから、今回また目まいが出るなんて疑ってもいなかったけど。だからへたり込むことなんてなく、『自分』は立ったまま、いたわりの感情がこもったあるじの言葉に満足の微笑みで応じる。「はい。……ただいまです、Reune(あるじ)。上手く出来ました。 えっと、これから少し休憩して、最後の転移でしたよね?」今後、色々と仕込んでやらなければいけない事があるから、『自分』が転移してしなければならない事は、きのう今日と明日、計3日間に全部やる、……というのが、今のところの計画だ。『自分』がやる予定の転移は、全部で3回。きのう博士のポストに新一宛ての手紙を投函した1回目と、今日か明日やる予定で、結局今日、博士の庭に転移して探偵くんと話したのが2回目。その後に行う3回目は、今後を踏まえた手紙の投函。送り先は博士でも探偵くんでもなく、今後の仕込みを踏まえた全く別の、カップル、ということになっていた。「そうね。うちの執事に命じて、夜10時までにネットに出たサキュバス関係のニュースは、全部印刷してもらっているの。 そちらの部屋で全部読み通して問題が無ければ、用意した内容は書き変えずに今夜中に手紙を届ける、って事で、……良いかしらね?」「はい」その確認の言葉に異議は無いから、『自分』は即答する。あるじは頷き、この部屋のドアへと向かった。無論『自分』が寝泊まりしている部屋に向かうのではない、開いたのは屋敷の地上階への階段に繋がるドアだ。案の定、数十枚の紙入りの半透明のレタートレーがドアの外側に置いてあり、あるじはそのトレーを当たり前のものとして掴み上げ……「……手紙、書き換えて届けた方が良いかも知れないわ。色々と、『貴女』の家族にフォローが要りそうな記事が出ているもの。少なくとも1件」一番上にあって目に入った記事が、どうも、そういう記事だったらしい。あるじは顔を上げてそんな風に『自分』に言った。好奇心から駆け寄ってそのトレーを覗き込む。記事のタイトルは……「『サキュバス事件 捜査本部の謎判断 女子高生の顔も氏名も手配されてない!?』 ……なるほど、確かにそうですね、Reune(あるじ)」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後10時15分 阿笠博士の家魔術は、……『彼女』が言う所の加護の魔術は、『彼女』の言う通り、掛けた相手に目まいと吐き気をもたらした。博士に身体を抱えられないと、庭から家のベッドの上まで移動できなかったくらいには、その症状は重いようで。「はい、お水」「わ、悪ぃ、そこ置いといてくれ、……ウェッ」博士に背中をさすられながら、四つん這いで洗面器に向けてえずくコナンは、哀の出したコップに視線を向ける余裕すらない。弱々しく枕元の空間を指差すだけだ。……相当にしんどそうな様子。現在のところ、実際に嘔吐に至ったわけではないのが救いだが、それにしても目まいと吐き気の二重苦はかなりつらいらしい。「打ち合わせでは『彼女』との会話を振り返るはずだったけど、……この体調だったら、このまま寝たほうが良さそうね。 あなた、とてもじゃないけどまともに頭が回りそうな状況じゃないもの」指示通りの場所、枕の上のスペースに水の入ったコップを置いてから、哀は提案する。博士もこちらの言葉に全面的に賛同するようで、手の動きは止めず、半ば諭すように告げた。「そうじゃの。もう、夜の10時まわっとるよ、新一。 横になってそのまま寝て、朝に改めて振り返った方が良くないかの? 『あの子』と話した録音データは逃げないんじゃから」が、コナンはうつむいたまま、無言で首を激しく横に振った。――何を意地になっているんだか。いち早く推理しないと『彼女』に負けるとでも思ってる訳?あきれて、彼のすぐ横に立つ。語気を若干強めた言葉を、哀は彼の背中に向けて放った。「いい加減諦めなさいよ。あなたが起きて今推理しようが、寝て朝に推理しようが、大して変わりないわよ。 警察が変な対応しているらしい事件なのに」口に出した直後、――しまった、と、思う。我ながら最後の一言は余計だ。彼が知らないはずのニュースの内容を、ここで自分が口走っても益にはならない。まぁ、彼が聞き逃すなんてことはなく、予想通り食いついてきた。洗面器に向けていた顔を初めて上げて、時折走る吐き気に顔をゆがませながら訊いてくる。「何だそれ? 変な対応、ッ、って」哀としては、こんな会話をする前に身体を休めてほしいと、そんな風に気遣うくらいには心配しているのだが。――でも、彼の欲求を逆手に取れば、早く寝るように約束を取り付ける材料には、できなくもない。哀は、腕を組み、息を吐いて、問いかける。「……あの庭に『彼女』が出る直前に、ネットに出ていたニュースよ。情報を聞いたら、そのまま寝てくれるの? 」彼が庭に出た後も、『彼女』が出現するその時までは、2階のあの部屋で、哀はスマホからネットの掲示板をチェックしていた。その時に読んだ情報だ。『彼女』や召喚者が降臨したあのスレは、順調に番号を重ね、サキュバス事件に関心を持つ者が集う場と化している。新規に出た記事はすぐにリンクが貼られて話題になる状態で、情報収集にはかなり便利。「ね、寝るから教えてくれ、……ッ、考えるネタは、ぉ、多い方が気が紛れるし……、ゥ」本当だろうか? この彼の場合、考えるネタが多いと逆に考えすぎて眠れなくなるのでは、と思わなくもない。あるいは、教えたところで、その内容に更に打ちのめされるのでは、とも。ただ、こちらを見つめて、何であれ情報を聞き出そうとするコナンの視線の力は、体調が悪いなりに強い。……哀は再び、息を吐いた。「『蘭』さんが病院から消えた後、情報が、警察の中で上手く手配されていない、らしいの。 経緯を踏まえると、未成年の犯罪者と同じ扱いで、『蘭』さんの顔や名前が、警察内部限定で手配されるのが当然なのに。……それがされてない、って。 ……でもこのニュース、信憑性は有る訳じゃないわよ? ネットの記事だもの」最後に念を押しておく。インターネットの情報は玉石混交、総合的な信用度はそこまで高くない。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8月17日 午前7時32分 都内 某マンション 佐藤刑事の実家15日の昼、ネットでの書き込みで、後輩との営みを『サキュバス』に見抜かれたのだと暴露され、その日の午後は、その件についての監察からの聴取で潰れた。16日は元々非番のため予定通り一日家で過ごし、ようやく今日、普段通りに出勤する。『サキュバス』の事件はまだ続いているけれど、その捜査から外されている彼女自身は、元の刑事としての日常が始まるはず。……そんな、佐藤 美和子の、8月17日の朝。美和子が朝食を食べる時間帯、美和子と同居している母は、マンション1階の郵便受けまで下りて新聞を取ってくる。食べ続ける美和子を横に、その新聞を読み始めるのが母のいつもの日常だったのだけど。……今日は違った。部屋に戻って来るなり、とてつもなく深刻な様子で、朝食中の美和子に知らせてきたのだ。「美和子。うちの郵便受けに、貴女と、高木さん宛ての変なお手紙が入っていたんだけど。 差出人が『毛利 蘭』って名前で、それから後ろに、……ちょっと、大丈夫!?」差出人の名前を出した途端に娘が思い切りむせそうになり、母の喋りは途中で心配の言葉に変わる。美和子はコップの麦茶を一気飲みして食事を流し込んで、……どうにか口の中を落ち着かせてから、手をビシリと母に向けた。「その手紙、見せて! 事件に関係する人なのかもしれないの!!」その剣幕に、本当にただ事ではないのは感じているのだろう。母は少しうろたえつつ、でも、娘の言葉には一歩引いてためらった。何もつけていない美和子の右手を見つめながら、確認のように念を押す。新聞に挟み込んでいる白い封筒をチラりと娘に見せながら言ってくる内容は、至極真っ当だ。「こ、これ、素手で開けないように書いてあるんだけど、そのまま触って良いの? 私は、もう触っちゃったからどうしようもないけれど」――あ! 何で証拠品に指紋をつけようとしてるの、私……!!刑事のくせに冷静な思考を失いつつあった自身の行動に気付いて。反省しながら、美和子は座っていた椅子から腰を上げる。確か、台所のどこかに料理用の手袋があったはずだ。「そ、そうね。手袋は、……どこだっけ?」「そこの炊飯器の下の引き出しよ」娘の背中に向けて、的確な母の声が飛ぶ。果たして、言われた通りの場所に、使い捨てのゴム手袋の詰め合わせがあった。……取り出して両手に装着、改めて、手紙を受け取る。新聞に挟まれてる形でこの部屋に運ばれたそれは、ボールペンで色々と記された白い封筒だった。切手も消印も住所もなく、宛先として『佐藤 美和子様』『高木 渉様』の連名。その横に小さな朱書きで『中の紙は素手で触らないでください』とあり、更に左に差出人の名として『毛利 蘭』が書いてある。封筒の裏面には、注意書きらしい文。『先日のハニーロードの件で、デリケートなお話があります。あなた達の身体に関して、わたしが視たことについてです』これは確かに、『変な手紙』だ。本庁か、いや、――その前に高木君に電話すべき案件かしら。宛先は連名だもの。「ゴメン、ちょっと仕事関係で今から電話するわ」片手で封筒を持ち、もう片方の手で自室のドアノブを握ってから、振り返って母に告げた。……母は、納得した顔で美和子に頷きを見せた。例え親であっても捜査では部外者、仕事に関する通話を聞くのはNGだということくらい、亡夫と娘が刑事なら分かって当然。※2月1日 初出 2月7日 2つ目と3つ目のシーンを追投稿しました。追投稿がギリギリとなり申し訳ありません。 2月9日 誤字を訂正しました。 次回投稿は2月11日の予定です。