午後1時9分 東都警察病院 703号室相変わらずビニール袋を弄る音が聞こえる。警部は喋らない。被疑者の母親も喋らない。若干不自然に思えるほどの、長い沈黙。子供の声も、大人の声も、歩く音も、全く無く。だがその沈黙をおっちゃんが破る。冷静だが訝しさを隠さない声色で、俺がさっき思った事と同じ疑問を、被疑者に指摘した。「…………。 奥さん、我々、この病室に来てから、誰がどうやって殺されたのか、意図的に全く喋っていないのですが……。何でご存知なんですか?」ビニールがガサゴソいう音が止まった。俺には音しか把握できていないけれど、今はきっと高木刑事も婦警も手を止めて被疑者を見つめている、そんな光景を想像する。「………… あ……!!」隣の病室のおっちゃん達も、俺も、はっきりと悟った。――さっきの失言は、つまり、自白と同じ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~午後1時11分 東都警察病院 705号室小五郎は、結果的に犯人を追いつめた質問の後も、相変わらず無言で立っていた。ただしその立ち位置は、入室した時とは変わっている。問い掛ける内容を心に決めた時に、何かあった場合母親とベビーカーを遮断できる位置に、――つまりベビーカーを守れる位置に、無言で移動していたから、だ。高木も、婦警も、同じような危機意識を持っているらしい。彼等は荷物を広げる手をとうに止めて立ち上がっており、被疑者への目を離さない。万一の時には彼女をすぐに確保できる状況だ。被疑者は今の所平静だった。動き回ることも一切無く、刑事達同様に、無言でただ立っているだけ、だ。腕を組んで、うつむき、ずいぶんと長い間考え込んで。……そうしてやっと上げた顔、小五郎達に向ける目は、信じられないほど暗い。何と表現するべきだろうか。……強いて言うなら諦めを込めたというべきか、溜息交じりの冷たい言葉が、被疑者の口から吐き出された。「……この事件ではよく考えるんですね、犯人を捕まえるために、……刑事さん達も探偵さんも」「貴女が、犯人ということですか?」小五郎の斜め後ろに立つ目暮警部が、はっきりと訊いた。訊かれた被疑者はまたうつむき、胸の前で組んでいる腕へ視線を落とした。彼女から愚痴のように吐き捨てられる言葉は、問いに真っ直ぐ答えるものではない。「あの探偵のせいだと思ったんですよ。 あの探偵と助手が、私の義理の兄を推理ミスに巻き込んだせいで、主人は仕事を失って、盗癖を再発させて……」問いに答える形でなくとも、こんな会話の流れでのこんな恨み言は、自白と同じだ。動機を先に話さねば、言い訳のように言葉を連ねなければ、自身が犯罪者だと認められない。そんな犯人の、弱さの表れ。……弱さの表れではあるものの。話を聞かずに言い訳を切って捨てて、「問いに答えろ」と強要するような態度は、この状況下では、不適切。「一体、何があったんです?」こう問うたのは高木刑事だ。被疑者は相変わらず下を向いて、こちらを真っ直ぐ見ることなく事情を話し出す。殺人に至るまでの、彼女の経緯。「……私の主人と、主人のお兄さんは、兄弟で同じところに勤めてました。 去年の春、その勤め先の社長が急に亡くなったんです。それで、金田っていう探偵と星威岳っていう助手が首を突っ込んできて……」腕が解かれ、片腕で頭を押さえ。ほとばしる怒りを所々に込めた、動機の言葉がぶちまけられる。彼女を相当追いつめたのであろう、探偵に振り回された物語。「あいつらの推理ミスで! お兄さん、殺人犯だと思われて一時期捕まってたんです! それから警察の捜査で推理ミスが分かって、自殺って結論になったけど、社長の奥さんは受け入れてくれなくて……、主人もお兄さんも、あの職場をクビになったんです! 謝罪要求しようと思って金田の探偵事務所に行ったら、親戚の人の税理士事務所になっていて…… 笑える話ですよね! あの探偵、私達に全く謝りもせずに体調を理由に事務所を畳んで、……その翌週に亡くなってたんですって!」激情のあまり紅潮した顔で、途中からは涙さえ浮かべつつ、被疑者は叫ぶような言葉を終えた。少なくとも小五郎にとっては笑えるような話では無い。誤った推理を行う恐れは、探偵である以上、金田探偵だけでなく、自分にだってあるのだ。殺人という行為を肯定する気は、小五郎にはさらさら無いが、今回の事件は、……金田探偵と星威岳氏の誤りの結果生じた、きっと最悪の悲劇。「……それが、何故あの人の殺人に結びつくのかね?」警部はあくまで静かに質問する。犯人の感情に引きずられている様子は皆無で、全く冷静に見える。だがそんな風に見えても、心の中で燃える感情があるのだと、小五郎はよく分かっていた。被疑者は叫ぶだけ叫んで若干落ち着いたようで、先程より声を落として説明を返す。「お兄さんはともかく、主人は仕事が見つからずにストレスで万引きして、逮捕されて、挙句の果てに病気でここに入院する事態になって…… あの探偵はもうこの世にはいないから、その助手に脅迫の手紙送りつけて気味悪がらせようと思って……、そんな風に毎日を過ごしていました。 でも、きのう、この病院であの助手を見つけたんです! 6階のあの部屋でジュース買っているところに居合わせて、同じエレベーターに乗って、5階の『星威岳』って名札のある病室に入っていくのを見て、……運命の巡り会わせだと思いました」――あぁ、そういうことか。兄弟で顔がそっくりだったからな……今朝銭湯で会った探偵の顔と、今日発見した被害者の顔、両方を小五郎は思い浮かべる。体格が違うだけで顔が非常によく似ていた兄弟。殺す相手が『星威岳』の病室に入って行ったのを見て、この被疑者の頭の中で、非常に重大な、……勘違いが生まれた訳か。「それで、今日あの談話室で殺したと?」警部の念押しのような確認に、若い母親は頷いた。そして頷きだけでなく、自己を殺人犯だと認める言葉も、蜜葉 鐘衣は素直に告げる。「ええ。……いつか殺す機会があると思ってました。それが今日になるとは思ってなかったけど……」そこで声が爆発した。「何をやっとるのかね! アンタが殺したのは別人だ!」「……え?」きっと予想外の内容だったのだろう。凍り付く被疑者になお警部の叱声が飛ぶ。その内容は、犯人がしでかしてしまった重大なミス、……殺す相手の間違いを指摘するもの。「刺し殺された被害者の名前は、夢見 竜太郎! アンタが殺したのは、アンタが狙った探偵の助手でなく、その助手の実のお兄さんだ!」人違いでなくても、そもそも殺人という行為自体、決して許されるわけでは無い。ただ、こんな風に本来無関係のはずの身内が巻き込まれるのは、考え得る限り最悪の悲劇に違いなかった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~午後1時19分 東都警察病院 703号室犯人に事実を告げた警部は、そのまま相手に説教していた。――『1歳の子が居るのならば、まずその子のことを考えなかったのか』と。父親がいずれこの世を去る事が確定的なのだから、母親がこんな事をするべきでは絶対に無い。仮にあの談話室の廊下に監視カメラが無かったとしても、警察は犯人を見つけ上げていただろうから。被疑者の家族周辺のトラブルを、警察は絶対に捜査する。遅かれ早かれ、犯人は被疑者として捜査線上に浮上していただろう。弟相手に嫌がらせの手紙を送っていたならば、なおさら。犯人を連行するのだろう、705号室で誰かがドアを開けたらしい音を、おっちゃんに付けた盗聴器が拾う。同時に、この703号室で筆談に夢中だった『本人』が顔を上げた。「隣の部屋、……話し合い、終わったみたいだね」――何で、隣の部屋の動きが分かるんだ? 俺はおっちゃんに盗聴器付けてたけど……、本当は、隣の部屋のドアの音はこっちまで聞こえてこないはず、だよな?俺が考えている内容なんて気にするはずが無く、『本人』はまたノートに視線を落とし、小さく肩をすくめた。指先はノートを掴み、そのまま、……一気に紙を破いて弁護士に渡す。「弁護士さん、これ、……誰かに読まれたら不味いから」「ああ、そうですね」一体何を筆談していたのか分からないが、『読まれたら不味い』という台詞には、弁護士達は全員納得しているようだ。雇われ弁護士のうち若い方が、筆談内容を書いたのであろう紙を受け取ってカバンに仕舞い込む。直後、この病室のドアが開いた。ガラッ「あ、おじさん!」まるで急におっちゃんが部屋に入って来てビックリしたかのように、俺はおっちゃんを見上げて声を作った。隣の部屋を盗聴器経由で把握していた事は、誰にも悟られるべきでなく、入室を知っていたような態度は取れない。「あー……、こっちの事件はほぼ解決したんだが、……そちらの話し合いはどんな感じで?」おっちゃんは俺の声を無視して後ろ手でドアを閉め、頬を掻きながら『本人』と弁護士達に訊いた。まず『本人』が答える。薄い微笑みをおっちゃんに見せて、どっちかと言えば『サキュバス』っぽい低めの声で。「ん、『わたし』が話したいことは大体終わった、……弁護士さん達は?」「そうですねぇ、……今日話すことはほぼ終わったと見ていいかと。明日またたくさん話したいことがありますが」「ですね……」「ということで、今日の弁護士さんとの話し合いは終わりね」雇われた弁護士2人の意見が一致、それを妃弁護士が総括する形で結論付ける。全員がそう言っているなら、弁護士との話は、今日はこれで終了か。「そうか。ノートは、何かに使ったのか?」『本人』の膝の上のノートの存在に気付いたおっちゃんが更に質問。誰かが答える前に、俺はノートを指差し、大声で会話に介入した。筆談の事実まで言及されずになぁなぁにされるのは、予感だが、何か、……すげぇ不味い気がする。「さっきまでそのノートで弁護士さん達と筆談してたよ! 何書いてたのか知らないけど、さっき、書いた紙を破いて弁護士さんに渡してた!」懸命にアピール。突然の俺の声に驚いたおっちゃんが俺の方を振り返り、次いでノートと、それから『本人』の顔を見る。おっちゃんと目線が合った『本人』は、表面上はにこやかに拒絶した。「男の人に読まれたら困る内容なんだよ、内容は『お父さん』でも見せられないなぁ。……『お母さん』に持って来てもらったもうひとつの物と一緒で」「……そうね」「ええ」「でしょうね……」またも弁護士三人の意見が合致。――本当に、何を筆談していたんだか。よほど他人に見せられたら困る内容を書いていたのか? 男の人に読まれたら困る物って何なんだ?「まあ、弁護士さん方がそうおっしゃるなら、筆談の内容は追及しませんが……」自分の妻+弁護士2人がこう言っているのなら、おっちゃんはそうやって引き下がらざるを得ない。おっちゃんが引き下がった以上、俺も追及は無理。だから俺は、ノートの内容を聞きだすのは諦めて、さっきの『本人』の台詞に感じた疑問点に食らいつく。「ねぇ、『もうひとつの物』って何なの? おばさん、ノート以外に差し入れしたんだ?」妃弁護士相手の質問のつもりだったが、俺の方を振り返った妃弁護士が、何故か気まずそうな、戸惑いの顔を見せた。何て説明したらいいのか迷っていそうな様子で、妃弁護士が口を開くより前に、答えが『本人』から来た。とてもとても面白がってそうな、『サキュバス』の声の回答だ。「君が知ってるかどうかは分からないけど、女の子しか使わない物だよ。コナン君が高学年になったら保健体育で習うんじゃないかなぁ」女の子しか使わない、保健体育。答えがほぼ一択の分かりきっているヒント。ただ、反応に迷ったから、とっさに、ただ疑問符を浮かべた様な顔を見せておく。「……え?」俺が分からないと思いでもしたのか、『本人』から更に詳しいヒントが提示された。「子供を産めるホモ・サピエンスの女性なら絶対に必要な物。『わたし』は今日から必要になりそうだと予測して、その予測通りに、今日から必要になっただけ。 『ナ』で始まるカタカナ4文字、……まぁ、何を持って来てもらったのかどうしても知りたければ『お母さん』にでも聞くと良いんじゃないかな」『ナ○○○』、――『ナプキン』かよ!?ツッコミのように答えの言葉が喉から出そうになるも、すんでのところで堪えた。娘が母親に持って来るようねだる物として、かなり自然だ。でも『今日から必要になってった』ってことはつまり、今日から『蘭』が生理だってことだよな、オイ。――そんな情報、わざわざ知りたい事じゃねぇ!!「ぃ、いいや、……学校で習うなら、知らないままでいいや」動揺を抑えつけて出した声は、俺も自覚できるくらいにかなり不自然。大人達が、本当はコイツ女性の身体の仕組みについて知識あるんじゃないかと言わんばかりに俺を凝視してくる。そんな視線に対峙した俺は無理に笑みを浮かべ、ハハハ、……と、小さく笑って誤魔化した。まぁ細かく追及するような話題でもなく、皆色々言いたげな表情を浮かべながらも俺から視線を外す。……それで、この話題は終わった。正確には、『本人』が話題を変えた。「あー、ところで、弁護士さんとの話は終わったけれど、……『お父さん』には聞きたい事があったかな。今後の『わたし』の人生のことについて」若干唐突な感がある、話題の転換。『蘭』とも『サキュバス』とも区別のつかない中間の声色での台詞は、かなり真剣そうな内容だ。大人達の雰囲気はすぐ変化し、話を向けられたおっちゃんの顔を見た。当然おっちゃん本人は続きを促す。「……何だ?」「今の『わたし』の状態で、……『サキュバス』と『蘭』が混ざった今の人格の状態で。 もし仮に『わたし』が何か人生に関わる決断をしたとして、……『お父さん』は、その決断を応援してくれるのかな? ……っていう質問」パジャマの胸に手を当てて、言葉を選びながら、おっちゃんの目を見つめ、真摯に問いをぶつける。答える側も、真面目に答えなければならない類の質問だと思う。不真面目に答えるものではない。おっちゃんは、……しばらく考えてから、言い切った。「……内容による、な。娘の人生を左右するものなんだから、それこそ無条件に応援するなんて言える訳がないだろう」おっちゃんの答えは、親として常識的な内容だ。だがその台詞を聞いた『本人』が見せた反応は予想外。しばらく無反応のままだったが、……突然に笑い出したのだ。『蘭』の目に涙を浮かべて、発せられるのは『サキュバス』の声で。「…………、ははは……、そっか、……そーだよねぇ、『父親』なら、『娘』が大事なら、そういう答えが当たり前なんだよねぇ……」「お、おい! 泣きかけてないか?」泡を食っておっちゃんが『本人』に向け伸ばした腕。それに首を細かく横に振って拒みながら『本人』は言った。「いや、大したことないよ、『サキュバス』の記憶が、余計に惨めになってね。 ……『サキュバス』の父親、ロクな親じゃ無かった、から。あっちの文化的に近親相姦もタブーなのにね、アイツら、私が父の子を産んでから死ねって財産目当てで押し付けてきて! そんな、そんな『サキュバス』がボロボロになるたくらみに、一番乗り気で意見を押し付けてきたのが父親だった、から……」……これは『サキュバス』が語る記憶だ。親族や父に心身とも傷つけられた『サキュバス』の、記憶から来る言葉。そんな言葉の後、下を向いた『本人』は、まるで涙を流すのを堪えるかのように、深めの呼吸を数回。それでも落ち着いているようには見えず、おっちゃんが思わず呼びかける。「おい大丈夫か、……『サキュバス』」『蘭』、とは言わなかったその声を受け、『本人』は、ゆっくりと顔を上げた。開き直ったかのような低い声で、涙を目じりに浮かべた顔で、おっちゃんを真っ直ぐに見て告げる。「大丈夫だよ『毛利探偵』、……むしろ吹っ切れた」「え?」『本人』は更に大きな吐息を一度。それから目を擦り、それで涙の痕は完璧に消える。改まったような真面目な顔を作り上げ、『本人』は宣言した。おっちゃんだけでなく、妃弁護士の方をも見据えながら。「たぶんこれから、……『わたし』は、色んな決断をすると思う。 その決断に、『蘭』の親の貴方達が賛成するかしないかは分からないけども、……ただ。どんな決断かも言えないけども。 ただ、その決断がどれだけ馬鹿馬鹿しいものに見えたとしても、それは『わたし』が考えて、考え抜いた末のことなんだ、……って、それだけは頭に入れておいてほしい、かなぁ」「ええ、……頭に入れておくわ」「……ああ、分かった。それだけは覚えておこう」色んな決断。無論俺にとって具体例は不明だが、……どんな決断をする気なのか、今は訊けない、のか。妃弁護士とおっちゃんには、今、『本人』に質問する気が無いようだ。『本人』が話したがる時が来る時を待つつもりなのだろうか。――できれば、合法的な事柄に対する決断であって欲しいが……「それと、……コナン君、今日午前に『わたし』が出したヒントの事、覚えているかな?」『本人』は、『サキュバス』の声色のまま、不意に俺にも話題を振ってきた。ああ、何の事なのかは分かる。「覚えてるよ、……『蘭姉ちゃん』が召喚者の事を喋らない4つの理由の事でしょ?」【その理由が出来たのは、きのうの午後に覚醒してから】・【『サキュバス』としては見たことがあるもの、『高校生』としては有り得ないものを見た】・【人の名誉に関わること】・【コナン君には何もないから楽だ】……俺はもう完全に頭に入れている。……具体的な推理はこれからだが。「そう、それ。 明日か明後日、答え合わせをしようか。君の推理がどれだけ真実に近づいているか分からないけれど。……まだ8月だもの、夏休みだから君は明日も明後日も暇でしょう?」笑みと共に示された提案。俺の側に拒絶する理由は無い。「うん、……分かった」※11月1日初出 11月29日 第2部ー17を改稿しました 2015年3月22日 時刻設定が不自然なため修正しました