午後9時54分 阿笠博士の家 2F どっかの部屋「有るわけが無いわね」「……そうじゃな」庭に居る2人には聞こえるはずのない、思わずこぼれ出た哀の呟きに、隣の博士が反応した。単純に『彼女』の問いに答えるならば、そう言うしかない。それ以外にどう答えようがあるのだろう?――そもそも、刑法や少年法で裁く扱いになるのかしら?『サキュバス』はホモ・サピエンスとは違う身体を得る、と、『彼女』は言った。人権は、文字通り“ヒト”に認められる権利だから“人”権と呼ぶ。『彼女』の狙い通り人格が分離した後、『蘭』はともかく、『サキュバス』が通常の司法手続きの対象になるのか怪しい。下手したら、動物扱いで問答無用で殺処分、……そんな最悪の結末を、召喚者と『彼女』が想定していても不思議ではない。そんなことを哀は考えていたのだけど、コナンは別の方向に考えが働いていたようだ。衝撃を受け止め、そして思考に充てたと思われる長めの沈黙の後、彼の声が『彼女』に問いを投げた。想像したくもないけれど、それでも言わねばならないという風な、恐れながらの声で。「なぁ、生命の危機を回避する方法、2つある、って、言ったよな? もうひとつの方法は? 身体を創って人格が分離するんじゃないなら、魔力を入手する回路、まさか、お前の、……その身体に」――良く気付いたわね、工藤くん……哀はただ素直に感心する。この会話の流れで、その点に気付いたのはすごい。スピーカーから、強い拍手の音がした。『彼女』も感心したらしく、相変わらず『蘭』らしくない声で、褒め称えながら彼を肯定する。「……ほんっとうに感心するくらい勘が良いねぇ、君は。大当たりだよ。 君の言う通り、要は、どうやって魔力を入手するのか、……精を魔力に換える変換回路を、どこに刻み込むのか、っていう話だからね。 これまで言わなかったもうひとつの方法は、今の融合した人格のまま、この『蘭』の身体に変換回路を刻み込む、……っていう、そんな方法でね」ここで言葉が切れるも、コナンの反応は無い。多分、『彼女』の更なる言葉を促すための沈黙。だから朗々と『サキュバス』の声色で告げられる。その方法を取った場合に、『毛利 蘭』の身体にもたらされるであろう結果を。「それはつまり、定期的に誰かと交わらないと死んでしまう身体に、なおかつ二度と子どもが産めない身体に、この身体を、改変してしまうということ。 この人格の半分は『蘭』由来だから、……まじめな女子高生の倫理観を持つ人格だから、かなりキツイし、結構な高確率で精神的にも病むんでしょう。 でも、この方法でも、『わたし』の生命は、何とか死なずに維持できるんだよ」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 午後9時57分 阿笠博士の家の庭一瞬絶句した後に彼の顔に浮かんだ感情は、……どう変化するか伺っていたが、結局は、とてつもない怒り、で。「ふざけんなよ……、お前そこまでして生きたいのかっ」「生きたいさ」感情任せに怒鳴り散らすのとは違う、腹の底から出てくるような憤りの台詞を、『自分』は真顔で遮る。やりたいことがあるから、彼の両肩に手を置いて、目をまっすぐ見た。彼の感情は一気に鎮火して、その口から出る言葉は止まる。また大声を出されてドギマギする前に、こちらの本心をぶちまけるしかない。そしてやりたいことをやるしかない。本当にしたいことがあって、言いたいことがあって、今後を見据えて『蘭』はここに来ることを決めた、はず。……だから『蘭』の声で、『蘭』として話すべきことをここで話せ、『蘭』――!!「『わたし』は卑怯者だよ、新一。 このまま何もせずに死ぬのは嫌、でも身体を変えるのも嫌で、……罪の記憶を全部『サキュバス』に押し付けるために、人格の分離を目指してる。 そのためにまた誰かを悲しませる、って分かってるのにね」この場では、この庭では、こんな長い台詞では初めて出す『私』の声色だ。小学1年生の身体の新一は、ハッとして名を呼んだ。「『蘭』……!!」――そう。『蘭』は、『私』はこの身体の中に居る。融合されて、知るべきでない事をたくさん知って、見通して、逃げて、あるじと話して。信じたくない事実に押しつぶされそうになっても、『私』は生きている。心が押しつぶされそうになった挙句、『サキュバス』と召喚者に気遣われている、そんなみっともない『私』が、ここに居る。「『蘭』の倫理観だと、苦しみ続けるんだろう、って、召喚者もそんな事を見透かしたから、人格の再分離をベストだと判断したの。 融合している間のこと、どっちかが全て忘れて、どっちかが全て覚えてる。再分離はそういう魔術だから。だとしたら、『サキュバス』が忘れるのは筋が違うから」単に、今の身体に魔術の変換回路を埋め込む場合、『サキュバス』は、『蘭』の倫理観に引きずられて罪の意識に苦しめられる。『蘭』も『サキュバス』も融合した、今の『自分』の人格が、苦しむことになる。だから『サキュバス』用の身体を創って人格を再分離することが、より好ましい選択肢となり、更にその場合どちらが記憶を引き継ぐべきなのかも当然決まる。「……それで、『サキュバス』が記憶を引き継いで、『蘭』が全部忘れて、分離した2人が生きていく、形になるのか。再分離が成功したとしたら」新一の確認に頷きを返して、更に『自分』は言葉を紡いだ。意図的に声色を変える。『蘭』にしか聞こえなかった声から、『蘭』と『サキュバス』の中間の声になるように。『蘭』と『サキュバス』どちらが強く出ているのか、判断が『自分』でもつかないくらい、混ざり合った声。「そう。そしてね、『わたし』が今夜君に会いたかったのは、ずばり『サキュバス』と『蘭』が、この『わたし』の中に居るから、なんだ。 『女子高校生』の倫理観と、罪悪感が、これからの『わたし』の歩みを止めてしまわないように。 君が無事で生きているんだと、そう確信していける間は、きっと『蘭』も『サキュバス』も、自分のやっている事にも耐えられるから。……だから」「……『お前』、何が言いたい!?」『自分』の言葉の意味は、目の前の彼には分からないらしい。疑念をそのまま言葉に出して問いにした探偵くんのために、『自分』はローブの懐から杖を出す。料理用の盛り付け箸を削って形を整えて、黒く染め上げた杖。たったひとつの術のために病院からの脱走以来ずっと『自分』の身体に密着させていた魔道具だから、……簡易であってもこちらの想いには耐える、はず。彼はこちらの右手の動きを見つめるだけで、身じろぎひとつ出来ていなかった。あるじ直伝の魅了の魔術に綺麗にハマり、こちらの動きをどうこうするという考えが浮かんでこない状態。魔術師に身体を触れられる時にはそれなりに意味があるのだけど、そんな常識、――魔術の文化が無いこの世界では、知りようが無いのか。こちらが見下ろす小学1年生の頭、額の上あたりに杖先を当てて、魔力を流す。掛けるべき言葉は、願いは、決めている。あるじとは違う、青色の『自分』の魔力光が彼を覆った。“――Ta-ta, Yugusis(君に、守りを)” 先に掛けた魅了を弾き、身体に着けていた盗聴器を壊しながら、彼に『自分』の術式が付与された。結果、彼は魔力のために意識が飛びかけてこちらに倒れ込み、その身体を受け止め抱き留める。すぐそばの植木鉢に埋まっている、まだ壊れていない別の盗聴器を意識しながら、今度は『サキュバス』の声を出した。……『蘭』では言うべきでないことを、言うかもしれないから。「『わたし達』からの贈り物。ちょっと薄めの加護の魔術だよ。 今年の末くらいまでは、君は若干死ににくくなるのかな。あと、君の正体を探ろうとする人達が、本当の正体を掴むまでの難易度が少し上がる」打算と感情の両方の面で、彼に与えたいと願った術だった。今後、本来の『毛利 蘭』だったら絶対しない事をするのだから、その前にせめて大事なヒトのために何かをしたのだと、そういう実感が欲しい。それが、歓迎されない魔術でも。「……!! そんなの、要らねぇ。解いてくれ……!!」探偵としては当たり前の拒絶。でも、彼にしては、こちらの言葉を理解して暴れ出すまでのタイムラグが若干長い。魔道具がにわか作りだったせいだろう。彼も、今来ている目まいと、後から来る吐き気に、最長で一晩くらいは苦しむことになるのかもしれない。こちらの腕の中で暴れる身体を、強めに抑えた。言いたいことはまだ言い終わっていないから。「クラっとしてる最中だろうけど、『わたし』の話を聞いて、工藤 新一くん。 これから、多分、君の手の届かない頭越しで色んなことが決まっていくんだ。『蘭』のことも、『サキュバス』のことも。 でもね、最終的には、『蘭』は帰ってくる。今年中にそうなるように、目指すから。帰ってくるその時を見届けたいのなら、……帝丹小学校の生徒を、続けて」「……!!」彼はビクリと大きく震えて、抵抗が止まった。――やはり情報は欲しいんだね。君は探偵だから。何より、『蘭』の帰りを待っている恋人でもあるんだから。「毛利探偵のところに居なくても良いの。 ただあの小学校に通い続けることが出来るなら、これから色んな事が起こるだろうけど、……『蘭』が帰ってくるその瞬間を君が目撃できるようにしてあげる」彼の口から、「は」、と大きめの息が吐かれる。今度は暴れるのとは性質が違う力が来た。『自分』の身体から離れようとする、そんな動き。目まいが続いているように見えたが、それでも抱きしめられ続けるのはダメらしい。『自分』は、その動きは抑え込まなかったけども、……結局彼は立ち上がれず、尻餅をつく形で地べたに座り込んで、こちらを見上げることになる。「『お前』……、俺に見届けてほしいのかよ?」『自分』の顔に、自然に笑みが浮かぶのを、自覚する。『蘭』として答えないのは酷くズルいけれど、今の人格の状態だったら、思い浮かんだこの台詞は『蘭』が直に答えないのが正解だと思う。「少なくとも『蘭』は、ね。工藤 新一くん、『蘭』にとっての愛しいヒト。 これからすごくキツい事をして、再分離が成功して、『蘭』が帰ってきても、それから先君と一緒に過ごせるか、とってもとっても怪しいけれど。 ……せめて『蘭』が帰ってくるその時は、見届けてあげて。それが、君の事情を見通した上で『蘭』の心に触れた、『サキュバス』からの願いだよ」探偵くんの顔は見ものだった。かえがえの無い恋人との記憶を侵されたことへの憤激と、それから、嘘ではない本心を明かされたことの狼狽えと。感情が混ざり合って顔色は赤に変わり、声は鋭くとも長くはない呼びかけとなる。立ち上がろうとする気概も生まれるが、……残念、目まいがひどすぎて無理でした。「!! 『お前』は……!!」両手に地面を付いてそれでもこちらに詰め寄ろうとする、そんな彼の情熱は、やはり微笑ましくて懐かしい。だけど、惜しくも、もうこちらが帰還する時間だ。『自分』は腰を上げて彼から遠ざかる。――考えたくもないけれど、運が悪ければ、これが新一との一生のお別れになるんだ。「その魔術の目まいと吐き気、体質にもよるけれど、たぶん一晩で治るわよ。 『私』はそろそろ帰る時間だから。……それじゃあ、新一、また会おうね」『サキュバス』ではない方の声で言って、更に後ろへ大きく二歩ジャンプ。飛びずさった先の『自分』の立ち位置の地面の上、赤い術式が出現する。召喚魔術の発展形の一つ、繋がりある者を望み通りに移動させる、魔術の扉。かくして、転移は一瞬で終わる。庭で見た最後の光景、呆気にとられた彼が慌てて口を開いたのは分かったが、その言葉の形までは分かりようが無かった。※1月25日 初出 1月27日 誤植等修正+後半を追投稿しました。 1月30日 既存話と矛盾していた文を1箇所修正しました。